第22話

文字数 9,318文字

22・ その二ヶ月後

 そこからの二カ月は、驚異的な速さだった。
 ラーヌン新公カイバートを補佐するイブリス。
 リンザン教国・バンツィ共和国・イーラ共和国連盟を集約するバンツィ共和国外交官のハ―リジュ。
 甲乙つけがたい知性と論理感覚を持つ二者は、分厚い外交書簡を素早く往復させた。そのたった三往復だけで優秀極まりなくも、大きく局面を進展させた。白羊城から発送された四回目の書簡がリンザン宮殿に届いた時点をもって、あっさりと現実を決したのだ。キジスランを追い詰めたのだ。

「カイバート公本人も出席されます。貴方様も出席された上での、両陣営の直接の交渉を希望しています」
 そうハ―リジュが報告した時、キジスランは言葉の意味が理解できなかった。
 本当に出来なかった。窓の外ではそろそろ雨が降り出しそうだとか、今日は評議室内の芳香が強過ぎるとか、珍しくリュシナン騎士団総長が家宝の紅石の指輪をはめていないとか、なぜかそんなことが頭を過り思考を奪おうとしていた。
「聞いていますか。キジスラン公子?」
 そんな事と同じ範疇で、ハ―リジュの言葉を捕えようとしていた。現実を認めたがらなかった。あの夜を思い出したがらなかった。
 ……あの夜。……燃える炎、けたたましい犬。血走った馬の目。自分を追う叫び。
 最後の瞬間、自分に弩弓を剥ける姿。
(飲むな! 明日の朝、毒がっ、カイバート!)
 再び会うのか?
「聞いていますか。公子、答えて下さい」
「……。なぜ、私も、直接交渉の相手に指名……」
「――。今回の対ラーヌン外交においては、この連盟の所見は全て、貴方様の名前をもって発信されたからでは」
 ハ―リジュは己の感情を見せる質ではない。それでもさすがに今の間抜けた質問にはいささかの軽蔑を示したが、それもキジスランは気づかない。
「直接会談は、こちらにとっても望ましい展開です。これに応ずる旨の回答をすでに発信しました。
 ただし問題は、日付と場所です。カイバート公は一日も早くと求めています。つまり、あちらはすでに万端の交渉準備を整えているという事で、いささか手強さを予感します。
 会談の会場も、気になります。ラーヌン公国領内でという希望は問題ありませんが、ただし、あまりにも公国の中心に近い場所が提示されているのが気になります」
「公国の中心に近い場所って……どこで……」
「ザフラ城館という場です」
「――え?」
「ご存知ですか? ラーヌンの街から南へ半日里程ほどの場だそうですが、これは幾ら何でも公国中心に近すぎます。もっと国境線に近い場所への変更を要求する予定です。
 そして今後の展開ですが、会場変更要求も含めて、敢えて時間をかけて進行させます。というのも、レイバール国の動向への不明瞭がどうしても払拭され切れず、疑念が残りますので」
 体が熱を帯び出す。息苦しさを覚え出し、肩が僅かに上下してしまう。
 主席に座すリュシナン総長は不快そうに自分を睨み、指輪の無い指をさすっている。隣席のスレーイデは、顔色を変えていく自分の様を奇異の眼で見ている。
「続き、レイバール国関連の現状を報告します。
 先回の会議で報告した某筋からの『ラーヌンとレイバールの秘密裏の協定』情報ですが、残念ながら特に目新しい内容ではありませんでした。在リンザン教国のレイバールの外交官とも私的な折衝も行いましたが、こちらもまた目立った成果は得られませんでした。
 疑念を完全に払拭出来ない現状である以上、直接会談までの時間にも調査を続ける予定ですが、現実的には、これ以上の成果を得られる見通しは薄いと思われます」
 現状報告が延々と続く。キジスランの動揺の顔は、もう誰に眼にも明らかになる。
“怖い”。
 解かった。他人事のように、明瞭に解かった。
 自分は今、怖いのだ。白羊城に帰ることを――あの男と再会することを求めてここまで来たのに、幸運にも皮肉にも、その望み通りに押し流されてきたのに、なのに、怖いのだ。
 なぜ? と考えるのも嫌だ。考えようとするだけで、身が嫌悪と恐怖に縛られる。
 あの男と再会する。しかもザフラ城館で。
 嫌だ。怖い。この現実から逃げたい。それを誰に求めればよい? スレーイデか? ハ―リジュか? 今度は誰が自分の現実を変えてくれるんだ?
「公子。気分が悪いのですか?」
 スレーイデが掛ける声が、奇妙に遠く聞こえる。リュシナン総長の不快の表情が動き、何かを表わした気がしたが、遠くてよく分からない。その間にも香りのこもる室内に、ハ―リジュの事務口調が続いてゆく。
「どうしました? 顔色が悪いですよ。水を飲まれては?」
スレーイデの小声が遠い。猛烈に遠くて、聞き取れない。
“カイバート! 飲むなっ 毒だ、カイバート!”
「……飲むな……」
「何ですか?」
「……」
 スレーイデの視線もリュシナン総長の表情もハ―リジュの声も、どんどん遠ざかっていく。怖いという感覚だけに現実を覚える。
 下を向いた。モザイクの様に散らばった色とりどりの床石の色が目を射して痛い。その形が歪んで見える。甘たるい芳香が、鼻と喉を射して痛い。
 その間にもハ―リジュの報告は続いてゆく。空は雲を増し、空気は冷えだし、現実がじりじりと滑る様に動いてゆく。

           ・       ・        ・

 今日は、鐘楼ではない。執務室だ。
 いつも通りカイバートは、南棟最上階にある自分の執務室にいた。いつも通りはっきりと意思を見せつける顔で、
「来るかな?」
率直に訊ねてきた。
「久々の再会だ。だから場所も、奴に縁があるザフラ城館にした。喜ぶかな?」
「人の込み入った感情面までは私には解析出来ません。特に貴方の家族間の心理や感情は。貴方がなぜわざわざ義弟を呼び出すのかも」
 イブリスもまた率直なに返した。本心だった。疑問だった。
 今。こちら側から直接交渉を提案する必要は無いのに。
 事態を進展させる必要は全く無いのに。狡猾にもなかなか秘密協定に合意しないレイバール国との調整を済ませるべく、のらくらと時間を稼ぐべきなのに。それが今求められる局面と、そう助言をしたのに。
 なのに直接会談を急かされた。しかも自ら交渉の場に臨むと言い出した。しかも憎悪する義弟を呼び出すと言い出した。なぜ?
 執務卓に掛け直すと、書簡を読み直している。今すぐ書記を呼んで来い、直ぐ来なかったら貴様を殴るぞと命じている。カイバートはいつもと変わらず精力的に、愉しむように動いている。
「会談場所に指定したザフラ城館は、かつて生母のバイダ夫人が長く居住し、しかもそこで急死した場と聞いています。キジスラン公子には、心的な影響を与えるのでは。
それも有ってか、先方は場所の変更を求めていますが」
「変えるなよ。変えたら面白くない」
 書から目を上げ、にやりと笑う眼が妙に期待感を帯びている。つまり、やはり、弟に会うのが楽しみなのだろうか? なぜ? それが解からないと、この重要な局面への完璧な対処が出来ない。
 先回の鐘楼の上では遠慮してしまった。だが、さすがにこれ以上押しとどめるのは合理的ではない。いや。理屈ではない。純粋に主君の心理が気になる。この兄弟の関係が、気になっている。
『そう言えば、一つ。少し気になりますので質問して良いですか――』
 なるべく自然に訊ねろ。下手に質問を投げると、無意味な疑心を招いて逆に真意を隠されかねない。本当に人の情緒は解析しにくい。
 自然に、問え。今。
「カイバート殿。そう言えば少し、気になる点があり――」
「奥方様から伝言です!」
 いきなり大声が走った。
「これから二階のバルコンでお食事を一緒にとりませんかと、奥方様がお誘いです。鴨肉だそうです。どうしますか?」
 途端、素早くカイバートは立つ。その動きだけで嬉しさが伝わる。
「イブリス、ザフラ城館での会談の段取りを進めて置け。絶対に場所は変えるなよ。日にちも一月後で決定だ。あと、アルア城砦への軍事遠征計画も並行して進めるからな、最高の策を練っておけよ」
 早口で言い捨てるや、あっという間に部屋を出て行ってしまった。イブリスは質問の機を、また逃してしまったのだ。
 ……冷えた静けさが、執務室を覆ってゆく。
 ようやく気候が戻り出したのだろうか。窓の外には、本来の秋らしい灰色の空が見えている。下のハルフ広場からは、行き交う多くの人々の声が聞こえている。今日もラーヌン公国は、日常の中にあることを告げている。
「マラク」
 最悪の機で飛び込んできたマラクは、卓上の干し果物を摘まみ喰いしていた。振り向いた顔は勿論、イブリスにとっての重要な機を潰したなど知らず、他意の無さをさらしている。秘かな苦笑を覚えさせる。
「質問がある。公と義弟とは以前、どの様な関係だった?」
「何だよ、急に。――さあね。まあカイバート様なら、ずっとキジスラン様を毛嫌いしてたけどね。でも今思えばそれも、自分の次期公位の継承が決まるまでだったかなあ。そんな感じだった」
 よそ見したまま干し葡萄を飲み込んでいく。
「まあ確かに即位の直後はキジスラン様を父親殺しと責めまくっていたけど、今考えればあれは、万が一にも父親の急死が自分の仕組んだ陰謀なんて疑いがかからないように先手を打ったって感じだったのかな? もしかして、貴方が作った策?」
「いや。違う」
「俺の勘では、多分今はもう、キジスラン様なんてどうでも良いと思ってるはずだよ。
 だから今回、交渉相手に呼び出したって聞いてちょっと意外だった。なんでだろう? まさかラーヌン公になった自分の堂々の姿を見せつけたいとかなのかな? 意外とそういう餓鬼っぽさがあるからね、あの人」
「その辺を詳しく知りたい。マラク。カイバート殿に訊いてくれないか『なぜキジスラン公子と会いたいのですか』と」
「嫌だよ、そんなの面倒臭い。自分でやんなよ」
「報酬を払うと言っても?」
と告げた途端、マラクは露骨に目を光らせた。本当に抜け目のない質だ。
「いや、今のは冗談だ。――では、マラク。キジスラン公子の方はどうだ? あの赤毛の公子は、どれ程の度合いでカイバート殿を嫌悪していたのか?」
「さあね。ほとんど内面を見せない人だったから、俺にも解からない」
 すぐに窓の外を向き、いかにも興味無さそうな態度を作る。
 キジスランが義兄に執着していたなど、マラクはとっくに気づいていた。奇妙な、異様な執着だなと察していた。だがそれを今、主君の最側近の男に告げる必要はない。明日はどんな風が吹くか分からないのだから。
 せっかく幸運の女神を抱き捕えて、白羊城での良い地位を得たんだ。少しでも面倒の尾を踏みかねない質問なんか答えるものか。今さら馬糞を踏んだりするものか。二度とあの牢獄に落ちるものか。
「それより、見て下さいよ。ほら。ここに来て」
 露骨に話題を変える。窓に呼び寄せ、並んで真下を見る。
 二階のバルコンに、マテイラ夫人が座っていた。
 濃い青色の衣装のラーヌン公妃は、今日も楽しそうだ。回りの侍女達と、何やらを賑やかにお喋りしている。下の広場を顔馴染み商人が通りかかると、そちらへ手を振り明るく声掛ける。時折に鈴を転がすような笑い声を上げている。そこへ、
「ほら。来たっ」
 カイバートが現れた。
 夫人が振り向き、椅子から立ち上がって迎える。まずはその妻を抱きしめ、すぐに夫は喋りかける。夫妻は楽しそうに会話を始める。
「いつも幸せそうだよなぁ、お似合いだよなぁ。心から仲が良くて、その証拠にすぐに子供も出来て、本当に幸運の女神に愛されてるよなぁ」
 その通りだ。イブリスの視界の中で、主君は一片の曇りも無い幸せそのものの姿だった。自らの意志と行動力の許に、思い通りに運を手にした者の姿を見せつけていた。
 と。
“幸運の女神を飼い慣らせると思ってるのならば、その者は阿呆だ。運という不安定なものを司る女神の恐ろしさを忘れているだけだ”
 ――思い出した。キジスラン公子との最初に会話を、なぜか今、思い出した。
「……」
 普段ほとんど意識しない己の情緒を、自覚した。僅かに緊張していると感じた。論理に基づかない、根拠のない不快とも不安ともつかないものを感じていた。
「……」
 イブリスは、踵を返す。次の職務にあたるべく、室内を去った。一人残されたマラクだけが干し葡萄を食べながらラーヌン公夫妻を上から見下ろし続けることになった。
(そう言えばあのバルコン……)
 以前にはよく、タリア夫人が座っていたのを、思い出した。アイバース公がいた時には、二人でよく広場を眺めながら軽食をとっていた。亡くなってからもしばらくは、犬だけ連れて独りで座っていた。
(そう言えば、最近は全然姿を見てないな)
 と、同時、いつだったか古参の侍女からちらっと聞いた、もう一つのどうでも良い事も思い出した。
“タリア夫人はキジスラン公子と愛し合っている。義母と義息とで愛し合っている”
(下世話な噂としては面白いけれどね。でも今さら、どうでも良いや。だって二人共もう、白羊城にとってもどうでも良い人間なんだから)
 突然下から、侍女達の悲鳴じみた嬌声が上がった。あらためて妻を抱きしめたラーヌン公が、人前にもかかわらず堂々と接吻したのだ。
 風が強まり出していた。急に空気が冷えてきた。長く続いた季節外れの生温かさも、そろそろ変わりそうだなと、干し葡萄を嚙みながらマラクは思った。
 ――
 冷え出した風が抜けるバルコンで、ラーヌン公夫妻はずっと喋り合い、早い昼食時間を愉しんだ。
この満ち足りた時を終えると、新公は午後の政務に向かった。ザフラ城館への事前視察へと出発した。
 この午後から空の色が変わり、ラーヌンでは急速に秋が進み出した。

        ・          ・          ・

 午後が進み、雲はみるみる厚くなり出した。
 風向きが変わり、気温が下がり、長く続いた季節外れの暖かさが終りだしていた。カイバートがザフラ城館へ到着した頃合いには、空は今にも雨が降りそうな分厚い雲に覆われていた。
 かつて、アイバース公が愛妾バイダを住まわせていた、ザフラ城館。
 そこは、バイダの嗜好に合わせた贅沢な造りだ。
 およそ一人で住むには広過ぎる敷地と、部屋数だ。内部はどこも、目にも鮮やかな色彩と調度品だ。何もかもが豪奢で、過剰で、これみよがしだった。野心と美貌に物をいわせてのし上がった女に相応しい空間だった。
 この女主人が発作で急死した後、ラーヌン公はザフラ城館を活用しなかった。住む者は無く、数人の守番が管理するだけとなっていたのだが、
 ――そこへ今、大人数がやって来ていた。
 城館を徹底して整備・清掃をすべく、多数の男達が派遣されて来たのだ。さらに今夕、急に灰色となった空の下に、ラーヌン新公自身もやって来たのだ。
「昼食の時にここの話をしたら、一緒に行きたいと言い出したんだ。さすがに今回は連れてくる訳にはいかなかったが、まあ、無事に子供が産まれて落ち着いたら、すぐマテイラにも見せてやるつもりだ」
 カイバートは上機嫌だ。到着するや、出迎えた改修の責任者に次々早口で喋りかけてゆく。
「それで館の整備だが。会談の予定日を一月後に決めた。一月後だぞ。どうだ? 間に合いそうか?」
 言いながら館の中へと入った途端、騒々しさに圧される。
 大勢が声を張り上げながら天井や壁の埃を落とし、傷みを補修している。ぴかぴかに磨き上げている。女主人の没後に一度は白羊城へと運び出され調度品や美術品も、『全てかつてと寸分たがわぬように並べろ』との新公の指示通り、次々戻されていた。
「各地から大勢の客が来るんだ。とにかく磨き上げられるだけ磨き上げろ。派手で豪華な贅沢ぶりを徹底的に見せつけて、ラーヌンの威信を示してやるんだからな」
「そのような意図でここを会場に選ばれたのですか?」
不思議そうに口挟んだのは、白羊城から同行した白髪の男だ。今回の会議の進行役を担う事になった初老の官吏だ。
「確かにここは豪奢な館ではありますが、ラーヌンの威信を見せつけるのならば、白羊城の方が相応しいのでは?
 白羊城こそは、ラーヌン公国の象徴となる大城です。あそこの巨大さや堅牢さこそ、公国が持つ大いなる国力を見せつけるのに相応しいのではありませんか?」
「そうだな」
「ではなぜザフラ城館に? 実のところ、私に限らず皆が疑問に感じていた点です」
「まあ、俺が一度この館を使ってみたかったからかな」
「それが理由ですか?」
「そうだ」
 それだけ? こんなに多数の工人や使用人を動員し、大幅な金を掛ける理由がそれだけ? とは思ったが、勿論口にはしない。
 彼は、この主君が少年だった頃から良く知っている。全てにおいて独断を好む質だ。他人の口出しを許さない子供っぽい質だ。たった今も、それこそ子供じみた表情で機嫌の良さを示している。
「今日はもう日没で暗いが、明日朝、明るくなったら、館内の色が鮮やかに浮かぶだろうな。愉しみだ」
 大広間に入ると。一段とけたたましい騒音が耳を奪った。進行役は大声を張り上げなければならなくなった。
「会議への出席人数は二十人程度との事なので、当日はこの広間を議場に致します。会談後の饗宴でもまたここを使用したいと考えています。一方、先方が到着直後の軽食については、それぞれの個室へ給仕する予定としています。
 ちなみに、参加人数がこれ以上増えますと対応にかなり困難を生じてしまいますので、この点だけはご留意下さい」
「やはりこの部屋が一番金をかけているな。よくここまで調度品を並べ立てたものだ。
ほら、見ろよ。今掛けられたタピスリー。あそこまで大版の品は、白羊城でも見かけない。しかもけばけばしい図柄だ。こんな物まであったんだな。全然覚えてなかった」
「以前にもここにいらしたことがあるのですか?」
「昔、一度来た」
「知りませんでした。何時ですか?」
 答えない。カイバートの興味はもう隣室へと続く扉の取っ手に移っている。
「どう思う?」
「その取っ手の鉄細工ですか? 素晴らしい出来ですね。曲線の滑らかさが見事です。浮彫装飾も、細部まで凝っています」
「来るかな。ここに」
「来るって? キジスラン公子がですか? 外交上において公的に回答をしたのですから、必ず来ますでしょう」
「そうだな。伝える事がある。楽しみだ」
 たまたま横にいた家具職人が、飾り棚を磨く手を止めて振り向いた。
「新公様は、赤毛の公子と会うのが楽しみなのですか? 以前には、父親殺しとして公開処刑にかけると散々仰ってましたのに」
 純朴で遠慮のない質問だ。一瞬進行役はひやりとする。新公が機嫌を損ねて怒鳴るぞ、下手した相手を殴るぞと思ったのだが、
「会談を成功させたいだけだ」
 そうあっさりと答えただけだった。すぐにそのまま、当日の進行関連の確認・質問へと移ってしまった。
 今度は窓の方へ向かい、外を見渡す。目の前を流れる水路、それに貝殻型の噴水を、技師達が点検しているところだった。その後ろでは、庭師達が常緑の植木を整えている真最中だった。
 日没を目前に、灰色の空は急速に明るさを失っていた。風も強まり出し、樹々の葉が大きく揺れていた。
「明日からは天気が変わりそうだな。一月後に会談を迎える頃には、いつも通りの寒さが戻ってくるかもな」
「どうでしょうかね。天上の事は神のみが知りえますので」
「確かにそうだな。――どうなるかだ」
 流してみろ! との技師の声の許に、数年ぶりに水路に水が通されるところだった。その瞬間を見ながら、天上ならの地上のカイバートは淡と言ったところだった。
 ……
 結果として、その通りとなった。
 この夕刻をもち、季節外れの天候は終わった。肌寒い秋が戻った。
 日々に灰色を増してゆく空の下、ラーヌン公国とリンザン教国の間を、さらに書簡が一往復し、これにより、ラーヌン公国と連盟各国とが一月後にザフラ城館にて直接に会談を開くことが正式に決定した。

                ・    ・    ・

 こちらもまた、美麗な室内だった。
 こちらは対照的に、落ち着いた印象の装飾だ。淡い色調の壁に、繊細な草花紋様が描かれていた。家具も調度品も少な目で、しかし一つ一つの趣味の良さが際立っていた。静謐を感じさせるリンザン宮殿の居室だった。
 日没を前に、室内の静けさが深い。卓上の花の芳香が甘い。美しい眺めを持つ窓には紗織の日除けが下ろされ、外は見えない。薄暗い。
 長椅子に座したまま、キジスランは自分の呼吸が喉をかする感触を覚えていた。
『カイバート新公本人も出席されます。貴方様の出席を希望しています』
 こう告げられた瞬間から、思考が恐慌に近い動揺に捕らわれた。
 なぜ?
 白羊城へ戻る為の日々だったのに。――あの男に会う為に、その為に逃亡や拘束や拷問も経験し、それらをも切り抜けてきたのに。
 現実を考えようとすると、現実が遠のく。物を考える事に、苦痛を帯びてゆく。日ごとに喉が締まり、苦痛の感覚が強まってゆく。
「キジスラン公子。お話があります。扉を開けて下さいますか」
 扉の外からの声に、振り向かない。息が苦しい。
「明朝の、ザフラ会談への事前打合わせですが、レイバール国の駐在事務官も出席となりました。これにより、議事の内容に変更があります。事前にお伝えしたいので、少しお時間を取れますか」
 騎士団の書記の声を聞くのが辛い。怖い。
 着々と時間が進んでゆくのが怖い。現実の前に押し出されてゆくのが怖い。押し出された果てにあの男と会い、自分はどうすれば良いのかが解からず、だから怖い。
「扉を開けて下さいますか。聞こえていますか」
 怖い。あの男と会えば、確実に自分は乱される。予想も出来ない場所へ進まさせられる。
「聞いてられますか。お応えが無いのは、いまだ御体調の不良のゆえですか?
 明日の会議には、リュシナン騎士団総長も御参加されます。出来るならば御欠席は避けて欲しいのですが」
 怖い。枯れる直前の花の芳香が辛い。吐き気が込み上げる。頼むからもう現実を進めないでくれ。
「もしどうしても御欠席という事であれば、早目にお申出下さい。先回のようにいきなりの御欠席となると、リュシナン総長に極めて悪い覚えを与えるかねません。
 聞いていられますか。公子。今、御体調が酷いのですか? 大丈夫ですか?」
 卓上のレモン水の杯を掴もうとして、うまく手に力が伝わらなかった。床に落とした瞬間の破砕音が頭の芯を刺し、思わず大きな悲鳴を上げた。と同時、吐気を堪え切れず、床に戻した。
「公子っ、どうされました? 何か有ったのですか? この扉を開けられないですか? 合鍵を使ってよろしいですか?」
 答えない。怖くて答えられない。もう嫌だ。どうすればいいんだ。
 見えない窓の外で、リンザンの空は日没を迎えている。空の色合いがゆっくりと濃くなり、そして薄れてゆく。その間にも、時間は僅かずつ流れてゆく。
 ……時間は進み、一月後の会談の日が迫ってくる。


【 その一月後に続く 】


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