第4話

文字数 8,067文字

4・ その午後

 人けの無い屋敷街の路地を進み、狭い角を幾つか曲がると、道はいきなりシャーリア大通りへとぶつかる。
 この大路は、北の白羊城から南のジュヌーブ門までを真っ直ぐに貫く、街一番の大通りだ。界隈では日の出から日の入まで、いつでも人出で賑わっている。実際、たった今も通りには耳障りな車輪音の荷車や、禁令にもかかわらず持ち込まれる家畜や、行き交う人々の大きな喋り声などが無秩序に混ざり合っている。混ざり合い、響き合い、耳を打つような騒々しさとなっている。
 この喧噪の中を、キジスランは馬で歩んでいった。すれ違う人が時折発する“赤毛の公子だ”という声を耳に挟みながら、馬の蹄に気遣いながら、黙々とたどっていった。頭の中では、先程までのサウド老との会話を思い返していた。
 やがて視界には、天高くそびえる南棟の鐘楼が映り出してくる。重厚を誇る正面門の威容も、徐々に迫り出してくる。自分にとっての半年前からの住居である白羊城へと、ようやく戻り着こうとしていた。
(ここまで、何の異変も無かった)
 当たり前の事に、なぜかキジスランは安堵を覚えた。そのまま陽射しの下を進み、正城門をくぐって中へ入った時だ。
 異変に気付いた。
 異変は白羊城の方に起こっていた。門の内側であるハルフ広場に、馬と馬車とがずらりと並んでいる。つまり大勢の来訪者達が押しかけている。さらに石畳の上を、兵士を含む多くの男達が慌ただしく走り回っているのだ。――何かが起こっている!
「キジスラン!」
 驚き鞍上から振り返る。
「どこに行ってたんだ! アイバース公が必死で探してたぞっ、朝から大騒ぎになっていたのにっ」
「何があったんだ?」
 問うや、息を切らして走ってきた武衣の男は素早い大声で答えた。
「出兵だ!」
「出兵? 出兵って――? 傭兵依頼か? どこからの依頼だ?」
「イーラ共和国」
「どこを攻撃するんだ?」
「イーラとレイバールとの国境にあるサギーラ城塞」
「どういう事だ? 公はレイバール国と敵対するつもりなのか? そんな外交の展開に問題は無いのか?」
 ここまで問答したところで、キジスランが作れた唯一の友人・タールは我慢しきれなくなった。普段の気の良い顔を興奮に一変させ、
「そんな事俺が知るかっ。キジスラン、とにかく早く公の所へ行け、すぐに行けっ。今すぐ、とにかく急いで行け!」
と大声で怒鳴った。苛立ちのまま真っ向けしかけたのだ。
 その通り、即座にキジスランは馬を走らせる。あっという間にハルフ広場を横切ると、南棟のアーチ通路の許で馬を捨てる。城内の大階段へ駆け込むと、一気に二階まで登る。そのまま通路を右に向かって走り出した時だ。
 突然、甲高い犬の声が響いた。走る自分の足元を目がけて、仔犬が夢中で追いかけてきたのだ。
「キジスランっ」
 今日は明るい青だ。まるで空のような青色の服だ。
 裾を右指で持ち上げて、通廊の端から一生懸命にタリアが小走って来た。
「バルコンにいたら貴方の姿が見えたから――。キジスラン、間違えないで。アイバース殿なら執務室じゃなくて西棟の長卓の間の方です、すでに皆様と討議中ですっ」
 息を切らしながら告げてくる。
「有難うございます」
 返礼した時、キジスランは素直に嬉しいと感じた。だから顔が僅かに笑んだ事には、自分でも気づかなかったが。
 もうそれ以上は喋らない。喋る暇もない。再び急いで走り出す。それでもしつこく追いかけようとした仔犬を、
「駄目よっ、駄目だから戻って来なさいっ、早くっ、駄目!」
タリアは夢中で呼び止めた。散々に頭を振って未練を残した末、やっと戻ってきた犬に向かって、
「いきなり走っちゃ駄目って言ったでしょう? いつも私の側にいなさいって言ったのに、どうして分からないの? いい? 聞いてる?」
 どこか嬉しそうに叱咤する声が、走るキジスランの耳にも小さく届いた。
 ――
 広大な白羊城の長い通廊を南棟から西棟へと走り抜け、やっと長卓の間へとたどり着き、その扉を開けたと同時だ。
「それではただ日数を喰うだけだっ、阿呆が!」
 ラーヌン公の荒っぽい怒鳴り声が出迎えた。
 西棟三階で一番大きな部屋・長卓の間は、窓が全て開け放たれ、真昼の光に満ちていた。乾いた清浄な空気が存分に流れていたというのに、しかしそこに詰めている男達の顔は、およそ清浄さからかけ離れていた。
 十二人の男達――ラーヌン公のアイバース、イーラ共和国の特使二人、傭兵隊の総将ジャクム、傭兵隊の部隊長スレーイデおよび他三人、ラーヌン公国財務官、白羊城の書記、ラーヌン市評議員会の代表、そしてラーヌン公国の公子カイバート。
 彼らが、巨大なロの字の木卓を囲んで座していた。すでに長らく熱論が続いていたのだろう、室内の空気はぴりぴりと張り詰めていた。その空気を割るようにアイバースはさらに特使達へ怒鳴った。
「そうだろうが! 日数がかさめば当然、戦費の総額もかさむ。それなら最初から大軍を送り込んで素早く決着した方がよほど効率的だとなぜ理解しないっ」
「そうは仰られても……。サギーラのような小城塞一つの攻撃に、総兵数八千兵・攻城機十六台の派遣とはさすがに……。我が共和国の望むのは、堅実な計画に基づいての攻城であって、別段、新戦術の披露などは望んでおらず――」
「おいっ、まるでこっちが攻城の依頼を使って実戦演習を狙っているかのような物言いじゃないか!」
「失礼ながら、率直な感想を述べるならば、その通りに思えてしまいます」
「そうか。つまり傭兵屋の俺の提案など、下卑た下心まみれに聞こえるという訳か。さすがは伝統と格を自負するイーラ共和国だなっ。その格の果てに、辺境の小城一つを落とすのに俺ごときに武力斡旋をご依頼とはなっ。神のお望みたるところは何たるやだ!」
「アイバース公、さすがにその御発言では角が立ちます、取り消しを願います」
「ああ、取消してやるともっ。だから俺の提示を受け入れるのか早く決めろ!」
「ですから――申し訳ありませんが、繰り返します。今回ご提示の数字は、到底私どもの裁量を超えます、一旦国へ持ち帰って共和国の委員会にかけなければ、とても――」
「だったら戦議も委員会に頼め! 糞野郎が!」
 興奮のまま怒鳴り飛ばす。苦々しさを丸出した顔で相手を睨みつけ、さらなる罵倒を発しかけたその時だ。
「まあ、公」
 見事に機を得た“まあ、公”が響いた。
「こちらの御二人は、文官です。戦法に対する見識に疎い点があったとしても、それは責められる事ではありませんでしょう」
 行き詰まった状況を救うのは、やはりこの男だった。長らくアイバースと親交し、アイバースの気質を深く心得た傭兵軍の総将・ジャクムが、髭を蓄えた口許をゆっくりと動かしながら発言した。
「こちらのイーラ共和国とは、過去にも何度となく派兵契約を結んでいます。我々にとっての大切な顧客殿です。その意見は、尊重されるべきではないでしょうか。
確かに今回の我々の提示は、通常からは異なる規模となっているのですから、ここは互いに見解の溝を埋めるべく、もう少し綿密に議を重ねるべきだと思います」
 文句の付けられない正論だ。長く手を携え合い時代を拓いてきた傭兵総将のこの弁には、さすがのアイバースも同意せざるを得なかった。不満顔ながらも取り敢えず罵声の口を閉じ、強く、大きく息を吐き出た。
 と同時、出席者達も同じく一斉に息を吐いた。ようやく張り詰めていた空気が緩み、なし崩すように討議は中断されたのだ。
 ……すでに真昼が訪れ、室内は陽射しと暑さが満ちている。
 北側の壁では、先代サングル家の時代に描かれた壁画が光を受けて、鮮やかな色彩に輝いている。写実に富んだ花々の花弁の一枚・葉の一枚に至るまでが、優美で繊細な筆致を浮かび上がらせている。
 だがせっかくの絵も、誰にも見向かれることはなかった。誰もが近い席同士での雑談に入り、ここまでの審議のあれやこれやを熱心に語り合っていた。その室内の全体を見据えながら、キジスランはまだ扉口に立っていた。
 キジスランは、カイバートを見ていた。
 義兄は、隅の角席にいた。両手の指を器用に組み合わせて卓上に置きながら、独りだけ黙していた。最年少の素人である彼に話しかける者はおらず、だから独りで注意深く周囲の会話を聞いていた。
“これが、ラーヌンだ”
 昨日の夕刻、街を見下ろす丘で別れてから、この義兄はどこでどの様に過ごしていたのだろうか。
 あの丘で見せつけた激しい印象は消えている。だが、真っ直ぐの眼は変わっていない。その眼のままで静かな無言を保ち、何を考えているのかは全く窺うことが出来ない。
 と。素早く椅子から立ち上がった。
「ジャクム将」
 素早い足で大御所の武将の許へと向かうと、身をかがめて相手の耳に顔を近づける。何やらを長々と囁き出し、それに相手が二~三回小さく頷くと、もう事態は次へと動き出していた。
「公。ここは一旦散会しては如何ですか? 朝から議論を続けており、皆そろそろ疲れを覚えています。空腹でもありますし、昼食の休憩を取ることを提案します」
ジャクムが再び発言するや、再び皆が息を突き、賛同を示す。というよりラーヌン公自身こそが誰よりも大きく賛同した。
「ならばそうしろっ。勝手に休めっ。全員俺が呼び出すまで飯でも食ってろっ、好きにしろっ、勝手にしろ!」
 大きな怒鳴声で賛同し、真っ先に立ち上がる。不満顔のままにさっさと奥の扉から退出していってしまった。皆が三度目の溜息を上げる瞬間となった。
 キジスランは、まだ見続けている。室内の人々がばらばらと立ち上がり、喋り合いながら三々五々に退室してゆく中に、静かに義兄を追っている。義兄がジャクム将の横に並び、頻繫に言葉を交わしながら奥扉の方へと立ち去ってゆく姿をじっと、食い入るように見据え続けている。
「キジスラン公子」
 突然の声に、振り向いた。
「一体どこに行っていたんです? 朝から公が散々に貴方を探していましたよ」
「――。久しぶりです。スレーイデ隊長」
「本当に貴方には、今朝のアイバース殿の姿を見せたかった。久々に傭兵依頼が来たので喜び勇んで息子達も立ち会わせようとしたのに、こんな時に限って真面目な貴方が夜遊びをするから。それはそれは怒鳴り散らしていましたよ。お陰で周りにいた者達は、良い迷惑をこうむりました」
 冗談めかすように言う顔からは、いかにも成熟者らしい余裕があった。
 ジャクム総大将に連なる傭兵軍の部隊長・スレーイデは、風変りと評される赤毛の公子にも気兼ねなく接してくれる貴重な一人だ。
『人嫌い息子の話し相手になってくれないか?』
 息子を案じたアイバースが、密かに依頼したのだろう。そしてアイバースが彼に白羽の矢を立てたという件には、いかにも納得がいく。
 元々スレーイデは、大名門の出自だとか。それが没落という辛苦からの紆余曲折を経て、傭兵職に至ったとか。確かにその出自の通り、彼の気質には品位や知性や誠実という良質が感じられた。確かにキジスランにとっても、この二十歳ほど年上の武人は信頼の置ける相談相手となっていた。たった今も共に並んで通廊を歩き始めるや、キジスランは即座に相手に訊ねてしまった。
「隊長。この傭兵派遣の詳細は? ここまでのあらましは?」
「あらましって、本当に今まで何も知らなかったのですか? 困った人だ、それでよく公子が務まるものですね」
 親しみを感じさせる笑顔で応えてくる。
「良いでしょう、教えますよ。
 出兵依頼は、今朝早くに白羊城にもたらされました。サギーラ城塞の一帯は、イーラ共和国とレイバール公国との間で長らく領有を争ってきましたが、ついにイーラ側がしびれを切らせたようですね。イーラの議会ではすでに、派兵の予算も承認されたそうです」
「では派遣自体はもう決定なのか?」
「はい。すでにアイバース公が受任しています」
「……本当に、戦争になるのか……」
「そう言えば、貴方が白羊城に来てから初めての傭兵派遣ですね。
 そんなに心配顔になる必要はありませんよ。今回は単純な構造の小競合いです。戦闘自体も単純な攻城戦になる予測です。もっとも公は、何とか大軍を送り出して戦費の上乗せをしたい様子ですが」
「それでも――、戦争である以上は、出兵者は負傷や、場合によっては死の危険もあるはずだ。貴方もまた出兵する。……やはり心配だ」
 キジスランは真剣な顔で不安を訴えてしまう。
 と、スレーイデの足が止まった。間近から目を大きく開いて見据えてきた。
「まだお伝えしていませんでした?
 どうすれば一番手を抜きながら一番派手に活躍しているように見せるか。――その術を心得ているからこそ私は、部隊長の地位にまで素早く登れたのですよ」
 にっこりと、楽しそうに笑ったのだ。
 肩透かされ、キジスランの不安は行き場を失ってしまう。どんな表情になれば良いのか迷う。だというのに口許が勝手に口許が上がったのが、我ながら意外だった。さらに続いてゆくスレーイデの言葉といったら、
「私は傭兵業ですから。出陣に関して、御心配を下さる必要はありませんよ。そうそう、心配事と言うならば、今の私にはもっともっと深刻な問題があります。今から昼食として提供される食事の件です」
「……? え……?」
「本当に白羊城は、城の格に比べて料理人の腕が低い。余りに低すぎる。
ラーヌン公国は日々に発展を見せる素晴らしい国家ではありますが、泣き所はこの食事です。これこそは致命的な欠点です」
 からかっているのか?
 滑らかに、丸切り面白がるかのようにスレーイデはキジスランを別の話題へと引っ張ってゆく。鮮やかに困惑させてゆく。
「食事が泣き所って……、何の事を……? 本当に?」
「本当です。貴方はまだ食事の重要性を理解していない。少なくとも軍隊では、食事が不味いというだけで兵達の士気と忠誠心を削がれてしまいます。さらに言えばこれは軍隊だけで無く、宮廷の組織にも当てはまります。為政の基礎となる部分です。
 キジスラン公子。貴方は一度外国に出た方が良い。外の視点から母国ラーヌンを御覧なさい。見えていなかったものが良く見えるようになります。貴方にとって貴重な体験となるはずですから、是非外国へ留学に向かいなさい。早い方が良い。今すぐにでもだ」
 だからどこまでが真実なんだ? どこまでが冗談で? 話題から話題へと、次々と軽々と自分を引っ張り回してゆく。
「……、本当に?」
 困惑の問いは、余裕の笑顔で受け止められて、流されてしまった。
 その後も煙に巻くように、スレーイデは次々と話題を動かしてゆく。二十歳近く年上の相手の落ち着いたユーモアに、体に残っていた緊張は少しずつ溶けて消えてゆく。心地良い疲労と安心に包まれてゆく。
 ふと、気付いた。昨夕からずっと、自分の体の底には緊張が続いていたのだなと。そして昨日から今日にかけて本当に、本当に様々な事が自分の上に起こってゆくと。
 確かに少し、空腹を感じた。食堂までの長い道のりを、スレーイデの軽妙・快活な話題を聞き続けながら並んで歩いていった。
 様々な出来事が起こっていく。着々とした時間がキジスランの上を進んでいく。

        ・           ・          ・

 一日の最後にも、出来事が起こった。
 夜を迎える直前、一人の男が扉口に現れた
「失礼いたします。キジスラン公子」
 キジスランは振り向く。
 ……不美味と評された昼食の後、再開された傭兵派遣の協議に加わった。アイバース公の荒っぽい怒鳴り声、イーラ国特使の心底からの苦慮顔、ジャクム将とスレーイデ隊長の軍策への説明、そして生真面目を貫くカイバートの様をじっと捕え続けながら、長い午後の時間を過ごした。
 張り詰めた一日が終わりかけ、ようやく私室へと戻った時、疲れているはずなのになぜかそのまま眠る気にはなれなかった。窓の許の置かれている椅子に座り、最上階の高い位置から外の景色を見ていた。
 陽は、西の地平に落ちたところだ。
“これがラーヌンだ”。
 昨日に引き続き、今日も美しい夕景だった。真下のハルフ広場も、広場の向こう側の正城門も、さらに向こうに連なる街の家並みも、それを取り巻く田園も、全てが淡い金色に包まれていた。その色彩が刻々と褪せ出し、ラーヌンの全体が昼の活気から夜の眠りへと就こうとする頃合いだった。その男は、やって来た。
「貴方様宛の書簡を預かっています。よろしいですか」
 薄闇となっている扉口から声掛けてきた。静かな足取りで入室し、小さな書簡を差し出してきた。
「必ず公子ご本人に渡すようにと命ぜられました。こちらです」
 受け取り、開けてみる。中には見覚えのある、極めて癖の強いルシドの書き文字があった。ただ一行だけが記されていた。
“今夜はこちらに泊まります”
 字面と文言とを確認し終え、そのまま何気なく目を上げた時、
 ――ちょっと、驚いた。
 そこにいたのは、幽霊のような男だった。
 間近に立つ上背は、かなり高い。そしてかなり痩せている。いや、恐ろしく痩せている。平衡を保っているのが不思議なほどの、極端な痩せ方だ。
 袖口から除く手首は痛々しいまでに骨ばり、皮膚の色にも生気が無く、そして何よりも――顔だ。薄く冷い唇と、深い目の窪みが、びっくりするほどに特徴的だ。その顔が今、冷え冷えとした視線で自分を見据えていたのだ。
「公子。返信はありますか。返信があるようでしたら必ず預かるようにと言われています」
「……。誰からこれを受け取った?」
「マトバのドーシという方です。その名前を告げれば、公子の私室まで通されるので、必ず直接渡せと命じられました」
「ドーシは、髪色の黒い、大柄な男だったな?」
「いいえ。髪色の黒い、小柄な男でした」
「……」
 ルシドとの連絡用に用いている偽名『マトバのドーシ』が誰かに知られているとは思えない。何より、この極めて癖のある筆跡は間違いなくルシドのものだ。
「お前は、どこの家人だ?」
「先月よりイサル・サウド様に仕えている者です」
「サウド殿からも私宛てに何か伝言があるのではないか?」
「いいえ。ありません」
 見知らぬ男が、じっと自分を見続けている。丸切り観察でもしているかのように冷えた眼で見続けている。
 気付くと、すでに窓の外で世界は静まっていた。
 先程まであんなに多数が往来していたハルフ広場から、人けが消えていた。空気は急速に冷え出し、闇と静寂に沈み出し、そして自分の体の奥深いところに何かしら淀んだ、沈んだような不穏が生じる感触がした。
(何が?)
 キジスランは意識してゆっくりと、思考を動かしていく。
(何が、おかしいんだ?)
 自分の周囲には、何も不審は起こっていない。おそらく自分はこの二日間の立て続けの出来事に疲れ、普段からは多少感情がぶれているだけだ。そして目の前の男が、少し異質の容貌と異質の視線というだけだ。――それだけだ。
「――。それ以外に私に伝言はあるのか?」
「いいえ。ありません。公子の方からマトバのドーシ様もしくはサウド様へ宛てる御連絡等が無ければ、これで退出致します」
「何も無い」
 男は頭を垂れる。踵を返し、音もたてずに去って行った。長衣の裾すらも揺らさない歩き方が、やはり印象に残った。
 ……窓から流れる夜風が、強まり始めていた。ラーヌンの姿もまた闇に沈み、消え始めていた。
 キジスランは立ち上がる。続き部屋となっている寝室へと移動すると、扉を閉め、二つからなる鍵を順におろしてゆく。天蓋を持つ寝台に上ると、靴と服を脱いだ。枕の下に短剣を置いた。
 長かった、昨日に引き続き本当に長く、様々の出来事に彩られた一日が、ようやく終わった。疲れた体が引きずられるように眠りに落ちる直前、また義兄の顔が頭を過っていったのが、頭の片隅に僅かに意識された。
 見えない天で、月は雲に隠されていた。
 人の死ぬ夜が始まっていた。


【 その次の朝に続く 】
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