第17話

文字数 14,305文字

17・ その半年後

 柔らかな布団の中、今朝もキジスランは小さな物音で目を覚ました。
「お目覚めですか? キジスラン様」
 今朝も、柑橘の香りが漂う。小奇麗な肢体に小奇麗な衣服を纏った小間使いの若者が、入室して来る。
 運んできたレモン水を色ガラスの杯に注ぎ、枕元の螺鈿装飾の小卓の上に置く。次に、に向かってゆき、鎧戸を開けて、日よけ布を下ろしてゆく。また今朝も室内には、清浄な空気と小鳥のさえずりが満ちてゆく。
「お腹は空いていらっしゃいますか? すぐにお食事にしますか?」
「――。いや。いい」
 今朝も、いつもと何も変わらない。そう漠然と思いながら寝台で身を起こした時、自分の胸の大きな火傷の痕が見えた。
 今日も、何も無い。背後遠くに監視の男達を引き連れて、ただ邸内を独り歩くだけだろう。捕囚である自分は何も知らされず、何もやる事は無く、何も考える事も出来ず、一日という途方もなく長い時間をただ、無為に過ごすだけだろう。
 水を飲みこむ。小鳥の声が耳につく。何かを考えようとして、何も思いつかない。長い長い無為の時間の中、感覚は少しずつ、坂を落ちるように鈍くなってゆく。何を感じればよいのか、良く解らない。
「お早うございます」
 ほんの少しだけ、小さな変化があった。扉口に、ここ一月ほど姿を見せていなかったドーライが立っていた。
「キジスラン公子、長くのご無沙汰となり失礼いたしました。教王猊下・副教王猊下の許に外国の要人が訪問しており、そちらの任務に当たっていました。お詫び致します」
 生真面目な所作で礼を垂れ、自分を見据える。いつもの様に決して変わらない落ち着きと誠実さを感じさせる。――いや、
 いつもでは無い。あの時は違った。漠然の感覚の中で、ぼんやりと記憶が呼び起こされる。あの時だけは違っていたと。あの時は、彼は、心底からの狼狽と恐怖を伝える酷い顔になっていたと。
 ……あの時。
 目を覚ますと、ドーライが自分を見ていた。いつもの落ち着きぶりとは余りにかけ離れた、激しい緊張に酷く強張った顔だと思った。いや。緊張では収まらなかった。明確な恐怖感を示す、凄まじい顔だった。なぜ? 何があった?
 訊ねようと寝台で半身を起こした瞬間、絶句する。胸の焼け付く激痛に思わず身を屈めた、その刹那だった。おぞけ立つ恐怖の記憶がよみがえった。叫んだ。
「止めろ――――!」
「公子……。大丈夫です。全て終わっています」
「何が! ルシドはっ、何が――!」
「今はもう、大丈夫ですから……。今、お話を――、
お話して、良いですか……? お話を、します。昨日の、――あの時に――あの時の事を、お話しますから……」
 ドーライの声が、かすれている。懸命に自らを落ち着かせようとしているのが伝わる。窓からの小鳥の鳴き声だけが妙に大きく耳に付いたのを、強く覚えている。
「あの時……貴方様が、――尋問に、気を失った時、あの時。あの従者が獣のように喚いて――、『殺す! 皆を殺す!』と……」
「ルシドが――」
「はい……。そう、狂ったように叫び、いきなり黙り、そしてあの男を……ザカーリ猊下の間者を睨んで……」
 声がかすれている。早い息遣いの音が聞こえてる。動揺を殺し、続きを何とか落ち着いて語ろうとして、その為に手間を取っている。
「ただ、それだけで……相手を、殺してしまいました」
「――」
「さらに、獄吏の二人も睨みつけ出した。一人は即座に部屋から逃げ、もう一人は、間者の男と同様に……全く一瞬で神の御許へ……。
そして、今度は――、私を睨んだのですが――」
 言葉が詰まる。その時の心底の恐怖を思い出して苛まれている。突然、目の前で二人の人間が死ぬという、全く理屈の通らない悪魔の力を見せつけられて。次には自身の順番となり、死の淵にまで追い詰められて。
「ですが――。神の御意思で……私は――」
「……何が――起こった?」
「その時、いきなりに、従者は動かなくなりました……」
「ルシドは、死んだのか」
「いえ……。突然、気を失ったかもしくは眠りに落ちたか――解かりません。ただ、突然眼を閉じて、動かなくなりました。
 私は、諸聖人の御加護の許に、命をつなぐ事が出来ました。神よ。感謝を……感謝を致します」
「ルシドは?」
「今は、獄に戻されています。目隠しをされて、厳重な拘禁を受けています。
 彼らは即座にも真の魔物として火刑に処したいのですが……、それでは、猊下の絵の行方が……」
「……」
「貴方様の従者は、魔物なのですか……? なぜ……睨むだけで人を殺せるなど……」
 室内に穏やかな陽が射し込んでいた。遠くで鳥が甲高く鳴いていた。赤くただれた胸の火傷の傷がズキズキと、脈打つように神経を苛み、その胸でふっと思った。
“もし、その時。その場で。もし、――ルシドが死んでいれば”。
 そうすれば、……少なくとも、取り敢えず、少なくとも、自分は、あのおぞましい執着から解放されたものを。
「とにかく――、貴方様はこの先、安全ですので……ご安心下さい……」
 安全とは、どういう意味なのだろう。このまま、ここに閉じ込められ続けるという事なのだろうか。ずっと。いつまで?
 熱く脈打つ激しい痛みと共に、そう覚えた。そろそろ自分の命運も尽きたと、冷静に覚えた。おそらくもう、ここから出られない。機を見て、殺される。ここに来て一年を経た後には、殺さる。そう冷めた様に判じた。
 もう白羊城には戻れないと、覚えた。
 ……
 今日も、キジスランは着替えを始める。
 その間、ドーライは窓の外を見ている。その横顔からは、半年前の恐怖と混乱は消えている。静かで穏やかで、どこか安心感を覚えさせる横顔が、柔らかい春の陽射しを受けている。
 胴着の紐を閉め終えて、そのまま長く沈黙し、それらからキジスランは感情無く、かつて何度も繰り返した質問をまたする。
「ルシドは。今」
「貴方様の従者に、変わりはありません。拘束をされたままです。拷問は受けていません。獄吏達も極力関わりたくない様子で、必要最小限にのみの接触をしている状態です。ただ、投獄されているという状況です」
「貴方は、武人らしくない」
 唐突の話題の転換に、ドーライは振り向いた。
「副教王の親衛をする様な武人とは、思えない気がする。武人に必要とされる荒々しさとか冷酷さからはかけ離れている印象だ」
 なぜだろう。キジスランはそう訊ねてみたくなった。なぜか思い出していた。あの半年前の地獄の場で彼が呟いた、“神よ、憐みたまえ”。
「なぜ武人なのか、少し不思議だ」
「――。はい。そうかも知れません。
 私は、ザカーリ猊下の親衛という重要な職務に就いてはいますが、お恥ずかしい話ながら実は、暴力行為の場が苦手です。ですから、先日のあのような拷問の場に立ち会うことなど私――」
 はっと言葉を止める。
「申し訳ありません。不快な事を思い出させてしまいました」
「もう、いい。――いい。いいから。こちらこそ、私的な事を訊いて失礼だったかな?」
「いいえ。そんな事はありません。
 元々は私は、聖職を目指していました。ザカーリ猊下の許にも、侍者として従事するはずだったのですが、たまたま私は武術と剣術を心得ており、それが有難くも猊下に認められて護衛の任務に就くことになりました」
「今からでも、聖職者に成りたいと思っているのか?」
「私はとっくの昔に成年を超えています。今から聖職者としての学習と修行を再開させても、それを終えるころには、私自身が天国の門の前に立っているでしょうから」
 珍しい。大人しい冗句を言って笑う。つられるようにキジスランもまた、少しだけ笑った。笑えた。
 なぜ、笑えるのだろう。半年の間に鈍く失われていった感情と感覚の中で。そしてなぜ、こんな意味の無い質問をしているのだろう。
 自分は、誰かと話がしたいのだろうか。無駄な話がしたいのだろうか。もう何も見い出せず死を待つだけの緩やかな時間に、何か、何でも無いものに触れたいのだろうか。少しはまだ感情が残っていたのだろうか。つまり――怖いという感情は。
「今日、一緒に食事をとってくれないか」
 ドーライが怪訝の顔を示す。もう何を思われてもいい。保つべき自己は不要だ。
「話し相手になって欲しい。貴方の話を聞きたい。色々と聞かせて欲しい」
「どうなさいました?」
「ただ、会話をしたい。それだけだ。それだけをしたい。その後はどうなってもよい。“のちの事は神の叡智にお任せをする”」
「いいえ。違います。“人がすべき全てを果たしたのちの事は、神の叡智にお任せする”です。聖典のクトブ章の最終の一文の」
「……」
「貴方様にはまだ、やるべき事があるのでは」
「――」
 いいや。もう無い。ぼやけた思考と感情に蝕まれて死を待つだけだ。白羊城にも戻ることもなく、ただ死を待つだけだ。そうは言わず、代わりに笑おうとして上手くいかなかった。その時だった。
「貴方様に、ご面会したいという方が来ています。ザカーリ猊下の代理の方です」
 一瞬、息が滞る。胸の傷に反射の様に痛感が走る。ドーライは素早く察した。
「いいえ、違います。貴方様宛の伝言を預かったという方だそうです。貴方様とお話をしたいだけだそうです。危害を加えられることは有りません。安心して下さい、純粋な客人です」
「――」
「神の御名において、真実です。“真実の許には光あれ”」
 鈍りながら薄れてゆく感情なのに、恐怖感だけは失われない。それを抑え込もうと、何かを考えようとする。なのにただ、聖句を繰り返す。たった今の。クトブ章の、最終の。
“人がすべき全てを果たしたのちの事は”――

              ・      ・      ・

 春を迎えると、海の色はすぐに変わる。
 太陽が高い位置から貫き、海面を透き通った紺碧に染める。波打ち際から水平線までの全面が、きらめいた光を帯びる。
 風もまた変わる。湿気の消えた乾いた質感で、海の側から緩く吹き抜ける。光を帯び、清涼を帯び、青い海面をかすめて陸へと吹き寄せる。柔らかな波の寄せる砂浜に向かって正面から吹き付ける。
「海だっ」
 風の中に大声が響いた。
「海だ! 本当に海だっ」
 カイバートは夢中で走り出す。漁網を整えている漁師達の前を、砂を蹴って横切る。真っ直ぐに波打ち際に達するや、短靴が濡れるのも構わず海に踏み込んでいく。丸切り子供のよう、生まれて初めて見る海に興奮し、はしゃいだ大声を上げて水を蹴り上げて遊び始めたのだ。
「止めて下さいよ、はしゃぐなんて恥ずかしいですよ。人が見てますよ」
 後をついてきたマラクが、あきれ顔で言った。だがカイバートは聞いてない。波打ち際の浅い海を夢中走り回る。明るい陽射しの中に、白い飛沫と青い海面が光を返している。
「ほら、いつまで遊んでるんですかっ、早く行きましょうよ」
 上空には、真っ青の空が突き抜けている。緩い海風の中を、何羽もの海鳥達が風に乗り、円を描いて舞っている。が、どこからともなく一羽の鷹が現れた途端、あっという間、甲高い鳴き声を上げて散らばってゆく。
「だから、城では皆が待ってますよっ、人が見てますよっ、ほら、早くっ」
 再びマラクが叫んだ時だ。
 突然、上空の鷹が驚く速さで急降下し、二人の頭上のすぐを過った。両者はびっくりして追い見る。鷹はそのまま軌跡を引く様に上昇し、右手の崖へ向かう。
 海際にそそり立っている断崖の中腹には、へばりつく鳥の巣のような城砦があった。その城砦の海へとせり出した物見テラスには何かの人々が立っており、こちらを見下ろしていた。風を切りながら何度か宙を回った鷹は、やがてその中の一人の腕へと帰っていった。
 ここまでを、カイバートは見続けた。テラスからの人も、カイバートを見ていた。
 彼は初めて彼女と、目を合わせることになった。

           ・         ・          ・

 長い通廊の先にある書庫へと向かってゆく時、キジスランは自分の体が細かく震えているのに気付いた。
 来客という単語が、半年前を思い出させる。あの時の凄まじい苦痛を思い出し、胸の火傷痕がチリチリと疼き出す。どうしても恐怖感は抑えきれない。部屋の浅彫り装飾の扉の前に達した時には、足が止まり、呼吸が浅くなり、速まり出してゆく。
「私の同席も許可されています。私が、貴方様の安全を護ります」
 横からドーライが言った。
「天使は貴方様の肩の上に」
 自分を見て、はっきりと言った。ゆっくりと扉を開けた。
 書架独特の埃の臭いが鼻をかすめる。薄暗い空間の中、唯一光を取り入れた窓際の書見台の許に、一人の者が腰かけ、分厚い書物を読書していた。
 窓の方を向いており、顔が分からない。分らない事が恐怖を呼び、怖くて部屋に入れない。――と。本から目を上げ、こちらを振り見た。その顔を視た瞬間、キジスランの息は押し潰れた。
(カイバートがここを見つけた!)
「御無事でよかった。ずっと心配をしていました」
「……え?」
「貴方が突然に行方不明になられ、さらに大罪人と断罪された事を、ずっと心配をしていましたよ」
 言葉を良く理解できない。だがスレーイデは、昔通りの笑顔を示していた。ドーライが再び天使は肩に有りと聖句を呟いたのは聞こえ、キジスランは詰まった喉から小さな息を吐くことが出来た。
 かつてムアザフ・アイバース公からの絶大な信任を得ていた傭兵隊長・スレーイデは、印象を全く変えていなかった。
 落ち着いた色調の、いかにも質の良い織の砂色の服に、よく手入れをされた革の短靴を履いている。髪は丁寧に櫛けずられ、指には家紋が刻まれ緑石の指輪をはめ、身にはほんの僅かの芳香をまとっている。それらに全てに包まれて、いかにも品位のある眼で自分に語りかけて来る。
「大丈夫ですよ。私はラーヌン新公の使者ではありません。兵も連れて来ていませんから」
「では。なぜ……。どうして私がここにいると……」
「ザカーリ猊下が教えて下さりました」
「……。え?」
「ここはザカーリ猊下の別邸だそうですね。先程から蔵書を拝見していましたが、さすがとしか言いようのない収集だ。貴重本をふんだんに揃えられている。
 貴方もここにいれば、素晴らしい読書三昧の時間を送らますね」
「……。いえ……」
「室内の内装や調度品も、見事なものだ。それに、この広大な庭園も素晴らしい。窓から見えるだけでも、美しさと趣味の良さが分かる。
キジスラン公子、よろしかったら庭を案内してもらえませんか? 散歩に行きましょう」
 スレーイデは書見台に乗せていた貴重な彩色本を閉じると、もう立ち上がっていた。こちらまで歩む出て来ると、気さくにポンとキジスランの肩を叩いた。共に室外へ出る事を、穏やかに促した。

             ・       ・       ・

 カイバートは、替えの靴を持って来なかった。だからたっぷり濡れてしまった靴のままで、ガルビーヤ城内の急階段を登っていた。
 先ほど城を見上げた時に見つけた物見のテラスを、彼は一目で気に入ってしまった。だから城に入城した途端、ガルビーヤ領主との面会はそこでやりたいと、注文を出してしまった。ためにカイバート自身も同行者達も、延々と城内の長い急階段を刻まねばならなくなってしまった。
 今回のガルビーヤ訪問に、彼はごく少人数しか同行させなかった。数人の護衛と、数人の使用人と、文官二人と、マラク少年と。
 マラクは――。
 輝く白の長衣をまとったカイバート公の聖者の様な温情で獄から出られた罪人・マラクは、その直後、自分の知っている事を全て、直接、大恩人に語っていった。知っている事だけどころか知らない事についても、知ってる情報を基に、的確な推測をもって話していった。
 何回か繰り返された尋問の時間は、マラクという少年が持つ並外れた利発と行動力それに陽性の質を、伝える事になった。かつて弟公子もそうだったように、兄公もまたすぐに、この少年に魅力を覚える事になる。いつの間にか尋問ではなく普通の会話を交わすようになり、さらにいつの間にか、気付くと、カイバートは彼を自分の横に置いて、細かな雑務をさせるようになっていった。
「こういう時は、相手方の歓迎手法に任せるべきですよ」
 延々と続く石段を、主君に二段遅れてマラクはついてゆく。
「いきなり“テラスで接見したい”なんて言い出して。訪問者の側から場所の指定を求めるなんて、普通有り得ませんよ」
「別にいいだろう? あのテラスからなら海が見通せる。一刻も早く海の全景を見渡してみたいだけだ」
「後で見に行けば良いじゃないですか。歓迎の食事の後とかにね。今頃城の人達は歓待の予定が変わって大慌てしてますよ。明らかに先方に迷惑をかけていますよ、貴方は」
「細かい事を言うな」
「俺にも迷惑ですよ。長い旅程が終わってやっとガルビーヤ城に着いたっていうのに、またこんなに階段を登らせるなんて。有り得ないですよ。本当に聖者にかけて、まずは地階の部屋でゆっくり一休みさせてもらいたいのに。お腹も空いてるのに」
「黙れ。文句が多すぎだぞ。その分食事が美味くなるとでも思え」
 カイバートは上機嫌で聞き流しながら、最上階のテラスへと、急階段を登ってゆく。ようやく先に終わりが見え出し、城の案内役がこちらですとテラスへの出入り口を指差した時だ。
 またカイバートは走った。濡れた靴のまま、真昼の光があふれるテラスへ飛び込み、海を見下ろすテラスの縁へと素早く走った。
「どうせまた、海だ!と大騒ぎするんでしょう?」
 ぼやくように後ろからマラクが叫ぶ。が。
「――」
 カイバートは無言だった。
 大量の光に眩しさを示しながら、ただ水平線を捕えていた。いつでも大胆な感情を表わすはずの顔が、静かになった。憧憬するような、なのにどこか畏怖するかのような、それらが絡み合った複雑な機微を示して、潮風の中、普段からは大きくかけ離れた顔になっていた。
「『豊穣の海』という呼び方をするのですよ。ここでは」
 振り返る。女性がいた。
「ここガルビーヤでは、昔から海で漁をし、また船で交易に出ることで富を得てきました。だから私達は、海に対してはいつも『恵みの・豊穣の』という言葉を付けて呼んでいます」
 背の高い肢体を、青い衣装で包んでいた。そしてその圧倒的な美貌が、物怖じる事なく真っ直ぐにカイバートを見とらえていた。
「ずっと海をご覧になってましたね。先ほども砂浜で海に入って遊んでいらしたし、よほど豊穣の海が好きなのですね」
「海を初めて見ました。こんなに綺麗で、しかもこんなに無限に広がっているとは思わなかった。だから、この向こうはどうなっているのかと思いました」
「ここの港から出航すれば、アレマン域に。アレマンの海岸に沿ってそのまま西に行けば、大海がずっと広がっています」
「ずっとですか?」
「ええ。豊穣の海はずっとずっと、どこまでもどこまでも広がっています」
 ガルビーヤ家のマテイラが、にっこり笑う。まるで花が咲くかのよう、光が輝くような笑顔だ。
「広い、豊かな海は私達のかけがえのない宝です。貴方様もそう思われたのでしょう? だから今も、とても深い眼で見つめていらしたのでしょう?」
 その一言に、カイバートもまた我慢できないかのよう、彼女に向けて心から嬉しそうに笑いかけてしまった。
 階段口からゆっくりと、ガルビーヤ領主・マル卿が現れて来た。
 老齢の体を、両側から使用人に支えられて歩いている。それでも長い階段は困難だったのだろう。息を辛そうに吐き、本当にゆっくりとラーヌン公カイバートの前まで進み出てくる。
「初めてお目通りいたします。ラーヌン新公殿。当地の宗主マルです。遠路はるばるの旅程を経てお越しいただき、有難うございます。心から歓迎を致します」
 いかにも礼節を込めて一礼を垂れたのだ。
「如何ですか。当地の最初の印象は」
「素晴らしい。本当に、海が素晴らしい。それに、貴家の御自慢の令嬢の美しさも、海と同じほどに素晴らしい」
 真っ直ぐマテイラを見ながら言う。それにマテイラは気後れたり恥ずかしがったりすることもなく素直に笑み返す。
 どうぞ卓へ、地元で獲れた魚とそれに葡萄酒を是非味わって頂きたい、とのマル卿の言葉に、三者はそろって海を見下す場に設えられた卓に座した。ラーヌン新公とガルビーヤ宗主の孫娘は、卓越しに位置する。両者の笑顔が、陽射しと海風の中に映えている。
 一方テラスの隅では、文官達と共に別卓についたマラクが、この光景をじっと見ていた。
(なるほどね)
 次々と給仕達が、地元の魚料理と地元の白葡萄酒を運んでくる。それを饗応しながら、カイバートはしきりと質問を投げかけ、それにまったく物おじせずにマテイラ嬢は答えていく。その態とその圧巻の美貌を見ながら、マラクは納得する。
(これは、カイバート様が目を付けるはずだよ。ティドリア域中でも屈指の美人っていう評判の通りだよ。しかも明るくてはっきりした気質で、これはもう文句無く、カイバート様の好みだよ。しかも――)
 マラクの目が、テラスの先の海へと移った。透き通った青と緑を混ぜた海面が真昼の陽射しを受けて、きらきら光を返している。
(海だものね。カイバート様がしょっちゅう口にしてる『外の世界へ』の出入口だものね。欲しくてたまらなかったこの海辺の領地が手に入るのだものね)
 眼に眩し過ぎる陽射しの下に、歓談は途絶える事無く進んでいる。ちょうどカイバートが辛口の白葡萄酒の二杯目を飲み終えた頃だ。
「マテイラ。海鳥達がうるさい。追い払ってくれないか」
 祖父に頼まれると、マテイラは立ち上がった。テラスの隅に設えられた止り木に留まっている鷹の許に行く。
「お願いね。うるさい鳥を黙らせてきて。頼んだわよ」
 と、優しく声を掛けながら革手袋を付けて右腕に留まらせる。テラスの端まで戻ると、透き通ったトビ色の眼で海を見た。真っ青の空へと向かって、勢いをつけて鷹を飛ばした。
 その様を、カイバートが夢中で見入る。彼女のしなやかに健康的な体躯、真っ直ぐに鷹を見続ける眼、あっという間に海鳥達が散らばっていくのを満足げに見守る美しい表情の、その全てに見入ってしまっている。
(これは決まったな。この求婚は叶うな。この二人は婚姻するな。そんなの、聖者じゃなくたって判るよ)
 塩とレモンをかけた焼き魚に食らいつきながら、マラクは当然のようにそう思った。やっぱり魚より肉の方が美味いよなあと思うのと同じくらい、確実にそう思った。

        ・            ・           ・

 春の訪れに太陽は高く、陽射しは強さを感じる。朝も遅い時間なのに、小鳥達が賑やかにさえずっている。
 空気はたっぷりと花の香を含んでいる。庭園には一面に色とりどりの花が咲き乱れている。その花の中に設けられた煉瓦敷の小道を、キジスランとスレーイデは並んでゆっくりと歩んでゆく。
「ザカーリ猊下の異国好みは有名ですが、確かに南国の果樹が多く植樹されていますね。かと思うと、野の花もごく自然に添えられて、上手く調和している。猊下は良い腕の庭師をお抱えの様だ」
 スレーイデは優雅に言った。ちょうど盛りの菜花の鮮やかな黄色の中を歩いている時だ。キジスランは、
「……」
答えられない。まだ相手の訪問の意図が全く読めず、だから怖くて答えられない。聞きたい事なら幾らでもあるのに、……カイバートの動向、……ラーヌンの現状、……ザカーリの意図、……ルシドの無事、……マラクの今、……これらの全て、知りたくて知りたくて、なぜ今日唐突にやって来たのかを知りたくてしょうがないのに、でも怖くて、勇気が持てなくて訊ねられない。
 と、スレーイデの足が止まった。
「ラーヌンの今をお知りになりたいでしょう?」
 振り向き、心を読んだかのように言った。
「こちらに逗留されてから、外部の事を何も知らされていないそうですね。それも今日までです。猊下が許可を下されました。これから貴方は、必要な事は何でも知ることが出来ます」
「……、それは、……?」
「新ラーヌン公カイバート殿は、驚くべき精力を示しています」
 なぜ? “天使は肩に居る”のか?
 そして、長い長い空白の果てに耳に響いた、カイバートという単語。
「少しずつご説明しましょう。あちらに」
 一面の菜花の向こうにある、藤棚の下のベンチまで歩く。白い花と芽吹いて間もない若葉が作る日陰に、スレーイデが気持ち良さそうに息を突く。小間使いの少年が冷たいレモン水を運んで来たのを、有難うと述べてからゆっくりと飲んでゆく。
 ドーライは、少し距離を置いて柑橘樹の陰に立っていた。周囲では、小鳥が賑やかにさえずっていた。場に長い沈黙が続き、キジスランはこれからスレーイデがどんな現実を話すのかに不安を覚えている。
「ザカーリ猊下は、カイバート公の動向を危惧しています」
 レモン水の杯を手にしたまま、語り出す。
「カイバート公は、ラーヌン公に登位されてからの僅か一年で、すでに三回の軍事遠征を行っています。勿論、どれも小規模の遠征ではありますが、それにしてもこの頻度は異常です。しかも二回は軍事的勝利、一回は交渉による勝利と、一度も敗戦を喫していません。この先のカイバート公の動向が、極めて気になるところです」
“これがラーヌン公国だ”――。
「そして、キジスラン殿。この件を強く注目したのが、バンツィ共和国です。あの国は今、カイバート公の動向の徹底的に注視し、有能な外交官を通じて情報を収集し、その上で当件の情報共有を昨年、リンザン教国に申し出てきました。
『小さな単位ではあっても、カイバート新公は確実に公国の領土を拡張させている』。この現実に今、バンツィ共和国もリンザン教国も、深い危惧を覚えています」
“これがティドリア域だ、その向こうにも、世界はずっと広がっている”。
 あの日。あの夕刻の光の中の、あの言葉。……あの男は、あの時の想いを貫いている。その為に、動いている。
「……。カイバートは、動いている」
「ええ。あの方は遠慮無しの体で行動をしています。ですから例えば、もしも幸運の天使が彼の肩に舞い降りたならば、彼は今後、今のティドリア域が保っている均衡をも乱しかねません」
「天使がいなくても、あの男は行う」
 その言葉に、スレーイデがにこりと笑った。
「そうでしょうね。
 今回の件ではリンザン教国は、ザカーリ猊下が窓口となられる形でバンツィ共和国との協力体制を推進させています。現在の状況では、両国ともまだ厳重な注視の段階ですが、しかし、もしこのままカイバート公が他国領への侵食を進めていくようであれば――」
 その先を、スレーイデは言わなかった。上質の薄ガラスの杯から再び、ゆっくりとレモン水を飲んでゆく。
 落ち着いた横顔が、揺れ動く木漏れ日の下に映えている。ピリピリとした現実を語っているというのに、その表情はいかにも余裕を感じさせた。静謐と品性を感じさせた。
「――。貴方は、白羊城での傭兵の仕事を辞めたのか?」
 横顔が振り向いて、自分を見る。
「貴方が傭兵業に携わっているというのが、以前から不思議だった。貴方は由緒を誇る名家の出自と聞いているのに」
「少しだけ、私個人と、私の一族について話をしてもよろしいですか?」
 スレーイデは、ガラス杯をタイル張りの小卓の上に置く。藤棚の下には、涼やかな緩い風が吹いている。
「我が一族ですが、十二代の長きにわたりイーラ国の東部に隣接する小領の宗主の座にありました。
 が、お恥ずかしい話ですが、十一代目である私の父の時代に近隣領主の謀った策略に陥り、領地も財も全て失ってしまいました。生計の手段すら失ってしまいましだ。
 しかし幸いなことに、私には傭兵将として高名なジャクム隊長と旧縁があり、不慣れではありますが傭兵業に携わることになりました。そこからアイバース公とも知り合いとなり、白羊城に出入りをするようになり、そして、貴方と懇意になれたという訳ですよ」
「――」
「白羊城に通っていた頃、あの頃――、
 アイバース殿はしきりと私に告げてこられましたよ。自分の息子の人嫌いが心配だと。だから是非息子の話し相手になって欲しいとね。御父上は、本当に貴方様の事を気にかけ、心配されていました、キジスラン殿」
「……。そうですか」
 二人共がほんの少しだけ、ムアザフ・アイバースの時代を思い出した。安定した、それぞれがそれぞれの形で幸福を覚えていた白羊城の時代を思い、それが遠い過去になった事を思った。
 緩い風が抜ける。涼やかさを含んだ空気が、花の香を運んで過ぎてゆく。眩しく春の陽をはね返す花を見ながら、キジスランは問うた。
「貴方は今も、白羊城に居るのか?」
「いいえ。私はカイバート新公が登位直後から採っていった拡大政策に疑問を覚えたので、白羊城を出ました。今は、リンザン教国の宮殿に逗留しています」
「リンザン宮殿に逗留?」
「ええ。私の一族は、四代前から『銀の山羊騎士団』の団員ですので」
「銀の山羊騎士団――?」
 耳慣れない奇異な単語に、子供のように素直に疑問の顔をさらしてしまう。スレーイデがくすりと笑んだ。
「御存じありませんでしたか。まあ確かにリンザン教国内での、かなり閉鎖的な団体ですからね。――ほら、葡萄酒と軽食の皿が運ばれてきましたよ。
 貴方も一緒にどうです? 貴方がずっと、キジスラン殿の身辺の警護をしていたそうですね?」
 離れた木陰に立っていたドーライに声掛けた。丁寧な遠慮を示す相手を意に介さず、『彼にも葡萄酒を』と小間使いに申し付けてしまう。
「キジスラン殿。では、銀の山羊騎士団については、何も知識はお持ちで無いのですね?」
スレーイデは揺れる藤葉の木漏れ日の下、濃厚な赤葡萄酒の芳香が漂い出す中、ゆっくりと語り出した。
“銀の山羊騎士団”。
 リンザン教会組織が主催する、教義・信者・神の栄光の三位を守護し、正道・慈愛・規律順守とをモットーとする、半聖半俗の集団。
 リンザン教王を栄誉の騎士団長とし、二百年を超える歴史を誇るこの団体に、特段の活動実績は無い。リンザン大聖堂での最も重要な宗教式典に列席する以外には、表立った活動はない。ほぼ純粋に、名誉と栄誉を誇示するためのみの団体と言って良い。
 入団には何よりも、格式を誇る家柄の出自であることが必須となる。ゆえに、団員の騎士であることは、それ自体が名門の証明となっている。
 ――もっとも、日毎に価値観が変じていく昨今のティドリア域においては、このような前時代的は名誉集団になど、もはや誰も注目しなかった。と言うよりリンザン教会周辺の人々以外では、いまやその存在すら知る者は少なくなってしまっていた。これが銀の山羊騎士団の現状だった。
 一族四代にわたる騎士団騎士であるスレーイデは、立ったまま葡萄酒杯を持つドーライを振り向いた。
「副教王猊下の親衛職を務めるということは、もしかして貴方も騎士団の騎士なのでは?」
「いいえ。違います、スレーイデ殿。私は庶民の出自です。到底騎士団員には成り得ません。ただ、騎士団の聖務の際に助祭を務める資格は授かっています」
「そうか。失礼した。
 ――キジスラン殿。ザカーリ猊下は、貴方様を騎士団騎士に叙任したいと仰っておられます」
 預かった重要な伝言を、実にあっさりとスレーイデは述べたのだ。
「是非、銀の山羊騎士団の騎士として、リンザン教義及びリンザン教国の為に奉仕尽力して欲しいと望んでいらっしゃいます」
「なぜ……? なぜ、私が騎士団に……?」
「それは、私にも分かりません。
 ただ、貴方と猊下との間には、何やら深刻な軋轢があるそうですね。その内容については、猊下は口外する意思はないと仰りました。貴方に訊いても、決して喋らないはずだとも。おそらくその件が関係しているのでは?」
「――」
「いずれにせよ猊下は、貴方に騎士団騎士という栄誉をまとい、尊き理念と責務とを負ってて欲しいとお望みです。その上で、リンザン教国を取り巻く諸外国の状況があらぬ方向へ進んだ場合には、貴方に重要な役割を果たして頂きたいようです」
「……重要な役割とは、何を?」
「カイバート公を排除し、代わり貴方が新ラーヌン公の座に就かれることです」
 黄花と、赤葡萄酒の香りが漂っている。小鳥の声が響いている。
 キジスランの驚きの顔は、無言を貫いてしまう。
 この人は、何を言っているのだろう? なぜ?
 なぜ自分の根底にある“カイバートを倒す”という宿願を知っているのだろう? ならばやはり知っているのだろうか? 自分が宿願に反する感情をも抱いてしまっていることも?
「意味が、……よく、解らない。そこまでリンザン教国は、ラーヌンのカイバート公を恐れているという事なのか……?」
「恐れてはいません。ただ、危険視はしています。リンザン・バンツィ両国は現時点で、あらゆる可能性を考慮して準備している段階です。その一つが、貴方を義兄上に代えて公主座に就けるという方針です」
「……。カイバートと廃し、私が公主になど……」
「今回、リンザン教国――というかザカーリ猊下ですが、あの方がこの思い切った策を考慮したとは、貴方様の存在が大いに起因しているように見受けますがね。こればかりは、貴方と猊下と神のみぞ知る」
「……」
「いずれにしろ、貴方様の騎士叙任式が予定されています。間もなく貴方様はこの館での軟禁を解かれます。新たな生活が始まります」
 深刻な内容を、いつものように余裕の笑顔と共に言い終えてしまった。
 自分の肩の天使は、純白をまとう導きの天使なのだろうか。
 ついにこの状況から脱出できる。だがそれは、自分の力ではない。ただ、周囲の力に押し流され、動かされるだけだ。遠い昔から、ずっとそうだった。
『あの男を殺して、仇を討って!』。
 あの母親の呪いじみた遺言からだ。自分はただ、ずっと動かされている。もう、本当に自分が望むところが何なのかすら、解らなくなっている。
「カイバートは今、何をしている?」
 口が勝手に動き、訊ねた。
「カイバートの現状が知りたい」
「カイバート新公は現在、次の遠征準備を進めているようです。バンツィ共和国が得た情報では、次はレイバール国との領境付近のハッラ領に目を付けているとか。
 もっとも今本人は、ガルビーヤを訪問中のようですけれどね」
「ガルビーヤ? 海辺の小領の?」
「ええ。おそらく縁談でしょう」
「え?」
「貴方の御父上と同じ手法ですよ。婚姻によって、領地の恒久確保を狙っているようです。
 まあでもそれ以前に、ガルビーヤの老主の孫娘はティドリア中の女性で最も美しい、目を見張るほどの美女と評判の姫ですけれどね」
「……」
「この婚姻がどのように周辺に影響するかは、まだ誰にも測りきれていないのでは? 文字通り、“明日に起こる事は神のみぞ知る”という事でしょう。――そうだよな、ドーライ?」
「大変失礼ながら。スレーイデ殿、“明日に起こる全ては神のみに任せる”です」
「そうか、また失礼してしまった。これが二度目だな」
 またスレーイデは口許を上げて笑った。
 スレーイデはドーライに、庭の樹木について・造園師についてなど、色々な質問を始めた。ドーライは丁寧に応じてゆく。藤棚の明るく揺れる木漏れ日の下で、二人は他愛のない話題を長々と穏やかに交わし始めていた。


【 その十日後に続く 】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み