第5話

文字数 9,486文字

5・ その翌日

 どんどんどん! どんどんどん!
 扉を打つ巨大な音に、弾かれた様に飛び起きた。
「開けろ! キジスラン、早く開けろっ。俺だ、タールだ! 大変な事が起きたぞ! 開けろ!」
 耳馴染みの声に、反射的に枕下から抜いてしまった短剣を手放す。急ぎ寝台を降り、昨夜に閉じた二カ所の鍵を外す。と同時、扉は大きく引き開けられた。友人・タールが目の前で叫んだ。
「イサル・サウドが殺された!」
 瞬間、体の重心がぶれる感覚が走った。
「キジスラン? おいっ、聞いてるのか?」
「――。いつ……いつ――殺されたんだ?」
「昨夜、外出先から自宅に帰ったところらしい。何しろ凄まじい刺し傷らしいし、邸内も酷く荒らされ、かなりの物が盗られたらしい。凄まじく派手な押し込みらしいぞっ」
「押し込み……。館にいた者は……」
「皆殺しらしい」
 ルシド!
「たった今、同僚の警護兵から聞いたばかりの報だ。まだ知ってる者は少ない。俺は今すぐに見に行くが、一緒に来るか? とにかく大騒ぎになるぞ、何せラーヌン市政の大立者の殺害なんだから、しばらくはこの話題で街が持ち切り――キジスランっ」
 言い終える前、キジスランは飛び出す。服をまとい壁に立てかけてあった剣を掴むや、部屋から素早く走り出す。
「キジスラン! おい、待てっ、俺も行く、待てっ」
 それすら聞いていない。混乱し、聞きとることが出来ない。思考も感情もただ一つの考えに捕らわれてしまい、全く出来ない。ただ一つの考え、即ち、
(まさかこんな早いなんて! こんなに!)

        ・           ・          ・

 人々の好奇心は、どの国の情報網より早い。まだ夜が明けて間もないというのに、昨日キジスランがたどった屋敷街の裏路地には、とっくに多数の人が出ていた。大声での噂話に夢中になっていた。
 あのサウド老が――! 飛んでも無い盗賊が――! 酷い惨殺が――!
 至る所で似たような語句が交錯している。誰もが興奮を剥き出しながら、路地を小走るようにサウド邸へと見物に向かう。
 その人々の中、迷惑そうな視線やちょっとした悪態の中、かき分けるようにしてキジスランとタールの馬は邸宅へとたどり着いた。早くも門前に出来上がった人垣を押し分けて邸内へ踏み込んだ途端だ。
「キジスラン公子っ」
 街の評議会の参事達二人が走り寄ってきた。彼らもまたこの飛んでもない報に驚き、必死で駆け付けたのだろう、二人揃って現実が信じられないという顔を丸出して、猛烈な早口で叫んだ。
「つい先程、白羊城にも人を送ったところですっ。貴方が一番早いとは。本当に、まさか本当にこんな事が起こるなんて……っ」
 挨拶などない、キジスランも早口で問う。
「サウド老は今どこに?」
「いいえっ、公子、見ない方が! 御覧になるのは止めた方がよろしいですっ、貴方様の為です! それでもどうしてもと仰るのならば、せめてまず神に祈られてからになさった方が――たった今御体を上階の礼拝室に移しましたが、私などは一目見た瞬間思わず――」
相手の弁が終わるまでも待たず、キジスランは階段へと走り出した。
 どこの屋敷も大抵そうだが、礼拝室には西に面した、窓が少ない薄暗めの部屋が選ばれている。
 サウド邸の場合は、それが特に顕著だった。採光の悪さが際立ち、室内全体が薄暗さの中に沈んでいた。ゆえに四方に描かれた緻密な聖画も、重厚な彩色木彫の祭壇も、勿体無いことに皆、色をくすませてしまっていた。
 だがそれでも、部屋の真ん中に安置された物を見るには充分だ。
「……。酷いな、これは……」
 踏み入ったタールが、低い声で思わず漏らした。
「これは……、見せしめなのか? どう見てもただの押し込みじゃないだろう?」
街の警護兵という仕事柄、死体を多く目にしてきた彼をしても、普段の陽気な顔を一変させられていた。それ程に酷い、血まみれの死体だった。
 左胸・右胸・右肩・右脇腹・右腰の刺傷が、高価な青色の衣服越しでも判る。それ以外にも多数の尖鋭な傷があるのが見える。――だがしかし。何と言っても極めつけは、
「目に――」
 醜悪さに、タールの言は途切れる。
 サウドは左の眼球までも、真っ直ぐに刺し抜かれていた。完全につぶされた眼孔の中に、大量の血を溜めていたのだ……。
 サウドの横には、さらに三つの死体が並べられていた。彼らもまた多数を貫かれて、赤色に染まっていた。昨夜たまたま邸内に宿直していただけという、本当に不運な、不運としか言いようのない哀れな使用人達だった。
「……」
 その中の一人を、キジスランは憑りつかれたよう見入っている。
 覚えている。昨日、自分に対応した家令だ。あの慇懃無礼だった家令が今、赤色に塗れた無惨な物体と化してしまった。あの時、まさか今日という朝を神の許で迎えるなど決して思わなかっただろうに。夢にも思わなかっただろうに。
「……」
 見入ってしまう。
 思ってしまう。昨夜に、この家令が味わっただろう凄まじい恐怖感。
 見入り、想像してしまう。眼を貫かれたサウドの無念。その瞬間の苦痛と、恐怖と、そして後悔の念。――相手の力への恐怖と、取り返せない後悔の念。
「……」
 並ぶ遺体に捕らわれ、離れられない。思考も感覚も捕らわれ、魅入られ、動けない。見開いた表情をびくりとも動かせず、ただ見入るしか出来ない。
 その異様さが、タールを真っ向から逆撫でた。
「おい! 止めろよっ、キジスラン!」
 振り向いて自分に向ける顔が硬直したかのように蒼ざめており、さらに苛立ちが増す。完璧に直感する。
「お前、この殺害と関係あるんだなっ。何を知っているんだ!」
「――。関係あると決めつけるな」
「そんな顔をさらして言える台詞か! そうだろう? そうだよな!
 一目で解かるだろう? お前が何に首を突っ込んだんだか知らないが、その相手は並の奴じゃないぞっ。ここまで残虐に人を殺せる奴だぞ、誰なんだ!」
「――」
「次は貴様が狙われるかもしれないんだぞ! 言えっ、身を護る為に言えっ、言わないと貴様を手助け出来ないじゃないか!」
「――」
 答えない。動かない。自分が何を考えれば良いのか分からず、動くことが出来ない。その狼狽ぶりこそに、タールの苛立ちは高まってゆく。キジスランの真正面に立つや胸倉を掴まんばかり、さらに大声で怒鳴ろうとする。
 が、邪魔が入った。いきなり礼拝室に四~五人の男が押し寄せ、死体を前に揃いも揃った悲鳴と喚きを発したのだ。
「天上の絶対者様!」
 そのまま神だの悪魔だの天国だの地獄だのの単語が始まり、大声で延々と繰り返されてゆく。狭い室内に混乱の声が交錯し続けてゆく。
 この長い愁嘆の時間が、キジスランを救った。彼は己の思考と感覚を取り戻した。深い息を数回大きく意識して吐き、それからようやく問う事が出来たのだ。
「教えてくれ、殺されたのは彼らで全員か?」
 最も前に出、大仰な身振りで嘆いていた老人が振り返った。
「はい、四人ですっ。神に召されたのは彼ら四人です」
 言いたくてたまらないという態も露骨に、泡吹くように喋り出した。
「サウド殿は昨夜、日没後に外出先から帰宅され、すぐに就寝され、まさに寝入ったその瞬間に襲われたそうです。たまたまその時に邸内にいた者が――ええ、私の同僚ですっ――同僚なんです――っ、私はたまたま昨夜は自宅に戻ることになって……それが……それなのに館にいた者は全員が巻き添えに……! 諸聖人様!」
「本当に彼ら以外に、館に人はいなかったのか」
「聞いていません。とにかく昨夜館に泊まった者は全員殺されてしまったとしか……! 彼らの魂に平安あれ、平安あられっ――聖天使様!」
 声を高め、延々と聖者達の名を唱え続けてゆく。キジスランは押し殺しようもなく強い息を喉から漏らした。頭は疑問の連続になった。
 とにかく今、ここにルシドの死体は無い、なぜ?
 つまりルシドは生きているのか? 館から逃げたのか? ならば今どこに? 事件を見たのか? さらに昨夜の『こちらに泊まります』の手紙は? あの奇妙な印象の男は? そして、
“これがラーヌンだ。俺が引き継ぐラーヌンの全景だ”
 金色の夕光の中、遠く連なる地平を見通していた。翌昼の軍議では、物静かの眼でじっと討議に集中していた。
 ――その男が、夜にはこれをやったのか?
 階下の物音が大きくなっている。
 続々と人が押しかけて来ている。邸内は目に見えるよう、騒乱と混乱を増してゆく。再び黙してしまったキジスランに代わり、今度はタールが訊ねる。
「邸内もかなり荒らされたと聞いたが、何が盗られたんだ?」
「判りません、神のみにしか判りませんっ、守護の天使様! なぜこのように人の運命を書き付けられるのか――!」
「何だよ。つまり盗られた物は分からないって事なのか?」
「神以外の存在には、この世は計りかりかねます。でももし物盗りだとしたら、そいつはただ罰当たりだけではなく偏屈者です! 変わった嫌われ者です、愚かな魔物です! 存分に地獄の底を彷徨え!」
 ――
 礼拝室を出て通廊を左に曲がり、四部屋向こうのサウドの私室に入った時、タールは先程と全く同じ態・同じ表情で、同じ台詞を吐くことになった。
「酷いな。これは。確かに」
 狭い室内は、徹底的に荒らされていた。
 椅子も小卓も書机も棚も、動かせる物はすべて動かされ、大きな物も小さな物もことごとくが引っくり返され、切り刻まれ、裂かれ、壊され、その挙句に荒織の敷布の上に捨てられていた。丸切り、天罰の剣が振り下ろされたかのような光景だ。
「さっきの爺さんが言った通りだ。これじゃ何かを盗られていても、とても確認できない。神のみぞ知るだけだ」
 壁から引きずり降ろされ二つに裂かれたタペストリを拾い上げながら、タールは顔を歪ませる。
 その横でキジスランも全く同じく顔を歪ませる。室内を順に見渡してゆく。散らばる書面、書簡の束、無理矢理こじあけられた書棚へと素早く、流れるように視線を動かしそして、
「絵――」
部屋の隅に山積まれた絵があった。
 二十枚を超える布絵や板絵が、全て額から外され、ひとまとめに打ち捨てられていた。これは。つまり。
「絵を狙った強盗って事か? だとしたら地獄落ちの阿呆だぞ。俺だって判る。見ろよ。
 これは、イーラ国のキオス工房の絵だ。きちんと署名もある。多分一万ディル以上の価値があるのに、なんでこれを盗っていかないんだよ」
 タールが絵の山の中から、聖遺物たる聖衣の奇跡を描いた絵を拾い上げた。その繊細な画面を見ながらキジスランの頭は別の画面を、昨日ちらっと見た懲罰の天使マラクの姿を思い出す。
「でも。勿論これは、物盗りの犯行なんかじゃないんだよな。それはお前が一番よく知っているんだよな」
 タールの口許が、意味深長に引き上がった。
「もう良いだろう? 答えろよ。こいつらの狙いは何だよ?」
「――。狙い……」
「言え。誰の仕業なんだ、何が狙いなんだ」
「――。狙いは、……何だ?」
 狙いは何なんだ? 
 狙われたものは。背信した老人の命。老人が保持していた重要な書面(今まさに自分が保管している、自分に賛同する面々の署名)。
 そして。天使マラクの絵なのか? なぜ?
「……。解らない」
「解らないなんて言ってる場合かっ」
 真っ向から怒鳴られる。だが、本当に解らない。天使マラクの絵の所在と、あの絵の意味。サウドが亡き今、謎は永久に封印されてしまった。そして何よりも、――消えてしまった、
 ルシド。ルシドの消息が、その生死すらが、解らない。
「おい、聞いてるのかっ。分かってるのかっ。貴様、本当に、相当に危うい場に踏む込んでるんだぞ、この状況は、本当にやばい事になってるんだぞっ」
その通りだ。自分は今、凄まじい危険と紙一重の場にいる。なのに解かる事が少なすぎる。解かるのは、この危険を司っているのがあの男という事だけだ。
 何もかもが鋭い。早い。決してサウドの監視を忘れていなかった。そして離反を示した途端に行動した。抹殺に出た。素早く、躊躇無く。……そうだ、あの時もそうだった。
 あの時。一年半前も。あの時も何の躊躇も無く、平然と大罪を犯した。それが出来るのだ。自分の思考と行動に何の疑念も抱かずに出来るのだ、あの義兄は。
「キジスラン公子」
 振り向いた。
 タールではない。彼もまた誰も居ない扉口を見ている。キジスランは部屋を見回し、
「窓です、外……、庭の通路――」
 二人で同時に振り返る。小さな窓から下を見降ろした時、まず目に飛び込んだのは、裏庭の狭い通路に並べられた一列の果樹の鉢だった。その美麗な幾何学柄の鉢の一つに隠れるようにして、
「お前、昨日の――」
 必死でこちらを見上げている顔があった。
 昨日、サウドとの別れ際にちらっと見かけた小僧が、喰らい付くような凄まじい形相で自分を見ていたのだ。その腕に丸められた布地を抱いて。
「天使マラクの絵っ」
 思わず叫びが喉を突く。それだけでタールは明敏に察した。すぐさま助言した。
「人に見られない場所が必要なら、確かこの館を出て左の方向だ、聖ハリ堂の右隣に、誰も使ってない納屋があるぞ。俺が先にあの餓鬼を連れて行くから、貴様は時間を置いてから一人で来い」
「――。有難う」
「充分に気を付けろよ」
 にやりと頼りがいのある笑みを見せるや、即座タールは乱雑の室内から小走って出ていった。

             ・        ・        ・

 小路を二本分だけ南に進んだ聖ハリ堂までの僅かな道のりを、キジスランは大きく大きく迂回しながらたどった。
 昨日は、警戒という意識をほぼ忘れていた。その愚かな迂闊さに今さら、歯ぎしりするほどに後悔を覚える。少なくとも今回は十分過ぎる程の警戒心を抱き、あえて裏路地を何度も曲がり、回り、嫌という程に時間をかけた。目的地である粗末な納屋の中に素早く入り込んだ瞬間には、はからずも喉から強い息を漏らしてしまった。
「よう」
 薄暗く埃臭い空間の奥からだ。雑多に積まれた荷物に腰かけたタールは、いつもの通りの明るい声だった。
「随分遅かったな。大丈夫だったか? で、こいつに何の用なんだよ?」
 彼の横では、小僧がピクリとも動かずに突っ立っていた。
 十三~四歳位だろうか。いかにも街育ちという体の、見るからにすばしこそうで小利口そうな風貌の少年だ。
 だがその顔が、尋常なく怯えている。聖典の一節にある『悪魔に首を舐められる』の句そのもののように、凄まじく引きつった顔をさらしている。必死にすがるように自分を見ている。
「昨夜何があったんだっ、ルシドはどこだっ」
 途端、小僧は転がるような足で走り寄ってきた。握りしめていた布絵を突き出すと同時、大声で叫んだ。
「何も見てないです! だから分からないです!」
「だが昨夜お前は館に居たはずだ、居た者は全員殺されたのに、どうしてお前だけが助かったんだ?」
「すぐ隠れたんです。ものすごい物音と悲鳴がして、すぐ強盗だとわかって、だからすぐ走って厨房に行ってすぐ隠れてっ」
「他の者には知らん顔でか?」
 タールが陰険に笑った途端だ。小僧は興奮に目を剥きいて叫んだ。
「飛び出したら殺されるじゃないか! 死ぬって分かってて、それでも助けに行けって言うのかよ! 俺は嫌だよ! そんなの絶対嫌だ!」
 思わず小僧の口を押えつける。ちょうど納屋の表の路地では、強盗だの即死だのとの単語を交わし合う野次馬の一団が大騒ぎしながら通り過ぎるところだった。
「大声は止めろっ、いいな、静かに答えろ。――お前。名前は?」
「マラク」
「本当に?」
 こくりと頷ずく。こんな時に人を喰った偶然を。まさか例の天使と同じ名前なんて。
「マラク。ルシドがいない。この絵も本来ならルシドが運ぶはずだったじゃないかっ」
「ルシドって、あのずっと寝てた人ですよね。あの人はいつまでたっても起きなくて、だけどサウド様は貴方に早く絵を渡したくて、だから俺に白羊城まで運ぶようにって命じたんです」
「だがお前は城に来なかったじゃないか。なぜだ?」
「――」
「さぼったのか?」
「もう、陽が落ちかけていたから……。朝一番でも良いと思って……」
「そう言えば、昨日見た時にはこの絵は額縁に納まっていた。額の方はどこだ?」
「……」
 キジスランには相手の気まずそうな沈黙の意味が解らなかったが、タールはすぐに理解した。にんまりと口許を引き上げた。
「サウド老は、こいつを鞭打って教育しとくべきだったな。抜け目ない餓鬼が。いつもやってたのか? 額はもう売れたのか? 幾らになった?」
「……済みません。あんな安っぽい額縁なんて、公子は要らないだろうと思って……。済みません」
「それだけか? さっきからずっと胴着の右側を気にしているな。何を持ってるんだ?」
 逆らわなかった。小賢しくも状況を読み、マラクは素直に胴着に手を突っ込むと、一枚の金貨を取り出したのだ。
「このくらい良いだろう? 俺はまだ、この半年分の給金を貰っていなかったんだから」
「そうか。なら運が良ければ聖者も見逃してくれるだろうよ。しかし、どさくさ紛れに抜け目がないな。――胴着の左側、まだ何か入っているだろう? なぜ隠す? そっちには何を持ってる?」
 小賢しい顔が一転、今度は抵抗を表す。だが、タールが立ち上がって一歩迫ろうとするや、観念した。胴着の奥から、大振りの銀製の指輪を取り出したのだ。
「これは、サウド老の――」
 さすがにキジスランも驚いた。
「彼の印章付きの指輪じゃないか。身柄の証明にもなる印を――こんな重要な品を……」
「これを書斎の隠し引出しに置いているのを見た事があったから。サウド様の印章だったら、色々な使い出があるだろうと思って……。
でも、まだ許される範囲だろう? そうだろう? だって俺はあんなに怖い目に会って、しかも一晩で働き場所まで失くしたんだから。当座に必要の為に、少しは金目の物を貰っといたって良いだろう?」
「人殺しの真っ最中だっていうのに、良くそこまでずる賢く即時の判断と行動が出来たものだ。大したものだぜ」
「もういい、タール。――マラク、本当に賊について何も知らないのか? 何でもいい、気付いた事は何か無いのか? ルシドが行方不明になっているんだ、とにかく何か教えろ。話せ」
「だから済みません、本当に誰も、何も見ていないんです。貴方の従者も、寝ていたのを見ただけです。就寝時間の前に居間へ見に行きましたが、まだ寝たままでした。それが最後です。それだけです。本当です」
「寝たまま……。夜になっても、ずっと……」
 それは、つまり。やはり――、
 ルシドは逃げられなかったという事だ。でも。なのに死体が無いのは? 直前で目覚めたのか? それとも連れ去られたという事か? 今、どこに? どんな状況に? ルシドに何が起こったんだ? そして、
 自分の上に、何が起こるんだ? 老人と同じく、義兄の忠告を無視した自分の上に。
 ……背筋に、チリチリと冷えた感触を覚え出す。
 見えない力がゆっくりと内臓を締め上げてゆくのが、恐怖感を帯び出すのが分かる。それなのに、何も出来ない。何も解らず、何も判断を下せず、だから何も出来ない。
(駄目だ。怯えるな)
 黙したまま爪が肉に食い込むほどに掌を強く握る以外、動くことも考えることも出来ない。
(だから、今は駄目だ。今は怯えるな。考えろ。恐怖を抑え、今はとにかく考えろ。何とか先へ進め)
 息を殺した長い沈黙となった。木戸の隙間から射し込む僅かな光に、細かな塵が舞っていた。その鮮明さが、妙に浮き立って見えた。
 ――ふと気づくと、タールが意味深長の眼で自分を見ていた。
「血塗れの死体だらけの飛んでも無い大事件を引き起こしやがって。説明は?」
 真っ直ぐの視線で、睨むように真剣に詰問してきた。
「答えない気か。俺にも話したくないって訳か? なぜだ? それじゃあ手助けも出来ないだろうが。糞が」
「……。口外しないでくれ」
「月並みだな。まあいい、取り敢えずそうしといてやるよ。だが、こいつはどうする?」
 と、タールが顎を動かした途端、マラクはびくりと震え、反射的に口を大きく開ける。
「叫ぶなよっ、餓鬼! 叫んだら表に突き出すっ」
 言われた通り、声を殺す。その代わりに我慢しきれず、ぽろぽろと派手に涙を流し始める。泣きながら懸命に沈黙を守る。
 その姿を前に、キジスランは何も言わない。
 いや。もう少年も見ない。もうこの哀れな涙などどうでも良い。さらに正直に言えば、自分のせいで血塗れの果てに死んでいった不幸な犠牲者達も、今はもう良い。行方不明となった従者の存在すらも、二の次に思えてしまう。それが自分の本心であることに気づき、自分でも非道を覚えてしまう。
 しかしそれでも、どうしようもない。今心を占めるのは、
『カイバートの傲慢の顔』。それだけだ。――
 外の通りから、女達の声が響きながら通り過ぎていく。通り過ぎてゆく野次馬達は、どんどん数を増してゆく。朝の時間は、着実に進んでゆく。
 埃の舞う薄暗がりの中で、タールは立ち上がった。表情を失った友に向かって簡単に言った。
「もうここにいても仕方ない。お前はそろそろ白羊城に戻った方がいい」
「……。マラクはどうする」
「取り敢えず手元に置いておくしかないだろう? そんなことも判らないのか? まさか本気で始末する事でも考えていたのか?」
 軽い冗談口だったのに、マラクだけでなくキジスランの表情もまた強張った。その事によって、本当に何も考えが回っていないのだと、友に露呈してしまった。不安と動揺に憑りつかれて余裕の一片も無くなってしまっているのだと。
(全く……)
 タールは思う。
(この公子が無表情で心を読ませないなんていう阿呆は誰だよ。ちょっと見ていればすぐに解るじゃないかよ)
「先に早く、独りで行け。俺はガキを連れて、一旦家に戻る。後からお前に連絡する」
「分かった」
「裏道から行けよ、キジスラン」
 そのくらいは判ると言いたげに手を上げたが、だが今一つ安定を欠いていた。不安そうな足取りそのままに(よく見ていればすぐ判る)、キジスランは今、ようやく納屋から出ていった。
 ……
 薄暗い納屋に、木戸の隙間から陽が差し込んでいた。
 太陽が少しずつ高くなっているのが分かる。外を通る幾つもの人々の声が、近づいては遠ざかってゆく。
 マラクは泣き声を止めている。ただ赤い目をさらして黙っている。
 タールは埃塗れの木箱に腰かけたまま、無言だった。日差しの中に舞う埃を見ながら、長々と何やらを考えていた。その果てに、ようやく、ついに独り言を発した。
「さあ。どうするか」
 キジスラン。
 半年前に白羊城にやって来た時、普通に声を掛けた。普通に友人となった。
 周囲からは風変わりな公子と評されているが、自分はそうは感じない。普通に無口なだけの気質だ。普通に仲の良い友達だ。普通に顔を合わせ、普通に普通の事を喋り合える友人だ。
「無口だが、普通に楽しいし。それに奴の友人だと、白羊城に自由に出入りできるし。悪くない友人だ」
 その親友が、凄まじく厄介な陰謀に足を突っ込んでしまったらしい。この唐突の現実に、自分は遭遇してしまった。そして今、単純に思った。
 素直に、思った通りを発した。
「奴は良い奴だ。俺の親友だ。好きだ。――だが、俺は俺だ」
 明瞭過ぎる独り言に、横にいたマラクが訳も解らないままびくついた。


【 その午後に続く 】
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