第20話

文字数 11,102文字

20・ その一年後

 ほぼ一年を経ていた。
 秋が始まっても、暑さが酷かった。
 キジスランは今日も、広いリンザン宮殿内を歩いていた。
 ……
 教会組織の本山であるこの宮殿内には、大小合わせて三百に近い部屋がある。その中の小さな一室に、キジスランは銀の山羊騎士団騎士という身分で住んでいた。消息をおおやけにして以降、ここで護られた日々を送っていた。――もっとも。彼を断罪するラーヌン新公が、やっと見つかった大罪人の弟の身柄引き渡しを要求してくることは無かったのだが。これは、かなり意外な反応だった。
 曲がり角と階段だらけの宮殿内を、キジスランは足早に歩んでいく。
 長い歳月をかけて増改築を重ね、果てに怪奇複雑な造りと成ってしまった宮殿は、一年を超えて居住しているキジスランをいまだに、時折迷わせる。たった今も曲り角を素通りしてしまい、
「ここで曲がって下さい」
同行するドーライに助けられる。
「こちらの小階段を使って下さい。急ぎの場合は、ここから一つ下の階へ下って進んだ方が近道になります」
 結局この控え目な男が、そのままキジスランの傍に居ることになった。その職務も今となっては曖昧だ。監視だか護衛だか相談役だか側仕えだか、もう区別はつかなくなっていた。ただ少なくとも、キジスランに信頼を覚えさせる存在になっていた。
 彩色の天井が、高くなったり低くなったり。色石の床が幅広がったり狭まったり。
 角を曲がるたびに様相をかえる宮殿の通廊を、ドーライに助けられながら早足で歩み続ける。遠路の果てにようやく、北東の奥まった部屋に到着する。一度だけ深い息を突いてから入室する。低い小声で告げる。
「遅れました。申し訳ありません」
 着座の人々がちらりと振り向いた。
 ……銀の山羊騎士団の書記
 ……銀の山羊騎士団の団員スレーイデ
 ……リンザン教国の政務官
 ……イーラ国外交官
 ……アルア城塞城主名代
 ……そして、バンツィ共和国外交官ハ―リジュ
 皆、見知った顔だ。すでに二十回を数える会合で、ずっと討議を重ねてきた面々だ。その議題はいつも同じだ。『新ラーヌン公による領土拡大政策の停止』だ。
 ラーヌン公の短期・小規模の軍事遠征は、婚礼後のこの一年ですでに三回を重ねていた。ある日全く唐突に言いがかりじみた要求をされて強引な攻撃を仕掛けられるという事態に、近隣の小領主達はざわめき出し、蒼ざめ出す。対抗策を求めるべくティドリア域の各国に援助を求め出す。各国の使者達が街道を走り抜け出す。
 長らく保たれていたティドリアの均衡は乱れ始め、そして今、リンザン宮殿の陽の射しこまない一室に、バンツィ共和国・リンザン教国・銀の山羊騎士団の面々が集まることになったのだ。
遅刻したキジスランが、壁を埋めた聖者連作画の『荒野を歩む清貧者』の前に座ったと同時だ。
 いきなり外交官・ハ―リジュが、
「始動しますので。キジスラン公子」
発言した。冷静に現実を語り出した。
「各地の意向の調整が採れました。これで事前準備の段階を終了します。今後、近日中に貴方様の名前を用い、領土拡大路線の停止を求める書簡をラーヌン新公に送付します。実践にての交渉の段階に移行します」
「しかしながら……。現状はまだ決して、準備終了とは言えないのでは……。
 総意が採りきれたとは思えません。特にレイバール国の意向が確認し切れていない。先々回の会合であそこの代表が表明したのは、カイバート公への遺憾のみでした。実際に交渉が始まり出した場合、あそこが同意を翻す危険性が……」
と、イーラ国の外交官が発言した途端だ、
「レイバールなどどうでも良いっ。もはや一刻の猶予もないんだぞっ。即時に対抗策を進めるべきだっ。手遅れにするなっ」
 アルア城砦名代が断言した。現在、次にカイバートに食指を伸ばされる可能性が最も高い城砦としては、当然の意見だろう。
 そして、おそらくティドリアで最も早くラーヌン新公の危険性を予測し、分析し、秘密裏に各国の意見調整を画策してきたハ―リジュは、過去二十回の会合同様、この二十一回目においても淡然と応じた。
「『レイバールの意向確認を優先すべき』との意見が出ました。
 今回の私達の対策に早急さが要求されるのは事実です。しかしその一方で目的の性質上、充分を喫した慎重性も必須となります。どちらも両立させるとなると、具体的にどの程度まで時間をかけて確認を採るべきかの確認が必要ですね」
 反対意見も、決して否定しない。必ず取り入れ、その上で緻密な調整を重ねて合意を目指す。全くもって圧倒的な合理性を持って。
「貴方様のご意見は? キジスラン公子?」
「……。いえ」
「いえ、とは?」
「――。レイバールの意向を再確認すべきとの意見に、同意します。その方法は、貴方に任せます。ハ―リジュ外交官」
「解かりました。ではもう一度最善を考慮して調整を試みます。レイバールの意向確認については、あちらに駐在している我国の外交官に再度の情報を求めますので、七日間の時間の猶予を下さい。
 他に、現段階で再考慮が求められる点はありますか?」
 整然だ。少し苛立たしい、腹立たしいほどの整然だ。キジスランの中途半端な感情など存在し得ないまま、ハ―リジュはただ理論に則って現実を進めてゆく。
「有りませんね。では書状送付の時期は未決とし、今後の展開の確認に移ります。
『ラーヌン新公を父親毒殺の懐疑で告発。と同時に軍事拡大政策の中止を要求。拒否を表明するだろう新公には、リンザン教国の立場より、教会法を前面に出し圧力をかける』。
 この方針で軍事遠征の停止を求めます」
「あのラーヌン新公に対して、そんなに都合よく進むものかっ。交渉だの教会法だのの常道が通じる相手じゃないぞ、奴は!」
「その段階となりましたら、こちらからの軍事的圧力の段階へ移行します。ラーヌンへ同盟側の部隊を進攻させる旨を公表します」
「たとえ実際に戦争を仕掛け、それでこっちが勝利したとしても、あの好戦野郎が止まるのは一時としか思えんっ。最も有効なのは、さっさと潰す事だっ、退位させろっ、抹殺しろ!」
「確かに。抹殺は最も効果が解りやすい手段です。しかしそれが実際に『ティドリア域の安定』に有効かは疑問です。
 私達の目的は、ティドリアの安定の維持です。カイバート公の抹殺は、計画が全て不調に終わった局面での最終の手段とすべきが、現段階での私見です」
 淡々着々と現実を進めていくハ―リジュの眼がキジスランに向けられた。そして――平然と発した。
「この最終の局面となった場合には、カイバート公を抹殺し、代わりにキジスラン公子にラーヌン公に就任して頂く案の実行を、考慮しています」
「……」
“仇をとって! あの男を殺して!”
 なぜだ?
 なぜこんな捻じれた形で母親の悲願は成就するんだ? これは正しいのか? つまり、
 結局、やはり、自分はこの道をたどるしかないのか?
「ただ今、ザカーリ副教王猊下がご到着されました。早急の懸案により、予定外となりますが御入室をされます」
 唐突の声に、全員が扉口を振り向く。
「ハ―リジュ、貴様に急ぎの話がある。他は全員出て行け」
 そこに、不機嫌顔のザカーリが現れていた。素早く自ら命すると、そのまま薄暗い室内を一瞥してゆく。そこに赤毛の公子を見つけると、さらに不機嫌を露骨にする。
 ハ―リジュを除く一同が、礼を垂れながら副教王の前を通りすぎて退出してゆく。その最後にキジスランも退出しようとした時だ、
「貴様。残れ」
 ザカーリの不機嫌の顔が、憎悪に達していた。憎悪の眼で自分を見ていた。
 ……憎悪の眼。
 ほぼ二年前。暑い礼拝室内で初めて、泥まみれの姿で接見した時も、激しい憎悪の眼だった。
その直後もだった。薬を飲まされた眠りの底で微かに記憶していた眼も、――“早く絵の所在を喋らせろ! 喋ったらすぐに殺せ!”――憎悪を剥いて燃えていた。
 そして今も。騎士団入団式の日以来、久々に間近に見る顔も、全く同じ眼だ。
 ハ―リジュは何かを聞いているのだろうか。それとも敏腕外交官らしく、両者の微妙な空気を察したのだろうか。水を飲みたいので少し失礼致します、と伝えて、隣室へと去っていった。二人だけとなった。
 室内に陽は射さず、薄暗い。冷えた圧迫感が満ちていく。長く続いたひりつくような静謐の果て、ついにザカーリが呟いた。怒りじみた独り言だった。
「貴様さえ、死んでいればな」
「……」
「ムアザフ・アイバース暗殺の夜、捕まる寸前だったところを間一髪で逃げたと聞いた。その時に捕まりさっさと処刑されていれば、私はこのような危険の尾を踏む事はなかった。
 貴様と、天使マラクの絵と、あの魔物さえこの世に存在していなければな」
「……。ルシドに会わせて下さい」
「あの日から、とっくに一年は過ぎた。だが結局、何も起こらなかった。
 やはり知人に預けたとかいう絵の話は嘘だった訳だ。一年経ったら世に出すなどの安い脅迫に乗ってしまったのが愚かという事だった。あの日に二人まとめて殺すべきだったのだ。糞が」
「絵は、実在します。知人の存在については私も判りませんが、それを確認いたします。猊下、お願い致します。どうかルシドに会わせて下さい」
「地獄に堕ちやがれっ。貴様も絵も魔物もっ」
 聖職者として有り得ない呪句を、歯ぎしりするような怒りの眼で吐いたのだ。
「……」
 再びの沈黙となる。薄闇に清貧者の壁画が、ぼんやり沈んでいる。滞った静寂とザカーリの眼が冷えた感触で圧し、緊張感を押し付けてくる。
 と。――思いがけない言葉が薄闇に響いた。
「『絶対者の与える試練は、その者に天の国への道を進ませる。幸いたれ』。」
「――」
「全く忌々しい。だが、聖典の一文は真実だった。
 今回の対ラーヌン外交策は、私の名が発起者であり主導者だ。もし成功すれば、私は教国内において大いなる評価と賞賛を受ける事になる。悲願である教王の地位への距離を縮められる」
「……」
「こんな形で悲願が叶うなど、皮肉そのものだ。苛立つほど腹立たしい。
 全て、貴様が生き伸びたせいだ。そして貴様の兄が餓鬼の様にやりたい放題をしでかし、そしてあのバンツィの老けた若造が気持ち悪い程に冴えた頭で事態を進めてゆくからだ。全員首を揃えてくたばりやがれっ」
 奇妙な理屈を文字通り、ぶちまけたのだ。その通り、たった一枚の天使の絵から始まった道筋は、ザカーリと自分の道筋をここまで錯綜させていった。大きく捻じ曲がった果てに今、自分を、白羊城を遠く離れた薄闇の部屋で憎悪を浴びる場面に至らしめた。
 いや。違うのか?
“あの男を殺して! 仇を!”
 道筋は、あの肌寒い朝から始まったのか? その時から自分はただ、動かされてきたのか?
「……。すでにこれまで何度となく嘆願して参りました。猊下。どうかお願い致します。ルシドに会わせて下さい」
「駄目だ」
「すでに私達の間の協調は成立しています。もう私が貴方様を恫喝する意味はありません。ルシドの存在にも価値が無いはずですから、どうかお願い致します、彼を釈放して下さい」
「応じない。奴は魔物だ」
「まさか殺すおつもりではないでしょうね? 猊下、お願い致します、それだけは御止め下さい。彼は決して魔物などでは無く――」
「魔物じゃないだと?」
「はい。ルシドはただ――」
「魔物じゃないだと!」
 その瞬間、ザカーリはキジスランの襟首を掴んだ。およそ高位聖職者の行為とは信じ難いことに力づくで締め上げ、顔を近づけてきたのだ。怒り迫ったのだ。
「さらに二人殺したぞ! 獄吏を二人殺した!」
「……どういう意味を……? だって獄につながれたまま――」
「殺したんだ! 興奮している奴に近づいてしまった者二人を、手足を縛られているのに殺した! それでも魔物ではないと言うのか!」
「――」
「あの魔物に近づくと殺されるっ。だから恐ろしくてもう誰もあの魔物に近づけない、ただ拘束し続けるしか出来ないっ、解ったかっ、糞! くたばれ! 全部貴様のせいだっ、糞が!」
 瞬間、力任せにキジスランの顔を打った。と同時、隣室との扉が開いた。水差しを運んできた小奇麗な少年が、唐突の暴力の光景にびっくりして足を止めた。
「出て行け! 赤毛!」
 ザカーリの凄まじい怒りの顔、少年の唖然と呆けた顔に、反応出来ない。ただ絶句をさらしてしまう。
「消えろといったんだ! 聞こえないのか!」
 絶句のまま、喉を詰まらせたまま、逃げるように部屋を出る。通廊に出るや、途端、肺の全てから息を吐く。息をしても息をしても喉が詰まり、それでも吐き気じみた感触の息を吐く。
(ルシド――!)
 通廊の右手の離れた場所にドーライが待っていた。直ぐに近づいてきたが、それを完全に無視した。通廊を逆の方へと早足で歩み出した。
 二人殺した――だって?
“何が有って貴方を護ります。貴方の為に”
 自分の為に人を殺したのか? またそう言って、そうやって自分を圧するのか?
“貴方は宗主になります、貴方の敵を斃し、貴方は宗主になります。私は、貴方を助けます。貴方の為に命を賭けて助けます”
 あの日に言った通りに?
 出会った最初の日に言った通りに? そうしてまた人を殺したのか? あの日の言葉通りに。あの自分に憑りついた存在は!
 ……あの日。
 全くの偶然だった。通りかかってしまった。
 霧の立ち込めた真冬の、凍えるように底冷える夕刻だった。所用を終えて養父の館へ帰る途中だった。とにかく寒くて、霧が深くて、世界が白く、遠くが見えず、だから見過ごしていてもおかしくないはずだった。それなのにあの時、
 よどんだ白い霧の中、いきなり冬カラスの群れが大声で鳴いた。一斉に飛び立った。だからはっと振り返ってしまい、そこに見てしまったのだ。黒い、何一つも無い休耕地の隅、血を流して倒れているのを見つけてしまったのだ。
“隣村に気味の悪い男が現れて騒動になっている”。との噂ならば、すでに今朝方に聞いていた。それだと思った。何だかの顛末があり住民達に捕まり、糾弾され、果てに石打ちで半殺しにされながら逃げたのだろうと思った。その果てに倒れたのだろうと。
 時折にある事だ。特に何も思わなかった。ただしばらく、何となく見ていた。血を流して動かなくなった姿を、漠然と見ていた。そして、ふと。
 ――何の理由は無い。ただ、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、本当に何となく、心が憐みを感じた。だから馬を降り、ぬかるんだ泥の上に立ってしまった。近づいて、間近から覗き込むように見てしまった。
「生きているのか?」
 独り言のような小声を発してしまったのだ。それだけだったのに。
(――!)
 いきなり腕を掴まれた。死にかけていたとは信じられない程の強い力で自分の右腕を掴み、そしてはっきりと言ったのだ。
「――。貴方は、宗主になる」
(おかしい! これは魔物だっ、かかわるな!)
 直感したままに、すぐに逃げれば良かったのだ。あの時、逃げるべきだったのだ。
 だが、母親の忌まわしい遺言に囚われていた時だったのだ。自分がこの先にどうすればいいのかが全く判らず、動けず、独りで息を詰まらすように苦しんでいた時期だったのだ。だから、
「貴方は、宗主になる――身内を斃して。それを、私は助ける」
 言葉に、耳を傾けてしまったのだ。
「貴方は、同情してくれた。だから、助ける。何が有っても、私は貴方を助ける」
 凄まじい、喰らい付くような真っ黒の眼で見捕えて、宣してしまった。その時から自分の命運は変わった。もう一つの呪いを背負ってしまった。
 その重みが息苦しく、いつも自分の胸底を圧し続けた。息苦しさは何年も、片時も無く続き、やがて嫌悪感へ――恐怖感へと黒く凝り固まっていった。
 そうだ。恐怖だ。もう耐えられない。あの男をどうすれば良いのかもう解らない。いや、違う。解かっている。
 あの男を――、願わくば――、
「キジスラン公子、どうしましたか?」
 ドーライが追いかけて来る。だかそのまま早足で去る。逃げる。
「お待ち下さい、私も同行します。部屋に戻られるのならば、一度通廊を戻り右――」
 振り返った。ちょうど下り階段が開けた曲がり角。明りの無い階段の下から、むっと淀んだ外気が流れて来る場。
「独りにしろっ」
 叫んだ。凄まじい勢いで叫んだ。
「独りにしろっ、付いてくるなっ、私に関わるな!」
 もう近寄るなっ。願わくば、――消えて欲しい。
 消えて――死んで――殺されて欲しい。願わくば、誰か。
 逃げるように暗い階段を走り下って行った。
「……」
 ドーライは、当惑顔のまま立ち止まっていた。
 が。彼はすぐに追いかける。なぜなら、いまやリンザン教国の外交政策において大きな役割を負う赤毛の公子を監視・護衛するのは、自分の重要な任務だから。
 いや。違う。任務だけではない。
 同情するからだ。常に不安定さと脆さを感じるこの公子を少しでも助力したいと、純粋に思うからだ。同情を覚えるからだ。
 彼もまたすぐに、階段へと入った。

        ・          ・           ・

 北方の国・ラーヌンでも、今年の夏は暑さが酷かった。その酷暑が秋が始まってからもなかなか引かず、丸切り夏が引き続いているようだった。
 白羊城内も、暑い。
 城の大部分の部屋は南向きに設けられているが、この暑さでどの窓も一日中、日よけ布を垂らしている。城内を歩く人々はいまだに薄着で、それにもかかわらず汗をかいている。冷たい水を求める人々が、井戸の周りに集まっている。
 女性達も同じだ。昨年秋にこの城に入ったマテイラ夫人もまた、いまだに夏の服を纏ったままだ。
「北の地だから、もっと涼しい気候だと思っていたのに。いつまで経ってもずっと暑さ続きなんてうんざりだわ」
 長い通廊を歩きながら素直に愚痴を言う。その女主人の周囲で、侍女達もみな賑やかに喋り合う。
「確かに暑さが酷いですよね。ガルビーヤだったら、こんなに暑い日は海で舟遊びをしましたよね」
「こっそり海に入って泳いで遊んで、それが御爺様のマル卿にばれて全員で怒られたこともありましたよね」
「ガルビーヤでは女性も泳ぐんですかっ? しかもマテイラ様まで、領主家の姫様までが泳ぐんですかっ?」
「勿論泳ぐわよ。そんなにおかしい?」
 女主人自らが言い切り、故郷から連れて来た侍女達と笑い合う。その楽しそうな様に、白羊城側から就けられた侍女達もまた一緒に笑ってしまう。
「でも奥様。普段の年だったらラーヌンはもうとっくに涼しいはずなんです。ちょうど一年前に奥様がこちらに御到着された頃合いはもう、肌寒いぐらいでしたでしょう? それが普通なんです。今年は少しおかしいんです。夏もずっと酷い暑さだったし、もしかしたら神様のご機嫌が悪いのでしょうか? だとしたらもう仕方ありません」
「神様にだって文句を言いたいわよ。だってこの前、冬用の外套を作ったのよ。楽しみにしているのに、一体いつになったら着られるの?」
 女主人の笑顔とお喋りは、いつまでも続いてゆく。そのまま彼女達は、白羊城内の通廊を延々と歩き続けてゆく。ようやく北棟へと入ってゆく。
 目指す相手は――タリア夫人は昨年、東棟にあった居室を出てこちらへ移ってしまった。こちらの方が人の往来が少なくて静かに過ごせるからとの事だが、それを素直に信じたのは新参の新公妃とその周囲ぐらいだろう。白羊城の内情を知る者なら誰もが勘づいているだろう。
 旧公妃は、新公妃に気後れているのだ。いや。――新公妃を、避けているのだ。あの華やかそのものの存在の近くにいたくないのだ。
 そしてさらに噂に通じる者だったら、さらに秘かに、意味有り気に語り合う。
『それに、ね。ほら』
 にやにやと、下品な顔で笑い合う。
『ね。だって、なにせね。――赤毛の公子が生きていた訳だしね。リンザン教国と手を組んで、白羊城に戻りたがっているらしいという噂だしね。ね。もしかしたら、再会出来るかもしれないしね』
 噂は下世話に、秘かに囁かれている。勿論マテイラ新公妃は、そんなこと全く知らない。公妃位の先輩であり、歳の近い女友達である相手に、素直な親しみをもっている。だから今日も身重の腹にもかかわらず、タリア夫人の部屋を目指して、侍女達と共に楽しく歩んでゆく。
 ……
 その扉口に現れた瞬間から、部屋の空気は華やかに色づいた。
「ご無沙汰しています、タリア夫人。突然でごめんなさい」
 高い上背の体を、夏らしい薄色の衣装で包んでいる。暑さの為か、髪はただ無造作に結ばれ飾りも付けてない。それもまた一層に美貌を映えさせる。
 そして、表情。この世は自分を受け入れて当たり前に信じている、何の恐れも知らない素直な笑顔。
「――。ご無沙汰しています。マテイラ公妃」
 義母の口調が少し強張っているのにも、気付かない。マテイラは室内へと入ると、
「この暑さ、本当に酷いですよね。たった今も、ガルビーヤでは皆で泳いだって話をしていたんです。そうしたら『女性が泳ぐなんて信じられない』って驚かれてしまって」
もう嬉しそうに喋り出した。いまや二人にまでに減ったタリアの侍女達が急いで客人の席を整えるのも待ちきれなそうだ。
 マテイラは身重であっても、健康だ。タリアの許を訪れたくて、訪れてお喋りをしたくて、何かに付けては訪れて来る。その度にタリアが困惑の顔を示しているのにも、全く気づいていない。
「今朝、ガルビーヤの御爺様から蜂蜜が届いたんです。私が蜂蜜が大好きなのを忘れないでいて下さったの。少しでも早く貴方にも是非味見をして頂きたくて、持って来てしまいました。本当に美味しいから、是非召し上がって」
 健康で、明るくて、いつも元気に動き回っている。カイバートと共にゆったりの遠乗りに向かったり、侍女達をつれて郊外の野原での食事に趣いたり、出入り商人達を相手に延々と品定めとお喋りを楽しんだり……。
 したい事は一杯あるだろうに。なぜ、自分の部屋を訪ねてくるんだろう? 
「御存知かしら? 蜂は、果樹の花が好きなんですよ。特にリンゴの木。リンゴの花はガルビーヤでは聖女トゥファーの日の頃に一斉に咲くんですけれどね」
 嬉しそうに長々と、他愛ない話をしたがる。蜂の話。蜂の巣が見つかる果樹の話。果樹林で見かける鳥の話。……そんなどうでも良い事を侍女達も交えて次々と、延々と、自分に向かって喋ってゆく。なぜ?
「あら、そっちの部屋にいたの? おいで、元気だった? 良い子にしてた?」
 隣の続き部屋から白犬が姿を現すや、すぐに呼びかける。途端、犬は駆け付け、長椅子に座るマテイラの膝に前足を掛けた。尾を振って甘え出した。
「私も犬を飼いたいって言ったら、カイバート様が嫌がるの。その理由を訊いたら、最初は、『身重の女性の傍に犬がいるのは縁起が悪い』なんて古い諺を持ち出してきたけと、それは嘘でしょう? と問い詰めたらやっと白状下さったわ。犬がお嫌いなんですって。
信じられます? 女性ならともかく男性で犬が嫌いなんて初めて。しかも狩りはお好きなのによ? だったら猟犬も御嫌いなの? って訊いたら、猟犬は別だ、ですって。身勝手な理屈ですよねぇ」
 犬の顔を両手ではさんで撫でながら、笑顔で幾らでも話を続けてゆく。こんなに明るく快活ならば、確かに誰にだって好かれるだろうと思わせる。
 祖父に可愛がられて護られ。カイバートに一目で好かれ。街中の人々を騒がせ。大歓迎をされて白羊城の女城主になり。しかもあっという間に子供を身ごもり。
 一体この女性はどこまで幸運の女神に愛されているのだろうか? 欠けたところは、哀しい想いはあるのだろうか?
「キジスラン公子も犬嫌いでしたの?」
「――。え?」
「犬嫌いの男性なんて初めてだったから、とっても不思議で。ご兄弟でお嫌いだったのかしら?」
「……。いえ。分かりません」
 他意なく訊ねてくる。いくら何でも、自分の夫が義弟を断罪し極刑宣告までしたという経緯を知らない訳ではないだろうに。
「キジスラン公子の行方が分かりましたでしょう? あの方は実は濡れ衣だったという噂も聞いてますし。どのような事情が有るのかは知りませんが、誰かが御二人の間を取り持ってくれていたりはしないのかしら? 折角この世で二人きりの御兄弟なのに」
 知っていて平気で話題にするのか? 純真しか知らない子供なのか? もしくは、正しく美しい物だけに囲まれた聖女なのか? だから皮肉でも邪心でもなく、素直に口にするのか?
「キジスラン公子とは、どんな方だったのですか? 御爺様から聞いた話では、先代アイバース公と赤毛の有名な恋人との間の御子とのことですよね。やはり赤毛の」
「……。ええ」
「先代アイバース公とは、日頃からとても仲が良かったそうですよね。そのような方が父親の殺害を試みたなどとは、ちょっと考えにくいから、だからやはり濡れ衣じゃないかしら? 白羊城の皆さんも実はそう思っているのではありません? カイバート様が何か誤解をしているって?」
「……」
「その誤解のせいでご兄弟の仲が分断されて、いまだにぎくしゃくしているとしたら、カイバート様にとっても不幸ですもの。何か良い方法があれば良いのに。
元々は、どういう関係だったのですか? 誰も詳しく話してくれないけれど、そもそも御兄弟は以前から不仲だったのですか? 何か理由があったのですか?」
「ほら、蜂蜜が固くなってしまいますよ。さあ、御二人とも召し上がって下さい」
「マテイラ様、犬がお腹の辺りを触ってます。さすがにそれはいけません」
 女主人の無垢すぎる無神経に、古参侍女達が何とか話題を変えさせようとする。それすらマテイラは気づかず、続けてしまう。
「キジスラン公子はどんな方だったのですか? どこかカイバート様と似たところはありました?」
「……」
 相手が小声で何か呟いた。が、気づかない。
「無口な方だったそうでが、でも、タリア様とは親しかったそうですね?」
「……。済みません、帰って下さいます?」
「余り人付き合いをしない方だったけど、タリア様とは親しくお喋りをしていたと聞きました。ですから、教えて。タリア様はキジス――」
「帰って! 今すぐ出て行って!」
 びくりと犬が振り向いた。
 侍女達も驚く。手にしていた蜂蜜の鉢を床に落し、敷布を汚してしまう者もいる。マテイラもまたびっくりし、直後、曇りの無い眼で不思議そうに自分を見る。
「ごめんなさい。私、何かお気に障ることを言ってしまいました?」
 その眼にさらされることに耐えられない。感情の限りに叫ぶ。
(もう嫌だ。もうここに居たくない!)
 犬がしきりに周囲を見回している。侍女達は感情を剥き出した女主人に当惑する。こんな事態は初めてで、困り果てる。何とか場を丸く収めようと懸命になる。
「ほら。中庭を見て下さい」
 窓際にいた侍女が、都合良く話題を変えられそうな光景を見つけた。必死の笑顔で声掛けた。
「何かあったみたいです。ほら、下の中庭に多くの人が歩いていますよ。皆さん、南棟の大階段に向かっているみたい。ほら。奥様、見て下さい」
「え? 何があったの?」
 狙い通り、マテイラが立ち上がって窓に寄る。下では男達が早足で動き、次々と南棟に吸い込まれてゆくのが見える。その人数がやたらと多い。そして皆どこか、緊張感を帯びているように見える。
「みんな早足よ。かなり急いでいるみたい。どうしたの?」
 転機が、白羊城に訪れた。


【 その直後に続く 】
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