第24話

文字数 11,758文字

24・ その四年前


 あの日。
 四年前の秋の終わりのあの日。
 ザフラ城館の門の許で、門番の爺は露骨に胡散臭さの顔を見せつけた。
「餓鬼。だったら名前と身分も言え」
 彼は、白羊城にもラーヌンの街にも行った事が無かった。だからラーヌン公のもう一人の息子の顔など知らなかった。だから少年臭さそのものの顔立ちのくせに、驚くほどに尊大な態度で言い放ってくるふてぶてしさに、むっとした怒りを覚えていた。
「会わせろと言ってるんだ。とにかく早く中に入れろ」
「聞こえないのか。だから名乗れ」
「何で貴様に従う必要があるんだ。何してる。早くしろ、今俺に従わないと、後から貴様は途方も無く後悔するぞ。役立たずが」
 聖者すら怒らせるだろう大上段振りだ。怒り任せに怒鳴って突っ返そうかと思ったが、だが同時、あまりに過度の不遜ぶりがさすがに気になる。加えてこのびっくりするほど強い目付きときたら。
「……」
 腹立たしい。が、結局門番はその通りを、城館の女主人に知らせることにした。すると、予想外にも、
「……。夫人は会って下さるそうだ」
「当たり前だろうが。だから言ったんだ。薄ノロが」
 女主人は、客の餓鬼を受け入れたのだ。
 寒い、重苦しいほど雲の厚く垂れ込めた午後。ザフラ城館において両者は会った。

「会うのは初めてね」
 バイダ夫人は、深紅の服を纏っていた。その肩から背中に、同じく濃い赤色の髪が結い上げられもせずに垂れていた。他の女には持ちえない独特の艶然が、その姿から発せられていた。
「お前を見かけたことは有ったわ。一度だけ白羊城に行った時に、馬車の中から。
外出していた父親を迎えに出るとは、割と可愛げのある子供だと思った。その時の事を覚えている?」
「全く」
 可愛げからは程遠い顔でカイバートは答えた。
「どうせ売春婦の身分じゃ、馬車を降りて城棟に入る事は出来ないだろう?」
「確かにね。でもあの時は、『ついにアイバース公が赤毛の売春婦を白羊城に連れて来た』と、結構な騒ぎになったのよ」
「いい見世物になっただけだって事だ」
「言うわね。アイバース殿が、息子は驚くほど生意気だと言っていたけれど、その通りだわ」
 バイダが笑う。美しさは間違いないが迫力を感じ、どこか薄ら恐ろしさもある。これはアイバース公が夢中になるはずだ、血筋以外に何も面白味も無い自分の母親など、見向かれなくて当然だと思わせる。
 卓上の芳香の強い葡萄酒を、カイバートは見る。バイダは無駄話はどうでも良いらしい。いきなり核心を突いてきた。
「もうお前の母親は死んだの?」
「まだだ」
「まだなのね」
「だがもう病は治らない。おそらくもうすぐ死ぬ」
「それで私の所に来たのね。生意気な割に利口ね。これも殿が言っていた通りだわ。
 で。私が白羊城に入りそうで、不安なの? 今、里子に出している私の息子が表に出てきそうになってきたのが怖くて、だから今の内に私と仲良くしておきたいの?」
「黙れ」
「安心なさい。私は息子が公位を継ぐ継がないなんて、どうでもいいから。いつかアイバース殿が亡くなった時には、勝手にお前が継げば良いじゃない」
「――」
「でも私自身は、近い内に白羊城に入るわよ。お前の母親が死んだら白羊城に入って、殿と一緒に生きるから」
 堂々の笑顔を見せつける。それにどう応じてよいか解らず、カイバートは真っ向から睨みつけた。
「勝手にしろ」
とだけ、言い捨てた。
 会話が途切れる。カイバートはバイダを睨み、しかし時折ちらちらと葡萄酒杯を見る。その意味にバイダはようやく気付いた。
「葡萄酒に毒は入っていないわよ」
「――」
「これから出してあげる食事も、安心して食べていいわよ。確かに昔、毒を使った事はあるけど、言ったでしょう? 私は、息子やお前がどうなろうとどうでもいいって。
 小利口なだけじゃなく、用心深さもあるのが良いわね」
「だったらすぐに何か食べさせろよ。腹が減っているんだ。美味い物を食べさせろ」
「図々しいわね。見どころが多くて本当、可愛いわ」
 彼女は一層に笑った。
 ……窓からは、水路を流れる水の音が聞こえている。
 冬を前に、庭には花がない。その分、広い室内には装飾品がしつこく置かれている。すでに暖炉には火が入っている。
 料理が運ばれてきてからも、カイバートは用心深さを緩めなかった。
 彼は、バイダが口を付けた料理しか、手を付けなかった。料理番の老婆が追加の葡萄酒を運んできた時も、まずはバイダが飲むのを見てから初めて飲んだ。その一々をバイダは面白がり、からかった。
 水音は続いている。晩秋の空は少しずつ夕刻へと近づき、カケスの甲高い声が長く、大きく響いている。
 酔いが回るにつれ、カイバートの警戒も薄れ出す。機嫌が良くなり、口数が増え出す。バイダの笑いも増え、両者の声が高まってゆく。
「ねえ、聞きたい? 殿が最初に私を寝台に乗せた時に言った台詞。聞いたら笑うわよ。予想がつく?」
「あの男でも、女を口説く気の効いた言葉を知ってるのかよ。聖典句でも言えばいいんだ」
「聖典なんか真っ当に手に取った事も無いんじゃない? そんな時間が有ったら、傭兵隊長達を相手に夢中で攻城計画でも練ってるわよ、あの男は。
『その者の罪を責めるな。罪を責められるのは神のみである』。」
「何だよ。それが口説き文句か?」
「違う。私が一つだけ知っている聖典の句よ。これって寝台で使えると思わない? 真実を告げる、凄く良い言葉よ」
 嫌らしい猫の様な笑いを見せる。目の前の義息を見つめながら、また葡萄酒を飲んでゆく。その姿を義息は食らいつく様に見る。薄めていない濃い葡萄酒を飲んでゆく。
 気付いた時、カケスの甲高い声が止んでいた。肌寒い灰空はとっくに闇に沈み、バイダとカイバートの笑いは下品な嬌笑に変わっていた。二人共が存分に酔っていた。
「もう葡萄酒が無くなったの? 全然足りないじゃない。家人達を村へ帰すんじゃ無かったわ」
「使用人を全員帰らせたのか? ここにはもう誰も居ないのか?」
「だって誰も居ない方が愉しいでしょ?」
 そう言って椅子から立ち上がろうとして、大きくよろけた。素早くカイバートが腕を伸ばすが、二人共が体勢を崩して床に倒れる。バイダが馬鹿笑いをする。
「寝台へ運んでよ」
 この言葉に、急に不機嫌の顔になった。これを見てバイダはまた笑う。
「お前の父親だったら嫌な顔一つせずに運んでくれるわよ。なのに息子の方は情けないこと」
 少年臭い顔が、露骨に反応した。馬鹿にされた事に反発し、いきなりバイダを抱えて立ち上がる。大柄な相手の体によろけるたびに、大きな嬌声が上がった。義息の肩に回した腕を引き寄せ、顔を近づけ、耳元にくすくすした笑いと意味のない言葉とを囁いた。
 寝室は、真っ暗だった。
 大きな寝台の上に、バイダを落とした。通廊から灯りを運んでくると、豪華な壁画の描かれた室内が浮かび上がった。寝台にうつぶせて倒れ込む義母の肢体もまた、揺れる光を受けて強調された。まだ何やら無言で呟いていた。自分を見ていた。
「……」
 カイバートも見返す。
 この女に対しては、何の感情も無い。父親の情婦というだけだ。
 ただこの情婦を、父親はいつまでも愛し続けている。正妃である自分の母親が死にかける中、まさかの展開だが、近い未来に正公妃の座に就く可能性まで出て来てしまった。しかも。
(運命の女神の糞が)
 父親の子を――自分の義弟を、産んでいる。その女と飲み、喰い、騒ぎ、自分は今、どんな感情になっているんだ。
 横目で自分を見るバイダの唇が、ゆっくりと引き上がった。
「その飾り棚の中に、赤い薬瓶があるの。取って」
 指差す先、手の込んだ装飾を持つ木組みの棚の扉を開けると、幾つも小瓶が並んでいた。赤い瓶を取り出し、ようやく姿勢を起こした義母に渡す。彼女は枕元の水差しの水に、薬を少し落とした。黄色い数滴に濁った水を、しばらく無言で見ていた。
「毒か?」
“娼婦バイダの噂を知ってるか? あの女は昔、邪魔になった元の情夫を、寝室で毒殺したんだ”。
「俺に飲ませる気か?」
「違うわ。気持ちが良くなる薬よ。知っている?」
「知るか」
「良い気持ちになるのよ。特に寝台の上でね。だから今、飲もうかと思って」
 にんまりの笑が、壮絶に艶めいた。昔語りに出て来る、男を誘惑して喰らう闇の女王だ。
「お前も飲む?」
 杯を差し出す。カイバートは動かず、縛られた様に義母を見る。その眼。唇。首筋。胸元。胸元から覗き見える乳房。
「飲めないのね。勇気も度胸も無いから」
 体から立ちこめる香が、感覚を覆ってくる。
「それで。どうするの? 今から?」
駄目押してくる。凄まじい笑顔だ。
「見どころがないわね」
「……黙れ」
「意気地のない、ただの餓鬼」
 ここまで言い切られた瞬間、カイバートは思考を辞めた。
 この女に対する感情などどうでも良い。この女の肉が欲しいという衝動を取った。その欲望にそのまま従った。
 素早く寝台へ進むと、女の肉の上にのしかかる。その瞬間、バイダは勝ち誇ったように大きく笑った。

 カケスの長く甲高い声と共に、夜は終わる。
 二人しかいない城館に、鳴き声がうるさく響く。薄暗く、肌寒い朝だ。バイダは寝台から起きようとしない。機嫌が良いとも悪いとも付かない顔で横たわったまま、時々目を開けたり閉じたりしている。
 カイバートはとっくに起きていた。
 昨夜の居間に戻り、残った食べ物で腹を満たしていた。残り物が無くなると、誰もいない厨房へと向かい、有る物を食べた。とにかく腹が減っていた。機嫌が悪かった。誰も居ない空気が寒くて不快で、何よりカケスの声に苛立っていた。
 寝室に戻る途中も、今更のように館の華美でわざとらしい内装に腹立つ。さっさとここを離れたいと感じた。寝室に踏み入った途端に目に飛び込んだ女の肢体にも、強く苛立った。昨夜はあんなに可愛がってもらったのに。
「帰る」
 バイダの眼が自分を見ている。薄っすら笑っている。父親に続き息子も手にしたことへの満足を示しているのか。
「水をとってきて」
「枕元に水差しがあるだろう?」
「嫌よ。冷たい水が飲みたい。厨房の甕から汲んできて」
 一瞬怒鳴って拒否しようとし、堪えた。言われた通り、再び厨房まで戻り、冷水を運んできた。
 戻った時、バイダはうつぶせて寝ていた。そのまま水を置いて去ろうかと思った時、
 ――赤い小瓶が目に留まった。
 気持ち良くなるとかの薬。それってつまり媚薬か? 『悦楽の園』だか何だかいう名前の。抱き合う前に飲むと、愉しみが増すとかいう。
(それって、実際に飲むとどうなるんだ?)
 単純な興味だった。
 カイバートは、汲んできたばかりの水の杯に、小瓶を傾けた。薄暗い朝の弱々しい光に、瓶の赤色、そこから流れる液体の薄黄色が、ぼんやり浮き上がった。
「起きろよ」
 揺り起こす。四肢が白い蛇のようにゆっくりと這って動いて身を起こす。
「水だ。飲めよ」
 押し付けられるよう渡された杯を受けとった。水を飲んだ。再び眠りに落ちようとするのを、無理やり引っ張り、派手な刺繍の上掛けをはおらせる。
「もう寝るな。起きろ。俺は帰る。最後に見送れよ」
「……寒いわ。暖炉に火を入れて」
「火なんて要らないだろう? 俺が帰ったらまた寝ればいいだろう?」
「そう……? ……まだ帰らない方が良いんじゃない? お前、もう少し私に訊いておきたいことがあるんじゃない?
お前の母親が死んだ後、私がどうするか、訊いておきたいんじゃない?」
「――」
 心中を見抜かれた。腹立たしい。
 苛立ち、悪態を突きながらも、暖炉に火を起こす。バイダがまた眠りに落ちそうなのを無理矢理寝台から引きずり出し、長椅子に座らせる。
「水の杯を持ってきて。もう一度」
 水をまた飲む。沈黙の時間だけがだらだらと、長々と続く。
 部屋がだんだん暖まる。外ではカケスは何羽集まってきたのだろう。甲高い声が交差して一層に騒々しい、苛立つ、そう思った時だ。唐突、
「うるさい!」
バイダが怒鳴った! その顔が凄まじく苛立っている。顔色が悪い。
「寒いっ」
 長椅子に身を倒した。はだけた上掛けから覗く肌が、異様に青白かった。ちょっと様子がおかしいとカイバートは初めて思う。もしかしてあの薬のせいか?
「寝台に戻るか?」
「触らないでっ」
 睨みつけて来た目が大きく開き、血走りっている。息が荒くなっている。
「気分が悪いのか?」
 睨んでいる。その充血の眼が、脇の小卓に置かれた赤い小瓶を捕えた。表情が変わった。
「今の水に……何をっ」
 壮絶な眼で睨んでくる。言っている意味が解らない。その目の前で、呼吸を乱し出す。みるみる内に全身が青白くなる。苦しみ出す。死相を帯び出す。カイバートは緊張する。その義息に彼女は叫ぶ。
「お前が……毒――っ」
「毒って何だ? 俺は気持ち良くなる薬を――」
「毒を……私に……!」
「どういう事だ? あの瓶の薬は毒だったのか? 昨夜俺に飲ませようとしたじゃないか! 息子も俺も知った事じゃないとか言ったくせに、どういう事なんだ!」
 途端、バイダが獣のような悲鳴を上げる。激しく上体が揺れたと思った途端、大量の血を吐いた。思わずカイバートは身を引く。その視界の中、彼女の上掛けの刺繍が赤く染まってゆく。呼吸が凄まじく乱れ、完全に死にかけていると解かる。
 どうする!
 カイバートが迷ったのは一瞬だった。彼には、自分に危害を加えようとした者を救う気など髪の毛一本も無かった。走るように部屋を横切り、通廊へ出た瞬間、
「水――毒……!」
 凄まじい叫びそしてドスンという振動に振り返る。長椅子から落ちたバイダが、自らが吐いた血の上に倒れた。極限まで広げられた赤い目が、
「許さない……!」
憎悪を剥いて自分を見た!
「黙れ!」
 見捨てて走り出た瞬間、冷たい空気とカケスの声が全身を覆う。何も考えない。あの女が生き残ろうと死のうと、それは自分のせいではない。神のせいだ。こんな光景を自分に見せた神のせいだ。
 もし生き残って自分を殺人者と告発したら、逆にこっちが告発してやる。毒殺しようとしたのが女の方とは、神の前に真実だ。いくら熱愛する女とはいえ、アイバース公が息子より情婦の言い分を取るはず無い。公は、俺を愛している。心から愛している。それでもまだ女が騒ぎ立てたら、公に言ってやる。
“あの女が、俺を寝台に誘ってきやがった”。
 馬の許に走り、飛び乗る。さすがに誰かに見られるのは面倒だ。裏手の西門へと回り、そこから丘陵地を抜ける小道へと一気に走り出す。
 朝も遅いのに、空が酷く暗い。放牧地から羊達の声が聞こえる。激昂と興奮の感情のまま全速で走り、冷たい風にさらされ、やっと緩い丘を登り切った時、一度だけ馬を止め振り返った。もうザフラ城館は遥かに後ろだった。薄暗い世界が、その全景が、凍り付いた絵の様に見えた。
 と。左手。
 村の牧草地の方向で、数人の人影が小さな粒の様に動いているのが見える。
 薄暗くて判りにくい。畑へ向かう農民達だろうか。いや。粒の一つは違う。馬に跨っている。城館の方へ進んでいる。昨夜追い出した館の使用人が戻ってきたのだろうか。これからあの女を見つけて救い出すのだろうか。
 その馬が、止まった。
 ちょうど分厚い雲の隙間から、ほんの僅かだけ薄日が射した瞬間だった。ほんの僅かだけ見通しが開け、相手の姿が見通せた。
 誰だ?
 遠い相手が、自分を見ている。誰だ? あれは、髪の赤っぽいあれは――。
 カケスの鳴き声が大きく響いていた。再びカイバートは、馬を走らせた。今はすぐに白羊城に戻りたかった。戻って、自分のやるべき事をやりたいと欲した。
 濃灰色の朝の、全てが重苦しい空の下だった。

        ・            ・            ・

 ザフラ城館の全景が遠く、小さく見えた。
 陽はその後ろ側、西の丘陵の向こうへと今、完全に没した。
「……」
 四年前の灰色の朝に始まった現実は、その同じ場所で、意義を失った。現実は全く違う姿をしていた。誤った土台に立っていた自分の四年間は、無惨に否定を下された。
“あの男を殺して……仇を討って――”
 全てに意味が無かった。なのに自分はずっと、苦しみを重ねてきた。
 今、感情をどこに向ければよいのか解らない。それでも自分は現実の上に立ち、先へと進まなければならないのか?
「ならば私は……」
 地平線に残る夕光が美しい。キジスランはすがるように言う。
「私は、どうすれば良いのですか」
「なぜ俺に訊く? このままリンザン教国で好きなように暮らせ」
「違う――、どうすれば――。私は貴方をどうすれば良いのですか」
「俺を殺したいのか? 俺に殺されたいのか?
 殺すなんて真っ平だ。そんな価値のど貴様には無いのに、無駄に手を汚す気などない。だから貴様も好きに生きろ。もう俺に関わるな」
 当然の様に言った。
 カイバートは己の現実を進めてゆく。あがく自分と真逆に、軽々と前へ向かって進んでゆく。自分の四年間を全て覆し、それなのに自身は当然の態で前へ進んでゆく。こんな不公平な現実に、自分はどう応ずれば良いんだ。
「腹が減って来たな。もう戻るぞ。この後夜宴だ」
 耳についていた羊の鳴き声が消えた気がした。
 すっと、混乱に熱せられた感情が静まり、冷えた気がした。そして、ふっと殺意を拾った。
 キジスランは、腰に下げていた騎士団の飾り剣の、優美な握りに手を掛けた。そして抜いた。
 振り上げ、振り下ろした。
「キジスラン公子!」
 泥を蹴り、凄まじい勢いで馬が駆け付ける。スレーイデとドーライの二人共が驚愕し、即座に状況を判断する。
 最悪ではない。だが最悪に近い。カイバート公の左腕で袖口が切れ、皮膚に薄っすらと血がにじみ始めている。
 ドーライが素早く馬から降り、泥の地面に身を伏した。
「ラーヌン公! どうぞキジスラン公子をお許しください! この数日来酷い体調不良が続き、気もずっと不安定で判断力を失っていられる状況でした。どうぞ、どうかお許しを下さい!」
 スレーイデもまた馬を降りると、片膝を付く。
「我が銀の山羊騎士団の騎士による尋常ならざる御無礼を、神の御前にお詫び申し上げます。
 なぜゆえキジスラン騎士がこのような行為に至ったかについて、我ら騎士団が厳重に尋問し御報告を致します。必要とあらば相応しい懲罰を下します。ですので、今この場での公子への断罪はどうぞご容赦を下さい。
 また、願わくば取り敢えず本件について、諸氏への口外を避けて頂ければと願い申し上げます。今回の交渉および条約締結の成功は、ティドリア域全体の平和にも影響を及ぼします。どうかカイバート公、どうか、ひたすらに願い申し上げます」
 その両者の前で、カイバートは手首の傷口を見ている。怒るでも驚くでも無く、どころかろくに気にすることも無かった。
「うるさく騒ぐな。少し皮膚を切っただけだ。どうでも良い事だ。本当に」
 ちらりとも弟を見ずに言ったその言葉を、キジスランは聞き取れただろうか。
「俺も条約はさっさと片づけたい。誰にも言わないから安心しろ。さあ、いい加減腹が減った。すぐに宴会だ」
 言い捨てるや一人、馬を走らせてしまった。急速に明るさが失われてゆく風景の中に、すぐに溶け込んでしまった。それをキジスランは、見送れただろうか。
 鞍上のまま、右手に剣を下げたまま、彼は全く動かなかった。ただ義兄の去っていった方向に無言で顔を向けていた。
「公子。何を! 一体何を考えているのです!
 この重要な時期にあんな行動をとるなんて、もし取り返しのつかない展開となったらどうするつもりだったっ。ここに至るのに多くの人間が大変な努力を重ねてきたというのに、全て無駄にする気なのか! 何を考えている!」
 さしもの悠然も崩れたスレーイデの怒声も、聞こえたのだろうか。
 表情が消えてしまい、何を感じているのか判らなかった。この後泣き出すのか? 笑い出すのか? どちらにも見えて、どちらとも判らなった。
 ドーライが、静かな声で語り掛けた。
「天使が、肩から離れてしまいましたか?」
 キジスランの喉から漏れる息が、少しずつ荒くなっていった。やがて歪み出し、嗚咽を帯び出していった。視線も表情も動かず、でも嗚咽が始まっていた。
 風向きが変わり出していた。気付くと鳥の声も羊の声も消えて、夜が始まっていた。

          ・         ・         ・

 ザフラ城館の上で、時間と現実は淀まずに進んでゆく。

 ラーヌン公カイバートが戻るや、城館ではすぐに饗宴が始められた。
本来ならば宴会は、会議終了後に速やかに催す予定だった。それが、双方の主客がいきなり外出してしまい、始められなくなってしまったのだ。
(まずいぞ……。饗宴が後ろ倒しに伸びると、照明の松明と油が足りなくなるぞ、極めてまずいぞ……!)
 進行役はまたも蒼ざめる。胃の痛む思いで二人の帰還を待ち続け、ようやくカイバート公が戻ってきて発した『キジスランは散歩で遅れるが、先に宴会を始めていいぞ』との言葉に即座、大慌てで開始させたのだ。
 カイバートは、いつもの通りだった。
 いつもの通り、宴会の間中、上機嫌そのものだった。この夜の為に工夫された料理が綿密に順序立てて運ばれる予定だったものを、
「皆、会談を成功に導いてくれた事に、心から感謝する。今は存分に空腹を満たして、楽しんでくれ。食べたいものがあったら直ぐに料理させるから言ってくれ」
それを無視し、勝手に大声で料理を勧めてゆく。
「この辺は羊が美味いぞ。どうだ? すぐに焼かせるから食べてくれ。他にも何かあるか? 欲しいものを欲しいだけ作らせるぞ。遠慮するな、どんどん言えっ」
 料理番・応接役・進行役の胃が焼けるような事を、笑顔で言い続ける。勿論、葡萄酒も溢れるように勧め続ける。自らも飲み続け、食べ続ける。列席者達と思う存分喋り合い、そして笑う。
 彼にとって、世界は文句無く愉しみの場なのだ。自分が挑み、思い通りに進めてゆく、最高に愉しい遊戯場なのだ。今夜もその中心に、彼は立っているのだ。
 ……
 その宴席に、キジスランは居なかった。
 宵闇の中ザフラ城館に戻った時、彼からはすでに表情が消えていた。文字通り、表情を失ってしまった。周りを無視し、宴席への出席を促す城館関係者などこの世に存在しないかのよう、一言も発しなかった。
 いや。一言だけは言った。
「あの部屋へは戻らない。変えろ」
「――え? いえ……はい?」
(また部屋の振り分けをし直させるのか? 到着の大幅遅刻から始まって、どれ程面倒をかけるんだ、この赤毛公子)
 奇異な要求に応接役は戸惑う以上に、舌打ちの感を覚えた。
 ――長い一夜。
 何も無かった。
 イーラ国の事務官と換えた小部屋に伏し、しかしキジスランは眠る事も無かった。表情のない顔の奥に、感情も思考もなかった。闇の中、ただ漠然と時間が長いと感じていた。そして。
 それをいつ、どの様に受け取ったのか覚えていない。
 気づいた時、右の掌の中に小さな紙片を握っていた。
『先ほど、言い忘れてしまった。
 貴様が白羊城から出奔する際、朝食の杯に毒が仕込まれていることを教えてくれた御陰で、私は命拾いした。
 貴様に、そして諸聖人に礼を言う』
 これが、あの男の素の気持ちなのか? それとも、壮大な皮肉なのか?
 解らない。自分を憎悪しているのかも、嘲笑しているのかも。好意を示しているのかも解らない。いや。それとももう自分の存在など、何も感じていないのか? たった今も饗宴の場で面白愉しく、高笑いしているのか?
 時折通廊から聞こえてくる人々の喋り声や物音が、遠い。庭から水路の水音も聞こえているようだが、それもよく解らない。
 狭い部屋の闇。キジスランには何もなかった。ただ現実が流れていた。
 ……
 派手派手しい夜宴は、客人達が迷惑を覚えるほどに長く続き、深夜を回った頃にようやく終わった。
 そして宴会が終っても、バンツィ共和国外交官ハ―リジュは起き続けていた。
 彼は、拍子抜けするほど素早くあっさりと終了した会談に、どこか訝しさを覚えていた。だがとにかく、この機を逃さなかった。他の客人達のように、寝台に倒れ込んで寝る事はなく、一睡もすることなく、眉一つ動かすことなく、協定の試案に手を加えてゆく。完璧な協定書面を練り上げてゆく。そして翌朝にはこれを、宴会疲れの残る列席者全員に素早く提示をし、確認をさせてしまう。
 こうして、ハ―リジュは協定の正式締結に成功した。これによって、今後のラーヌン公の軍事行動に大幅な制限をかけさせることに成功したのだった。

 午前。肌寒い灰色の空の下。
 職務を果たした出席者達は、それぞれに城館を出立していった。
 
       ・         ・        ・

 ……それは、そろそろ日没が近づいた頃合いだった。
 客人達はとっくにザフラ城館を去っていた。進行役の老人は疲労と安堵の気持ちを携えながら、館内の後片付けを指揮していた。
 胃が絞られるような一日半だったが、ともかくも会談は成功した。それに矜持を覚える。白羊城に戻ればきっと皆が自分の仕事を称賛すると思うと、青臭くはあっても素直な喜びを覚える。
 どこか心地良さを感じながら、彼は男達にあれこれと指示を出してゆく。早々に片づけを終えるべく、次々順々と部屋を回ってゆく。最後に、玄関にいまだ残されている豪勢な調度品の運び出しを命じる。そのまま玄関を抜け出て正面門の周囲を見渡し――、
 その時だ。――意外な物を見つけた。
 門から連なる路の先。黄色く染まった林の手前に、馬車が止まっている。
 ただ止まっている。なぜ? 気になる。誰だ?
 彼は門を抜け、馬車へと近づいてゆく。それが白羊城の馬車であることに気づく。先刻に出立した誰かが戻ってきたのか?
「タリア夫人?」
 ちょっと驚いた。薄暗い馬車の中に、タリア夫人が独りで座っていたのだ。
「突然どうなさいました? なぜ、ザフラ城館に?」
「……」
 薄暗く、顔が良く見えない。
「タリア様。もう城館にはどなたも残っていません。すでに皆様、白羊城へ帰城されてしまいましたが」
「……。ええ。街道の途中で、すれ違いました」
「それなのになぜここに?」
「……」
「せっかくいらっしゃるのならば、もう少しお早ければよろしかったのに。
 キジスラン公子もいらしてましたが、昼前にはここを出立しました。滞在中はずっと体調がお悪そうで、少し気の毒でした。スレーイデ隊長もいましたよ。覚えていらっしゃいますか? かつてアイバース公より信頼を得ていた傭兵指揮官です。今、公子はスレーイデ殿と共に過ごしていらっしゃるそうです」
「……」
 それでも答えない。良く見えないが、固くて暗い表情のようだ。
 まあそれも、おかしくはない。この女性は白羊城に嫁いできた時からずっと、場慣れをしない。おどおどと人目を避けてばかりだ。夫が亡くなり、さらに華やかな新公妃が嫁いできてからは、城内の居場所の無さを自覚したのか、いつでも、いつだって一層に陰気感を帯びた印象だ。
そんな事を思い出しながら、あらためて薄暗い車内を見、
 進行役はちょっと驚いた。
 いつもと違う。夫人は、激しい感情を込めてザフラ城館を見ていたのだ。いつもの気弱さからは程遠い、貪欲すら感じさせる眼で、喰らい付くように見ていたのだ。
「タリア夫人?」
 その強い眼が、初めて自分を見た。
「中に入れてもらえます?」
「館に? 勿論構いませんが、ただ、今は片付けの真最中でして、騒々しくて落ち着かないかと……。タリア様、繰り返しますが、なぜこのように急な訪問を?」
「今夜はここに泊まります」
「え? どうして?」
 思わず舌打ちしかける。なんで急にそんな面倒な事を言い出すんだ。さっさと片付けを終えて、一刻も早く白羊城に帰りたかったものを。
 と思ったと同時、気付いた。この公妃が自ら強い要求を出す場面に、自分は始めて接した。なぜだ? 今日、なぜ? そう言えば。
“タリア公妃は以前、赤毛の公子と――”。
 以前、洗濯場の女達が下品な噂に夢中になっていたのを思い出した。まさかそれが関係しているのか? いや。いくら何でもまさか。
 ほんの少しだけ、口端を上げた。揶揄をちらつかせて言ってみた。
「ご興味がおありならば、キジスラン公子の御様子について細かくお話しましょうか?」
「――。今。何ですって?」
 怒りの眼と凄みの口調だ。
 びっくりと驚く。彼は激しく後悔し、無言の一礼のみを返した。
「早く中へ案内して」
「――承知しました」
 もう余計な口は利かない。最後にまた面倒が起きてしまったと思いながら、進行役は彼女をザフラ城館へと招き入れた。

           ・          ・         ・

 ザフラ城館での外交会談は成功した。ティドリア域は再び均衡を取り戻し、危機は取り除かれたと、ほとんどがそう思った。
 だが。運命の女神は、まだ眠りにつく気は無いようだ。
 それどころか、さらに嘲笑の口許を引き上げたようだ。


【 その五日後に続く 】
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