第10話

文字数 9,263文字

10・ その一年後

 明日は、聖ラビーウの祝日だ。
 今年の春は気温が高い。丸切りもう初夏に入ってしまったかのようだ。たった今もまだ朝早い頃合いだというのに、陽射しは眩しいほど強く明るい。

「キジスラン」
 唐突の声に、喉を鳴らしていた鳩達が声を止めた。
 キジスランもまた、振り返る。そこに父親の姿を見て取り、驚き僅かに息を飲む。
 ムアザフ・アイバースは、今日も堂々の貫禄を見せていた。小豪族の五男という出自から才覚のみでラーヌン公国の主となり、国に安定と発展を導いた力量者に相応しい、強い精力の印象を見せつけていた。
 腰にはいまだに一族当主の――即ちラーヌン宗主の象徴である、家長の剣を差している。その剣先を僅かに揺らしながら、彼は日陰となっている階段口から近づいて来る。
「久しぶりだな。こんな所で何をしていた?」
「――。ラーヌンの街を見ていました」
「街か? 見ていて面白いのか?」
「はい」
「そうか」
「――」
「全く同じことを言うな、奴と」
 アイバースが息子の横に立つ。同じ様に、はるか眼下に広がる街の全景を見通す。
「カイバートもそう言っていた。奴も子供の頃からよくここに来ていた。『この鐘楼が白羊城の中で一番高い場所で、ラーヌンの街もその郊外も良く見渡せる。だから城の中でここが一番好きだ』と、全く同じ事を言っていた」
 親子二人は、白羊城の南棟にそびえる鐘楼にいた。
 後方には、巨大な鐘が吊るされている。この一年の間、世間には平穏と安定が続き、市民に変事を告げるような事態は無かった。鐘は眠り続け、銅色の曲線の上に黄色を帯びた埃が薄っすらと溜まっていた。
 そして前方にはラーヌンがある。眼下には白羊城内・ハルフ広場が、その向こうにはラーヌンの街の赤い家並みがある。家並みの隙間に走る大路や広場に、小さな点となった人々が絶え間なく動いているのが分かる。今朝もラーヌンが変わらぬ活気をたたえているのが分かる。
 ……
 ちょうど一年を経ていた。
 一年前の聖ラビーウの日、カイバートは華やかな勝利に彩られて帰還した。その夜の祝宴でいつものように散々に酔い騒ぎ、そしてそれが最後になった。
 翌日から、カイバートは変わった。遊びの時間はもう終わりと言わんばかり、彼は次期ラーヌン宗主として政務を学ぶことを始めたのだ。
 それまでの奔放勝手を完全に止め、父親や政務官にぴったりとつきながら地味な文務を勤め出した。派手な細身の胴着から地味な長衣へと着替え、白羊城内にこもっての細かな執務へと没頭し始めたのだ。
 その姿はいかにも不慣れで稚拙で、時に周囲の失笑を買うこともあった。だがカイバートは気にしなかった。人目など鼻にもかけず、失敗を繰り返しながらコツコツと実務を続け出した。地道に、しかし着実に、将来の宗主として必要な力を習得するべく、努力を重ねていった。
 文務を始めた頃から伸ばし始めた髪が首の後ろで結べるようになった頃には、彼の粗暴の質を危惧していた者達も口をつぐむようになっていた。それどころか、次代の宗主として期待感すら淡く覚えるようになっていった。――一年の時間の後。カイバートは君主の器を身に付け出していったのだ。
 そしてもう一人の公子については。
“ラーヌンの赤毛の公子は、到底異母兄の競争者に成り得ず。注視の必要は無し”。
 一年前、散々キジスランの一挙手一投足に注目していた人々も、とっくに結論づけていた。すでにラーヌン公国の道筋は確定し、そこに赤毛の公子はいなかった。キジスランは忘れられた。
 忘れられたまま、キジスランは十七回目の眩しい春を迎えていた。
 ……
「おい。真下を見てみろ」
 鐘楼の手すりに身を預けたまま父親が言う。キジスランは言われた通りに、垂直に落ちていく南棟の石積みの壁面に沿って下へ、はるか下方へと視線を落としていく。そして、
 ――表情が陰った。
 真下からやや左手にずれた位置、建物の二階部分の突き出したバルコンに、タリアが居た。椅子にかけ、独りだけで下の広場を見下ろしていたのだ。
「……」
 キジスランの表情が、強張る。唇が乾く。
 絶対に避けねばならない女性を、見てしまった。久し振りに。しかも父親が横にいる状況で。
喉が息苦しくなる。思い出す。一年前の、あの日の、あの部屋での事。記憶の奥底に閉ざしたいと欲し、しかし閉ざしても閉ざしても、閉ざし切れない事――。
 あの時。自分は彼女に深い同情と共感を覚えてしまった。気づかぬままそれは愛情に変じてしまい、止められないまま流されてしまった。衝動のままに父親の妻を抱きしめてしまい――その代償に、永遠に消せない罪悪感を焼き付けられてしまった。
 怖い。
 あれから一度として私的にタリアと対面をしていない。公の場でも出来る限り、必死に距離を置いている。
 怖い。
 父親に知られるのが怖い。知られた時に父親がどんな眼で自分を見るのかが、怖い。自分を信頼し愛してくれる父親にどんな顔で対すれば良いのか、考えることすら怖い。
 そう怯え続けながら一年を過ごして来たのに。なのに今、父親と並びながら義母の姿を見下ろす羽目になるなんて。
「タリア――!」
 アイバースが大声を発した。聞こえないようにと願ったのに、なのに、
「ここだ! 上だっ、塔だっ」
彼女は振り向いた。見上げた。はるか上方に夫と義息が並んでいるのを見つけた瞬間、本当に唖然の驚きの顔になった。その顔のまま、キジスランと真っ直ぐに眼を合わせてしまった。
「そこで何をしてるんだっ、タリア!」
 露骨に当惑を示しながら、それでも必死に微笑もうとする。どうふるまえば良いのか判らないという態で、意味なく椅子から立ち上がる。慌てるようにすっかり巨大な成犬となった白犬を呼び寄せ、足元にぴったりと付け、何とか上を見上げようとする。
 だがその動揺の様も、夫であるアイバースには愛らしく映ったらしい。笑いながら続けた。
「お前もここまで登って来ないかっ、キジスランもいるぞっ」
 僅かに首を横に振って、否を示す。もう一度懸命に、何とか会釈を作ったのが精一杯だった。そのまま犬を連れ、早足でバルコンから建物の中へと去って行ってしまった。
 その一連をアイバースは全て、笑顔で見送る。
「可愛いな。照れたんだ」
 若妻のことを心から愛おしく思っているのが伝わる笑顔だ。
「あれはきっと、お前に見られていたことに照れてしまったんだ」
「私に?」
 鼓動が速まる。
「……いえ、違います。貴方の突然の声に驚かれたからでしょう」
「いや。違う。お前だな。あれは以前からお前のことが気に入っていた」
「……」
「元々、政略結婚で嫁いできた。大人しい気質だから城内に親しい友人も作れず寂しい事が多いだろうに、その寂しさを決して口にしようとしない。とにかく周囲に気を遣う質だからな。まあ、お前だけでも良い話し相手になってくれればと思っていた。
 お前もタリアが嫌いじゃないだろう?」
 嫌いじゃないか、だって?
「――。優しい女性です」
「以前は少し会話をしてたようだが、最近は全く会うこともないようだな。何かあったのか?」
「いえ、――何もありません。確かに、会ってはいません」
「それに、キジスラン。俺とも職務や事務などの必要以外には話をしないな。俺は貴様に避けられているように感じるが。違うか?」
「いえ。そんなことは決してありません」
答えながら、手すりに置いた右手が冷えてゆくのを自覚する。真横の父親の視線を避けようとする。父親の言葉が毒を含んでいる可能性を覚え、体は固くなってゆく。
 ――そんなはずは無い。誰にも見られていない。だから父親が秘密を知っているはずは無い。そう信じいても、喉の奥が徐々に詰まる。
「どうした。少しは俺の顔を見ろ」
 怖い。父親が知ろうとも知るまいとも、天罰が相応しい罪状とは自分が一番知っている。何も言えず、沈黙に陥る。
 高い鐘楼の場に、空は一層青さを帯びていた。朝の空気は乾き、風が緩く吹き抜けていた。また鳩達の声が聞こえ始めた。
 ……陽射しの中に、息子の赤い髪が色を増している。と、アイバースは思った。
 息子は、無表情を貫いている。だが、実際には冷静では無いと解かる。この一年の間に見慣れ、判るようになって来た。無表情の奥には常に何かを隠していると。たった今も何かを強く感じ、懸命に動揺を殺していると解かった。
「タリアには悪い事をしてしまった」
 発した。それだけで息子の動揺が強まったのが、手に取るように判った。
「こんな年寄りの伴侶にしてしまった。それどころか、婚姻前の悶着によって傷つけてしまった。お前も噂で聞いているだろう? カイバートの餓鬼じみた振舞いのせいで、酷い醜聞にさらすことになってしまった。
 今、タリアが白羊城で寂しい思いをさせているとしたら、本当に申し訳ないことをしたと思っている。俺は、何かもっと良い別の道を考えるべきだった」
 動揺している。怯えている。
「もっと別の道を考えて、採るべきだった。――例えば、お前をもっと早く、強引にでも白羊城に呼び出して、お前との婚姻を考慮するとか」
 怯えたまま、息子は自分を見ない。懸命に無表情の眼を下の広場に向けている。そうやって現実から目を背けようとしているのだろうか。丸切り、逃げるような態で。
 強い風が抜けた。その時、
「タリアが好きか?」
「え?」
 キジスランは聞き取れなかった。
「今、何を? 公?」
「――」
 至近に、父親の厳格な顔が見えた。その口が本当に小声で短い聖句を唱え、そして、
「過去は取り戻せない」
 告げた。
 この言葉で終わった。沈黙になった。眩しい朝の光の中。
 “過去は取り戻せない”……。
 まさか、父親は知っているのだろうか。そんな。まさか。――神様。
 怖い。知っているのならなぜ今、それ以上を言わないのだ? それは何を意味するのだ? 自分と父親との関係はどうなるのだ? 自分の罪は? 懲罰を受けるのか? まさかこのまま宙に浮くのか? まさか?
 何も解らない。だが陽射しの下、父親は静かに自分を見ている。
 怖いのに、こんなに怖いのになぜか判ってしまう。少なくとも今、父親は自分を想っている。罪の断定がどうあれ、それだけは解かる。確信出来てしまう。それに自分はどう応ずれば良いのだろう。
 ……朝の光が眩しいと思った。
 目の深いところが熱を帯びている気がした。思っても詮無い事を――“取り戻されない過去”を、今さら思ってしまった。
 もし生まれた時からこの父親に見られ、話しかけられていたならば、親愛を受けながら育っていたならば、自分は異なった道をたどっていたのだろうか。異なった自分に成れたのだろうか。――あの男のように成ることが出来ていたのだろうか。
「カイバートと最近話したか?」
 びくりとする。想うものを共有していたなんて。
「奴とは道が大きく変わってしまったからな。口を効く機会どころか見かける事もほとんど無いだろう?」
「――。はい」
 半歩だけ右へ、日陰の場に移る。表情を、考えている事を見抜かれたくない。事あるごとに中庭や広場で見かけるたびに、その姿を目で追ってきた事を知られたくない。それらは例えば。
 ……叱咤する父親に向かい、堂々と反論する姿。執務官の意見に怒り、強く声を荒げる姿。友人の冗談句に、思わず大笑いする姿。視察で郊外に出る際の、心底嬉しそうに微笑む騎乗の姿……。
 目が、カイバートを追っていた。この一年間、ずっと。
「奴は、カイバートは、お前と対極だな。お前が慎重に自分を護りながら歩を進める時に、奴は強引に外へ進んでゆく。
言っている意味が解るか? 決してもお前の質が劣っていると否定している訳ではない。ただ――」
「……」
「奴の強引さと素早さは、明らかに強い。さらに、目標を貫く為なら非道に近い手法にも躊躇しない強さまで持っている。それはお前も目の当たりにしてきたはずだ」
「――はい」
「それでも今までは、俺の目が利いていた。だからある程度は見過ごせた。だが、昨年の遠征の辺りから遂に俺の意見も堂々と無視し出した。未熟な餓鬼ではなく、対等な男として俺と正面から対峙するようになってきた。糞が」
「貴方は、不安を感じないのですか」
「不安? 奴が次のラーヌン公主になることにか?」
「はい」
「……。そうだな」
 どちらにも取れる、どちらにも取れない、静かな“そうだな”だった。
 強い風が抜けた。鐘楼の隅にたまった埃やら鳩の羽毛やらが舞い、二人に無言を強いた。
 春の空は明るく、青い。父と息子は光を浴びるラーヌンの家並みを、家並みの中に行き交う人々の活気を見下ろす。互いに気づくことなく、また不思議と、遠い想いを共有してしまう。
 ……街の向こうの、広い耕作地のさらに向こう。豊かな田園に囲まれた遠い美麗の地。見晴らしを誇る丘上の瀟洒な城館。そこに住んでいた赤い髪の女主人のことを漠然と、二人が同時に思い出している。
 もう、彼女は居ない。死んだ。殺されてしまった。
「お前はそろそろラーヌンの外に出ろ」
 風が続いている。長い沈黙の後、鳩の声を遮ってアイバースが言う。
「この一年の学習で、政務官・外交官としての基礎を習得したはずだ。これからは実際に外地へ出て、実地で学んでいけばよい。
 どこが行きたい国はあるか? ティドリア域に限らなくても良い。もっと外でも良い。手配をしてやるから、広い世界を好きなだけ見てこい」
 優しさを含んだ口調だ。だが含んでいるのはそれだけではないとキジスランは気づき、僅かに笑う。それを父親も察した。同調して笑った。
“とにかく、外地に拠点を作っておけ。将来、カイバートの時代になった時に安全に暮らせる場所を、今のうちに確保しておけ”
「笑うな。事情はどうでも良い。今は俺の目を信じろ。お前は向いている。お前には素晴らしい才覚がある。俺の公国の為に役立つ、優秀な外交家になれる」
「本当ですか?」
「そうだ」
「本当に私はこの先、貴方を助けることが出来るのでしょうか?」
「今だって十分に俺を助けているぞ。お前の存在は公国に、それに俺にとって絶対に必要だ。絶対にだ。俺が決して失いたくない息子だ」
「……」
「だから俺の言葉に従え。早目に外国へ行く準備をしておけ。さもないと――、
 ……奴はお前を潰すぞ。本気で」
 天下のラーヌン公主が、声を潜めて宣した。
 これにキジスランは、
「分かっています」
自分でも驚くほど冷静に、答えた。
「俺は、お前が幸福な生涯を送ることを欲している。お前を愛しているからだ。
だが同時に、カイバートもまた愛している。奴のえげつない強さが俺は好きだ。確かに奴は俺の後継に相応しい。きっと俺以上の行動力でラーヌンの舵を取っていくだろう。俺の死んだ後にな」
「そうでしょうね」
「なぜだ?」
 父親の口調が変わった。
 空気が変わった。反射的、キジスランは半歩身を引いたが遅かった。アイバースは息子の右手首をしっかり握り掴む。峻厳さをもって発した。
「もう言ったぞ。俺が居る間は良いと。だが、あと五年後か十年後か二十年後か、あるいは明日かも知れない――神のみぞ知っておられる――俺が死ぬ日が来た時、お前は危険だと。冗談ではなく、本当に危険だ。奴は貴様を憎んでいる。最初からだ。
お前とカイバートの間に何があったんだ?」
「――」
「無表情で逃げられるなどと思うなっ。冷淡顔で隠して来たつもりだろうが、甘く見るな。とっくにボロは出てるぞ。
 言えっ。お前がここに来た瞬間から、奴はお前を憎悪していた。お前もまた奴を露骨に意識してる。貴様達の間に何があって何を隠しているんだ!」
「……、隠している事など何もあり――」
「逃げるなと言ったぞっ、もうそんな段階ではないだろうがっ、糞が!
 俺は息子二人が争って血を流し合う姿など見たくない。いや違う、血を流すのは確実にお前だ、そんな様は見たくない、絶対にだっ。だから答えろ、キジスランっ。カイバートとの間に何があるんだ!」
 強い力で手首を締め上げる。だがキジスランは答えない。沈黙する。
 それを言ってしまった瞬間、この父親の根底がひっくり返る。二人の息子を愛し、そしてかつて心底より恋人を愛していた父親の全てが大きく変わる。
「俺を見ろ! 隠すな、言え!」
 言わない。固く口を閉じ、抵抗する。言ったら父親の過去と未来を、そしてあの男を変えてしまう。
 あの男の輝くべき未来も変えてしまう!
「真実は何だ! 言えと命じているんだ、キジスラン!」
 抵抗は思わぬ形で崩壊した。無表情のまま、右目が涙を落としてしまったのだ。
「真実は――。私にも……分かりません……」
「お前たちは、以前にも会っていたんだろう? 違うのかっ」
「――。いいえ」
「お前はカイバートをどう思ってているんだ? 恐怖感なのか? それともやはり憎悪なのかっ」
「分かりません」
「いい加減なことを言うなっ、俺を舐めているのか!」
「分かりません――本当に、……判らない、あの男にどう接すれば良いのか分らない。敵意で対抗したいのか、それとも好かれたいと願っているのか。……だから、今、貴方に何を言えば良いのか判らない……」
 判らない。
 言ってよいのか判らない。あの日。あの秋の日。たまたま偶然に母親を訪れたあの朝に見てしまった事。
 自分しから知らない現実を、今、貴方に言って良いのか。言って貴方の現実を、そしてカイバートの未来を根本から覆して良いのか。あの男が足を踏み外し、全てを失い転落する瞬間、自分は何を思うのか。――全く判らない。
「怯えているのか?」
 峻厳の眼が、偽りの無い親愛を含んで迫る。
「恐れるな。何が有っても俺が居る。俺はただ真実を知り、お前を、――お前達二人を護りたいだけだ。それだけだ。
だから言え」
 だから。真実は語られるべきなのか。神の御名において、父親には真実を知る権利があるのだろうか。
(あの男は、貴方の最愛の女性と共にいました。そして彼女は急逝しました。あの男が去った朝に、貴方の愛した彼女は、自分の母親は、血を吐いて死にました。毒殺されました)
「……貴方の、愛した――、バイダ夫人について――」
「バイダが何だ?」
 父親が強い眼で待っている。自分が今から何を話すのか、自分にも分らない。
 喉に力を込め、“神様”と無言で発した。そのまま舌が先を続けようとした。その時だ。
「キジスラン様っ」
 霧散した。
 振り向いた視界の中。階段口からマラクは、全く無遠慮な明るさをもって飛び出してきた。こましゃくれた人懐こい態で、ラーヌン公に頭を垂れた。この瞬間に、機は永遠に失われてしまった。
「誰だ? 見たことない餓鬼だな」
「初めまして、アイバース公。マラクといいます。この一年、キジスラン公子の許に仕えて、色々な雑務の手伝いをさせてもらってます」
「そうか。ならばしっかり務めることだな。
キジスラン。今の話の続きをしたい。だが今朝はもう無理だ。イーラ国の司教との接見があるから、そろそろ戻らないといけない。
 明日俺の所に来い。明日の朝だ。絶対だ。いいな」
「……はい」
「バルコンで一緒に朝食を取るぞ。バイダの話はその時に聞く。いいな」
「……。はい。喜んで」
 キジスランは泣き出しそうに笑った。思った。
 天上の絶対者は今、カイバートの転落を望んでいないらしい。だから正にこの機に、天使と同じ名のマラクを寄こしたのだ。それが御意思ならば仕方ない。自分が逆らってまで父親に真実を告げることは出来ない。
 そう思えばいい。これは自分が決めなくて良い。自分がのせいではない。
 父親の後姿が、階段口へと去ってゆく。この一年半、自分に偽りの無い親愛を伝えて来た広い背中が、薄闇の場へと消えていく。急階段を下り出すにつれ、家長の剣が段に当たり、微かな金属音を残す。背と剣の音が完全に消えるまでを静かに見続ける。最後まで、最後まで見続けてゆく。
 そして。
 キジスランはゆっくりと感情を整えていった。一度大きく息を突き、それからマラクへ向かって振り向いた。
「成果は?」
「あった! あったっ、ついに判ったよっ。貴方には最高の吉報だよ、聖者の天啓より凄い大吉報だよ!」
 興奮を剥き出してマラクは叫んだ。

              ・      ・      ・

 ……アイバースは、鐘楼の急階段を下ってゆく。
 狭く薄暗い階段の場に、僅かな足音が響いてゆく。目の奥底には、たった今まで見下ろしていたラーヌンの街が残っている。自分が半生をかけて育て、護って来た街の全景が。光の中に浮かび上がっている。
 ところどころの明かり取り窓から、鳩の声が聞こえてくる。雛鳥が必死に餌を求める鳴き声が、愛らしく響いてくる。急階段を下りながら、彼は漠然と思い出す。
 若妻が必死に笑顔を作っていた姿を、思い出す。と同時に、たった今別れた息子の姿を思い出す。息子へ対する深く重い感情が、あらためて胸を満たし出す。
(……。半年前だったか。あれの侍女が、俺の所に来た)
 その感情を、アイバースは反芻してゆく。息子に対して言うべき言葉を、ずっとずっと長く長く考え続けてきた言葉を、今、もう一度、慎重に頭の中に並べてゆく。
(青い顔をしていた。厳重に人払いを求めて、しかも散々に苦労して言葉を選びながら、ようやくの体で言った。
『公妃様と赤毛の公子様が、寝室で抱き合っていました』と)
 言うとしたら、今しかなかったのかもしれない。今だったならば、息子の真意を聞くことができたのかもしれない。
(それは、本当なのか? 侍女の下卑た勘違いか? 貴様は、俺から妻を奪う気なのか? 俺の妻を愛しているのか!)
 だが。
 ――訊けなかった。
 もし息子の回答が肯定だったら、自分がどう反応してしまうか解らないからだ。
 どのような反応を息子がとるのか解らず、それにどのような態度をとるのが正しいのかが自分で解らないからだ。自分達親子が確実に異なる道をたどってしまうと、分かっているからだ。
「タリアを愛しているのか」
 どうしても口に出来なかった言葉が、今さらのように狭い階段に響く。
 ――臆病と責めたければ責めろ。
 自分に解かるのは、家族が愛おしいという事だけだ。タリア、そしてカイバートとキジスランの二人の息子が心から愛おしいのだ。誰も失いたくない、この平穏の日々を失いたくないのだ。
 だからこそ今。何よりも急ぐべきは、息子二人の関係の安定だ。二人の不和の除去だ。極力早く取り除かないと。自分が健在の内に。だから、
 キジスランとタリアへの疑念は、後回しにしても良いはずだ。
「臆病と責めたければ責めろ。それが望みだ。それが正しいはずだ。」
 そう思った。そう納得をしていた。
 ……明り取り窓からは、乾いた風が抜けてゆく。
 春の緩い空気が皮膚に触れて、心地良い。複雑な物事を考えるのが徒労に思えるほど、風は心地良い。
 薄暗い鐘楼の急階段は、そろそろ終わる。


【 その直後に続く 】
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