第15話

文字数 13,372文字

15・ その二日後

 良い香りがする。
 窓が開いているのだろうか。頬が乾いた微風を感じる。
 遠くに、小鳥のさえずりが聞こえる。それ以外の物音はしない。自分の部屋はハルフ広場に面していた。夜明けから日没までの開門の時間にはいつも人や物が出入りをしており、騒々しい物音が聞こえていた。静けさとは無縁だった。
 ここには物音がない。勿論、鐘の音も。今は何時頃だろう?
 ゆっくりと目は覚めていく。最初に視界に映ったのは、豊かで細やかな意匠の植物柄の、天井だった。
 開いた窓から微風が流れている。繊細な織の日よけ布が揺れ、どこからか柑橘の香が漂ってくる。広い、見慣れない部屋だ。一目で上質と分かる家具が置かれている。自室ではない。白羊城ではない。どこだ?
 上体を起こした時、手を突いた敷布の柔らかさに驚き、――触れる自分の手に、驚いた。汚れが一つも付いていない清潔な手だ。
 はっと掛布をめくり上げる。自分の裸の体もまた、綺麗に洗われていた。それどころか、練り香まで塗られていた。誰が? いや、ここまで体に触れられたのに、自分は気付かなかったのか? それはつまり、
(眠らせられた。――薬を飲まされた)
 飛び起きる。そのまま寝台を降り部屋の扉口から走り出た途端、小奇麗な少年と鉢合わせた。少年が驚き、運んでいた黄色の水差しを落としかけた。
「お目覚めでしたか。申し訳ありません、ほんの少し部屋を開けてしまい――」
「ここはどこだ!」
「ここは、ザカーリ猊下の別邸です」
 ザカーリ――!
 霧がかかっていた思考が一気に動き出す。思い出す。自分はザカーリに会った。その恫喝に成功した。その後、とにかく休息を求め、どこか小さな部屋に案内され、とりあえず水を一杯飲んで……。
「私に薬を盛って、それでここに運んだんだな! 別邸って、ここはどこだ! リンザン主聖堂の近くなのか!」
「申し訳ありません、私ではお答え出来ません。すぐに館の方を呼んでますので少々お時間――」
「ルシドはどこだ! ルシドもこの館にいるのかっ」
「失礼ながら、ルシドとはどなたなのか私には分かり――」
「じゃあここにいないのか? 私一人なのか? ――とにかくもう一度ザカーリに会わせろ!」
「繰り返しますが、私では答えられませんのでお待ち――」
「早くしろ! 早く!」
 怒り以上に恐怖で神経がたかぶる。自分の現状が全く分からないという恐怖だ。興奮のまま相手の肩を掴み、引っ張った。少年が短い悲鳴を上げ、水差しを床に落とし、激しい音が響いたその時だ。
 長い通廊の右端に若い男が現れ、全力で走り寄ってきた。
「公子。お目覚めですか。お体は――」
「誰だっ、貴様は!」
「ドーライと申します。貴方様がこちらに快適にご滞在出来るようにと、私――」
「ここはどこなんだ! リンザン市内なのか! ルシドは! 早く言えっ、ザカーリ猊下は今どこにいるんだ!」
「分かりました」
「早く! 早く答えろ!」
「分かりました。ご安心下さい。貴方様の質問にはお答えします。――しかしその前に、一度部屋へお戻り頂けますか? それから、どうぞ何か衣服も召して下さい」
 決して慌てない、極めて冷静な物言いと態、そして明瞭な眼だった。
 相手は、今さらのように丁寧に身を屈めて挨拶を垂れてゆく。キジスランは口を閉じ、大きく呼吸をした。混乱を抑えないと、と、覚える事だけは出来た。今自分がやるべき事を考える事もまた。
 とにかく今は、服を着る事。その為に部屋に戻る事。つまり、この男の言葉に従うこと。そして、
「かなり御空腹なのでは? 何か召し上がりたい物はありますか? すぐに準備します」
この冷静な男から、聞き出せる情報を全て聞き出す事。
 ――
 数羽の小鳥達が可愛らしくさえずっていた。
 窓の外側には庭が広がり、見かけない異国風の樹々がゆったりと風に揺れていた。
 目の前の卓上には、外国からの珍しい干し果や木の実が並んでいた。脂のにじんだ薄切り肉やオイル漬けの野菜なども、絵皿に綺麗に盛り付けられている。パンは焼き立てなのだろうか。しっとり柔らかい。金箔装飾のついた杯には、穏やかな芳香の赤葡萄酒が注がれている。
 紺の草木紋様の長衣を着て、キジスランは長椅子に座していた。ひどく空腹だったが、食べたいという欲求は全くなかった。卓の向こうに座している相手を見続けながら、まずは焦りを抑えろと、自らに向かい確認した。
「どうぞ。まずは先にお食事を召し上がって下さい」
 ドーライと名乗った男は、自分より七~八歳程年上の年齢だろうか。ずっと静かな眼で自分を見捕えている。
「おそらくかなり御空腹のはずだと。ですからどうぞ。キジスラン公子」
「先に教えてもらわないと食欲が起きない。だから答えろ。まず、お前は誰だ」
「分かりました。お答えします。
 私は、ザカーリ副教王猊下の警護役を務める者です。この度、猊下より貴方様の身辺護衛を任されました。この館では、貴方様の安全が最優先とされます。その為、時として貴方様に御不自由をおかけするかもしれませんが、その点は悪しからずご了承下さい」
「ここはリンザンの市内なのか」
「ここの正確な場所については、貴方様はお知りにならない方がよろしいとの猊下の御判断です。ですので申し訳ありませんがお答えは出来ません。リンザン教国内の、ザカーリ猊下御個人所有のあまり知られていない私的な館としか」
「ルシドはどこに居る?」
「貴方様の従者殿は、かなり酷い怪我と体調不良がある様子でしたので、医者の許に運ばれています」
「すぐに会いに行きたい」
「公子。申し訳ありませんが、それには応じかねます」
「なぜ禁止されなければならないんだっ」
「猊下のご判断です。今お伝えした通り、貴方様の安全が全てに優先するという事で」
「ならば猊下にお会いしたい。ここには居ないのだろう? ここを出て、すぐに猊下に会いに行きたい」
「申し訳ありません。貴方様の安全の為に、当分は外出を御控え下さいませ」
「それは、つまり――」
 自分の置かれている状況が見え出し、鼓動が速まり出す。内蔵が閉まり出す感覚が始まる。それはつまり、事態は好転していない。それどころか、悪い方へ進んでいる。それは。つまり、
「今日は、いつだ」
「貴方様がザカーリ猊下と面会された日から、二日後です」
「……。二日……」
 自分は、閉じ込められた。
 二日にわたって、眠らされた。その間に、ザカーリは間違いなく何かしらの対策を謀っている。何かしらを画策し決定し、実行し始めた。その結果。つまり。今。
 自分は、脅迫相手のザカーリによって、逆に拘束された。ルシドとも引き離された。だから自分も即座に対策しないと。即座に状況を打破しないと。さもないと逆にこちらが破滅だ。
「もう一度言う。ザカーリ猊下に接見をしたいと今すぐ伝えろ。絶対にあの方は拒否しない――拒否できない」
「かしこまりました。この後すぐに、猊下にお伝えします」
「いつ実現するんだ」
「早急に対処を致します。
 公子。ご質問はまだ有りますでしょうか? よろしければ、一旦中断に致しませんか? 貴方様は少なくとも丸二日間、食事を召し上がっていません。是非早目に何か、召し上がって下さい。もし御一人の方が食欲が出るようでしたら、私は部屋から出ます。代わりに給仕の者を呼び――」
「ラーヌンは?」
 賑やかな小鳥達のさえずりが、窓から響いていた。
「ラーヌンが、何でしょうか?」
「状況を――ラーヌンの、カイバートの状況を、知りたい」
「新ラーヌン宗主のカイバート公ですが、耳に挟んだ話では、就任後の二回目のイーラ国境への軍事遠征に、勝利を収めたそうです。ちょうど今頃は、凱旋帰国をされているのでは」
“これが、ラーヌン公国だ。アイバース公が治める、豊かな地だ”
「新ラーヌン公に就任直後は、酷く重篤な健康状態に陥ったものを、今では完全に回復したとか。これも耳に挟んだ話ですが、貴方様が謀った毒薬を飲んでしまったとか」
 ぴくりと体が固まる。それは嘘だ!と叫ぼうとし、しかし言葉は喉で止まった。
“カイバート! 飲むな、朝の飲み物の――毒が……!”
 あの毒。結局、飲んだのか。
 だが、カイバートは免れた。毒に斃される事は無かった。体を回復させ、今、かつてと同じ精力を取り戻した。自分は、あの男を殺さずに済んだ。だから喉は、思った通りを呟いた。
「良かった……」
 現実は、留まることなく動いている。あの男は、望んだ理想の貫きラーヌン公として道を進んでいる。自分は、肉親殺しの大罪人とされ、しかも拘束されている。自分の脅迫相手に。
 自分達の現実は、割れた。再び交わる事はあるのだろうか。その交わりの道は二つに絞られたのだろうか。――即ち、あの男に捕まり処刑されるか。もしくは、自分があの男を斃すか。
 多くの小鳥達がさえずっている。酢漬けの木芽の香りが漂っている。
 と。室内の穏やかに沈黙の時間の中で、気づいた。ドーライの落ち着きと深みを示す黒い眼が、
「逃亡中は、大変な日々でしたでしょう」
自分を見ていた。静かに、心を込めて言った。
「この館は安全です。貴方様がここで落ち着いた滞在を愉しまれるようにと、思っています。まずはどうぞ、お食事をお楽しみ下さい」
 こんな時なのに、その言葉が本心だと感じられた。
 椅子から立ち上がり一礼を垂れると、ドーライは去ってゆく。上背のある如何にも引き締まった体躯としなやかな身のこなしに今、初めて気づく。おそらくは腕の立つ武人なのだろう。この男が自分の監視役になるのだろうか。
 窓から伝わるさえずりも、涼やかな風も、妙に遠くに感じられた。
 独りだけとなった室内で、今さらのようにひりつく緊張感を体に覚え、思った。何とか食べないと。食べて、まずはこの邸内を確認しないと。とにかく情報を集めて、対策を取って、白羊城へと戻る道を拓いていかないと。
 イチジクの実を手に取り、口に入れた。飲み下すまでに、長い時間がかかった。

       ・            ・           ・

 二日前、ラーヌン新公が凱旋帰国をした日の夜。
 白羊城内のハルフ広場では、大掛かりな祝勝宴会が催された。

『今回の祝勝宴会は、指揮官達だけでなく一般の兵士達も呼ばれるという大盤振る舞いになりました。
 予想は出来たことでしたが、宴会はすぐに大騒ぎと呼べる様相と変わり、しかも夜通しで続き、一体どれ程の予算がこの宴会の為に使われたのだろうかと、諸国の客人達の誰もが半ば呆れを覚えるところとなりました。
 この宴会の間中、カイバート新公は嬉しさをこらえ切れないという態でした。大酒をあおり、大声で喋り続け、最後には、暑い!と騒ぎ出して半裸になってしまい、その下品ぶりにイーラの羊毛組合長が怒って帰るという珍事まで起こしてしまった程です。丸切り今夜だけは、かつて散々に父親であるアイバース公に叱咤されていた頃に戻ったようだとは、白羊城の某古参が私に告げたところでした。
 翌日のカイバート新公は、さすがに遠征の疲れ・宴会の疲れが出た様子でした。一日中姿を現さず、どうやら私室にこもって寝続けていたらしいとの事です。ですがその翌日からはさっそく、夜明けの時間から執務に取りかかり始めました』
               (バンツィ共和国外交官・ハ―リジュが本国へ宛てた書簡)

 宴会の翌々日。
 夜明けと同時に執務に没頭し、やっと部屋から出てきたのは、すでに午後が深い頃合いなってからになった。
 カイバートが南棟最上階の個室に呼んで共に公務にあたったのは、この一年を経てすっかり懇意となった臣下・宮廷人・執務官だ。気に入りの面々ばかりだ。気心知れ渡った仲良し達との仕事は、快適に、効率よく進んだのだろう。今、一仕事を終えて出て来た顔は、いかにも上機嫌の様子だった。
「とにかくカモの肉を食べたいとずっと思っていたんだ。戦地からの帰路にそればっかり考えていて、だから必ず宴会で出すようにと伝えたのに、見事に忘れやがって。しかも昨日は良いカモが手に入らなかったとか、安い言い訳をしやがって」
 お気に入りの若い文官三人に、喋りかける。言葉の通り、よほど食欲があるのだろう。自然と足早になって通廊を歩いてゆく。
「これでやっと食べられる。バルコンに席を作らせているぞ。腹が減ってたまらないから、早く行こう。楽しみだ」
 すれ違い様に挨拶を垂れようとする人を、軽く無視してゆく。気付くと文官達が歩調を合わせるのに苦労するほどの早足になっている。それでも大声で様々を喋りながら、人の往来の多い階段と長々の通廊を二階のバルコンに向かってゆく。遠路の果て、ようやく最後の角を曲がったその時だ。
 まったく偶然、両者はぶつかりそうに遭遇した。
 突然に鉢合わせてしまい、彼女は本当に驚き、身を固めてしまった。表情も露骨に緊張し、ために足元の犬も共感して同じ様に戸惑った顔になってしまった。
「これはタリア夫人。義母上。今日は」
 先んじるよう、上機嫌のままカイバートが声掛ける。
「本当に、お久しぶりですね。どちらかにお出掛けの途中でしたか?」
「……。久しぶりです。――今、礼拝室へ行っていました。祈りの為に」
「そうですか。本当にしばらく、いえ、全くお会いしませんでしたね。一昨日の戦勝の宴会でも姿を見かけなかったし、貴方は不在なのかと思ってましたよ」
「ごめんなさい。ずっと体調が悪かったので、戦勝祝宴にも欠席してしまいました。貴方を祝う宴会だったのに、失礼をお詫びします」
「いいえ。お気になさらず。私としては、貴方がまだ白羊城に残っていたこと自体が、意外なぐらいでしたから」
 義息のニコニコした笑に、昔と変わらない軽蔑感を覚える。アイバース公が他界して公主となった今、軽蔑の度合いが一層に増しているように思えてしまう。だからどうしても強張った無言になってしまう。
 だが。目を逸らすことはしなかった。目まで逸らせてしまっては、さすがに自分が惨めすぎる。
「で、義母上。体調が悪いとの事ですが、どこが悪いのですか? 酷いのですか? 医者には診させていますか?」
「……。気遣いを有難う。時々気鬱を覚えるだけですから。大丈夫です」
「まあ確かに。夫である父上は急に他界してしまいましたし。まして、お気に入りの息子まで逃亡してしまいましたし、これでは確かに仕方ありませんね」
「え?」
「母上はまだお若い。とてもじゃないが毎夜、お体を持て余しますでしょう? 気鬱になるのも分かります」
 凄まじく下品な顔を剥いたのだ。反射的、タリアは怒鳴る!
「聖者様! 何……何て事を言ってるの! 私が何――私が……、何を!」
「ああ、聖者様。義母上。お許しください。他愛ない冗談です。申し訳ありません。まさか貴方がこんなに反応するとは思いませんでした」
 文官達が反応できずに苦笑している。タリアの頬は怒りと驚きに赤くなり、それを義息は一層に面白がる。
「何にしろ、このまま白羊城に残られても詰まらないし、意味も覚えないのでは? 義母上、そろそろここを去った方がよろしいのではありませんか?」
「――黙りなさい……。貴方の指図は受けません」
「そうですか。ならばお好きにどうぞ。まあ、せめてあの赤毛の息子だけでも残っていれば良かったのに、本当に残念ですね」
「……。何を……言っているのですか――」
「いえ。特段に意味はありません。
 これで失礼します。酷く空腹なもので。楽しみのカモ肉が冷めてしまう」
 強引に言い終えるや、もう見向きもしない、足はさっさとバルコン向かって歩き出した。当惑そのものの文官達には、もう別の話題をふっていた。面白そうに続ける軽口が通廊にこもるように響き、消えていった。
 ……そしてタリアは、動けなくなった。
 赤くなった顔が、急速に青白くなってゆく。血が引くという感覚、そして足が動かなくなる感覚が体を縛り出す。その足元では犬が主人の動揺にもろに共感し、酷く不安の目で見上げてくる。
「……聖者様……」
 まさか、知っているのだろうか――。
 まさか。有り得ない。そう信じたい。本当に信じたい。だが、
 あの日の、直後。自分とキジスランの、あの呪われた日の、直後。
 アイバース公は唐突に、自分に使える年若の侍女を罷免して、白羊城から追い出した。自分に対し無礼な態度を取ったので暇を出した、とだけ説明された。
(こんなに急に? 私の侍女なのに私に事前に何も告げて下さらずに?
でも。まあ。確かに明け透けな質のお喋りな娘だったから。きっと殿のカンに障るような事を仕出かしたのだろう)
少し驚きはしたが、でも納得もした。そのまま忘れていた。が。
しばらくして、ふと、本当にふと、はっと思い出したのだ。
 あの、呪われた時――。一瞬だけ、誰かが居たような気がしたのだ。誰かに見られていたような……。
 違う、そんな事あるはず無いと即座に否定した。そんな事あるはず無い。そんな恐ろしい事なんて絶対に起きない、起こってはいけない、起こらないでとそう強く願って、だから、気が付くとそんな事は起きていないと思い始めて、いつの間にかそう信じて。信じ込んでいて。そうして。それなのに。でも。
 それって、やはり、起きていたの? まさか、あの若い侍女だったの?
 彼女がアイバース公に密告したの? そして、まさか。
 密告はアイバース公だけ? まさか――まさか、そんな。カイバートにも密告を……!
「聖者様……罪を悔います。どうか、お許し下さい。……どうか、どうか、お許し下さい、御願い致します、悔います。だから……あの事だけは……」
 小声が口から洩れる。恐怖と混乱が身を縛り、動けない。自分の犯した大罪は、こうやって一生自分を責め続けるのだ。死んで暗闇の中に落ちてゆくその日まで。
ならば、キジスランは? 
 キジスランもまた同じように、責められ続けているのだろうか。あの罪の中で何を感じてどう苦しんでいるのだろうか。それより、今どこに? もう一度、会う事ははあるのだろうか? それより――生きているのだろうか?
 人の行き交う通廊の角、足が冷えて歩めない。主人の動揺に引きずられ、白犬がスンスンと神経質に鼻を鳴らし始める。立ちすくんだまま動かない未亡人の奇異を、行き交う人達が不審の目で見捕え、一応は目礼をするが、しかし敢えてかかわろうとはしない。早々に通り過ぎてゆく。
 ふと、初めて、タリアは白羊城を去りたいと思った。犬だけが足元から寂しそうに見上げながら、ずっと鼻を鳴らし続けていた。

 念願のカモ肉を食べ終え、平らげられた皿を前に満足顔で笑っていた頃だ。
 カイバートの許に、イブリスが現れた。
「何だ。もう行くのか? カモが美味かったから、もう一皿頼むかと話していたところなんだぞ」
 このままテラス席に腰かけて、もう少し文官達と食事と会話を弾ませていたいものを。と、上機嫌顔が不満に変わり出す。それにイブリスは穏やかな口調で応じた。
「いいえ。でしたら後でも結構ですよ。別段に急ぐ懸案ではありませんので」
「面倒臭いな」
「貴方様の気の向いた時で構いません。聖天使は慌てることもなく待ってくれるはずですから」
「何が天使だ。邪魔くさい」
 言いながら、視線を眼下のハルフ広場へ移す。そこには今日も、様々な人々が行き交っている。様々な物資が馬車や荷車で運ばれている。カイバートは父親がよく好んで行っていたのと全く同じように、その光景を面白そうに、興味深そうに見ている。
 空が青く抜けて美しい。夏の終わりに、まだ乾いたままの空気が心地良い。新ラーヌン公は、ゆっくりと手にした葡萄酒の杯を傾けてゆく。
「あと一杯飲んだら行く」
「分かりました。どうぞ着替えてから来て下さい。私は先に北西塔でお待ちしています」
 それを聞いた時、同席していた文官達が怪訝の顔になった。
 北西塔といえば、獄舎じゃないか。そんなところに新公は何の用があるんだ? だが。
「ティジャールっ、久し振りじゃないかっ。イーリーキアでの行商から戻ったのかっ」
 カイバートが声を張り上げた。下を通るかかった顔見知りの商人を呼び止めると、そのまますぐに大声でのお喋りを始めてしまった。よって彼らが疑問を訊ねる機会は、明るい陽射しの中にそのまま消えてしまった。
 ……それにしても、良い天気だ。陽射しの明るい、風の心地良い、ゆったりと気持ちの良い白羊城の食後のひと時だ。

           ・         ・        ・

 こちらには、陽射しがほとんど入らない。
 乾いた空気も無い。空気は、淀んでいる。
 そして、暗い。窓がほとんど無く採光が極めて悪い。ゆえに真昼だというのに松明が燃やされている。その油の臭いがすえて、鼻に不快を与えている。
 その暗さの中に悲鳴が走った。
「嫌だーーーーー!」
 屠殺場へ連れて行かれる家畜そのものだ。叫び、暴れる。それでも二人の獄吏に両腕を完全に掴まれ、真っ暗の独房から引き出される。どんなに抵抗しても、汚れた石床の上を引きずられて、通廊の一番奥の部屋へと引きずられながら連れ込まれてゆく。
「嫌だ! 嫌だっ、嫌だっ、嫌だーー!」
 白羊城の城壁に併設されている城塔のうち、北西塔は獄舎として使用されていた。
 かつてサングル家統治の時代には、ここに宗主の機嫌を損ねた者を片端から投獄され、常にたっぷりの囚人が押し込められていた。だが、先代ムアザフ・アイバース公の時代からは、状況が一変する。ほとんどの罪人の処置はラーヌン市政に任される事になり、こちらに投獄される人数は激減した。塔内は以前とは対照的な静けさが保たれるようになっていた。
 そして、この夏から始まった新公カイバート・アイバースの時代。ここに最初に送り込まれてきたのは、少年となった。
「止めて――止めて下さい! 知らないからっ、本当に知らないって! だから……嫌だっ、止めて――!」
 最奥の部屋へ連れ込まれ、マラクの悲鳴は一層に高まった。だが完全に無視される。中央の椅子に座らさせられ、拘束される。目の前にある極めて重厚な机の上に大きく両腕を引き伸ばされると、机上に設置されている鉄製の枷で、手首を厳重に固定する。
 向かい側にはすでに、一人の獄吏が座っていた。
「お願いします! 知っている事なら何でも喋りますっ、喋った――もう喋った!……喋ったんだから、だから止めて――!」
 狂った様に叫ぶマラクを、何の感情も示さない無機質な眼が見続ける。一言だけ、訊ねる。
「右指と左指。どちらか選べ」
「嫌だ――! もう指は潰さないで下さいっ、もう嫌だっ。俺は字も書けるのに、なのに指を潰さないで――!」
「だったら左指が良いな」
 言いながら卓上に固定された左手の指を掴んだ途端、悲鳴が上がった。すでに小指の関節は、数日前に潰されている。触れられるだけでも激痛が走り絶叫するのを無視され、薬指に狙いを定められた。机上に準備されていた、複雑な器具が取り付けられた鉄管を掴むと、マラクの薬指に通した。分厚いいびつな、大きく重たい鉄の指輪が、薬指の関節に取り付けられる形になった。
 マラクの目が極限まで見開かれる。呼吸は猛烈に速まり、しかしほとんど空気を吸えない。あえいだ乾いた息音が大きく開いた口から響き続ける。
「本当にあの異端の天使の絵は今、キジスランの手許にあるのか」
 弾かれたように絶叫する。
「そうだよ! だって公子の部屋に無かったんだろう? だったら持って逃げたんだよっ、分かるだろう?」
「絵は本当に、副教王が描いたのか?」
「そうだって! 俺が調べに行った教会や庁舎についてならば、もう何回も言ったぞ! 何回も、何回も何度も言ったぞ! 何度も!」
「異端信仰の絵とザカーリ猊下との関係を知る者は、キジスランとその従者と貴様以外にいるのか?」
「知らない――分らないよ! ただ、公子の周りでは俺とルシドの二人だけで、後はいないっ、本当にいない!」
「本当に、キジスランはザカーリ副教王の許へ行ったのか」
「そうだよ! もう何度も何度も何度もそう言ったっ、言ったじゃないか!」
「だがリンザン教国からの報告では、ザカーリ副教王がキジスランと接見した気配が無い。リンザン教国へ向かった事すら、確証が得られていない。他の逃亡先は」
「知らないよ! よっぽど上手く逃げてるんだろうよ! 逃亡先はザカーリの所しか考えられないっ。その為に俺が苦労して一年もかけて調べたんだっ。他の場所なんて絶対無いよ! 有っても知るか! 俺が知らないところだ!」
「――」
 獄吏が無言になった。マラクの鉄の指輪に手を伸ばした。
「本当だ! 隠していない、本当に知らないから、だからっ、信じて――!」
 凄まじい早口で叫ぶ。が、相手は、指輪に付属する大きなネジを、ゆっくりと回し始める。途端、締め上げられる関節に、叫びは絶叫に高まった。
「神様――――――!」
 言葉はもう言葉にならず潰れて悲鳴になる。その悲鳴すら存在していないかのように、獄吏は淡々と続けていく。
「他の逃亡先の可能性を答えろ」
 もはやマラクは何も答えられない。答えているのかもしれないが絶叫になってしまい聞き取れない。それなのに質問は淡々と続いてゆく。
 老サウド殺害の真相は? 犯人はザカーリ副教王の関係者だったのか? 他にもキジスランの共謀者はいるのか? 本当に絵は今キジスランが持っているのか? 先代アイバース公の急死の件は? 等々……。
 何度も何度も繰り返された同じ質問に、知らない・分からない・絶叫でしか答えられない。その間にも、ネジは締め上げられてゆく。小指はすでに、先回の拷問で潰されている。今、薬指の関節も極限まで締め上げられてゆく。
「早く言え。そろそろ関節が潰れるぞ」
 その通り、指の肉骨はもう限界だった。マラクの神経も同様だ。すえた空気の中、苦痛によって潰されそうな意識の中でそれでもマラクの潰れた絶叫だけが延々と続き、
「神様――――っ、お助け下さいっ、聖者様――神様――!」
続き、いつまで続き、だが唐突だ。
 真っ直ぐに切ったかように悲鳴は消えた。指の関節が潰れた。マラクは失神した。
 ……
 どのくらいの時間が経ったのか、分からない。だがゆっくりと、漠然と闇から目が覚めていく。
 彼は、何か違和感を覚えた。
 どこだ? ここはどこの部屋だ? 自分がこの部屋にいたことは解る。曖昧な記憶を呼び起こすより先に、ズキズキと脈打つ、焼け付くような痛みが指を覆ってゆく。
 何があったんだ? まだ頭はぼやけ、ために指の痛みもどこかぼやけて遠く感じる気がする。今、部屋には誰も居ない。自分は一人、冷えた石床に捨てられたように横たわっており、そして。
 横向きの視界の中に、鮮やかな白色があった。
 埃まみれのすえた床の上、そこだけが清浄な白色だ。まるで光が射したようだ。映え、本当に美しいと、神々しい程に美しいと、ぼんやりとマラクは見入る。長く見入り、やがてそれが繊細な刺繍飾りの付いた布だと分かり――、
 思考が一気に覚醒した。完全に思い出した。ここは白羊城だ。拷問の部屋だ。拷問の途中に苦痛で失神し――そして今、目の前。
 純白の長衣を着たカイバート新公が自分を見下ろしていた。
(嫌だ!)
 即座に立ち上がり逃げようとし、失敗してもろに転ぶ。固い床に膝を打ち、大きな悲鳴を発する。
「大丈夫か?」
(もう嫌だ! 痛いのは嫌だ! 嫌だ!)
 声も発せず恐怖にこわばり、そのまま床上で身を丸める。縮まったままそれ以上全く体を動かず、小動物のように怯えてただ震え続ける。
 カイバートが一歩近づいた。ゆっくりと身を屈めると、腕を伸ばしてきた。
「嫌だ! 神様――! 触らないでっ、助けて! もう嫌です、もう痛いのは嫌だから! 拷問は嫌だ――!」
 苦痛を予測し、力の全てを込めて身を縮める。目をつぶる。
 ――だが、苦痛は貫かなかった。手はただ、ゆっくりと背中を撫でたのだ。
「可哀そうに」
 目を開けてゆく。低い視界の中、白い裾が、汚れのしみ込んだ石床の上で僅かに動いている。膝を屈めたカイバートが、ゆっくりと自分の背中をさすっている。そこに暴力は無い。逆に慈愛がある。信じられない事に。
「キジスランと関わったばかりに。可哀そうに」
 勇気を振り絞り、マラクは視線を上げた。カイバート・アイバースの眼がごく至近の真正面から自分を見ているのに気付き、呼吸はまた浅く、短くなる。その息で夢中で発する。
「嫌です、もう痛いのは嫌ですっ」
「――」
「お願いします、もう止めて下さい、どうか……もう……どうか、嫌です――許して下さい……」
「許す」
 はっと神経が強張る。その背中を、カイバートの手があらためて、ゆっくりと撫でてゆく。
「お前に罪は無い。ただ悪魔の運のせいで、キジスランとかかわってしまっただけだ。それだけだ。だから、私は許す」
 薄闇の中、持ち上げた視界の中、純白をまとったカイバート公の姿が輝くように映えていた。その顔が静かに微笑みを示し出した。マラクの体に張り裂けそうな感情と気違いじみた希望が生まれた。
「ここから出して下さい――お願いですっ、お願いします! 俺を出して――助けて下さい!」
「そんなにここから出たいのか?」
「出して! 出して下さいっ、もう指を潰さないで――!」
「だが。お前は真実を告げていない。だから拷問が続く」
 途端、マラクは右手を伸ばして夢中で相手の腕を掴んだ。
「話しました! 全て話したっ、知っている事は全て話した!」
「本当に?」
「話しました! なのに信じてくれないっ、話したのに、俺はみんな話したのに!」
「本当に、話したのか? お前の知っている真実が、私にはどうしても必要だ。私の為に真実を話したのか?」
「真実を話しました! 貴方様の為に真実を――知っている真実を全て、みんな話したのに、なのに信じてくれない――どうしてっ、真実を話してきたのに……!」
「本当に、私の為に成ることをしたのか? これからもするのか?」
「します! 貴方様の為に何でもしますから、だから出して下さい!」
「それは、真実の言葉なんだろうな?」
「神に賭けて! 神と全ての聖者の御名にかけて貴方様の為に――貴方様の為に何でもしますっ、だから出して下さい……!」
 茶色の両目に大量の涙があふれ出す。全身の力をもって相手の体にすがり付く。それをカイバートは長い無言で見続ける。
 すえた薄暗い室内に、長い長い静寂が続いた。その果て、ようやくカイバートは動いた。ゆっくりと両腕を広げると、マラクを抱きしめ、そして宣したのだ。
「分かった。私はお前を信じる。ここから出してやる」
 途端、全身を縛る緊張が一気に混乱へと転じた。マラクはいきなり大声を上げて泣き出した。赤子のように感情を剥き出した大声で号泣し出し、言葉も言えない。夢中でカイバートにすがり付き、延々と泣き続ける。
 やがて薄闇の中、カイバートはゆっくりと立ち上がる。部屋を去ろうとする。
「嫌だ! 今すぐ一緒に連れて行って下さい……っ、置いて行かないで――見捨てないで下さい! カイバート様!」
「大丈夫だ。私を信じろ」
「嫌だっ、怖いっ」
 床を這って白い裾にすがり付こうとするマラクに、聖者のような慈愛の笑みで返し、
「信じろ。お前を決して見捨てない」
優しく払いのけたのだ。
 そして泣くマラクは、もう動かなかった。――動けなかった。
 泥のこびりついた石床にうずくまったまま、ひたすらに相手を見ながら号泣し続けた。その視線に見とられたまま、豪華な白い長衣をまとったカイバートは振り返ることも無く部屋から出て行った。薄汚い、小狭い空間の中に、マラクの大きな泣き声だけが延々と響き続けることになった。
 ――
 獄舎の窓の少ない、換気の悪い通廊の、その一層に暗くなった角に、イブリスは待っていた。
「上手くいきましたか?」
「まあね」
 投げやり口調に相手の御機嫌斜めを察し、イブリスは面白そうに微笑んだ。
「あの少年を手名付けておくことは悪くないですよ。
 ずっと貴方の弟に側仕えしていました。聖画の件以外にも、大事小事と色々な情報を持っているでしょうから。取り敢えず、手元に置いておいて損はありません。結構目端の利く、役に立つ質のようですし」
「そんな事どうでも良い。それより明後日の大聖堂式典に着る礼服に汚れを付けられたぞ。新調したばかりなのに。腹の立つ。何で着替えてくる必要があったんだ」
「その方が効果的ですから。闇の中の白色は、相手の心理に大きな影響力を与えます」
「細かすぎる策を立てるな」
「私が、どんな小さな事情に対しても最善で臨む主義なのはご存知でしょう?」
 痩せこけた頬が上がり、珍しく自慢気に笑ったのだ。
 両者は並んで通廊を歩み出す。それでもカイバートの不満は収まらないのだろう。今回についてはもっと単純な手法で構わないのにとか、白でなくても他の効果的な色があるはずだとか、何でラーヌン公である俺にこんな面倒をかけるんだ等の文句を、延々と北西塔を出るまで言い続けていた。

【 その一月後に続く 】
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