第7話

文字数 12,631文字

7・ その七日後

 凄まじい勢いで伝令兵は城門へ突入する。瞬く間にハルフ広場を横切るや、まだ完全に止まり切っていない馬の背から飛び降りる。そのまま一気に南棟の大階段を駆け上がり、通廊を走り、角を曲がり、南棟の三階に達する。西奥にある小執務室へと駆け込み、途端、喉の奥から叫んだ!
「サギーラ城塞より伝令!」

 出陣から七日。
 この間、ティドリア域中の耳目はサギーラ城塞での小さな攻城戦に集まっていた。何かにつけては奔放を噂されていたカイバートという若者と、彼の率いる軍勢の動向について、興味深々に注視していた。
 勿論、最も気を揉みながら注視していたのは、ラーヌン公国だ。公国の王城・白羊城に居る二人、――宗主として父親として、不安と期待の両方を抱いているムアザフ・アイバースと、内面での強い執着を淡々の顔に隠す義弟・キジスランの二人が、食い入るように注視をし続けていた。
 そのカイバートからの初めての戦報が今日、出陣の七日後。ついに届いたのだ。

「サギーラ城塞よりの戦況報告をアイバース公に!」
 室内にいたアイバース・キジスラン・文官達四人は同時に振り向く。素早くアイバースが立ち上がった。腰に差していた家長の剣が卓にぶつかり、鈍い音を立てた。
「遅いぞ! どうしてカイバートもジャクムも今日まで一度も報を送ってこなかった! まさか途中で伝令に何か起こっていたのか!」
「違います、公っ。白羊城へ送り出された伝令は私が最初ですっ」
「どういうことだっ、なぜ報を寄こさないっ、カイバートは何を考えてるんだ!」
 使者が進み出て来るのも待てない。大股の七歩を踏み出す。使者の握る書簡をつかみ取るや、アイバースは封蠟をちぎり開けて書面に目を走らせてゆく。みるみるうちにその表情が歪んでゆく。
「皆、去れ。出て行け。――キジスラン、お前は残れ」
 書面から目を離さずに命じた。
 文官達全員立ち去った後、アイバースはようやく目を上げた。赤毛の息子に書簡を投げつけて渡したのだ。
「全く……、あの阿呆野郎が……!」
 出兵に伴い、白羊城内は普段と比べて人の出入りが減っている。家具も装飾もがらんと少ないラーヌン公の小執務室内では、静けさが一層に目立っている。午後の長い陽射しを受ける中、父子は二人きりになっている。
「見事に戦闘の段取りを無視しやがって! 城塞側からの交渉の申出を無視し、いきなり攻城戦に突入し、その果てに開城成功だと?」
「あの人らしいですね」
 読み終え、淡と答えた。自分の内面に湧き上がる熱い高揚感は絶対に隠した。それとは対照的、父親は真っ向から興奮を示す。
「戦場における許されない仕出かしだぞ! 何やってるんだっ、あの阿呆は解ってやってるのか!」
「おそらくは解ってやっていると思います」
「そこまでして世間に自分を見せつけたいのか?
 まずはこちらの軍備を見せつけ、有利を見せつけてからの交渉だ。交渉で様々の難癖を付け、その上で初めて戦闘開始だ。その後も局面ごとに交渉を重ねていき、どんどん有利な条件を引き出してゆくのが攻城戦の常道だろうがっ。それをいきなり襲い掛かって攻撃をかけるなど!
 おそらくティドリア中が非難するぞっ。“丸切り野盗のやり口だ”との悪評だらけになるぞっ。正にその通りだがなっ」
「カイバートならばそんな評は気にしないでしょう」
「ティドリア域中を挑発しやがって! 餓鬼が!」
 大きく怒鳴った!
 ……やっぱり、やりやがった。
 あの自己主張の強すぎる息子は、本当に狙ってやりやがった。常道を壊すことで世間を、ティドリア中を騒がせて、己を絶対の注目の的にしやがったのだ。
 薄々に予感はあった。だからあの時、明るい陽の射す軍議の場で、躊躇した。でも、見てみたいと思ってしまった。父親である自分に対してすらも上位に立ちたがる息子が、実際にどれ程の力量を秘めているのかを見たいと欲し、結局その欲求に負けてしまったのだ。
「救いようのない糞餓鬼が!」
 怒りを覚える。だが怒りの中には、何か熱い情動が混ざっている。丸切り、初めて傭兵の派遣業に打って出た日のような快感混じりの情動だ。なぜ今、それを覚える? 自分はあの息子に何を欲しているんだ?
「誰かいるか! 返書を書くから書記を呼んで来い、伝令兵も用意させろっ」
 通廊に向かい大声で命じた直後、アイバースは椅子に身を投げた。思いっきり息を吐いた。ふと目を上げた。
 ……もう一人の息子が、自分を見ていた。
「何か言いたいのか。キジスラン」
「いえ」
 息子が、自分を見ている。いつも通りの、冷めた無表情に見える。
 窓からの日差しを受けて、無表情も赤い髪もくっきりと見える。今さらながら、異腹の義兄とは何一つ似たところがない顔を、そして存在感を、こんな時なのにあらためて認識する。
「――」
 窓の外から、鳥の声が聞こえている。城の外壁に巣をかけた鳥達の雛が、順調に育っているのだろう。小さな鳴き声が聞こえることで、白羊城内に人が少なく閑散としていることを告げている。
 午後の強まる光の許、キジスランが静かに自分を見ている。
「――。明日の朝、市庁舎で評議がある。お前が行って戦況報告をしろ。勿論、このままでは公表できないから、手直しを加えるがな」
「私が?」
「そうだ」
「評議への報告ならば、いつも貴方の秘書官がやっている業務です。なぜ今回だけ私がやる必要――」
「黙れ。お前がやるんだ」
 命じた。
 また、静寂になる。雛鳥の声が聞こえる。親子は互いの顔を見交わし続ける。
 キジスランは決して勘が強い方では無かったが、それでもこの命令が、父親が自分を思いやった上でのものであると察することが出来た。
“お前も兄同様に、自身の存在を公に見せておいた方が良い
兄程ではなくとも、少しずつでも己の存在感を示した方が良い”
「それからお前には教師をつける。貿易や財務、それに特に外交術についてを専門的に学べ」
「なぜ突然にそんな事を?」
「別に突然じゃない。前から考えていた。学べる時間がある内に、何でも学んでおけ。それがいつ自分を助けることになるか分からない」
 またもキジスランの勘は動いた。自分を真剣に見る父親を見返しながら、本当に珍しくも悪戯心を見せた。ほんの少しだけ笑った。
「『いつ自分を助けることになるか』の言う“いつ”とは、いつの事ですか?」
「――。俺に言わせる気か?」
“お前と最悪の仲の兄が公位座に就いた時に、白羊城外で、公国領外で穏便に生活できるように、何かしらの技量を身に付けておけ”
 さすがに口にするのははばかられ、父親もまた苦笑を覚える。
 目の前で、赤毛の息子が笑んでいる。息子の素直な笑顔を、初めてみた気がする。今、この無口な息子が自分に好意を持っていることを、敏感にアイバースも感じる。こんな事態の中思いがけず、互いが互いに親愛を抱いていると感じ取る瞬間となる。
 と。
「動くな」
 命じた。一転の強い眼で。
「お前の母親だ。バイダだ」
「え?」
「一番惚れていた」
 虚をつかれて驚く。いきなり何を言い出すんだ、父親は?
「どうしたんですか? なぜ急にバイダ夫人――」
「黙れ。聞け。貴様に告げて置きたい。俺はバイダを一番愛していた」
「――」
「あの女と肩を並べて、人前を堂々と歩きたかった。婚姻を結びたかった。
だがあの時は、ラーヌン公国を手に入れる千載一遇の機だった。俺はとにかくラーヌンが欲しかった。とにかく先にラーヌンを掴み取り、それから機をうかがった上でバイダを白羊城に迎える事を考えた。
 ラーヌン公位を得た後、早々にサングル家の正妃と離縁してバイダと婚姻するという強引も出来なくは無かった。だが、それをやる勇気は無かった。せっかく手に入れた公国に不安定の種を蒔くのが怖かったのだ。だからやらなかったのだ」
「――」
「もしあの女を強引に公妃に就けていたら、お前とカイバートの関係はどうなっていたんだろうな」
 午後の深い陽射しが入って来る。父親の表情が引き締まっている。
 思っているのだろうか。己の判断によって兄弟の命運が、特に目の前の二番目の息子の命運が大きく変わった事を。
 だから今、息子の顔を見ながら、長い告解をするのだろうか。
「あの頃――、まだ公座について日も浅かった頃、やっと正妻の公妃がカイバートを産んで一年が経った頃。
 白羊城にはまだ、俺の足を引っ張ろうという連中がうようよいて、そんな連中はバイダがお前を産んだと知ると、一斉に緊張を示した。なにせ俺が愛していたのはお前の母親だけだと知れ渡っていたからな。次のラーヌン公の指名について、俺が妙なことを言い出すのではと動揺し出したんだ。
 だからお前を、暗殺の危険もある白羊城内には置けなかった。城から遠い場に移すことにした。
 それをバイダに告げた時だ、あの女はいかにもあの女らしく、――俺はあの時の口調と顔まで覚えている――、こう言った。
『子供をどこに移そうと構わないわ。でも私は一緒に行かないわよ。貴方から離れて僻地なんかに行くものですか。私が愛しているのは貴方だけ。子供はどうでも良いわ』。
 母親を恨むなよ、キジスラン。そういう高慢で身勝手で図々しい所に俺は惚れこんでいたんだ。
 とにかく、お前の存在を目立たせる事は出来なかった。だから俺は、里子に出したお前に会いに行くことも控えた。だから――」
「――」
「この件でお前が俺を恨んでいるとしたら、許して欲しい。キジスラン」
 恨んでいるかだって?
 恨んで無い。鳥の声の響く室内でキジスランは思う。
 この父親が常に自分を愛してくれているとは、白羊城に来た時から感じ取っていた。その想いは日々を経るにつれて、一層に強まっていった。例えばこの数日間、自分を呼び出して執務に付き合わせているのも、その気遣いの一つだろう。
 自分が妾腹であったり、里子に出されたり、母親に見捨てられたり、父親に会ってもらえなかったりという過去に何一つわだかまりが無かったかと言えば、それは嘘になるかも知れない。だが今。目の前の真剣に自分を見る顔立ちだけで、その小さな棘も消えたと実感した。充分に補われたと感じた。ただ、でも。それでも。
 ――もしも。
 もしも、この父親の傍で育っていたら、自分はどのような自分になっていたのだろうか?
 あの男と似たように育ったのだろうか? あの男のように成れたのだろうか?
 ……長い沈黙になった。
 アイバースは恋人と息子に対する負い目をまだ引きずっている。黙している。
 キジスランは、そう思ってくれる父親に情愛を覚えている。この父とはいつまでも信頼を結べると感じている。だからこそ、父親の最愛者の――母親の真相を隠していることに、強い罪悪を覚えていく。
 言うべきなのだろうか?
“私は、貴方が愛したバイダの死の真実を知っています。
 でも、それを告げれば、貴方の現実が一変します。貴方を途方も無い混乱へと陥れてしまいます”
 そう分かっていても、それでも真実を告げるべきなのだろうか?
 ……長い静寂は、控えめに扉を叩く小さな音によって遮られることになった。
「――。私が、御二人の執務の邪魔をしていないことを、聖者様にお祈りいたします」
 タリア夫人だった。本当に遠慮がちに、扉の隙間から顔を半分だけ覗かせるようにして、彼女が訪れてきた。
「本当に申し訳ありません。ごめんなさい。殿。今、お声を掛けてよろしいですか?」
「何の用だ」
「少し半端なお時間ですけれども、もしお腹がお空きでしたらお食事はいかがでしょうか? 今日は来客が少ないようですし、お二人と御一緒にお話をしながらお食事が出来たならばと……」
「お前が食事に誘いたいのはキジスランだろう?」
 平然と言った。
 図星を突かれ、すぐにタリアの頬は羞恥に赤くなる。驚いたのはキジスランの態だ。彼は驚きと困惑を真っ向から示すという子供じみた素直を顔に出していたのだ。その稀有な純情の顔を、アイバースは親愛をもって愉しんだ。
「キジスラン。お前の義母はこのところずっと俺に不満を訴えていた。俺のお前への態度が、義兄へと比べて余りにも冷淡過ぎるとな。そのせいかお前の表情がずっと暗いと。見ていられないと。何とかしろと。
 ――何している、早く行け」
「え?」
「さっさと一緒に食事に行け。母親がここまで気を遣っているんだ。断る事は許さないぞ」
 恥ずかしがる妻も、返答に戸惑う息子も意に介さない。アイバースは椅子から立ち上がると通廊に向かい、書記はまだなのかっ、何してるんだ、早くしろっ、と再び叫ぶ。
「お前も母親の事は嫌いじゃないだろう? 早く行け。たまには二人でゆっくり話でもしろ」
 なぜなら、若妻の指摘が正しいこともアイバースは自覚しているのだ。
 その通りだ。この半年間、対照的過ぎる息子二人への対応に、自分は困難を覚えていた。兄弟の不仲を何とかすべきなのに、何もしていない事に負い目があったのだ。だから優しい若妻がキジスランに気遣ってくれることが、素直に有難かったのだ。
 その若妻自身もまた、白羊城で居心地の良くない日々を送っている。それに気づきながら何もしていない事もまた負い目だ。
「早くしろ、早く行け!」
 強い口調には、家族への純粋な愛があった。躊躇で動けない息子も、恥ずかしくて入室出来ない妻も、彼は愛おしいと思った。もう一人の息子への苛立ちも今は抑えられた。あの息子に情愛を抱いているのもまた事実なのだし。
「なぜ書記は来ないっ。首を絞められたいのか!」
 叫びと共、アイバース自身が先に通廊へ行ってしまう。大股の足音が石床に響き、やがて消えてしまう。
 そしてようやく、キジスランも椅子から立った。
 扉口で待っているタリア夫人が強張りながらも笑ったのが、印象的だった。

 公妃と、その足元にまとわりつく白い仔犬と共に、キジスランは初めてラーヌン公妃の私室へ入った。彼にとっては、三つ目となる母親の部屋だ。
 一つ目は、僻地の小さな館の、およそ殺風景で何の面白味も無かった養母・里親夫人の部屋。二つ目は逆に、これでもかという嫌みなまでの徹底さで贅沢と豪奢を見せつけていた生母・バイダ夫人の部屋。
 そして今。三つ目。
 東棟にある義母・タリア夫人の部屋は、いかにも若い女性らしい、清潔な印象だった。飾られてている絵画や織物は皆、女主人の気質に相応しい控え目な主題ばかりだ。衣装箱や書机の上に飾られた花々も穏やかな色合いでまとめられ、柔らかく、優しい空気を生んでいた。
 二人と一匹が入室するや、中にいた四人の侍女達は賑やかなお喋りを止めて出迎えた。彼女達の後方ではすでに、三人分の錫皿が並べられた卓が準備されていたのだが、
「やっぱり、ここは陽当りに問題があるわ」
 珍しくタリアがはっきり言った。
「これからの時間だと陽が入らなってしまう。風が抜けると肌寒いし、薄暗い雰囲気になってしまいそう。こんな機会は中々ないから、せっかくだから一番良い場所でお食事を取りたいのに……。
 ――やっぱり、西棟の角の客間にするわ。あそこなら充分な陽当たりのはずだから」
「え? 今からですか?」
 今からあっちに支度を? ここから一番遠い西棟に? 本当に今から? と、思わず歳若の侍女が本音を続けかけたのを、隣の同僚が肘鉄で諫めた。
 彼女達の女主人は、公国で一番地位の高い女性なのだから。にもかかわらず控え目過ぎて、普段は何の要求も口にしない人なのだ。今回のように何かを積極的に注文してくるなんて、本当に珍しい事なのだから。
「西棟の客間はずっと使われていませんから、男手も呼んで室内を整えさせないと。今からの準備となるとかなり時間を取ってしまいますが、よろしいですか?」
「相当にお時間がかかりますよ。お腹がお空きならば先に軽食を運びますが?」
「干し果物ならば今すぐに準備できますが? 召し上がります?」
「では、あちらが整ったらお声をかけます。それまでこちらでお待ち下さいませ」
 侍女達はあれやこれやを細々と訊ねて確認し終え、ようやく動き出した。卓上の皿やら花やら布地やらを両腕に抱え、騒々しいお喋りを再開させながら部屋を出て行く。城の反対側に当たる西棟までの長い道のりをたどっていく。
 そして、静寂になった。
 二人だけになった。
「こちらにどうぞ」
 とりあえずタリアは息子に、部屋奥の長椅子を勧める。自分はその向かいに腰かける。
「……」
 窓から小鳥の声が響いてくる。
 時折に下方から人声も聞こえてくる。だが随分と遠い。互いが気まずい沈黙に陥っていることに気づき、彼女は仔犬を抱き上げた。犬をあやすことで何とか間を持たせた。
「タリア夫人。この急なお招きですが――」
 キジスランもまた静寂を破りたかった。同時に純粋に知りたかった。
「何かの理由があったのですか? 先ほどアイバース公が言った事ですが、私について公に何を語られたのですか?」
「その事だったら……、でも、その前に――、
 確かに――私といても面白くないわよね。ごめんなさい、無理矢理に誘ってしまいました。本当にごめんなさい」
 犬を見たまま、ぎこちない困り顔だ。
「貴方は白羊城でいつも一人だし、アイバース殿も何となく貴方に対しては冷たい気がして……。少しでも貴方と殿とがゆっくりと執務以外のお話をする時間を作れたらと思って……。
出しゃばってしまったわ……。本当に、余計な事だったわね」
「そんなことは有りません。気遣いを嬉しく思います。それから公もまた、私にはいつも気遣ってくれています」
「……でも、気になっていたから。
 だって殿は、先日のカイバート公子の出陣式にも貴方の列席を禁じたり……。貴方にばかりぞんざいな扱いをするから」
「それは違います。公にはしっかりした考えがあって、その上で私に部屋に留まるように命じただけです。おそらくあの時は、群衆の注目をカイバート公子にのみ集中させたいと判断を下し――」
「分かっているわよ。でも、貴方は良いの? いつだってカイバート公子だけが、欲しい物を全て取っていくわよ。しかもカイバート公子は、なぜか貴方の事を毛嫌いしているとしか思えないから、怖い」
「――」
「怖くて……。だって、貴方の事が、心配だから」
 父親と一緒だ。
 この義母もまた、自分を心から気遣っている。そして自分とカイバートとの反目を危惧している。未来を不安視している。
 目の前、言葉の通りの心配と、それを上回る愛情を込めて自分を見ている。父親以外からそのような感情を向けられるのには慣れていない。どう応ずれば良いのか分からず当惑するのに、なのに同時に体の中には自然と柔らかい感情が生まれてくる。
「私は、不安です。本当に貴方にとってのこの先が、危うくなる気がする。だから、気を付けて」
 気持ちが嬉しい。嬉しくて、だから胸苦しい。
「もし今回の遠征で戦功を立てたら、あの公子の白羊城内での存在感は一層に強くなります。そうなれば今以上に強気に出るに違いありません。
だから怖い。貴方をいよいよ追い詰めていくのが目に見えるようで、怖い」
「――」
 それなのに、
「キジスラン。お願いだから気を付けて。あの公子は恐ろしいから。本当に恐ろしいから。平気で人を傷つけて、踏みにじるから」
 ふと、気づいたのだ。
 義母の口調と表情が、妙に強い。普段の控えめの印象を消し、強く訴えてきている。その変化にキジスランは明らかな奇妙を、疑問を覚えた。
「……タリア夫人? もしかしたら貴方は、カイバート公子を嫌っているのですか?」
「――」
「貴方とカイバートとでは、接する機はほとんどないと思っていました。顔を合わせる事すら少ないように。
 それなのにその様に強い警戒と嫌悪を示すのには、何か理由があるのですか? 彼から何かを受けた事があるのですか?」
 陽の射さない静かな室内に、タリアの顔が硬くなる。動きを止める。仔犬がじっとその顔を見ている。
「タリア夫人?」
「……。アイバース殿はお優しいから――。貴方に何も言ってないのね」
「何の事ですか?」
「それに貴方も、人の噂は全然聞かない人みたい。それとも殿か、でなければカイバート自身が、皆の口を黙らせたのかしら……。本当に、何も知らないなんて――」
 眼が赤みを帯び、感情の昂ぶりを示す。やっと唇を開く。
「私は今、ラーヌン公妃です。ですが、
 ――本当ならば、ラーヌン公子の妃になるはずでした」
「え!」
 思わず大きく発してしまい、驚いた仔犬が振り向いた。目の前ではラーヌン公妃が僅かに涙を溜め出した。
「元々は、その様な縁談だったから……。年齢を考えても釣り合いが取れているし。アイバース殿も、正夫人とバイダ夫人の御二人を立て続けに失われたばかりだったし。でも、そうはならなくて……」
「一体何があったのですかっ」
「……。問題が――」
「ですから何が? どうしてカイバートと破談にっ」
 大声になってしまう。だって驚きじゃないか。そんな話があったなんて全く知らなかったじゃないか。丸きり相容れない二人が――、
 強く、鋭く、あくまで派手を好み続けるカイバートと、
 どこまでも大人しくて控えめで、常に身を小さくしているタリアと、
 呼吸する空気すら異なるのではと思えるほど異質の二人が、そんな二人が婚姻するはずだったなんて驚きじゃないか!
 驚きはあっと言う間に焦りへ変質する。早く知りたい。この婚姻話に何があったのか。あの男との間に何が有り、どうして破談になったのかを今すぐに知りたいと焦る。そのまま発してしまう。
「もしかして、カイバートが貴方を拒絶したのですか?」
 タリアの顔色が変わった。
 はっとする。言ってしまった言葉が相手を傷つける物で、しかも図星だったとキジスランは一瞬遅れて気付いたのだ。
「いえっ、変な事を言ってしまいましたっ。――ただ、貴方とカイバートとではあまりに印象が異なると感じて――だから――」
「――。いいですから。その通りですから……」
 もう遅い。タリアの眼は哀しみへと大きく歪んでしまっている。だがそれでも優しく笑んで、答えてくれる。
「貴方の言った通りだったと、後になってから、私も聞きましたから……。
 その時――殿がカイバートに私との婚姻を命じた時、彼は強く拒否をして、絶対に従わなくて――。それこそ誰の訓告も無視して、果てには殿と大喧嘩になって……、それでも拒絶し続けて――。
 最後には殿が、“自分の息子は子供過ぎて、事の重大さも婚姻の意味も女性の価値も全く理解できないのだ”と公に発して、そして――。結局、御自身が私を迎えて下さったの……。貴方が白羊城に来る半年前の話」
「――」。
「この件は、散々に噂になって、だから皆も知っていて……。今も城の人達の多くが、私を見ながら心の中では面白く笑っているでしょうね……」
「いえ。そんなことは有りません。私はそう思いません。少なくとも私は、心から貴方を敬愛しています」
「有難う。優しいのね、キジスラン。でも――
 ……仕方ないわ。あれだけ華やかのものを好むカイバートが頑なに拒否するのも、仕方ない事でしょう?」
 タリアが泣き出しそうに、でも懸命に微笑んだ。
「もし……もしも神様のお計らいで、私の見目が今より少しだけでも良かったら……。
少なくとも……婚姻話が出た時に“花嫁は不美人”との前評判が出ない程度の見目であったら……、そうだったらね。会ってもない内からいきなり拒絶されるようなことも無かったのでしょうけれどね。
 ――そう思わない? キジスラン」
 やっとそこまでを告げてくれたのに、
「もしかしてカイバートは事前に、貴方の姿を見ていたのでは? だからでは?」
「――。え?」
 はっきりとタリアの顔色は変わったのだ。
 呪われろ、舌!
「いえ! 違います!」
 魔物に呪われろ! 今度こそ呪われて潰れろ!
 何て事を! 常に自分に優しい義母に対して! 優しいのに、でもその優しさに容姿が追い付いていないと自ら思い込んでいる女性に対して何て事を!
(違う! タリア夫人、違うんです!)
 猛烈な悔悟と共にキジスランは言いたいと欲する。ついに涙を落としてしまった相手に、瞬き一つでも早く真意を伝えたいと欲する。
(私も貴方と一緒なんです! 白羊城に来た瞬間からカイバートの憎悪を受けているんです! それがなぜなのか、ずっと考えて来たんです!
 それはもしかしたら、過去に私が彼を見たように――彼の決定的な行動を見てしまったのと同じように――、実は彼もまた遠い昔から自分の事を見ていたのではと。そう考えていて――、だから貴方もまた事前に見られていたのではなどと思ってしまい……!)
 駄目だ、この事は絶対に言えない。だが目の前でタリアは、ぽろぽろと涙をこぼしてゆく。
「違うんですっ、貴方の容姿とか、その様な意味ではありません……っ、そんな意味では決して――!」
 絶望的な眼で泣きながら、それでも必死に笑っている。
「気にしないで……、貴方がそう思ってたとしても……、だって、本当のことだから。
 ――本当に……私がもう少しだけ美人だったら良かったのにね。そうだったら今頃私達は、どんな家族になっていたのでしょうね……」
「タリア夫人っ、私はそんな事を思っていません! 許して下さい、ただカイバートについて私――」
「貴方が正直な心を見せてくれる方が嬉しいから……、だから、お願い。もう黙って」
「いいえ! 聞いて下さいっ、言いたかったのはカイバート――」
「いいから! 黙って!」
 おもむろに立ち上がった。一言も発せなくなった息子の前を横切り、奥の続き部屋に去ってしまった。
 仔犬が甲高く鳴いて後ろを追いかけていく。残されたキジスランは自分の軽卒を猛烈に後悔する。後悔の中にあり今はもう躊躇をする余裕すらない。迷うこともなくそのまま追いかけ、公妃の寝室となっている続き部屋へ入ってゆく。
「謝罪をさせて下さい」
 窓を閉めた薄暗い室内の一番奥。仔犬が足元から主人を見上げている。壁にかかる一角獣のタピスリーの前に、彼女は立っている。背を向け押し殺すように泣いている。
「謝罪を。お願いします」
 もうこちらを向かない。すすり泣く声が低く聞こえる。
 相手にされない仔犬が諦めた。寝台の上に飛び乗り、座り込んで頭を垂れた。キジスランは彼女のすぐ後ろに立つ。相手の体が小さく華奢であることに初めて気付く。
 自責に潰されそうな中、この女性がずっと自分に優しく接してくれた存在だった事、ずっと緊張の中にいる自分を静かに見てくれた存在だった事を思い出す。白羊城に馴染めない者同士として、どこかで共感し合い、どこかで惹かれ合っていた事も。
 今だけは、己の感情に従いたいと欲した。腕を伸ばして、相手の肩に触れた。肩に腕を回した。体を相手の背中に付けた。
 タリアは、動かない。背中に相手の鼓動を感じている。
 この抱擁に偽りがないことを素直に受け止める。例えこれが偽りだったとしても、今の彼女は拒まなかっただろう。居心地の悪い白羊城の中で、この相手は唯一、距離の近さを感じさせる存在なのだから。
 首に回された腕を、右手で握った。
「もし貴方が、もう少しだけ早く白羊城に帰ってくれていたら――」
 薄暗く、物音がしない。仔犬の黒い眼がじっと見ている。
「もう半年早かったら……。もし、カイバートで無く、殿でも無くて、貴方が――。最初から、貴方が相手だったら……」
 でも、現実はそうならなかった。――キジスランの心の隅の酷く冷めた場所が、冷静に告げてゆく。
 もし最初から彼女と婚姻していたら、決して今のような感情は覚えなかっただろう。夫から妻として見られない義母と、自己の問題以外に目を向けることが出来ない義息として出会っていなければ、自分達は相手に向かいこのような感情を抱かなかっただろう。
 解っている。自分が執着するべき相手は彼女ではない。
 でも、今だけは愛おしい。彼女が柔らかく、温かい。
 タリアが振り向いた。はっとするほどに美しい、澄んだ眼で真っ直ぐにキジスランを見た。
 仔犬が無言でじっと見つめている中、そうなる事が当然のように両者は深く唇を重ねた。

 仔犬の他にも、二人を見ていた。息を詰めて、見ていた。
 ……
 元をたどれば、彼女は苛立っていた。
 白羊城内の真反対側という途方も無く遠い道のりを、一番重たい錫製の皿を持たされて歩かされた。さらにその道のりを再びたどって女主人を呼びに行くという役も押し付けられた。自分が侍女達の中で一番年若だからという、どうしようもない理由で。
 だから西棟からの延々続く長い通廊を戻りながら、彼女は強く苛立っていた。
 いや。違う。さらに元をたどれば、苛立ちの根っ子はこの職務だ。
 若い新公妃が白羊城に馴染めないとの事で、歳の近い自分が侍女に呼ばれた時には、思わず聖女様達全員の名前を叫んで喜んだ。ただの市参事の娘でしかなかった自分が、これからはラーヌン公妃付という華やかな場所に入るのだ。そこでの華やかな毎日が自分を待っているのだ。
 楽士や道化師を呼んで楽しんだり、指物師や細工師を呼んで服や小物を選んだり。勿論毎日の様に多くの客が訪れてきて、優雅な会食を準備して、華やかなお喋りの相手をして……。そうなるのだと思っていたのだ。
 だが。――何も起こらない。
 胸躍る出来事など、何にも無い。女主人が大人し過ぎて、地味過ぎて、いつも独りでいたがって、だからなんにも起きないのだ。この一年にあったのは地味な日常という、ただの退屈な時間だけだったのだ。
 せめて子供でも産まれれば一気に賑わうだろうけれど、親子ほども歳の離れたラーヌン公とは不仲ではないとは言え、ほとんど寝室を共にすることも無いし。
 この女主人の横で、この先もただ詰まらない日々が続くのだろうか。ずっとずっと何も起こらず退屈で、ずっとずっと年月だけが過ぎてゆくのだろうか。
 そんな事を考え、不満と苛立ちを背負いながら公妃の部屋までの長い道のりを戻って来たところだったのだ。それが、それなのに、
 こんな事が起こるなんて! 
 見てしまったなんて。母と息子で――、寝室で――!
(聖女イリア様……っ)
 こんな事が有っていいの? あの大人しいだけの女主人は、こんなことを仕出かす女だったの!
 絶対に声は立てられない。扉の影から、息すら殺すように抱き合う二人をじっと見ている。何も出来ず、ただ喉を潰して凝視だけを続けていると……、
(聖オードーリア様!)
 通廊の遥か角の向こうから、同僚の侍女達の声が聞こえだしたのだ。あまりに自分が戻るのが遅いので、追いかけて来たのだろうか。思わず喉が勝手に『万物の行く末は総じて神の御意思の許に』から始まる聖女オードーリア伝の聖句を呟いてしまう。
(どうしよう! 聖女オードーリア様、聖女レイジス様っ、どうすれば良いのですか……っ)
 とにかく今すぐに皆を引き留めた方が良いの? どんな理由をつけて? それとも思い切って公妃に声をかけた方が良いの? そんなこと自分に出来る? いいえっ。無理。でも、でもならばどうすれば! でも――やっぱり神様。やっぱりこんな事――。
(こんな事があって良いのですか……っ、良いはずありませんよね、良いはずありませんよねっ、聖女レイジス様っ、諸聖女様!)


【 続く 】
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