第28話

文字数 8,674文字

28・ その七日後

 また朝が来た。
 まだカイバートは耐えていた。闘っていた。
 カイバートの病室は、白羊城で最も人の出入りの少ない北棟の最上階に移されていた。その薄暗く音のない場において、やせ衰えた体躯と化しながらも、カイバートは病と闘っていた。荒い息を吐きながら寝続けていた。
 そして時折に目を覚ます。
「呼べ」
 今日は少し体調が良いのだろうか。看護していた医療者達に水と薬を飲まされた後、酷くかすれた声を発した。
「奴を、呼べ」
「どうぞ喋らないで下さい。少しお食事を召し上がったら、すぐお休みになって下さい」
 横で脈をとっていたタビウ青年はそう答えた。が。
「いいから、呼べ」
 繰り返し命じる。求める。
 しかし食事を取らされている間に、薬が効いて来たのだろう。やがてまた、ゆっくりと目を閉じて、眠りに落ちてゆく。
「……」
 タビウの顔もまた、白面の下で固くなった。先日来、頭の中にこびりついた“毒での暗殺”という疑念を、どうしても消せない。
 ラーヌン公の寝顔が、苦痛で歪んでいる。もしもこのまま公が没したら、公国と白羊城はどうなるのだろう? 今、自分は、このまま黙しているべきなのだろうか。それが白羊城にとって、自分にとって、良い事なのだろうか……。
 その時誰かが、手水盤を落とした。大きな金属質の音が室内中に響き渡った。
 ラーヌン公もまた、眼を開けてしまった。自分を見ていた。
「大変失礼しました、ラーヌン公。起こしてしまいました。どうぞもう一度お休み下さい」
「――。奴を、呼べ」
「何度も申し上げるのは恐縮ですが、お止め下さい」
「呼べ」
「今、人と面会するのは、御体に負担がかかります。先生がそう診断をしています」
 薬が回っているはずなのに。酷く憔悴した、こけた顔と窪んだ眼なのに、
「呼べ、早く――イブリスを早く呼べっ」
 驚くことに強く睨みつけてきた。
 タビウは窮し、隅の卓で瀉血の準備をしている師をうかがう。すると意外にも、師は自分に向かって頷き、肯定を示したのだ。
(良いのか?)
 この数日、師はもう積極的な治療を執らない。人の力はここまでとばかり疫病治療の基本しか執らず、あとは天上任せにしている。
(それって何を意味している? 良いのか? 本当に良いのか?)
「早くしろっ」
 タビウは低い息を一つ漏らした。命令に従ったのだ。
「承知しました。今、呼んで参ります」
 ……
 イブリス相談役は、すぐにやって来た。
 長身の瘦躯に、防疫用マントを身に付け、裾を動かさない足で寝台まで寄る姿は、どこか幽霊を思わせた。幽霊はすぐ様に白面の顔を主君に近づけた。
「お知りになりたい事が多数ありますでしょう? 言って下さい。全て答えます」
 ラーヌン公のかすれた小声を聞き取ってゆく。それに頷き、落ち着いた小声で応じてゆく。
「同盟側には現在、目立った動きはありません。恐らく貴方の健康状態を、様子見しているのでしょう。勿論、病状については敢えて『小康状態』との情報を流しています。
 また同盟側にようやく、不調和の兆候が出始めました。先日、銀の山羊騎士団単独から内密での書簡が届きました。さらにまだ確証には至りませんが、バンツィ共和国についても、同盟と別動を取る可能性が出ています。我々にとっては朗報です。現在、ここに付け込む策を考案中です」
 薬香の煙が、白い生き物のように動いている。これに交差しながらイブリスの低く淡々の声が続いてゆく。外交と内政と白羊城との現状を、延々と報告してゆく。
 公妃とその腹の事も、告げてゆく。
「奥方については、御体調は安定しているようです。ザフラ城館にはタリア夫人もいますので、御気持ち的にも安堵されているのではないでしょうか」
 それらにカイバートは、懸命に耳を傾け続ける。僅かに頷いたり、苦しそうなかすれ声で質問を投げかけてゆく。
 やがて体力が限界に達したのだろう。カイバートの顔は強い苦痛を訴え出した。
「もうお話は止めて下さい。カイバート公、お眠りになって下さい」
 ようやく医師の声がかかり、タビウが薬水を飲ませた。それでもカイバートは求める眼でイブリスを見据え続ける。イブリスもまた見守り続ける。そのまま、煙が淀んで動かなくなる中、病人は再び眠りに落ちていった。
「……」
 幽霊は踵を返し、素早い足で去っていった。そしてタビウはどうしても我慢出来なくなり、追いかけてしまった。
「なぜですか?」
 通廊へ出るや、無遠慮な言葉をそのまま投げたのだ。
「今、貴方はラーヌン公に嘘を告げませんでしたか?
 もう皆の噂になっています。リンザン教国の同盟側が、この機に乗じて白羊城へ攻め入ってくるのですよね? 実際、先発部隊がもう南の領境に近づいているとの話を、私も聞いていてます。
 それに公妃様の御懐妊についても、私達医療者には伝わってます。酷く体調を崩されてしまい早産に、しかも難産になりそうだと聞いています」
 防疫面を外した顔が、若者独特の潔癖と義憤を示している。
「なぜ、カイバート公に嘘を告げるのですか? 貴方は公の相談役です。公が真実を知りたがっている以上、貴方には、真実を告げる義務があるはずです。違いますか? 貴方の嘘は許されるのですか? 嘘を付くことに罪悪を感じないのですか?」
「それで?」
 噓つきの相談役もまた、白面を取った。
 意外だった。幽霊のように冷たいはずのイブリスの顔が、熱い感情を示していた。怒っていたのだ。
「あの状態の公に今、現実を伝えろというのか?」
「でも貴方――」
「あんなに酷く衰えて、そんな肉体と精神でそれでも公国と白羊城と妻とを護ろうとの懸命になっている者に、真実を告げろと言うのか? 哀しませろというのか!」
 若造からの正当な指摘に、真っ向から怒っていた。
 尖鋭な眼で現実だけを直視してきた男が今、大きく変節していた。現実を捨て、感情を選択してしまっていた。共に未来を築いてきた同志を失う哀しみに屈し、ために怒りという感情を選択してしまっていた。
 激しい眼で若者を睨んだまま、黒い上衣を床にたたき捨てる。そのまま冷えた通廊を、イブリスは白羊城の鐘楼を目指して去った。

        ・          ・         ・

 出迎えたマラクの顔が引きつった。全く予告無しの使者として、いきなりジャクム傭兵将が白羊城からやって来たのだ。
「安心しろ。私もあの夜以来、カイバート新公の病室には入っていない。同行しているこれら衛士達も、一度も新公には接していない」
 判りやすい動揺面にそう告げて、ジャクムはまずは相手の恐怖心を取り除いてから、城館の中に入った。
 玄関口も、そこに続く待合室も、そこから始まる長い通廊も、昼というのに薄暗くて肌寒かった。ジャクムは腰の剣を鳴らしながら早い足で歩んでいった。
「すでに聞いた。公妃の御容体は、かなり悪いそうだな。出来るならば公妃にはここを出て、より防衛性の高い城塞へと移動して頂きたかったのだが、とても無理らしいな」
「はい。今はどこかに移動なんて、とてもできる状態ではありません。医者の話では、早産になるのは確実ですし、難産になることはもっと確実の様です。だからもう、熟練と評判の産婆も呼び出しています。今日にもここに来るはずです」
「そうか。やはり難産になるか」
 ジャクムの横顔が緊張していると、マラクは見抜く。今、ラーヌン公の病状も白羊城の内外もかなり緊迫が増しているのだなと、容易に勘づく。
 ラーヌン公妃が熱を出した当初、誰もが新公の疫病が移ったのではと恐怖した。が、医者の診断や侍女達の見立てによって、すぐにそうではないと判る。夫の危篤という強い衝撃と哀しみとが、お腹に達したのが病因だ。
 哀しみは相当に深いのだろう。体調は全く回復しない。今もジャクムは、公妃との面会が叶わなかった。どころか、入室すらも医師に止められた。
それでも扉の外から寝台にいる公妃の姿を、ちらりと見る事が出来た。侍女に背中をさすられながら辛そうに苦悶する顔が、僅かにうかがうことが出来た。
「産まれて来るのは、男の子なんでしょうかね。女の子なんでしょうかね」
 マラクが、ぽつりとつぶやいた。
「それ以前に、無事に産まれてくれるんでしょうかね」
“神妙な台詞だな”
 そうジャクムは思う。扉は目の前で閉められた。一つだけ息を突いた。
「では。次だ。あちらとお話をしないと」
 踵を返し、通廊を引き返す。今回の来訪の一番の目的へと向かう。そのために、彼女の部屋を目指す。
 ――
 彼女は、静かに出迎えてきた。
「お久しぶりです。ジャクム殿」
 この女性はよく印象を変えるな、と、ジャクムは思った。
 白羊城に輿入れてきた当初は、何とも気弱な、城内のどこに居れば良いのかすら解らなそうな小娘だった。それでも夫のアイバース公に可愛がられ、また赤毛の公子とも気が合い、少しずつ若い婦人らしい明るさを帯びていった。
 それが夫の急死・義息の逃亡という悲劇に遭い、今度は一転、頑なさを強めてしまう。同世代の新公妃との付き合いも拒み、気付いた時には独り、無言で白羊城を出ていってしまっていた。
 その頑なさも、質を変えたのだろうか。
 今は強さへと昇華したのだろうか。
「お変わりはありませんでした? まさか貴方がここを来訪するとは思いませんでした」
 今は、存在感があった。くすんだ色合いをまとった全身と冷めた静かな表情に、ジャクムは初めて“美しいな”と感じた。
「突然の訪問をお詫びします。タリア夫人。――本当に久しぶりに、この城館を訪れました」
「以前にもここに来た事があるの?」
「はい。アイバース公と共に。バイダ夫人が存命の時に」
「そうなの? でしたら是非、その時のことを聞かせて。暇つぶしに」
「暇つぶしに?」
「ここはいつも、何も起こらない時間が流れていますので。貴方もそう感じません?」
「――」
 豪華なザフラ城館にしては珍しく装飾の少ない、家具も椅子と小卓しかない小部屋の中。彼女は確かに、強い存在感を示していた。
「それとも先に御用の件を話してくれるの? ジャクム殿?」
「――。タリア夫人。よろしければ、庭を案内して頂けますか?」
 がらんと物音のない室内で彼女と対峙する事に、彼はどこか圧迫感を覚えてしまった。
 ――
 上空を、重苦しい雲が覆い始めている。
 城館の裏手に広がる広大な庭を、二人は会話も無くゆっくりと、ゆっくりと歩んでゆく。
 足元に花はない。先日の会談の際には、白羊城から派遣された庭師達が必死で美観を整えてたのに、直後に来た新たな女主人は、何のこだわりも示さなかった。地面には花どころか、枯れた雑草が風に揺れていた。
 遠くで羊が鳴いている。カケスの声も聞こえ出した。水の流れていない泉水盤の許まで歩んできた時、ようやくジャクムは会話を始めた。
「私に、訊ねられないのですね。カイバート公の病状や、白羊城の現状について」
 泉水盤には、淀んだ水に埃が浮いていた。
「貴女様は、気にならないのですか?」
「もう私には関係のないことですから」
「――。もしも、の話です。
 もしも、カイバート公が回復せずに没したとしたら、おそらく公国は大きな混乱に陥ります。貴女様が愛された夫君・アイバース殿が何年も重ねて来た公国発展の努力が、全て無駄に帰すことになります。それでも宜しいのですか?」
「天上ならぬ地上の、人の世の常ですから。何よりもう、アイバース公もこの地上には居ませんし」
 冷めた顔が、言葉に偽りがないと告げている。彼女の眼にはもう、白羊城は映っていない、己しか見ていないと、ジャクムに伝えている。
「タリア夫人。お聞き下さい。今ラーヌンには、国を揺るがす懸案が三つあります。
 一つは、カイバート公の病気。
 内密になりますが、病状は極めて重篤です。残念ながら回復の見込みは薄れつつあるように私には見えます」
「……。そう」
「二つ目は、マテイラ公妃の御出産。
 御本人と御子、両者共が無事であるのか、そうでないのか。そして無事の場合、御子が男なのか、女なのか。それが公国の将来に重要な影響を与えます」
「そうでしょうね」
「そして三つ目は、この機に乗じた同盟側の軍勢の動きです。
リンザン教国から迫っている同盟の部隊が、武力で公国領の奪取に出るとの予測が強まっています。
 さらに今朝、同盟とは別動でバンツィ共和国もまた、部隊を進攻させてきたとの急報が入りました。全く寝耳に水です。
 もし、一切の聖者の御加護を受けられなかった場合、つまりこのままカイバート公が没し、さらに公妃の御子が死産だった場合、公国は絶対の窮地に陥ります。白羊城すら攻撃されかねないという最悪の現実に直面するかも知れません」
「でしたら、そうならないことを諸聖者に祈りましょう」
 静かに応えた。
 水の無い水路の反対側は、なだらかな丘陵地だった。湿った空気を吸った草地の上に、草をはむ羊達が見通せる。空では雲が厚くなってきた。風も湿っている。きっとまた雨が来るだろう。
 丘と空を見ながら、タリアは子供のように素朴に訊ねた。
「間も無くラーヌン公国は消滅するのね」
「さすがにそこまでには至らないと思われます。神がそう望まれれば」
「神の望まれるところは、人には知り得ませんですから」
「タリア夫人。私達は、人として出来る事をしましょう。
 この数日間、白羊城の政務者達はイブリス相談役を中心に、この現実への対抗を議論してきました。優先される事項を順序立てていき、合意点をずっと模索してきました。全て、アイバース公が心血を注いできた公国の存続の為です。
 ともかくも白羊城の名において願い上げるのは、例えカイバート公が天に召されたとしても、生れ落ちる御子が男子である事です」
「そうね」
「でも、もしもその願いが叶わなかった時。その時は、キジスラン公子に公位を授けるということで、合意に達しました」
 タリアの眼が初めて、僅かに固くなった。
「キジスラン公子が、こちらへ接近しています。リンザン教国からの先発部隊を率いているのが、公子です。現在、南の領境の直前まで達しています」
「――」
「お手伝いをお願い出来ますか、タリア夫人。
 キジスラン公子と軍勢は、恐らく明日にも公国の領境に達します。我々はその場にて戦闘回避を目的とする話し合いを試みますので、貴女様も御同行下さい。我々の意図を公子に伝える御援助をお願いします」
「――。なぜ。私に?」
「貴女様が、人嫌いのキジスラン公子が信用されていた数少ない一人でしたから」
 淡と述べ、静かに思った。
 貴女と赤毛の公子との扇情的な噂についてならば、真偽は知らない。真偽など、どうでも良い。大切なのは、少なくとも貴方達・共に人嫌いの義理の母子二人が、それなのに、それでも、白羊城において信頼を築く仲だったという現実だ。それだけだ。
「――」
 長い沈黙になった。
 羊の声もカケスの声も、灰色の雲も、湿った風も、みな重苦しさを増してゆく。彼女は急速に暗くなってゆく空を見続けている。ジャクムには、彼女が何と応えるのかの予想がつかない。
 さあ。何と答えるのだろうか。今彼女は、何を想っているのだろうか。
 と、突然、館の中から大きな声が響き出した。
 ジャクムは振り向く。叫びに近い、幾つもの激しい声が飛び交っている。公妃に何か有ったのだろうか。まさか急に産気づいたのだろうか。
「何か起こった様です。タリア夫人、今すぐに邸内に戻りましょう」
「いえ。私はもう少し散歩をしますので。ここで別れましょう」
 あっさり返され、ジャクムは驚く。ともかくも一礼を返し即座に走り去る直前、彼はふっと言ってしまった。
「貴女様がキジスラン公子と婚姻されていたならば、今のラーヌン公国はどうなっていたのでしょうね」
 長らく現実を渡り歩いて名を成した傭兵将としては、妙に叙情的な物言いだった。
 ……深い緑の丘陵地に、羊の声がずっと続いている。
 カケスの声が甲高い。空は、暗さと重さを増してゆく。タリアは、それを感じている。独り、遠い草地を見つめながら立ち続けている。
「そう。今になって」
感情を動かすことなく、ただ思ったままを呟いた。
「今になってそんなことを言うのね。
 ――愚か。――下らない」
 雨が近い。そろそろ夕刻になる。

        ・          ・          ・

 夕刻に、カイバートは目を覚ました。
 すぐにタビウともう一人の医療者が顔を覗きこむ。手袋をはめた手で体に触りながら、お痛みは? 熱は? と、問いかけてゆく。
「もう一度イブリス相談役を呼びますか?」
 先回ってタビウは言ってしまった。先刻のラーヌン公の強い眼が忘れられなかったのだ。
「……いい」
 苦しそうな声で、僅かに首を横に振った。意外だった。今はかなり辛いのだろうか?
 その通り、上体を起こして水を飲ませると、それだけで酷く顔を歪ませた。一層にひりつく潰れた息になった。それなのに今度は、奇妙な要求を示した。
「窓を開けろ」
「いえ。お目に障ります。さらに冷気も入ってしまいます。どうかお止め下さい。このままお休み下さい」
「いいから。外を見せろ」
 今回もまた強く命じる。タビウは困る。今、医師は不在だ。室内の同僚達もまた白い面の下、判断出来ずに困っているのが分かる。
「早くしろ」
 肉が削げ、窪んで皺の寄った目だ。死が迫っているのを感じさせる目だ。
 それなのに、己の意思が通るのを当然とする眼だ。
「……。分かりました」
 タビウは頷いた。
 一番近い窓へ行き、音をたてないように日よけ布を取り除き、鎧戸を開ける。途端に光が射し込み、患者は思わず辛そうに顔を伏せる。その様が酷く弱々しく映る。
 ゆっくりと顔を上げ、ラーヌン公は外を見た。
「空だ」
 北棟の最上階の部屋からは、街も広場も見えない。見えるのは雲に覆われた空だけだった。初冬の早い夕刻に、雲の下側がほんの少し赤味を帯びていた。
「夕方だったのか」
 薬香がこもる室内に、清浄な外気が入ってくる。カイバートは動かない。眩しさに目を強張らせたまま、少しずつ色味が変わってゆく空を見ている。長く見続けている。懸命に見ている。
「公。そろそろ窓を閉じて良いですか?」
 振り向かない。ただ、唇が僅かに無言で動き、“駄目だ”と告げる。
「風が冷えています。御体に障ります。どうか窓を閉めさせて下さい」
 駄目だ、が繰り返されてゆく。
 雲がゆっくりと動いている。動きながら、薄紅の色が変化してゆく。色味が濃さを増し、そしてまた薄れてゆく。
 カイバートは見続けている。真っ直ぐに光をとらえ続ける表情が印象的だと、タビウは思う。
 遠くから、日没を告げる鐘が鳴り出した。
 湿った空気だというのに、鐘の音が澄んで聞こえた。その音もカイバートは受け止めていた。消えてゆく空の色と、冷えた外気を受け止め続けていた。

             ・     ・      ・

 夕刻の空を、キジスランも見ていた。
 何も感じなかった。ただ空が遠いと思った。
 ――
 すでにキジスランの許には、リンザン教国の兵士部隊が合流している。一行は巨大な集団となり、街道から少し外れた小村の脇に停止していた。ラーヌン公国の領境は目前に迫っていた。周りは平らかな耕地が一面に広がっており、その上の空をどんよりと重たい雲が覆っていた。
「公子。ただ今決定しました。今夕はこのままこちらに野営する事にします」
 スレーイデ騎士が声を掛けてくる。彼もまた、騎士団の全権者として一行に合流していた。いつもの沈着な態で、報告する。
「間もなくこちらに、ハ―リジュ外交官からの日例の使者が到着するはずです。それを受けた上で、明日以降の行動を確認していきます。
 ――聞いていますか?」
 答えない。空のどこかを見ている。
 彼はもう、狂ったように喚くことも暴れることも無くなった。と同時に、言葉と表情も無くなった。感情を失った。今も馬車の外に立ったまま、スレーイデを見ない。横にいるドーライも見ない。何も示さなくなった眼で、遠い空を見ている。空を横切っていくムクドリの群れを見ている。
 村から晩鐘が響いてきた。その視線がゆっくりと、耕地の方へ移った。
「現段階ではいまだ、ラーヌンの軍勢が動き出したとの情報はありません。ですが、こちらが領境まで達したならば、確実に白羊城から何者かが派遣されて来ると思われます。それが部隊であった場合、事態が緊張に陥れば実戦が勃発する可能性もあり得ますので、充分な慎重さが求められます。
 ――聞いていますか?」
 聞いていない。おそらく全く。
 作業を終えて家路をたどる農夫達の姿を、キジスランは追っている。晩鐘が終り、農夫達の喋り声が僅かに聞こえている。何事もなく家路をたどってゆく彼らの上を、ムクドリが舞い飛んでいる。
 兄弟だろうか。畔の上を幼い子供が二人走っている。仔犬が懸命に鳴きながら追っている。と、泥の上で弟が転び、泣き出した。だが兄の方は振り向くことも無く去っていく。犬が夢中で鳴き続ける。
「聞いていますか。キジスラン公子」
 ただ、じっと見続けている。その目の奥が僅かだけ涙を含んでいるのにも、おそらく自覚はないだろう。ドーライだけが静かに気付く。
 農夫達も子供達もムクドリの群れも、去ってゆく。黒い耕地に、夕霧が低く漂い始めている。夕刻はゆっくりと光を失ってゆく。
 明日には、ラーヌン公国の領境に到達する。



【 その翌日に続く 】
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