第6話

文字数 9,556文字

6・ その午後

 市政の大立者の殺害の報は瞬く間にラーヌン中に広まり、大騒ぎを引き起こした。
 ところが、これに勝るとも劣らない騒ぎが、その午後に始まった。
 正にその日の午後だ。アイバース公と共に傭兵斡旋業を確立させてきた盟友・ジャクム総将が、次のサギーラ城塞遠征の総指揮官として、カイバート公子を推挙したのだ。
 ……
「無理だ! たかが十七歳の素人に兵達が従うはずはいっ」
 正午に白羊城で開かれた軍議の場。招集された傭兵隊の指揮官達が一斉に荒声を上げた。
「戦役の経験が一度も無い若造など、兵士達に爪弾きにされるっ、下手すれば出陣そのものを拒否される!」
「一体ジャクム殿は何を考えているんだ! これで万全の遠征が成立するとでも思っているとしたら、およそ歴戦の傭兵総将とは思えない!」
「公も公だ! 自分の息子だからといってこんな非常識を認めてしまっては、せっかくここまで育てた傭兵派遣業の実績が台無しになるっ。それでも良いのか!」
「あまりに思い上がった申し出だ! 正に評判通りの傲慢と未熟を証明した訳だな、カイバート公子っ」
 遠慮も礼儀も無い。スレーイデ指揮官を除く残り全員が、自軍の総将へ、公国の宗主へ、その公子へ対して敬語も無く、強い口調で怒鳴ってゆく。罵倒にも近い語句で、広間の空気を揺らしてゆく。それを、ジャクム将とラーヌン公は厳格の顔で、カイバート公子は無表情で受け止めていく。
 永遠に続くかとも思われた罵倒が一段落するまでを、三者は長々と無言で待ち続けていた。そしてやっと、ジャクムは椅子から立ち上がる。一つ小さく息を吐いた後、
「勿論、私も同行するのだが。副将という立ち位置から。その上で今回の遠征の成功の為に、すべきことをするつもりなのだが」
 いつもの通り、やや冷静に過ぎた、ゆえにいささか人を喰った印象になりがちの言い回しで応じた。
 そこから、ジャクムの整然の弁が始まった。
「初心者という理由で排除をするのであれば、我らが軍勢の将来展望は先細るのではないか? 初心者の起用を不安視するのであれば、それを補佐する者を強化するという案で対応できると、私は思うのだが」
一つ一つ、静かに理論を重ねる形で、諸将の不満へ回答していった。淡々と、しかし確信を秘めた口調で、反発の論拠を取り除いていった。
 それを、横に座すカイバートが無言で聞いていた。その静かな姿には、一見の価値が有った。
 今日、広間に入室してきた瞬間から、カイバートは変化を示していた。引き締まった表情と視線により、いつもとは大きく変わった生真面目の印象を帯びていた。罵倒の中においても、黒い胴着の背筋を伸ばし、ぴくりと動かず真摯に聞き続けていた。普段の尊大を完全に消して、全く異なる空気をまとっていた。
 それどころか、
「カイバート。立て。ジャクム将の弁を踏まえた上で、お前の考えを述べろ」
父親に命じられ、椅子から立つ。途端、再びざわつき出した反発の空気の中、列席者達に対して深く頭を垂れたのだ。
「私の件で遠征軍議に支障を引き起こしてしまったことを、申し訳なく感じている。まずは皆に、謝罪をさせて欲しい」
 素直に詫びたのだ。
 この態に、全員が驚かされた。上座にいた父親アイバースすら思わず当惑し、挙句に苦笑を示さずを得なくなってしまった。
「若輩で、しかも遠征経験の無い私が今回の遠征の総指揮官となることに皆が不安と不満を訴えるのは、当然だと考えている。だから、どの様な批判の意見も、正面から受け入れていきたい」
 持論を述べる為に、カイバートは前へ進み出てきた。そこはちょうど陽射しの射し込む位置だった。光を受けて一気に明るさを増した眼の色が、印象的だった。
「今回のサギーラ城塞攻撃については、昨日すでにアイバース公が新しい攻城法を提案している。だが私には他の軍案を、提示したい。
 私は、過去の城塞攻城戦から参照になる情報を収集すること、それに現地の実状の把握こそが、着手すべき第一だと考えている。これらには、私的にすでに着手を始めている。ジャクム将配下の兵を数人、秘かに現地に派遣させている。……」
 静かに言葉を選びながら、まずは自身の試案を述べてゆく。その上で、何よりも遠征指揮への熱意を、ゆっくりと、しっかりと喋ってゆく。時に適切な表現が出来ずに言葉を詰まらせるが、それを恥じることなく一生懸命に述べてゆく。
 誰もが感じたのは『持論が、深く練られている』ということだった。つまり、今回の申し出は、単なる思いつきではなかったのだ。おそらくかなり前より時間をかけて思案しており、その果てに今回、ジャクム将に推挙を願い出たのだろう。
「……」
長く続いてゆく弁を、アイバースは聞いている。聞きながら自身の内側で、感情は複雑な錯綜を始める。
(“俺のその家長の剣を引き継いだ時には、この国はもっと大きくなる。貴方とは、毛並みが違うぜ”)
 ほんの二日前に、噛みつく様に言い放った。父親である自分に遠慮の欠片も無く、対等の位置に立って。野心をぎらつかせて。
 なのに今、そのぎらつきが消えている。真っ直ぐの眼を前に向けて、真剣に自身の熱望を訴えている。別人のように印象を変えている。この息子の中には、何が秘められているのだろうかと、アイバースは思わせる。どの様な種の、どれ程の量の力量を秘めているのだろうかと。
 気付くと、眉間に力が入っている。低く重い緊張感を覚えながら、聞き続ける。息子を見続ける。……
「公。如何でしょうか。カイバート公子の意見は」
 ジャクム将が言った。息子はとっくに弁を終えていた。
「――」
 室内の全員の目が、自分を見ていた。
 息子の目が、その年齢に相応しい曇りのない様で自分を見ていた。訴えていた。自分を認めて欲しいと、懸命に訴えかけていた。
「公。貴方の意見を」
 しこりは残っている。頭は慎重を選べと訴えている。だが、それなのに傾いてしまう。いや、もしかしたら自分の心は最初から決まっていたのかもと気づく。
 なぜなら、この息子の可能性を見たいと、ずっと思っていたからだ。幼い時から意志と行動力において恐ろしい程に卓越していた息子がどれ程の力を発揮するのかを、どれ程の事を成せるのかを、ずっと見たいと思っていたからだ。
 なぜなら、自分はこの息子の父親だから。この息子を愛しているから。
「裁定をしてください。公」
 長い呼吸十数回の沈黙の後、ラーヌン宗主ムアザフ・アイバースは淡と言った。
「お前が行け。カイバート」
  ――その瞬間。カイバートが心底からの歓びの笑を示したのを、キジスランは見た。
  彼は、隅の末席にいた。そこから一言も発言する事なく、強張った眼で義兄の様を見ていた。一瞬も逃さずに、ただひたすらに黙視し続けてきた。
(殺人者が――)
 この数刻の間、上手く思考を動かすことが出来ない。討議の内容など、全く頭に入らない。義兄の存在しか頭に入らない。
 今朝方の鮮烈な死体を思い出、感情が焼けるようにひりつく。す。あれ程の大罪を犯しながら、しかし今はそれを髪の毛一本ほども感じさせずに、子供のように素直に笑っている。それに強烈な戦慄を覚える。
(大罪者が――)
 陽射しが射し込む場、カイバートがジャクム将に向かい頭を垂れ、心からの感謝を示す。さらに父・アイバース公の前に進み出て、
「感謝を致します。アイバース公。公国の為に。そして貴方の為に」
礼を述べてゆく。部屋の全体に向けてもう一度、丁寧に頭を下げる。再び嬉しそうに笑う。その姿に自分の感情が、――憎悪・恐怖・驚異・感動が煽られているのを自覚し、キジスランは煮えくり返る程に苛立つ。
(大罪者が! 二度も許し難い殺人を犯して、なのに笑うのか――!)
 目を離せない。しかし相手は自分を一瞥もしない。歓びに光を増す眼で列席者達を見回していく中、自分の事は全く見ない。
 部屋の全体に、春の陽射しと暖かさが際立っていった。固い顔のアイバースが一旦の閉会を宣し、自ら真っ先に部屋を退出した。続いてカイバートとジャクムもまた、並んで退席していった。眼が離せず、感情を選べないキジスランの視界の中から消えていった。
 室内では、残された指揮官達が一斉に喋り出した。驚きの展開となった今日の軍議について、前代未聞の十代の総指揮官について、その賛否やら意見やらを声高に喋り始めていた。

          ・         ・         ・

『今回の傭兵遠征は、十七歳のカイバート公子が率いるらしい』
 朝方はサウド老殺害の話題一色だったラーヌンの街に、夕刻にはもう一つの大きな噂が加わった。更なる大騒ぎが始まった。
 市民達は殺害事件の犯人探し同様に、公子出陣の件にも夢中になる。初陣でいきなり総指揮を務めるとはどういう事だ? 素人の公子を容認すべきか? 否定すべきか? 容認の理由と否定の根拠は? ジャクム将とアイバース公の真意は? ラーヌンの傭兵派遣業の今後は? 等々……。好き勝手な議論に夢中になってゆく。熱くなってゆく。翌日も。その後も何日も。
 街じゅうが沸き続ける一方で、白羊城の城内では遠征の準備が進められていった。
 今回の異例の遠征に相応しく、それは異例の早さで進められていった。驚いた事に、たった一週間と一日という短い時間をもって、それは整えられた。総指揮にカイバート・アイバース、補佐にジャクム総将、総兵数六千という遠征部隊は九日目の朝に出陣を迎えることになったのだ。
 ――その日は、春の快晴の空になった。
 出陣の朝はいつもそうだ。透き通った夜明けの光の許、白羊城内のハルフ広場はびっしりの群衆で埋め尽くされた。

 ラーヌンの市民、白羊城の人々、市政の関係者、外国の官吏等……。
 多数の人々が、城内ハルフ広場をびっしり埋めて、出陣を迎える兵達を取り囲んでいる。兵達と一緒になり、独特のピリピリとした高揚と緊張の空気を作り出している。
 その通り。緊迫感こそは今朝の主役に相応しかった。
 この朝、カイバートは正に若者らしい緊張感に包まれながら、白羊城のバルコンに現れた。夜明け直後の透明な光を受けながら、広場からの衆目を一身に浴びた。浴びながら、記憶に残る言動を取ったのだ。
 ――この出陣式の顛末については、バンツィ共和国から派遣されていた新任の外交官・ハ―リジュの記録を引用したい。彼が目撃し本国へと送った書簡が、場の状況を完結かつ鮮明に描写していたからだ。

『……そして、ハルフ広場を埋めた群衆、六千の兵、十二人の指揮官達の面前です。
 バルコンにラーヌン公アイバース殿・ジャクム将・カイバート公子の三者が現れました。ラーヌン公自身の口より、今回の遠征の指揮はカイバート公子が執る旨が発せられたのです。
 その時、私を含める多くの者は特段に驚きませんでした。今回の遠征の総指揮にカイバート公子が指名されたとは、すでに噂としてラーヌン中の人々に充分周知されていたからです。
 ラーヌン公と傭兵総将に挟まれて立ったカイバート公子は、本当に若く見えました。いかにも未熟者とも見られかけないその姿に対して、広場に整列していた兵士達が、そして集まっていた群衆がどの様な反応を示すのか、もしかしたら強い反発が上がるのではないかと、私を含めて多くの者が興味深く注視をしました。
 そして予想の通り、広場の群衆が小声で否定的な事を喋り始め、空気がどこか不穏感を帯びかけ始めようとしました。が、この直後に、驚くべきことが起こったのです』

「総指揮官は、ラーヌン公子カイバートが執る」
 アイバース公の発表の直後、広場の全体が一度静まった。
 すでに噂としては聞いていた。だがそれが事実として目の当たりにし、やはり兵士達の多くが動揺という否定の感情を覚え出した。動揺は不安へ、不安は不満へと着実に動きだし、否定感が広場を覆いかけたその時だ。
 いきなりカイバートが動いた。
 大きく二歩を踏み出し、バルコンの手すりに素早く飛び乗った。えっ? と皆が虚を突かれる中、彼は大きな通る声で発したのだ。
「私が指揮をする! 私の指揮で必ず勝利する!」
 途端、飛んだ。
 信じられない事にバルコンの手すりから飛び降りた。下に一列に並べられていた指揮官達の馬の、その一騎の鞍上へ飛び降り、その上を素早い数歩で移動し、あっと言う間に最前方へ達した。そこにいた自身の葦毛馬に跨るという、呆れるような離れ業をやってのけてしまったのだ。
 唖然と群衆が息を飲む。が、直後、一部の兵から大きな声が上がった。
「カイバート! カイバート総将!」
興奮した声でその名を叫ぶ。この瞬間を逃さない。カイバートは一気に発する。
「私を信用出来ない者は、信用しなくて良い。出陣しなくて良い。この場から去れ。だが、私は出陣するっ、私は必ず勝利する!」
真っ直ぐな声と視線で、広場の空気を割る。
「お前達も勝利するっ、私についてくれば! 勝利はラーヌンの栄光だ! 同時に、それ以上に、お前達の栄光だ、お前達の勝利だ! 我々は誰もが勝利し、栄光と共に再びここへ戻って来る!」
 単純で直截の言葉が、広場を扇動する。再び上がった歓声とも鬨声とも言えない声が、あっと言う間に広場全体に広がる。響き渡る。カイバートの名を連呼し続ける。そしてカイバートは衆目を一身に集めて、その全身をもって強い意思を発している。
「勝利だ! ラーヌンに、お前達自身に勝利だ!」
 バルコンの上では、アイバース公が僅かに眉をしかめていた。
 だが、誰もそれに気づかなかった。どの目ももう、カイバートしか見ていなかった。古風で華やかな武衣姿で大柄な葦毛馬に跨り、兵達の真ん前を右へ左へと広場を動いてゆく姿に、視線を奪われてしまっていた。高揚感にとらわれてしまっていた。
 だから誰も気づかなかった。延々とカイバートの名を呼ぶ歓声の中、アイバースだけが息子を見ながら、異様なまでに緊張を示していたのに、堅く顔をこわばらせていたのに、気付かなかった。

『……全ての人の目に、カイバート公子の言動が極めて派手派手しい印象を与えたことは確かです。しかしながら、ここまですんなりと公子が兵達に受け入れたれた事は、客観の立場にある私からすると、やはりかなりの驚きを覚えました。
 後にある筋から確認した話ですが、今回の件でカイバート公子が事前に画策したらしい演出としては、着用の武衣を装飾の多い古風な物にした事、そして公子が激を飛ばした際にすかさず自身の名前を呼ばせる人員を広場中に配置した事ぐらいとの話でした。
 戦役を生業とし、現実思考と荒い気質を持つはずの傭兵達が、なぜこの程度の演出に単純に反応し、カイバート公子を受け入れる事が出来たのか。
 この点について私は考察をしてみたのですが、納得しえる結論は見つかりませんでした。強いて言うのであれば、昔から良く語られている通りに、“人は、純粋に強さを持つ存在に惹かれる“ゆえでしょうか』

 若き外交官ハ―リジュの冷徹な観察眼は、赴任したばかりで出席することになった出兵式典の報告を、こう締めくくっていた。
 アイバース公の無言の硬い目が見据える中。晴れやかな朝の光の中。
 十代の遠征総指揮官と、それに導かれる軍勢は、白羊城から、ラーヌンの街から出陣をしていった。

           ・         ・         ・

 一日中、一度も雲を帯びなかった太陽が、ようやく沈み始めた。
 白羊城とラーヌンの街をわき立てた出陣の興奮も、日没を迎えてようやく静まり始めていた。城と街の全体を、冷えた夜が覆い始めていた。
 ……
 キジスランは、まだ寝床に就いていなかった。
 朝と同じ場所にいた。張出窓の脇の椅子に座し、急速に闇へと沈んでゆくラーヌンの街を見つめていた。
 南棟の最上階にある自室からは、城の正面広場・ハルフ広場の全体が見下ろせる。今朝キジスランは、窓の影に身を隠すようにここから義兄の雄姿を見つめていた。
 彼は、出陣式典に出席することを禁じられた。それどころか、人に姿を見られることも父・アイバース公から禁じられた。『場の興味をカイバートのみに集中させる為』だそうだ。昨日の夜に公の秘書官からそう書かれた書簡を渡された時、彼は何の表情も示さず、ただ「分かりました」とのみ返した。
 夜明け直後の沈む様に冷えた部屋に、キジスランは一人だった。側にルシドの姿も無く、その表情を見る者は誰も居なかった。
 だから彼は、表情を隠さなかった。陽射しの射さない陰の場から喰い入る様に眼を下へ向けていた。もはや一瞬も消せなくなった憎悪と執着をそのまま顔に出して、夢中でカイバートを見ていた。高揚した兵達を引き連れて出陣していった後も、ただ窓際に座り続け、誰にも会わず、独り、ずっと感情を錯綜させて考え続けていた。考え続けていた事とは、それは、
 ……朝の光の中の、カイバート。
 自分への見せしめとして血塗れの死体を残し、なのに鮮やかに上衣を翻しながら出陣してゆく今朝の姿には、曇り一つなかった。
 あの夜から今日までを、どの様に過ごして来たのだろうか。そしてこれから戦場で、どのように日々を過ごすのだろうか。
 ……そして。ルシド。
 消えた。完全に行方知れずになった。
 あの直後、すぐに伝手を使って秘かに捜索をした。この間ずっと自分の迂闊を責め、無事を願い、不安と緊張に圧され続け……、しかしその想いも五日目を過ぎた頃には途絶え始めた。六日目からは現実を――ルシドの最悪の命運を受け入れざるを得なくなっていた。
 時折、神経の奥でルシドの悲鳴が上がる。
 と同時に、老サウドの惨殺体が浮かび上がる。さらに傲慢な勝者の光に満ちた武衣姿も思い出し、一層に神経を締められる。
 窓から湿った夜気が入ってくる。空には欠けた、色の無い月が昇っている。
 すでに時間はどのくらい進んだのだろう。眠気は起こらない。感情は不快な熱を帯びたまま冷めず、いくら経ても思考は整わない。
 室内は暗い。灯りは無い。風はほとんど無く、音も無い。白羊城全体が闇と静寂に沈んでゆく。夜はどのくらい進んでいるのだろうか? 深いのだろうか?
 トン
 はっと息を止めた。
 トン 
 もう一度、僅かに響いた。扉を打った音だ。
「誰だ」
 答えない。静寂が戻り、緊張が背中を這い上がる。鼓動が速まってゆく。
「誰だ。答えろ」
 胴着の中にある短剣を、服の上から触って確認した。音を立てずに扉へ進み、分厚い木製の表面に耳を当てた。僅かな、引っかくような物音があった。
 短剣を抜き、右手に強く握った。呼吸四回分の時間を経た後、扉の取っ手を掴む。最大の警戒を込めて、ほんの手のひら一つ分だけ引き開け、闇の通廊を見た。
 ――誰も居ない。
 通廊の冷えた空気が、一気に皮膚を覆う。サウドの血まみれの死体が脳裏を過る。
 トン
 その瞬間キジスランは解かった。足元の闇に叫んだ!
「ルシド!」
 床に崩れこんだまま、朦朧としたまま、それでもルシドはまた右腕を上げて扉を打とうとしていた。
「何がっ、どこにいたんだ!」
 抱き起そうとした手が止まる。衣服にべったりと血と泥が付いていた。さらに皮膚に無数の変色したアザがあるのに気付いた時、避けようもない不快感がこみ上げた。この傷まみれでどうやってここまで来たんだという疑問も。
 酷い傷だ。腕を上げるのも精一杯のはずだ。それなのに。
「――。大丈夫です」
 笑ったのだ。
 不快感が喉を覆い、言葉が出ない。とにかく相手を部屋に引きずり入れる。一つの動きにも苦痛をもらす相手を、麻敷物の上に寝かせ、ほとんど飲めずこぼすだけの水をそれでも飲ませる。燭台の灯の許にあらためて相手の体を見て、散らばった傷と赤い血に顔を歪ませる。
「今、医者を呼ぶ」
 途端、死にかけのはずの眼が大きく開いた。思いの外はっきりと言った。
「必要ありません」
「喋るな、そのままで居ろ、今医者を――」
「いいですから。傷なら、自分で治します」
「何を言ってるんだっ、こんなに多くの傷、すぐ医者に診せ――」
「いいから! 治しますっ、出来ますからどうか……!」
「――」
「今、私のこの姿を人に見られると、貴方に、不都合に、なりますから……だから、……止めて下さい」
 言い終え、再び笑った。
 キジスランは乾き切った喉に唾を飲み下す。鼻に達する血の臭いを、初めて意識する。とにかく今は、嫌悪を覚える笑顔から逃れたい。
「……。分かった。医者は呼ばない、だから……今は、寝てくれ」
「……有り難うございます」
「――。その前に――一つだけ質問……」
 そう言いかけて、しかし。
 相手が、自分を見ている。その眼が不穏で――冷やかな恐怖で、言うべき言葉は舌の奥で止まってしまう。
「いや。良い。――休め。このまま寝――」
 はっと緊張が走る。死に掛けているはずの従者の腕が素早く動き、自分の手首を掴んだ。信じられない程の強い力をもって、自分を引っ張ったのだ。
「その通りです。キジスラン様」
 顔を近づけ、陰湿に笑う。
「あなたの想った通りです。あの男です。昨夜は、あの男自らも来て、私を殴り続けましたよ。あの男が。……ああ、そんなに動揺しないで下さい」
「ルシド、止めろっ、私の心――」
「そう、その顔でした。あの男の。今貴方が思い浮かべているその顔で――あの男が、自分からです。ええ。私を拘束して、裸に剝いて、それは陽気に、仲間と酒を飲みながら、笑いながら……。
 今、その光景を見たいと思ったでしょう?」
「ルシド!」
「楽しそうに……、楽しみながら、尋問――拷問を――私から、色々と訊き出そうとしました。例えば、貴方とサウド老との接触と――特に、異端の絵について――」
「それで……お前は……」
「ああ。キジスラン様……安心して下さい。私が喋る訳ないでしょう?」
「――」
「喋りませんから。貴方の不利になることを、私がするはずは有りませんから。貴方を護るためにだけ、私は生きていますから。解かってるでしょう? 骨を折られても、皮を剝がれても、貴方の為ならば、全く問題ではありませんから――」
「……」
“今から、私は貴方の為のみに生きます。全てを賭けて、貴方を護ります。命を捨ててでも貴方を護り、貴方を王にします”。
 初めて会った時、ルシドは同じ事を言った。今と同じ眼で。
 ほんの偶然で出会っただけだった。ほんの僅か同情心を示しただけだった。それだけだったのに、なのにその瞬間からルシドは言葉の通り、何が有っても――己の命に代えても自分を護ろうとする。その為に魔物じみた異力をも使おうとする。一瞬も途切れる事無くずっと自分を見つめ続け、護ろうとする。
 一つだけの灯火が揺れている。光の中、ルシドが喜悦の眼で自分を見つめている。
 と、その右手が動いた。乾いた血まみれの手が、ゆっくりと自分の頬に触った。
 キジスランの全身に、総毛立つような嫌悪と恐怖が走った……。
「ああ、そうだ……。もう一つ……」
満足して眠りに陥ろうとするその直前に、ルシドは最後にもう一言をかすれた小声で伝えた。
「私を解放する時……あの、男が、言いました……。伝えろと――貴方へ。伝えろと……、『戦勝を聖者に祈っていてくれ』――だそうです。……」
 音のしない室内、冷たい床の上、闇の中。
「……見えていますか、……見えますでしょう? その時の、姿……」
 言い切り、そしてルシドは崩れるように目蓋を閉じた。長い眠りに入った。
 灯火が、冷えた隙間風に揺れている。薄闇と、静寂だった。
目の前、死に落ちたかのように動きを止めた従者を見ながら、キジスランは低い吐き気を覚えた。


【 その九日後に続く 】
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