第30話

文字数 14,136文字

30・ その数日後~そして七年後(時は早くも遅くもなく進む)

 カイバートは死へと旅立った。
 白羊城に残された人々が、それを見送った。

 カイバート公の葬儀は、質素なものになった。
 リンザン教会から破門中のため、全ての聖職者において葬儀を執り行うことが出来ない。この難儀を救ったのは、ザカーリ副教王付の親衛兵であり、銀の山羊騎士団で助祭の資格を持つドーライだった。彼が、
『絶対者が、被創造物たる人へと賜る慈愛』
という、リンザン教義の根本に基づき、自らの判断と意志とをもってカイバート公への私的な葬礼を司ると、名乗り出てくれたのだ。
 葬儀は、暗い冬寒の日に、白羊城の礼拝室で行われた。
 さして広くない礼拝室には、限られた小人数のみが参列した。短い在位期間に九回の軍事遠征を執り、一度も負けず、公国領を大きく拡大させた君主としては、かなり寂しい場となった。その場を、水の流れのようなドーライの声が朗誦していった。
「滅する事を定められし被創造物たる人は、しかし、その魂において、天の御国に迎えられる。苦しみの無い至福の光に導かれ、永劫の安寧に迎え入れられる」
 ――マテイラ公妃は、ずっと泣き続けた。
 彼女は夫の死を、出産の直後に聞かされた。その瞬間、布を裂くような細い、甲高い悲鳴を上げ、それから泣いた。ひたすらに泣いた。自分が産んだ赤子の存在すら忘れて泣いて、泣いて、だというのに、
「もう一度会いたいっ。どうしてもカイバート様に会いたいっ、会えないままで終わるなんて出来ないっ」
必死で訴えたのだ。為に葬礼の段取りを、白羊城は延々と待たされてしまった。
 夫の死没から七日後。やっと産後の体が安定し、マテイラは城へ戻った(まだ長くは歩けず、ゆえに急遽持ち出された輿に担がれて礼拝室へ行きついた)。
 すでに疫病感染の怖れは消え、防疫の白面は不要だ。その分、礼拝室に入るやすぐに、彼女の鼻は薫香を上回る腐臭に――不快と恐怖に、覆われた。そして柩に歩み寄った時。
「神様!」
 叫んだ。黒い肉塊だった。
 あんなに輝きに満ちていた夫が、ただの動かない肉塊になってしまっていたのだ。
「なぜっ、聖女様……!」
 その現実に崩れ落ちた。また壮絶に号泣した。
 ほんの先日まで、自分の夫は全て輝いていた。その輝きの許に、自分には何の不安もなかった。夫に愛され、護られ、ただ輝く世界に居ればよかった。満たされた日々は自分の日常であり、当然であり、この先どこまでも続くと、一生涯続くと、疑いもなく信じていた。
 だがそれは、夫を前提とした当然だったのだ。夫が死ねば、あっけなく終わるのだ。自分の現実はこんなに脆くて単純だったと認め、受けいれねばならず、でも出来ず、出来るのは泣くことだった。
 葬儀中も、マテイラは一言も発せず、泣き続けていた。
「人の住む地上は闇と汚濁にまみれているが、それでも絶対者は人に、光という恩寵を賜る。光は、それを望む者の許へと刺し込んでゆく」
 ――生まれたての姫は、葬儀に出席しなかった。
 彼女は暖かく暖炉が燃える白羊城の一室で、乳母や侍女達に囲まれて、あやされていた。すやすやあどけなく寝たり、時折に起きて首や手足を動かしたり、小さなあくびをしたりくしゃみをしたり……。
 その動きの一つ一つに、囲む女達は笑う。我先にと優しい声をかける。彼女達の笑顔には、生まれると同時に父親を失った悲運の姫を心から慈しんで育てたいという愛情が、あふれていた。
「正道たる信仰を貫くならば、清浄たる心意を抱くならば、人の心は恩寵の光を見出し、受け止める事が出来る。汚濁の地上にも、正しい悦びを感じとる事が出来る」
 ――マラクは、ずっと神妙な顔だった。
 静かに聖典の章句が流れてゆく間にも、参列者が順々に祈りを捧げていく間にも、彼の頭は当然として死者ではなく、自分の事を考えていた。
 絶対者の定めたるところも、運命だか幸運だか不運だかの女神の気まぐれも、ましてや正しい者が貰えるとかいう平安の光も、彼には関係なかった。自分の進むところは自分で考え、上手に切り抜けていけば良いだけの話だった。
 むせるような薫香の中、聖句の朗誦の中、無言のまま、神妙な顔つきのまま、彼は白い手袋の左手をさすりながら、様々を考え続けていた。
「受け入れたまえ。光を受け入れ、絶対者の賜る至福を覚えたまえ」
 ――タリア夫人も、参列していた。
 だが、彼女は短い祈りを捧げ終えると、
「私はすぐにザフラ城館に戻ります。今ごろ私の犬が寂しがっているでしょうから」
と、人を喰った言葉を残して、早々に立ち去ってしまった。
 本当に久し振りの白羊城だったが、ほとんど誰とも会話はなかった。キジスランとも、口を効かなかった。それどころか近づく事も、目を合わせる事もなかった。
 それでも葬儀中、彼女の視界には時折にキジスランの姿が映ることがあった。だが。
「……」
 何も、想わなかった。胸に、何の感情も湧かなかった。彼女にとって相手は、その日の灰空のどこかで鳴いているカケスの声ほどの存在としか想えなかった。
「そして死を思え。被創造物たる人はいつしか滅びる。しかしその魂において不滅である。魂は、天の御国に迎えられる。苦しみの無い至福と安寧へと迎え入れられる」
 ――騎士正装をまとったスレーイデは、死者の魂へ深い祈りを捧げた。
 葬儀を終えると、彼は白羊城の諸氏に丁寧な弔意、そしてラーヌンとリンザン両国の未来に平和的展望を築けたことへの謝意を述べた。それから、リンザン宮殿へと戻っていった。
 リンザン宮殿は、ティドリア域の緊張を解くという外交成果を上げたスレーイデを大いに評価し、その報奨として領内の一城塞を下賜した。彼はついに、父代から失地という恥辱を帳消して、旧名門としての名誉を回復したのだ。
 さらに付け加えれば、このスレーイデを登用して当件を主導したザカーリ副教王こそが、最大級の称賛を得るところとなった。間違いなく彼こそが、次期の教王候補の一番手となるだろう。
「死を思え。絶対者の御前に、人は脆き被創造物に過ぎない。いつの日か迎える死の時を思え」
 ――相談役イブリスは、参列しなかった。
 彼はすでに、白羊城を去っていた。
 キジスランが帰城したその翌日に白羊城を出て、公国の東の領境へ向かった。そちらへ接近中だったバンツィ共和国軍勢の許に赴くと、ラーヌンの安全保障に関する私的な意見交換を申し出た。長時間にわたり、相手の指揮官と濃厚に対話し、結果として進攻を一時停止させることに成功した(もっとも最終的には、ラーヌンは領境線上の幾ばくかの土地をバンツィに割譲する事になったのだが)。
 これが、幽霊のような風貌のイブリスが白羊城に残した、最後の功績となった。幽霊はもう二度と、姿を見せなかった。
「死を思え。いつの日か汚濁の地上から逃れ、光を受け受け入れられる時を思え」
 そして。
 ――新ラーヌン公・キジスランは、静かだった。
 ずっと、静かだった。錯乱した精神状態は、落ち着いたらしい。長い葬儀の間、危惧されたような号泣したり奇声を発したりなどの奇態を示すことは無かった。
 痛みが進んだ遺体の臭いを消すため、薫香は息苦しいほどに焚き込められている。揺れ動いて流れる煙の中、白い礼装のキジスランは無言だった。最前方の席に深く腰掛けて、動かなかった。漠然と柩を見ていた。
 いや。見てもいなかったのだろうか。
 暗い色の眼は、光を通さずにくぐもっていた。ただ、ドーライの朗誦する聖典句に、身を委ねていた。過去から現在に至るまで、己が現実に翻弄されるだけだったことを認め、もう抵抗は示さなかった。この先も、途方も無く長い時間と現実が進んでゆく。それを認め、受け入れて諦めていた。何も抱かず、ただ静かに身を委ねていた。
 ……肌寒い灰空に、陽はゆっくりと進んでゆく。時間はゆっくりと進んでゆく。
 葬儀の一日は、やがて終わってゆく。
 白羊城を歩む人々それぞれの上に、現実は留まることなく進んでゆく。

        ・            ・           ・

 七年という長くも短くも無い時間が流れていた。

 この七年間。キジスラン公のラーヌン公国は、穏やかに安定していた。
 かつての領土拡大の頃のような華々しさは無い。カイバート公が拡張した領土は各国との交渉によって元に戻され、もう領境線は動かなくなった。国策も外交も経済も、ほとんど損失を出さない代わりに大した利潤も生まない、無難な施策の許に安定していた。
 そして宗主・キジスラン公は、人前に姿を現さなかった。即位後しばらくは重要な公式行事に列席していたが、気づくとその姿は人前から消えてしまっていた。
 では。キジスラン公に接触したい者は、どうすれば良いのだろう?
「キジスラン様は、誰ともお会いになりませんから。それでもどうしても公に伝えたい事があるというのなら、俺が口添えますよ」
 その時は、キジスラン公の相談役・マラク殿に頼るしかなかった。
「大丈夫。新公は俺の話には耳を傾けて下さるから。キジスラン公のお耳に伝われば、その事案は白羊城の官僚達が優先して受け取りますから」
 唯一この男とだけは、ラーヌン公は親密に接している。だから彼らは、マラク殿に丁重に頭を下げて頼み込むしかなかった。――勿論、高価な謝礼金や贈品を添えて。
 今やマラク殿の部屋には多くの人間が訪れ、贈品が山の様に積み上げられていた。かつての小賢しい小僧・マラクは、麗美な衣服を纏い、高級な装飾品を付け、贅沢な珍味を愉しむという、白羊城で最も派手やかな存在に成り上がっていた。
 そのマラク殿は言う。
「キジスラン公は生来、人と会うのがお嫌いなだけです。御体調が悪いとかそういう事ではありません。勿論、錯乱に落ちているとかいう噂も、ただの下種な馬鹿話です。
 確かに、帰城直後には一時的に御心を乱されましたが、今は落ち着いていますよ。ずっと静かに御過ごしです。ただ、俺以外の人に会うのを好まれないだけです」
 しかし、マラク殿がどんなに否定しても、姿を見せないラーヌン公については絶えず、様々な噂が飛び交ってしまっていた。
 曰く、著しく体調を崩していて床から起きられないとか、気鬱が酷すぎて人とまともに会話も出来ないとか。
 いや。どころか、酷く薄気味の悪い噂話まで立ってしまっていた。
『ラーヌン公は、義兄の柩を霊廟に納棺させないらしい。柩を自身の私室に置き、夜な夜な遺体を起しては話しかけているらしい。
 なぜなら、破門のまま没したせいで亡霊になった兄公に、憑りつかれてしまったから』
 葬儀の後、理由は分からないがカイバート公の霊廟への納棺が遅れた事に、尾ひれがついたのだろう。さらにその後、霊廟の扉が固く閉ざされて誰も近づけなくなったことで、真実味を一気に増して流布したようだ。
 キジスラン公はもう、為政にも係わらなくなった。まるで存在を消すかの様、白羊城の奥深くにこもってしまった。
 ――そして。キジスラン公をめぐる奇異な噂話が、また一つ生まれようとしていた。

 春の空。
 柔らかな陽射しと乾いた空気に、多くの物音が飛び交っている。
 白羊城のハルフ広場は今日も、多くの人々が行き交っている。物資が運ばれている。
彼 らは今年の天候、今年の麦の作付け、輸入羊毛の大幅値上げ、来月の大市への出店状況等々、互いに好き勝手に喋り合ってゆく。様々な情報を交わし合い、賑やかな活気を作りだしてゆく。
 先日就任したばかりの指物組合の役員もまた、同僚と共に広場を歩んでいた。
 今日の訪問目的は、新たに決まった組合の規約を報告するためだ。それからもう一つ。細工用の木板の尺単位が、イーラ国の尺との間に差を生じている件だ。
 この件は長らく城に訴えているのに、中々取り上げてくれない。早々に解決しないと、損失が微妙にかさむ一方なのに。この際、城の評議達ではなく、何としても直接ラーヌン公に嘆願したいのだが……。
「やはり、マラク相談役に接触するべきじゃないのか?」
 新役員は同僚に訊ねる。
「キジスラン公はもう、ほとんど為政に関わっていないらしい。マラク殿こそが城の官僚達への発言力を増していると聞いたぞ。実際、あの相談役に依頼すると、優先して取り上げてくれるのだろう?」
「ですが、マラク殿に仲介を依頼するのは……色々と面倒な……」
「口利きの御礼の件か?」
「はい。先日、市庁舎の参事と喋る機会があったんですが、今やかなりの価値の品を届けない限り、露骨に無視をされるとか」
「何だ、それは。要は賄賂だぞ。それに値段を決めるのか? 魔物の右腕のように付け上がっているじゃないか」
「その通りですが、マラク殿の裁量で物事が進むのは現実です。悔しいですが、キジスラン公と接しられるのがあの方のみである以上、あの方への賄賂には価値はあるとの話でした」
「そうか。――あの相談役は腹立たしいほど強運という事だ。最良の事業を経営しているという事だな」
「決して傾かない、この白羊城で最優良の事業者ですよ」
 何とも苦々しく言い、二人共が同時に、苦々しく笑った。
 その時だ。
 ハルフ広場を歩いていた人々が一斉に足を止めた。びっくりの顔で一点を見た。
 ――南棟から、キジスラン公が現れたのだ!
 人前に出てくるなど、一年前の守護聖人カニサの祭日以来ではないだろうか。あの時も大聖堂内の薄暗がりの中、深く頭巾をかぶった姿が短時間見られただけだった。それがまさか、こんな真昼の光の広場に現れるなんてっ。
 赤い髪が女の様に長く伸び、背中に流れている。何一つ装飾の無い真っ黒の長衣といい、その姿にはどことなく、異質感があった。ほとんど陽を受けていない病人じみた白さも相まり、どこか見る者に奇異と不安感を覚えさせた。
 さらに驚くことに、その白い顔が微笑んでいたのだ。
「本当に馬に乗せてくれるの? お母様はまだ早いって許してくれないの。でもね、乳母に聞いたら、お母様は私と同じ年の時にはもう馬に乗っていたんですって。なのに私には駄目なんてずるいわ。嫌いよ。――本当に乗せてくれるの? 一緒に乗ってくれるの?」
 横で、幼い少女が、夢中で話しかけている。
「だから、このお城に来るのが嬉しいの。ここで頼めば、何でも叶えてくれるから」
 可愛らしい姪の姫の言葉を受け取りながら、キジスラン公は微笑んでいる。二人並んでゆっくり広場を横切っていく。
 七年前。
 未亡人となったマテイラ夫人は、実家のガルビーヤに帰ることを求めた。白羊城にいても、夫との幸福ばかりが思い出されるのだ。自分の心細さ・無力さばかりを実感してしまうのだ。故郷に戻り、昔のように祖父に支えられたかったのだ。
 これに対してキジスラン新公は、このまま白羊城に住むように勧めた。静かな物言いながら決して退去を許さず、両者はかなり悶着した。マテイラの祖父であるガルビーヤの老領主も間に入り、長く、長く話し合いが続くことになった。
こ の件が城の外に漏れるや、早速安っぽい噂が流れた。
『新公は兄嫁の美貌に魅せられてしまったんだ。どうあっても自分の手元に置いておきたいんだ』
 だがこれを、側近のマラクは即座に完全に否定する。
『それは無い。絶対に無い。俺の持っている百万ディルを賭けても良い』
 あまりにあっさりの否定ぶりが、逆に妙な憶測を呼んだほどだ。
 結局マテイラ未亡人は、ラーヌンの街の近郊に建つニーブ城に住まう事になった。余談だが、ザフラ城館でタリア夫人と一緒に住んではとの話も出たが、これはタリア夫人が頑なに拒否したそうだ。
 新公と未亡人の間では、一つの決まり事が交わされたらしい。毎月朔日になると、未亡人は幼い姫を連れて、白羊城を訪れてるようになった。
 その行き帰りの姿を見る限り、未亡人自身は登城に気が進まないようだ。いつも硬い表情で、輝いていた美貌も消えていた。明るく社交的だった質も消えて、滞在中もほんの少しの知人とのみ接し、それ以外は避けるようになってしまった。
 だが、姫の方は違った。
「今日ね、素敵な事があったの」
 昨年だ。訪問を終えて帰ろうとする母娘を、たまたま古参の穀物商がハルフ広場で見かけた。遠慮しながらも声掛けたところ、硬い眼の母親とは真逆に、姫が無垢の笑顔で喋りかけてきたのだ。
「キジスラン叔父様が、素敵な首飾りを下さったの。金の蝶々がついた首飾りなの。この前に来た時に下さった首飾りには宝石しかついてなくて、だから要らないって言ったら、今日は蝶々が付いた物を下さったの。本当に素敵なの。見せてあげましょうか?」
 途端、マテイラ未亡人は娘を睨み、馬車へ押込んだ。この一瞬の出来事から、立ちどころに新たな噂が広がったのだ。
『どうやらラーヌン公は、姪を溺愛しているらしい。マラク相談役以外は人を近づけないはずのラーヌン公だが、姪だけは別らしい』
 これで済まない。さらにあっという間、飛んでもない尾ひれまで付く。
『キジスラン公は、姪御を養女にする気らしい。自身の婚姻話を全く進めないのは、姪御を養女にし、姪御にラーヌンを譲る気だかららしい。信じられないことに、この大国ラーヌンに、女公に戴かせる気らしい』
 ……
 ハルフ広場の穏やかな陽射しの中、キジスラン公と七歳の姫は並んで歩き、厩舎へ到着する。馬丁達に馬を命じ、やがて間もなく大柄の葦毛馬が引き出されて来るや、
「見てっ、馬が出て来た! あの馬に乗るのねっ」
姫はすぐさま馬に手をかけようとし、慌てて馬丁達に止められた。そして叔父に続き鞍上に乗った時には、
「高いっ。周りが良く見えて綺麗、ほら、馬の立て髪も柔らかくて綺麗よ。ほんと、みんな綺麗!」
 夢中で叫んではしゃぐ。キラキラ輝く眼で辺りを見回す。
「姫君と御一緒に街へ御散策ですか、公?」
 馬丁頭が赤毛の公に声掛けた。振り向いたラーヌン公の白い顔を見た時、ふと心中に遠い記憶がよみがえった。怒声と炎に彩られた、十年ほど前の大騒動の夜が。
“厩舎に火を点けて逃げたぞ! 父親殺しを捕えろ!”
 あの夜もまた現実だった。あの夜からこの人は、どのような経験を重ねて来たのだろう。何を思い、感じて今日までに至ったのだろう。
冷淡な運命の女神は、確実に現実を、人を変えてゆく。幸運だか不幸だかの女神と手を取り、人の望みに考慮もなく、容赦もなく、変えてしまう。世界と人を大きく変えて、平然としている。昔、どこぞの詩人が歌っていた詩を、なぜだか思い出した。相手の表情の消えた顔を見ながら、漠然と思い出した。
「街なかは人通りが多くて騒々しいです。不測の事に馬が驚いて暴れないように、私が手綱を引きましょう」
 馬上、赤毛の公は僅かに首を横に振り、断った。
「しかし、公。万が一にも姫が落馬をされるような事になったら大変です。それに、護衛兵はどこにいるのですか?」
 もう見向くこともなかった。馬の腹を蹴り、ゆっくり出発してしまった。
「早く、早く行きましょうっ、早く外に出ましょうっ。もっと見たい、一杯見たい!」
 鞍上ではしゃぐ姫を、キジスラン公が後ろから支えている。静かな笑みで見ている。
それを人々が、驚きの顔のまま見送っていく。新公をめぐる噂がさらに一つ生まれるのは、聖者の御名において間違いないだろう。しかも今まで以上に生々しい噂が。
『ラーヌン公がいまだ全く自身の婚姻話を進めないのは、それはもしかしたら――まさか、
姫を養女ではなく妻に迎えようとしてるからではないか?』
 ゆっくりと正城門を抜けていく二人の姿を、マテイラもまた最後まで見送ってゆく。
 南棟の二階、バルコンの入り口の陰からだった。バルコンへ出ることは無かった。ここに立つと昔を思い出してしまうから。
「皆が噂をしていますが……」
 付き添う年配の侍女が、重たい声で言う。
「キジスラン公は本当に姫を後継者に、ラーヌンの女公になさるおつもりなんでしょうかね? 実際のところ、公は婚姻をする気が全く無い様で……つまり、御子をもうける気は無いという事ですし……」
 さすがに“もしくは、姫と婚姻する気なのでしょうか?”とまでは、生々しくて付け加えられなかった。
「剣」
「? 剣? 何です? 奥様?」
「アイバース家の家長の剣」
 独り言のように呟く。マテイラの顔は堅く強張っている。その心には、重苦しい一年前の光景が、重苦しい感触と共に蘇っている。
 ……あの時。
 冬の終わりの冷えた風が白羊城に吹き付けていた時。曇った午後。
 姫がまた我儘を言った。城内の礼拝室に隣接する聖具室を見たいとねだったのだ。
 マテイラは嫌だった。葬儀の日以降、礼拝室には入らなかった。真っ黒の肉に化した夫など――自分の幸せが脆く散った瞬間など、誰かの支えが無ければ幸せを得られない現実を思い知った記憶など、思い出したくなかった。心から嫌だった。
 なのに娘にせがまれた義弟は、当然のように応じたのだ。
 我儘が叶い目をキラキラさせる娘と、もう必要以外には何の言葉も発しない義弟と、それにこの二人と自分だけとでは嫌なので、マラクと侍女達も連れて礼拝室に入った瞬間、染みついた焚香が鼻を突いた。それだけで神経が緊張した。だが姫は隣の聖具室に入るや、すぐにはしゃぎ出した。重々しい聖具や鈍く輝く宝具が並べられているのに見入ってゆく。
「見てっ。この聖杯、お花の模様がついてるっ。こっちの盃の取っ手は、猫の尻尾みたいよ、ほら、可愛いわっ」
 夢中で歩いて回る。どんどん興奮を帯び、甲高い声になってゆく。
「あっ、あれ! 赤い石が付いてるっ」
 突然、部屋の最奥へ走った。黒色の織布の上に横たえられた剣を見つけた、いきなりそのまま掴み取ったのだ。
「お星様っ、光ってるっ」
「姫っ、それは駄目ですっ」
 マラクの叫びと同時、大きな音が響いた。重くて持ちきれず、剣が床に落ちたのだ。
「姫!」
 マラクと侍女が顔色を変える。マテイラも蒼ざめる。アイバース家の家宝である家長の剣を落とすという飛んでも無い無礼に、対処が出来ない。狼狽の眼でキジスラン公を見る。
 公は、感情を示していなかった。
 ただ淡々と、自らの手で剣を拾い上げた。あらためて姪の方に差し出すと、穏やかな表情でその小さな手に持たせてやったのだ。
 その時に小声で発した言葉を、マテイラは聞いてしまったのだ。
「この剣は、貴女の物だ」
 ……
「あれは、どういう意味だったの?」
「マテイラ様、ですから何の事です?」
 侍女が問い直そうとする前、女主人はバルコンを背にした。自室へ戻り始めた。
 ……暖かな春の風が、白羊城の通廊を抜ける。
 白羊城の長い長い通廊を、マテイラは歩く。すれ違う人々がその都度に会釈をしてくる。話しかけて来る。
「驚きました、キジスラン公が姫君を連れて外出をされましたよっ」
「何かあったのですか? キジスラン公が人前に出てくるなんて、まして外出されるなんて本当に珍しい」
「姫と御一緒の時だけは、公は御変わりになるのですか? 人嫌いなど嘘のように、楽しそうにお二人で出かけられましたよ?」
 公について、公と姫とについて何か聞き出せないかと、物欲しげな眼で接してくる。それを心底疎ましく思ってあしらいながら、彼女は広大な城内を歩く。乾いた春の風の抜ける通廊と多数の階段とを、延々と歩んでゆく。
 未来は、どうなるのだろうか。
 本当にこの広い白羊城が、娘の物になるのだろうか。
 それは、娘に幸福を呼ぶのだろうか。すぐに壊れてしまう現実の中で、カイバート様が残したあの娘は、守護の天使に肩を抱かれるのだろうか。運命の女神と幸運の女神とに、どのように抱きとめられるのだろうか。

 シャーリア大路を行き交う全員が、振り向いた。
 透き通った陽射しの中、キジスラン公と姪の姫が現れていた。突然の出来事に誰もが立ち止まり、目を丸くして見る。だが、近寄ったり話しかけたりする者は無い。なぜだろう、どこかしらに異質を感じてしまい、遠巻きに見るのみだった。
 キジスラン公もまた、周囲を見なかった。自分の姪だけを見つめていた。母親譲りの美貌、そして父親譲りの真っ直ぐの眼が嬉しそうに街を見回すのを、そして振り返って自分を見るのを、無言で見ていた。
「もっと一杯見たい、もっと馬を進めて。もっと遠くまで行って」
曇りの無い眼が、夢中で求めている。春の明るい光の中に、濃い色の眼がきらきらと輝いている。
“これがラーヌンだ。広い、豊かな世界だ。
 だが俺は、もっと見たい”
「もっと。もっとよ。このまま街の外に出てっ。もっと見たいの」
“もっと見たい。もっと広い世界を見ていきたい”
 キジスランもまた前方を見た。何かを胸に覚えかけ、しかしそれは霧のように消えていった。
 陽射しが眩い。馬は大路をゆっくり進む。正面から陽射しの中、大路の突き当りのジュヌーブ門に向かう。
 門の向こうでは薄青色の空とラーヌンの田園が、遠くへと広がっていた。

       ・          ・         ・

 白羊城にかかわった者について。最後に――。

 ドーライは、帰路をたどっていた。
 丘の小城塞を出立して数刻。すでに前方には、壮麗な大聖堂の丸天蓋と鐘楼が見えている。神の御寵を受けるリンザンの街は春爛漫の空の下、今日も平穏に輝いている。七年前の緊張の日々は、遠い過去になった。記憶の中の、遠い光景になった。
 目の前に、街の市門が迫って来る。いつもであればこのまま帰館するが、だが今日は違った。ドーライは街へは入らず、市壁に沿うように右側へ折れた。そちらから北へと伸びてゆく小街道へと道を取った。
 ……彼は今日も、深く眠っていた。
 かつてのキジスラン公子の従者・ルシドは、もう獣の様に叫ぶことはなかった。あの時から一転した。
『死んでしまえ』
 世界そのものも、あの直後から大きく変わった。カイバート公は疫病に倒れ、キジスラン公子はラーヌン目指して出陣し、カイバート公の死と公妃の出産を経て、白羊城はキジスラン公子にラーヌン公国を差し出した。その過程を自分は、動揺し、混乱し、号泣し、虚無となる公子の横で、ずっと見続ける事になった。
『死んでしまえ』
 あれは、やはり呪いだったのだろうか?
 自分に向けてではなくカイバート公に向けられた呪いで、その通りに呪い殺したのだろうか?
 いや。
 呪いなど、存在しない。呪いや魔力など、正道なるリンザン信仰の前には否定される存在だ。ただの虚偽だ。カイバート公は公表通り、疫病に罹って没したのだろう。もしくは、以前に医療者と名乗る若者が告発して騒動になった通り、毒を盛られての暗殺だろう(もっともその若者は偽証で世を騒乱させたとし、捕縛されて鞭打刑となったが。真実は絶対者の御心に)。
 そして従者ルシドは、あの時から全く動かなくなった。眠り続けた。
つながれていた鎖から外され、床の上に寝かされた。毎朝、城下の村から通う爺が体を起こし、朦朧のままの彼に無理やり物を食べさせる以外は、ただ眠り続けた。眠ったまま長い一日を終え、長い一月を終え、長い一年を終え、そうして見捨てられたまま七年という長い歳月が過ぎていた。
 ザカーリ副教王も見捨てた。今さら拷問や処刑を命じて刺激するよりは、眠り続けてくれた方が無難と、そのまま留めおくことにしてしまった。だから彼はただ、眠り続けている。埃と垢と腐臭に塗れ、極限まで痩せこけながら、起きる事無く眠り続けている。
 その彼に、ドーライだけが接した。
 七年間、折を見つけては訪問した。かつては覗き窓越しに語り掛けていたが、一年前からは獄内に踏み入った。面会を重ねる度に少しずつ近づき、今日は真横まで行った。そこに座って、静かに話しかけた。
「貴方は今、安寧の中に居ますか?」
 勿論何の反応も無い。それでも話しかけたかった。何かしらの慈愛を伝えたかった。
「神の司られる摂理のままに、今年も季節が動きました。穏やかな良い春になりましたよ。この獄内も、ほんの少し暖かい。分かりますか?
 神は地上を遍く照らし、御守りになります。貴方の事も、慈愛をもって御守り続けていますから、何も怖れないで下さい。安らかな心の中にいて下さい」
 言った。相手の動かない右手に触れながら。
 命を賭して守り抜いたキジスラン公は、もう彼に何ら接触しない。完全に見捨てた。おそらく二度と会うこともないだろう。彼はこのまま眠り続けて、生涯を終えるのだろう。その境遇に憐憫を覚え、慰撫をしたかった。
「私もずっと、貴方の事を考えていました。確かに貴方は今、不遇の中にいますが、それでもやはり神は貴方の事も慈しみ、深く御守りになっていると確信しています。その証拠に、貴方の大切な公子は、見事にラーヌンの宗主となられたのだから。貴方の宿願は叶えられているのだから」
 爪が折れ、黒く汚れ切った手を、ゆっくりと握った。
「聖天使は、貴方の肩にも舞い降りています。神の栄光そしてその御慈愛の元に、貴方の道筋に光あれ」
 その時だ。
 握った手が、動いた。握り返してきた。――起きた!
 凄まじい緊張が走る! 一瞬で人を殺したあの眼を思い出す。思わず立ち上がって逃げようとし、――いや、
 それをしてはいけない。彼こそは、天上からの御慈悲を最も受けるべき存在だ。逃げるな。見捨てるな。自分はこの場から動くな。
「……? 何を?」
 唇が僅かに動いている。目は閉ざされたままで体も動かないがしかし、唇が動き、僅かな声で何か言っている。何を?
 ……聖……マラク……
「何を言っているのですか?」
 ……マラク……天使……絵……
 ……街から……街道……絵……壁絵……
 ゆっくりの、ゆっくりの、僅かの言葉。辛うじて聞き取れた、断片の単語。
 そして、自分の手を握る力が消えた。再び、動かなくなった。覚めない眠りへ戻っていった。これが、先程の訪問での出来事だった。

 春の風が、肌に心地よい。
少しずつ午後が進み、夕刻が近づき、陽射しが強さを帯びてきている。ドーライは北の小街道をたどってゆく。
 リンザンで生まれ育ち、街とその周辺を熟知している彼にとって、先ほどのルシド従者の単語の謎は、難解過ぎるものでは無かった。しばらく考え続ければ、心当たりが浮かび上がった。陽光の中、正道への導きを示す祈禱全章をゆっくりと二回唱え終わった頃、それは街道の右手に現れてきた。
“リンザンの街の近い、街道に近い場所にある、聖天使マラクの壁画”。
 ほんの少し奥まった位置、新緑が伸びやかに芽吹く木立の間に、聖天使マラクの小さな礼拝堂があった。
 荒れ果てた堂に近づくと、扉には鍵がかかっていなかった。ということは、中には何も価値のある物は無いのだろう。扉の上に蜘蛛の巣が残っているところをみると、野宿や雨宿りに立ち寄る者すら長らくいなかったのだろう。
 消えかけた浅彫装飾の木扉を押してみる。堂内は、人が七~八人も入れば埋まるだろう狭さだった。奥に祭壇がわりの四角い石が重ねられているだけで、あとは何も無い。
 そして絵は、
(あった)
 左の奥の壁に、聖天使マラクが立っていた。
 頭部と身体のバランスが崩れた稚拙な壁絵だ。安物の絵の具なのだろう、色は酷く褪せて、細部はうかがえない。取り敢えず右手に長い杖を握っているのが分かる。つまり剣を握った懲罰の役割のマラクではなく、導きの役割のマラクだ。
 この絵だ。気の毒な彼が自分に知らせたかったのは。でも、
 この絵が何? 何を示しているんだ?
(“導きの聖天使マラクは、人が進むべき道筋を指し示す。その黄金の錫杖をもち、正しき方向を指し示す”)
 だが天使は、何も指し示していない。その長い杖も、ただ握っているだけで、ただ地面に突き立てられていて……、
 ふっと、ドーライは気づいた。
 天使の握る長い杖を手でなぞり、そのまま下まで伸ばしていき、床にたどり着いた。でこぼこと雑に敷き並べられた床石を見た。
(“その杖が、正しき方向を指し示す”)
 胴着の中から短剣を取り出すと、杖の先にぶつかる床石の周囲に突き立ててゆく。いささか苦労しながら石の周りに溝を刻むと、ドーライは力を込めて石を掴んだ。四苦八苦しながらこれを引き抜いて外したその時。
「天上の絶対者の光の御許にて。その望まれる御意思の御許にて」
 思わず呟いた。思った通りだ。石の下の土から、細長い銅製の箱が出て来たのだ。
「天上の絶対者の栄光は、全ての闇を光をもちて照らしてゆく」
 中身に予想がついた。蓋を外して、その中を見、予想が当った事を確認した。
出て来たのは、何通もの書簡。書き付け。そして宝石と金貨。そして、アイバース家の紋章が刻まれた指輪。
 そして、一番下から、細く巻き取られた画布。
「天上の絶対者の栄光は――」
 開いてゆく。天使が現れた。懲罰の剣を振り下ろそうとする下手糞な天使だ。さらに絵を裏返すと、そこにはかすれた染料で、小さな文字が書かれていた。
《 地の底の炎が天までを貫く時 地上は全て焼けてただれ…… 》
「……。栄光は、全ての闇を光をもちて照らしてゆく。地上の全てに遍く。
 地上は、焼けてただれなる事は無い――」
 己の主君であり、次期のリンザン教王の最有力者であるザカーリ副教王猊下が、絶対に知られてはならない過去として必死で探した絵が、やっと見つかった。
 ドーライは無言で絵に見入る。長い時間見続け、静かに思う。
 この絵から始まったのだろうか。
 この絵と出会ってしまい、彼とキジスラン公子は、不穏と波乱の道を進み出したのだろうか。それとも、もっと遠い以前から、何かの因縁が絡み合っていたのだろうか。絶対者の許に、天使の許に導かれていったのだろうか。公国の白羊城に住む人達は。
 外から、物音と人声が聞こえた。
 小街道を大人数の旅人達が通りかかっている。ドーライは箱を持って外に出た。その瞬間、陽射しの眩しさが体を覆った。
 数台の馬車が連なって進むのに声をかけると、火種をわけてもらう。礼拝堂の脇に戻り、小さな焚火を作る。火を見ながら、神の栄光を讃える祈禱句を三回繰り返す。
 それからゆっくりと箱の中の手紙と書き付けを投げる。黄味の強い炎にくべて、燃やしてゆく。
「聖天使マラクは、人が進むべき道筋を指し示す。その黄金の錫杖をもち、正しき方向を指し示す」
 最後に天使マラクの絵を、黄色い炎の中へ差し出した。
 絵の端が少しずつ燃え始め、一瞬大きな炎を形づくり、やがて完全に灰となり消えてゆくまでを、ドーライは静かな眼で見送った。
 ……夕刻を前に、小鳥達のさえずりが賑わっていた。
 傾き出した陽射しが、木立越しに顔に当たっていた。ドーライは火を消し、馬へと歩む。右手に持つ箱の中で、宝石と紋章の付いた指輪が揺れて、カタカタと鳴っている。
 これらの品は、いつか彼が目を覚ました時に返してあげよう。その日が少しでも早く来るようにと、天使が彼の肩に舞い降りるようにと、無言で祈った。
 春の長い夕刻が、穏やかに、ゆっくりと進んでいた。


【 終 】
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