第16話

文字数 9,887文字

16・ その一月後

 リンザン教・副教王ザカーリの別邸は、静かだった。
 そして美しかった。すでに秋が始まっていた。少し涼しさを帯びた風が、豊かな樹々の葉影を、地面の上に揺らしていた。
 朝が深まった時間に、小鳥の声も無い。葉音だけが僅かに響いていた。キジスランはその音を聞いていた。広大な庭に何か所か設けられたあずま屋の一つに腰をかけ、どこにも視点を合わせずにどこかを見ていた。
 この館に来て一月。――無為の一月だった。
 連れ込まれた当初、彼は警護を名乗るドーライを相手に、何とか情報を得ようと懸命に質問を重ねた。が、
「大変申し訳ありません。残念ながら私は、その質問にはお答えする権限を持っておりません」
 穏やかで誠意を感じさせる口調で、しかし、彼は決して情報を漏らさなかった。
 ドーライ以外にも、邸内には数人の使用人・小間使いがいる。彼らも同様だ。決して質問に応じる事は無い。だから彼は周囲の状況について、今の自分の立場について、何も知ることが出来ない。
「公子。是非、邸内をご覧ください。どの部屋でも、御自由に回って下さい。邸内は部屋数が多く、しかもどこも素晴らしい内装と調度です。見どころが多いですよ」
 ドーライが気遣うように勧めてくる。その通り、三階建ての邸宅は広かった。大小幾つもの部屋が連なってゆき、どの部屋もそれぞれに贅を尽くした内装が施されており、しかも部屋ごとに個性を誇り、見て回るに存分な価値を誇っていた。
「庭園の散歩はなさってますか? 猊下は異国がお好きです。特に南国風がお好みですので、そちらからの樹木をふんだんに集めた庭園です。どの季節でも美しいですよ。ザカーリ猊下ご自慢の庭です」
 葉を茂らす果樹と鮮やかな色彩の花が、意匠に沿って美しく配されている。そして本当に広い。この中をキジスランは、邪魔を受けずに一人で歩む。だが後方の遠く離れたところでは、二人の衛兵が目立たないように付いてきている。
 もし散歩中に、高くそびえる外壁、もしくは邸門の方へと近づこうとすると、
「そちらは危険です。申し訳ありませんがお近づきならないで下さい」
 すぐに彼らが近づき、感情を含まない声を掛けてくる。邸門を見て、いたいだけだとごねると、すぐにドーライが呼ばれて来る。何度となく繰り返されてきた、
「本当に申し訳ありません。邸門や外壁の周囲は危険です。ここでは貴方様の安全が最優先となりますので、どうぞ御遠慮を下さい」
の回答を、丁寧に訴えてくる。
「ドーライ。ザカーリ猊下との接見の話はどうなっているんだ」
「貴方様の接見の御希望は、すでに何度も伝えています。ただ残念ながら、ただ今猊下は御多忙で、お時間を取ることが出来ないとのことだそうです。ですからどうか、もうしばらくお待ち下さい」
 真っ直ぐにこちらの眼を見ながら、懸命に繰り返してくる。その態から解ったのは、どうやら現実が確定しているらしいという事だった。自分は監禁されてしまい、何も出来なくなってしまったらしいという事だけだった。
 今。何も解らない。
 状況が全く解らない現実に、刻々と焦燥がつのる。自分がこの邸内にいつまで閉じ込められるのか。『一年後に絵を公表』と張ったり、その通りに一年を経た時に何が起こるのか。いや、一年すら待たずに何かが起こるのか。
 何も見通しを得られない。楽園のように美しく穏やかな邸宅の中、緊張感だけが胸を圧迫し始めてゆく。薄っすらの恐怖が徐々に濃さを増してゆく。何とか己が取れる策が無いかを必死で探ろうと、無駄で、そしてあっという間に一月が過ぎてゆく。
 ……秋の始まりに、穏やかな陽射しと風だ。緩くそよぐ枝葉が、動く影を地面に映してゆく。キジスランはそれを、あずま屋の黄タイル製のベンチに腰かけたまま表情無く、長く、ずっと見続けている。やがてだ。今日もだ。
 ドーライが現れた。アラヤネス樹の植込みに沿う道を、こちらに向かって歩んでくる。濃紺の胴着をまとい、陽射しの下に引き締まった体躯が映えている。今日も。
「お早うございます。キジスラン公子」
 今日も礼儀正しく、誠実に一礼を垂れる。キジスランもまた、常通りを繰り返す。
「ザカーリ猊下との接見は。ルシドにも会わせろ」
 もう最小限の言葉しか使わない。回答は分っているから。今日もこの一月常に繰り返された通りだろう。
「猊下にはすでにその旨を繰り返しお伝えしています。ただ御多忙中との事で、なかなかお時間をお取りになれないとの事です」
 ほらね。
「それから、貴方様の従者ですが――」
 これに続く言葉も、分かっている。“引き続き医者の許で治療を受けています。お会いできるまでにはまだもう少し時間が掛かりそうです”。
「今からお会い出来る段取りとなりました」
 はっとキジスランの表情が変わる。思わずタイルのベンチから立ち上がる。
「マラクに会えるのか! 今日!」
「はい。今こちらへ向かって来ています。間も無く到着します」
 反射的に高い石積の外壁の方を見る。マラクが来る。やっと状況が変わる!
 希望が走るのと同時、だが思考は真っ向から現実を捕え出した。この突然の変化の背景で何が起こったのかと覚え、低い警戒を感じ出す。それにいつも真っ直ぐに自分を見るドーライの濃い色の眼が、
「面会の準備が出来ていますので、邸内にお戻り下さい」
どこか、いつもと異なっている気がする。揺れる木漏れ日を受けて、眼の色が緊張を帯びている気がする。
「部屋に御案内しますので。さあ。キジスラン公子」
「――。分かった」
 それでも、進む以外の選択はない。
 頷いた。珍しく、気遣いもなく先へ進んでいくドーライの背中を追いかけて、薄色の焼石の敷かれた地面を踏み出した。

          ・       ・       ・

 澄みきった空気を割り、重厚な鐘の音がゆっくりと鳴り始めた。
 光背をもつ聖者達の壁画に、窓からの陽が当たっている。それでなくても崇高に溢れる聖なる姿が、一層に神々しく映えいる。中に集う十数人のリンザン教会の高位聖職者達に相応しい、汚れ無き空間を演出してゆく。
 議事が終了し、彼らは雑談へと移り出した。と同時、小奇麗な少年達が一斉に入室してきた。列席者達の卓の上に、酢漬けオリーブと山羊チーズを配してゆく。ガラス杯を並べ、赤葡萄酒を注いで行く。軽食と歓談の準備を整えてゆく。
「猊下。本日は南域・イーリーキアより取り寄せた葡萄酒です。猊下のお好きな南国らしい、強い味わいの一品ですよ」
 丸切り少女のように愛らしい顔立ちの少年が、品良く話し掛けた。銀装飾のついたガラス杯にゆっくりと香り高い葡萄酒を注ぎ始めたのだが、
「よい」
 ザカーリは露骨に不機嫌を剥いた。少年は表情を変える。
「失礼を致しました。お気に召されないようであれば、すぐに他の葡萄酒に変えて参ります。もし猊下に何かしら御希望の品――」
 と、突然ザカーリは立ち上がった。
 一言も発さず、ただいきなり不満の顔のまま室内から出て行ってしまった。慌てて、この後にお食事が運ばれてきますが――と追いかけて来る世話役に見向きもせず、そのまま通廊を歩んでいった。苛立つ表情のままに、頭の中ではまたあの一言を思い返していた。
『聖天使マラクの絵』!
 この一月、他の事を考えられない。絵だ。あの絵だ。
 なぜあの時、絵を描いてしまった、絵に異端詩を書いてしまったんだ、との後悔から始まり、やはりあの赤毛の公子は早々に殺してしまうのが妥当なのではとの結論に飛び、でももし赤毛の脅迫が張ったりではなく本当だったら、という恐怖に神経をかき乱される。この一月。毎日。常に。
 ラーヌン公国に派遣した密偵は、何か有益な情報を得ただろうか。絵の所在につながる手掛かりを得てないだろうか。絵の所在を知っている唯一の者らしいあの従者への拷問はどうなっているんだ……。
 高い天上を誇る通廊を、早足で歩んでいく。きらびやかな色彩と装飾の中に、苛立ちと不安の顔が強張ってゆく。前方からリンザン政庁で働く高級官僚二人が通りかかり、
「これはザカーリ猊下。ご無沙汰しております」
と丁寧に礼を垂れてきても、ほとんど振り見もしない。
「供回りも付けずに御一人だけで歩かれるとは、お珍しいですね。定例会議は終了ですか? 本日の御公務は、これでおしまいでしょうか? 私どもの方は、今日は夜まで休めそうもありませんよ」
 笑顔でそこまでを話しかけられた時、意味も無い苛立ちに怒鳴り声を上げそうになる。が、その前に官僚が続けたのだ。
「先ほど、唐突にバンツィ共和国から、非公式の外交官が訪問をしてきまして。何でも、ラーヌン公国の動向について、重要な最新の情報を共有したいとの事だそうですが、突然の来訪など本当に迷惑ですよ。驚かされましたよ」
 大きくザカーリの顔色が変わった。窓からの深い斜めの陽射しの中で、文字通り頬の辺りの皮膚が青味を帯びたのがくっきりと浮かび上がった。
「私も参加する」
 え? と二人ともが驚く。と、一転、今度は怒るかのように相手が目を剥き出した事にも。
「私もそのバンツィの外交官に会って話を聞くぞっ。どこにいるんだっ」
「いえ、単なる非公式での訪問ですし、貴方様のような地位の御方にわざわざ御立合いを頂く必要――」
「黙れ! 会うと言ったんだ、従えっ。今、その外交官はどの部屋にいるんだ、早く案内しろ!」
 二人が全く同じ困惑顔をさらし、対応に当惑する中だ。偶然だった。通廊に面した小室の扉が開いた。いかにもバンツィ人が好む、黒の胴着と黒の細身ズボンという服装の男が姿を現した。
 バンツィ共和国外交官・ハ―リジュは、実年齢からは大きくかけ離れた老成した顔立ち、それに作法に則った身の折り方をもって、ゆっくりとザカーリ副教王に一礼を垂れた。

         ・         ・         ・

 ドーライに導かれて入っていった部屋は、地階の奥まった一室だった。
 全ての空間に余白が無いのではと思われるほど装飾に溢れたザカーリ別邸だが、この部屋のみは珍しく簡素な内装だった。床にも壁にも天上にも、ほとんど装飾がない。家具も、数個の椅子程度しか置かれていない。
 さらに、肌で感じる異質があった。
「なぜ、暖炉に火が入っている?」
 入室したキジスランは、素直に疑問を口にした。寒さなど全く無いのになぜだ?
 ドーライは答えない。ただ静かに、丁寧に、部屋の中央にある椅子に腰かけることを勧める。
「ルシドはいつ到着するんだ」
「はい。そろそろこちらに到着しているはずです」
 明らかに神経質な硬い表情になっている。
 室内には何の音も無い。風も小鳥の声も無い。暖炉の火が勢いよく揺らき、少しずつ暑さが増していく。ドーライは立ったまま無言で扉口を見ている。
無音が長い。ピリピリと神経を逆なでる緊張を覚え出し、再びドーライに声掛けようとした時だ。
 扉口に一人の初老の男が来た。この館にきてから初めてとなる客人が現れた。
「初めてお目にかかります。ラーヌン公国公子・キジスラン殿」
「――。誰だ」
「はい。私は、ザカーリ副教王猊下の傍にて、猊下の職務を手伝う者です。事情により名前は明かせませんが、どうぞご容赦を下さい。本日は宜しくお願い致します」
「何を宜しくなんだ? ルシドはもうここに来ているのかっ」
「はい」
「なぜ早く連れてこないんだ! 何をして――何が起こっているんだっ」
「その件をお答えします。貴方様の従者の件、そして現状について、お伝えしたい事項があります」
 当惑する。この一月全く進まなかった事態が、こんなにあっさりと、一気に進むのか?
 男は向かいの椅子に腰掛けると、淡々と自分を見捕えながら言った。
「御存じの通り、貴方様の従者ですが、我らがお仕えする副教王猊下にとって、極めて重要な存在となっています。猊下の未来にかかわる一枚の絵の所在場所を知る、唯一の人物と思われるので」
 ぴくりとキジスランの片頬が揺れたのを、男は勿論見逃さなかった。
「意外でした。貴方様はあの絵の所在について、御存じではなかったのですね」
「……。なぜそう思う?」
「先日、すでに貴方様御自身に訊ねていますので」
「え?」
「おそらくその辺は、お忘れになっているのでしょう」
 呼吸五回の間、キジスランは意味が解らずに怪訝の顔となった。不可解で意味深長な言葉の意味を考え続け……。
 はっと、思い当てる。反射的、壁際に建つドーライを見る。と、ドーライが目を避けた。
「私に薬を飲ませて尋問したなっ」
 隠し立てもせず、男は至極当たり前の事として続けた。
「聖者ルブウの水です。貴方様が当初に飲まれた眠薬から目覚められた時、続いてすぐに飲んで頂きました。まだ眠気の残る体調だったようですね。記憶が混濁のまま失われてしまったのでしょう。
 聖ルブウの水――真実の水は、効果に信頼が置けます。貴方様は、天使マラクの絵がどこに隠されているのか御存じない。賢明な手法です」
“キジスラン様。絵は私が隠します。その詳細を貴方は知らない方が良い”。
 あの時。追手から逃れながら必死でリンザン教国への道をたどっていた途中。そうルシドは強引に言った。いや、私も知っておきたいと反論したものを、絶対に認めなかった。果てに、勝手にどこかに隠してしまった。夏の陽射しが猛烈に強く、暑さと疲労と緊張と恐怖とが全て重なり、凄まじく過酷だった旅の途中。
「……。他に、私に何を尋問したんだ」
「ラーヌン公国について、幾つか。例えば、ムアザフ・アイバース公の毒殺の噂について」
「他には……?」
 例えば――義母タリア夫人と自分との秘密
 例えば――母親バイダ夫人の死の真相
 そして――自分の想い。あの男への想い。
「今回はその辺りはどうでもよろしいでしょう。話を戻します。今重要なのは、天使マラクの絵の所在です」
「――。まず、ルシドに会わせろ。今すぐに会わせろ」
「その従者ですが、やはり聖ルブウの水を飲みました。しかし、答えません」
「――どういう事だ?」
「それは、私どもにも解りかねます。考えられない事態です。あの水が効果を成さない人間など、有り得るはず無いのですが。
しかし事情はどうあれ、私どもとしてはどうしても絵の所在を確認せざるを得ません。不本意ではありますが手法を変えました。拷問としました」
 丸切り、今日の天気でも述べるように淡々と言ってくる。キジスランは言葉を失う。一年と少し前の吐き気を覚えるような記憶が蘇る。
“たとえ体を切り刻まれても、貴方の不利になる事を喋るはずありませんから”
 笑みながら自分の頬を触ったあの生温かい指の感触……。
「しかしながら。キジスラン公子。貴方の従者は、拷問にも全く屈しません」
「止めろ……。ルシドを拷問にかけるのを止めろ……」
「そうですね」
「頼むから、止めてくれ」
「私どもにとっても、暴力行為は望むところではありません。そこで貴方様にお願いがあります。是非貴方様の口から、絵の所在場所を明かすようにとの説得をして頂けないでしょうか?」
「それは――」
 考えろ。熟考して、構えろ。この後の展開が自分の未来を大きく決める。白羊城への道を決定する。
 絶対に絵の所在を明かしてはいけないとは判っている。明かした途端に二人ともが殺される。今は取り敢えず、ルシドの救出だ。とにかく、時間を稼げ。
「分かった。ルシドを説得する。だからすぐに会わせろ」
「有難うございます。公子。感謝致します」
 男が、接見の準備をしなさいと扉の方へ向かって指示を出した。すると、通廊に控えていた二人の男達が入室してくる。キジスランの前に進み出て、無言の一礼を垂れる。途端だった。
「何を……!」
 いきなり両腕を押さえ掴み、椅子から引き上げた。そのまま強引に引きずられ、室内の柱の許に立たせる。柱に背中を押し付ける形で腕を後ろ手に縛られた。柱に固定され、拘束されてしまった。
「何をするんだ! お前っ、答えろ! ドーライっ、私に何をするんだ!」
 ドーライは答えない。ただ強く顔を歪ませた苦しそうな顔になっている。その顔に直感する。これから自分の身に最悪が起こる事。
「ルシドを説得すると言ったぞ! なぜ私を拘束するっ、放せ!」
 苦しそうなドーライとは対照的に、男は眉一つ動かさずに答えた。
「申し訳ありませんが、効率を考慮した上でのことです。
 貴方様が説得に当たっても、あの従者は簡単には応じないと判断しています。そこで貴方様には、説得以外の手法でもご協力頂けたらと考えました」
 椅子から立ち上がると、ゆっくりの歩調で暖炉へと歩む。燃えている炎の許に刺してある鉄製の火かき棒を、手に握る。
 その時、通廊から複数の足音が響いて来た。凄まじく不規則な歩みの音だ。そして引きずるような物音も。
「キジスラン様? ――キジスラン様!」
 声だ、ルシドの声だ。
「そこに居ますね? 居るんですね! キジスラン様っ、無事ですか!」
 そして入室してきた。その瞬間、キジスランの喉を驚きが、それを上回る不快が突き上げた。
ルシドは両手と両足そして首を、鉄製の枷で頑丈に拘束されていた。ほとんどボロ布のようになった服の下で、皮膚のあらゆる場所が膿と痣と切り傷そして泥とに塗れ、生々しい、思わず目を背けたい姿になっていた。
「キジスラン様っ、会いたかった! 大丈夫ですか! 無事ですか!」
 目隠しを外された瞬間、一分もずれずに自分を直視した。その狂人じみた視線に、内臓を締め上げられるような感覚が体を覆った。
「会いたかった! 貴方に会いたかったっ。安心して下さい。私は何も喋っていませんっ、貴方の事は何が有っても護りますっ、私が護りますから!」
 そう喚く間にもルシドは、椅子に座らさせられる。全身に凄まじい生傷を負っているというのに、自分を押さえつける男二人に信じられない力で抵抗する。猛烈に暴れまわり、その体が椅子に固定されるまでには、散々に手間と時間がかかることになった。こうしてキジスランとルシドは、二人ともが拘束された状態で対面することになった。
「ルシド……」
 自分を貫く視線に、何を言えば良いか判らない。それ以上に自分達が面している現実に、息が浅くなる。
「私は大丈夫ですっ。全く心配は不要です。それより貴方が! なぜ今貴方が縛られ――、だって貴方は知らないのに、なぜ!」
「……」
 もう答えられない。今から自分に襲い掛かる最悪は、もう判っている。その圧倒的な恐怖に喉が締まって喋れない。
 振り向けた視界の中、男は暖炉に燃える火の中で、火かき棒をゆっくりと回してゆく。キジスランの息は浅く、早くなる。振り向いて自分を見た男に、かすれた声で懇願する。
「止めてくれ……」
「それは私も同意見です。ですが貴方様の従者は、どれ程に質問を繰り返しても、頑なに拒否を続け、我々もほとほとに困っています。
 公子。是非お願い致します。天使マラクの絵が今どこにあるのかを話すようにと、貴方様の口から彼に御説得下さい」
「駄目です! キジスラン様っ、絶対に教えてはいけない! 私なら全く平気です。苦痛など幾らでも耐えますっ」
 途端、ルシドの後ろに立っていた男が、力任せに殴った。ルシドの潰れた悲鳴に、キジスランもまた絶句した。
「やはり質問方法を変更しないと駄目なようですね。――お前達。頼みます」
 男の指示に、ルシドの後ろにいた二人が、キジスランの目の前にやって来る。その一人の右手に、短剣が握られている。
 止めろっ、とキジスランとルシドが同時に叫ぶ中、彼の胴着に剣先が走った。高価なマシュク織の生地ははぎ取られ、胸がむき出しとなった。
「止めろ――!」
 ルシドが叫ぶ。キジスランはもう声を出せない。ただ、暖炉から熱せられた火かき棒が運ばれてくるの、その赤色に熱せされている鉄の先端を見る、それがこれから自分の胸に付けられるという現実に、絶句する。
「絵の所在について答えなさい。答えない場合は、キジスラン公子に苦痛を与えます」
ルシドが何かを叫ぼうとして、しかし決断できずに喉に詰まらせる。その代わり目が大きく見開かれる。キジスランもまた声が出ない。近づいてくる火かき棒を凝視しながら無言で叫ぶ。
 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 誰か――!
「やりなさい」
 獄吏の一人がゆっくりと胸に鉄棒を押し当てた瞬間、苦痛は衝撃となって体を走った。凄まじい悲鳴が喉を突いた。
「キジスラン様――――!」
 息が激しく乱れる。不快な臭いと化した空気を夢中で吸う。僅かに定まった視界の中、ルシドが極限まで目を見開かれ、叫んでいる。凄まじい声で、拘束された体を限界まで動かして暴れている。
「止めろ――――! キジスラン様……! 止めろ――今すぐ止めろ……!」
「ならば、答えろ。絵はどこにある」
 問いに、ルシドは応答出来ない。ただ喚き、喚きは言葉にならない。その間にもキジスランの火傷の苦痛は全身の神経に回り、苦痛は脈打つように増幅されてゆく。
「キジスラン公子。どうか貴方様から説得をお願い出来ませんか? さらなる苦痛を貴方様に加える事は、私の本意では無いのですが」
 顔を覗き込みながら、丁寧に言う。だが答えられず、ただ激しい息を吐く。もはや状況の判断など出来ない。相手の言っている言葉を捕えることすら出来ない。
 男が右手の指が、赤くただれた火傷の傷をゆっくりと押すと同時、獣じみた悲鳴を吐く。同時、ルシドも叫ぶ。
「公子。是非ともお願いします」
 キジスランの目がルシドをみる。それから隅にいるドーライを。ドーライはもう自分を見ていない。残虐の場面から目を背け、壁を見ている。対照的に目の前では男が、冷静そのものの顔で、単なる物体として自分を見ている。火かき棒は暖炉に戻され再び、熱せされる。誰か、助けてくれ……助けて……!
「ルシド……助けてくれ」
 ルシドは鉄枷を引きちぎらんほどに体を激しく暴れながら叫ぶ。
「言えません! 言ったら貴方は殺される!」
「もう一回やれ」
 ルシドが叫ぶがもう言葉にならない。獄吏が再び火かき棒を手に近づいてくる。キジスランも声が出ない。潰れた息を吐き、ただ自分に迫ってくる焼けた赤銅色を見る。
「キジスラン様! ――止めろ――! 殺す――殺してやるっ、貴様たちを殺す――!」
 ドーライが顔を歪ませ下を向いた。その口が“神よ、憐みたまえ”と呟いたのが、なぜか鮮明に解かった。もう叫べない。もう声が出ない。もう嫌だっ、助けてっ、ルシド、助けてくれ! そう発しようとして、もう出来ない。ルシドが凄まじい声で獣の様に喚く。
「殺してやる! 皆っ、殺してやる――――!」
「やれ」
 ルシド! 助けてくれっ と叫びかけた瞬間、絶叫が喉を突き上げた。再び胸に、耐えきれない激痛が走った。
「キジスラン様――――!」
 この直後に起こったことを、キジスランは知らない。彼の体と神経は苦痛に耐えきれず、失神していた。
 巨大な、長い長い悲鳴が、室内に響き渡った。
 ルシドではない。尋問していた男だった。その顔が目も口も限界まで開かれた果てに歪み、そして唐突、大きな音を立てて飾りの無い床の上に崩れ落ちた。
 何が起こったのか解らない。ただ男は倒れた。――息絶えた。
 室内は奇異な静寂に覆われている。キジスランは失神している。ルシドは凄まじい喚きを消し、黙している。理解の出来ない状況に、ドーライと二人の獄吏は反応出来ない。ただ空気に圧倒的な違和感を覚え、それに本能的な恐怖を感じ、そして――、
獄吏の一人が悲鳴を上げた。滑稽なほど慌てた動きで後ずさった。
「魔物だ! 聖者様!」
 ルシドは――異能の力で男の心臓を止めてしまったルシドは、素早く顔を動かした。獄吏達を見据え、叫んだ。
「殺してやる! 皆!」
 途端、二人は引きつった声を上げて部屋から逃げ出そうとする。が、一人が倒れた。巨大な音と建てて固い床の上に倒れ、動かなくなった。死んだ。振り返って見たもう一人が引きつる絶叫を上げ、死に物狂いで通廊へ走り去った。
 そしてルシドは、死者を捕えた眼を上げた。大きく振り返り、ドーライを見た。
 ここまでの出来事を全く理解できず、呆然のまま動けなかったドーライは、一気に死の恐怖に捕えられる。凄まじい絶望感に、動けない。喉の奥がかすれる様に“神よ、憐れみ給え”との聖句を唱える。
 ルシドの魔物の眼が、その全てを見ていた。眼球の全てが充血し、毒の様な赤さに染まっていた。

【 その半年後に続く 】


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