第8話

文字数 7,982文字

8・ その七日後

 春は走るように進んでゆく。
 走るように起こってゆく出来事の連続は、キジスランを取り囲み、押し流してゆく。彼の感情は強く押され、乱れ、荒立てられられてゆく。
 生き物のように勝手にうごめき出した感情を、キジスランは抑えられなってゆく。身に付けたはずの無表情という武器も、役に立たなくなってゆく。キジスランは徐々に、着実に、望んでいなかった境地へ追い立てられてゆく。
 出来事が、感情が彼をもてあそび、苦しめてゆく。今日もだ。
 春の柔らかな光の中、キジスランはもてあそばれ、そして責められてゆく。

「――以上の通りです。
 サギーラ城砦側との最終交渉は、無条件での開城という内容で決着し、その旨を記した契約が締結されました。これにより、今回の対サギーラ城砦・傭兵派遣において、我らが宗主・ラーヌン大公の傭兵軍は完全な勝利という戦果を収める事が出来ました。
 これをもって、最終の戦況報告を終了します。
 ――神に嘉されしラーヌン公国、万歳」
 キジスランが僅かな笑顔と共に言い終えた途端、大広間の全員が椅子から立ち上がった。
「ラーヌン公国万歳!」
 高い天井を破らんばかりの大きな歓声が沸き上がったのだ。白羊城の官吏、市評議会関係者、商工組合幹部、武人、外交官、その他多数が一斉に抱き合い、握手を交わし、高揚の顔を見せたのだ。
「ラーヌン公国万歳!」
「アイバース公万歳! カイバート公子万歳!」
 その中心に居て、アイバース自身こそが興奮と喜びを表している。顔を真っ赤に染めて、全身で歓喜を表す。いきなり腰の“家長の剣”を抜くや丸切り子供のよう、高々と天井へ突き上げたのだ。
「鐘を鳴らせ! 市民をハルフ広場に集めろ! すぐ市民達にもこの戦勝を知らせろっ。
皆も外へ出ろっ、市民と一緒に戦勝報告をもう一度聞くぞ、さあ行くぞ!」
「公! さすがですっ、さすがは貴方が誇る傭兵部隊だ!」
「そしてカイバート公子だ! 凄いっ、あのホニッツ将を打ち破るとはっ」
「まさかサギーラ城塞側が、著名な傭兵・ホニッツ将を雇っていたとは。そのホニッツを相手に勝利するとはっ」
「あの若さでっ、初陣でっ。稀にみる力量だ!」
「これで公国の将来は安泰ですな! 今夜は祝杯ですな、カイバート公子と公国の未来を祝して!」
 驚くべき力量……、稀に見る才覚……、ラーヌンの歴史に残る……、英雄の誕生……、
 熱気と興奮の室内に、きらめくような単語が飛び交ってゆく。
「早く鐘を鳴らせ! さあ外へっ。さあ皆、広場へ行くぞ!」
 アイバースの声を煽られながら、百人に超える列席者達が次々に大広間から出て行く。これにつれて、晴れがましい単語も通廊へと移ってゆく。通廊に長い反響を残しながらゆっくりと遠ざかり、やがて消えてゆく。
 ……大広間に、静寂が戻った。
 急に冷え始めた空気の中、キジスランは広間に立っていた。彼一人がそのまま残り、立ち続けていた。
 と。唐突に若いレイバール国商人が慌てた態で戻って来る。床に落とした濃緑色の布帽子を拾い上げた直後、そこにいる赤毛の公子に初めて気づいた。
「キジスラン公子、貴方様の御兄上はラーヌンの英雄だ。素晴らしい御兄弟をお持ちだっ、貴方にとっても誉れでしょう?」
 嬉々とした笑顔で告げるや、すぐに走り去ってしまった。
 キジスランは、何の反応もしなかった。もう誰も見る者が居なくなったその顔に、強い苛立ちだけを示していた。無表情から大きく隔たった苛立ちの顔で、がらんと人の消えた大空間に独り立ち続けていた。
 体の中には、この二十数日の間に起こった出来事が、絵画にように鮮やかに染まり付いている。思い出す都度に感情は奔流となり、全身を押さえつけて苦しめる。それらは例えば、
 タリア夫人の姿。思い出すだけで悔恨と恐怖に息が詰まる。
 連日の父親との執務の風景。思い出すと、刃物で切られるような罪悪感で、押し潰されそうになる。
 なぜ? なぜ父親を裏切る事を……。
 少しずつ信頼が深まってゆくと実感していたのに。自分への愛情には何一つ揺るぎがないと父親自身が伝えてくれた、正にその日だったのに!
 この先に長く長く続いてゆく時間の中で、自分達三人はどう互いの顔を見れば良いのだろうか? それを思う時、全ての身動きを奪われる気がする。凍り付くような恐怖感に喉を握り潰される気がする。
 そして、カイバート。
 あの春の始まった聖シャムス日の夕刻から、自分の感情は揺さぶられ続けている。あの男に関わる全ての場面において感情は激しく乱され、思いも付かない方向へと流されてしまう。
 だからたった今も、人の消えた大広間の中、自分は激しく苛立っている。全ての人々が絶賛と興奮とを示す中において、自分の感情だけが胸苦しい程に苛立ち、激しい憎悪を覚えている。
 唐突に鐘の音が始まった。市民を白羊城に呼ぶ鐘だ。
 間も無く下のハルフ広場には、人々が集まるだろう。広場が人で埋まったら、自分はまたアイバース公に呼び出され、指示されるだろう。“今後、戦地からの報告は常にお前がやれ。公式の場で役割を果たす姿を、必ず人々に見せておけ。とにかく自己の存在感を示しておけ”。
 そして父公の指示の通り、白々した笑顔を見せながらもう一度、戦勝報告を繰り返すのだろう。
「カイバートが見事に英雄になったことを、自分の口で告げる」
 声にして言う。さらなる苛立ちに喉が締まり、皮膚が熱を帯びる気がする。
「あの男は英雄であると、自分の口で告げる。だが。
 ――一体、事の真実を告げても、あの男は英雄になるのか?」
 大きく発する。ずっと考えていた事を、考えても無駄な現実を、それでも声にして大きく発する。
 つまり。今回カイバートは、攻城戦の手法を全て無視して勝利したという事。
 敵将や敵城主からの交渉の申し出をことごとく拒絶し、力づくでの攻撃を続行して落城させた事。ジャクム副将の力でなんとか城内略奪は避けられたものの、下手すれば敗者への殺戮すらやりかねなかった事。
 その真実を、広場一杯の群衆に告げたとしても、あの男は英雄との賛辞を浴びるのだろうか?
「そんな事が許されるのか? あの男には?」
 苛立ちの声が星型紋様一面に描かれた天井に、大きく響く。
 体内が高揚する。残虐さすら技量の一つと見なされ、平然と賞賛を受けられる特権が、その当然さが理解できない。感情が翻弄され、何が正しいのか判断出来ない。
 不満と怒りと羨望が混ざり合い、逆巻き、苛立ち続ける。歯ぎしりするような声でもう一度、強い怒りを込めて怒鳴る。
「許されるのかっ。なぜあの男にはそれが許されるんだっ。なぜだっ」
「なぜなら、力量者だから」
 反射的に振り返る!
 広間には誰もいない。声の主を見つけるまでの呼吸四回分に、猛烈な緊張を覚える。そしてついに相手を見捕えた時、その緊張は一気に強まる。
 二十日と数日前の夜に見た顔が、自分を見下ろしていた。
 星の紋様が散らばった青い天井。その天井に近い、高い場。壁に沿って渡された張り出し通路の手すりによりかかかりながら、その男は自分を静かに見下ろしていたのだ。
「だから、許されます。――これで決まりましたね。どうしますか。キジスラン公子」
 抑揚の少ない口調は、あの夜と同じだ。瘦せこけた体も頬肉の無い顔も、あの夜と変わっていない。何よりも眼が変わっていない。こんなに明るい春の真昼だというのに、あの夜と全く同じ、幽霊じみた視線だ。
「……お前は、誰だ?」
「失礼をしました。自己紹介がまだでしたね。
 私は、イブリスと言います。この冬からカイバート公子の相談役を務めていますので、お見知り置きを」
 相手はあらためて一礼を垂れると、ゆっくりと張り出し通路の上をこちらへと歩いてくる。高齢者かもしくは修道者が着る無彩の長衣の、その裾がほとんど揺れない歩き方が印象に残る。
 自分のほぼ真上の位置で足を止め、無機質に見下ろしてくる。キジスランは沸き立つ感情を強引に抑えて先んじるように言った。
「お前。イブリス。あの夜の手紙の偽造には騙された。見事だった」
「有難うございます。筆跡の写しは、私のささやかな特技の一つです。
 ところで、私はその技能を貴方様に披露したことがありましたでしょうか?」
「……。ずっと私を見ていたのか」
「はい。私が白羊城に来た日から、ずっと見てきました。たった今も、貴方様の素晴らしい笑顔での報告を愉しませてもらいました」
「なぜ今ここにいるんだ。カイバートの参謀ならば、共にサギーラ城塞に行くべきではないのか」
「いいえ。戦場のような暴力的で血生臭い場は、私向きでは有りませんので」
「では、主人の弟公子の従者を拉致して拷問を加えた時も、主人の傍にいた訳ではないのか?」
「何の事ですか?」
「――」
「イサル・サウド老殺害の、容疑者の事ですか?
 そう言えばカイバート公子は偶然にも、サウド老殺しの容疑者を捕えたそうで、尋問を行ったそうですよ。館に潜んでいた、確実に犯人と疑われる男だそうです。ただ残念ながら、男から自白を引き出す前に逃亡されてしまったそうですが。
 それで。キジスラン公子。貴方の従者が何でしょうか? その方がどうかしましたか?」
「……」
 握りしめた掌の中に、冷たい汗を覚え出す。緊張は冷やかさを帯びているはずなのに、なぜか苛立ちに体が熱くなってゆく。イブリスの眼はそれすら見抜きかねないかのように、蛇のように薄く見下ろして来る。
「先程の戦況報告についてですが――。
 今回の敵の傭兵将・ホニッツは、大した力量も無い凡庸な傭兵隊長ですが、それでもティドリア域中で知名度だけは高かった。まさかその有名将と戦場にて対峙できたとは、カイバート公子は運に恵まれています。そして運に恵まれるというのも、強者の強者たる所以です」
「――」
「自ら幸運の女神を招き、その上で彼女に言うことを利かせるという事が出来るのですから。これが先程述べた、力量者の特権の一つです。それこそが貴方様とカイバート公子との間の、大きな差ですね」
「――」
 相手の主張に同意してしまいそうな事に苛立つ。冴え冴えと向けられる侮蔑の口調と目付きに猛烈な屈辱感を、それに対する激しい反発を覚える。
「……。偉そうに。付け上がった理屈を――」
「そうですか?」
「そうだ。何が特権だ、笑わせるなっ。幸運の女神を飼い慣らせると思ってるのならば、その者は阿呆だ。そう思った瞬間に、彼女が予想に反して運を変える危険を考えてないだけだ。相手は運という不安定なものを司る女神だという恐ろしさを忘れているだけだっ」
 すると、イブリスのこけた頬が盛り上がった。笑ったのだ。
「なるほど。確かに一理ありますね」
「――」
「なるほど。やはり貴方様は兄上とは違う」
「どういう意味だ」
「教えて差し上げません」
「――」
「お伝えした通り、この白羊城に登城して以来、ずっと貴方様を見てきました。その上で申し上げます。
 私には、なぜカイバート公子が貴方様を注視するのか、どうしても理解が出来ません。貴方様はおよそ、カイバート公子が敵視を覚える範疇には有りません。貴方様は兄上とでは力量が全く釣り合わず、危惧する価値など全くありません。お話になりません。
 それでもカイバート公子が貴方様に意識を配るのは、せいぜい己の力を引き立てる存在として最適とでもとらえているからでしょうか?」
「――」
「それでも、貴方様はカイバート公子と競おうとしますか? キジスラン公子?」
 もう一度、冷え冷えとした顔でゆっくりと笑んだ。
 そしてイブリスは一礼をし、背を向ける。重みを感じさせない足取りで、張り出し通路の上を遠ざかってゆく。やがて、灰色の長衣姿が隣室へと吸い込まれ、キジスランの視界から完全に消え去り……、
「マラク――!」
 その瞬間、室内に大きな怒鳴声が反響した。
 マラクはびっくりした。主人の声色に猛烈な苛立ちが含まれていたのだ。傷の癒えないルシドに代わり雑務を勤めることになった小僧は、慌てて広場を見下ろすバルコンを離れ、大広間へと飛び込んできた。
「マラク。広場を見ていたな? 様子は?」
「見てましたけど、様子って?」
「早く言え!」
「はいっ。広場ならとっくに人があふれてますよ。鐘が鳴る前からもう結構な人数が集まってて、戦勝を喜んで騒いでましけど、――でも、
 でもそれって、ちょっと不思議ですよね? なんでみんなこの勝利の事を知ってたんだろう? 誰かが先回って街に知らせていたって事ですか? 少しでも多くの人を集める為に? こんな事するって、貴方も知ってたんですか?」
 その時、初めて気づいた。
 確かに広場から、賑やかな群衆の歓声が上がっていた。カイクバート公子万歳! を含む多数の称賛が、まだ鐘が鳴らされてから間もないというのに早くも、とっくに響き渡っていたのだ。
「……、イブリスの奴――」
「え? 誰です?」
 どこまで先回りして謀る!
 “せいぜい引き立て役に最適とでもとらえているのでしょうかね”
 そしてどこまで人を小馬鹿にするんだっ。イブリスっ、――カイバート!
「マラク。すぐに行けっ」
「え? どこへ?」
「少し前に、バンツィ国から新しく外交官が赴任した。ハ―リジュという名前だ。ずっと私との会見を願い出ていた。今すぐ会うからここに来るように伝えろ」
「バンツィの新人の外交官? そんな人が来てましたっけ? 公使ではない私的な機関からの外使ですか? それって信用の置ける――」
「黙ってさっさと行けっ」
「はいっ、……でも、今すぐって言っても――。これから貴方には、広場での戦勝報告があるんでしょう? 多分それから後もアイバース公の指示で人と会ったり討議したりとか、きっと色々と――」
「ならばとにかく城に呼び出して私の執務室に待機させておけっ、早く行け!」
「どうしたんですか? 何をそんなに怒って――」
「黙って行け! 早く!」
 あまりの語気に圧される。マラクは慌てながら大広間から走り出る。呆れるように悪態の句を吐き出す。
(一体何だよ、この公子っ。最初に会った時と全然違うじゃないかよっ)
 聖者様の作った奇妙な成り行きによって、この赤毛の公子に従事することになった。白羊城で働けるなんて、これは飛んでも無い幸運を賜ったぞ、最高だぞと、心底から喜んだ。
“しかも噂で聞いていた通り、見るからに大人しそうな主人だし。これは良いぞ。これはうま味の多い仕事になるぞっ”。
 そう聖者様に感謝したっていうのに。
(この公子、どこが大人しくて地味で表情のとぼしい公子だよ!)
 表情がとぼしいどころか、かなり簡単に感情を表す。しかもその感情が、ころころと変わってゆく。実際この数日間だけでも、以前の物静かさが消えてしまい、すぐに怒ったり落ち込んだり苛ついたり、露骨に不安定じゃないか。
(そういえば、父親のアイバース公に対してもおかしいよなあ。最初は結構仲が良さそうに見えたのに、ここのところは何でだか避けようとしてるよなあ。見た目からしてぴりぴり張りつめてるよなあ、何でだか)
 言われた通りに通廊を小走り、階段目指してて通廊を右に曲がろうとした時だ。
 いきなり背後から、大きな音が反響した。
 はっと振り返ると、公子が通廊を反対側へと去っていく姿があった。そして薄色の床の上には、たった今公子が叩き捨てた報告書類が散らばっていた。
(だから――)
 激しく散乱した報告書類を、そして消えていく公子の後ろ背をマラクは唖然の目で見続ける。
(どこが大人しくて無表情で内面の掴みにくい公子だよ。全然違うじゃないか。最初に会った時と丸切り別人じゃないか。あの公子!)

          ・        ・        ・

 ハルフ広場に人が集まってきている。
 見なくても分かる。鐘の音が響く中、物音も人声もどんどん大きくなっていくのが分かる。その人声が歓喜と興奮に染まってゆくのが分かる。
 窓には固く鎧戸を下ろしているのに、それでも隙間から僅かな陽射しが差し込んでしまう。それだけでタリアは怖い。防ぎきれずに入って来る光が怖い。その細い光を受けて、貞節と信仰を貫いた果てに殉教した聖女オードーリアの絵が見えるのが怖い。神の祝福の許に夫と手を取る聖女の清らかな婚礼の画面が薄っすら見えるのが怖くて、泣きたい。
「公妃様? タリア夫人?」
 扉の向こうからずっと呼びかけてくる声が、怖い。
「どうぞ開けて下さい。今日は気鬱がさらに酷いのですか? ご体調が心配です。医者を呼びますから、ここを開けて下さい。とにかく、どうぞ御顔を見せて下さい」
 嫌。怖い。怖くて誰にも会えない。自分が犯した罪に押し潰されそうで、怖くて会えない。誰とも会えない。
 もうキジスランとは会えない。相手をどんな眼で見ればいいのか、相手がどんな眼で自分を見るのかを考えると、恐ろしくて身が潰される。この先一生、二度と会えない。
 勿論、アイバース殿とも会えない。顔を見ただけで恐ろしくて息が出来なくなるかもしれない。
 だというのに殿は、変わらず気遣ってくれる。自分が体調を崩したと聞くと、傭兵遠征中の多忙なのにわざわざ見舞いの手紙を送ってくれた。だが、返事など書けない。それどころか読むことも出来ない。怖くて、絶対に出来ない。
 広場の人声と物音が、賑やかさを高めていくのが分かる。興奮と熱気を高めてゆくのが分かる。カイバートの遠征が勝利を遂げたのだろうか。彼は栄誉と共に帰還するのだろうか。
 怖い。世の中が自分にとって悪い方向へと進んでゆく。そうやって自分を罰そうとしている。でも、その原因を作ったのは自分なのだから。
「どうするの? 朝からずっとよ? もうこれ以上一人にさせておくのは――」
「でも強引に扉をこじ開けるのは、いくら何でも無礼過ぎるし――」
 締め出された侍女達は、寝室の扉の前に集まっていた。女主人の異変について、その原因と対応について口々に、好き勝手に意見を投げ合っていた。
 七日の前。楽しみにしていた親子三人の食事を、理由も告げずに突然に中止にした。その件が余程悲しかったのだろうか。この時から女主人の気鬱が始まった。ただ『独りにして』とだけ言って、寝ついてしまった。
 気鬱は日ごとに酷くなり、体調不良まで招いたらしい。なのに医者を呼ぶというと、ぴっくりする程の激しさで拒絶をした。
『医者なんて呼ばないでっ、殿にも告げないで!』
 青く顔色を変えて怒鳴ったのだ。
 だが、さすがに夫であるアイバース公に隠し続ける訳にはいかない。ありのままを告げたところ、公は多忙中にもかかわらず妻宛に手紙を送ってくれた。だというのにそれを目にした途端、女主人は激しく泣き出した。遂に今朝からは、寝室の鍵を下ろして閉じこもってしまった。
「だからもう一度殿に伝えて、指示をあおぐべきよ――」
「でも殿も他の城内の人達も、今は猛烈に忙しいから。たった今もほら、広場で戦勝報告が始まってて――」
「だめよっ。そんな事を言ってて、もし公妃の身に何かあったら誰が責任を取るのよ――」
「これが、御腹に御子が出来たっていう不調だったら良いのにねぇ。そうだったら本当に良いのにねぇ――」
 寝室の扉の前で、侍女達はずっと好き勝手に喋り合い続けている。仔犬もまたずっと鳴き続けている。締め出しを喰い、寂しそうに鼻で鳴きながら必死に扉の前を動き回っている。
 そんな中で、一人だけは何も喋らなかった。
 一番年若の侍女だけは、何も口から発さず、白々とした顔をさらしていた。同僚達から一歩下がった場所に立ち、ただじっと女主人の寝室の扉を見ていた。
(聖女オードーリア様――。聖女イリア様――)
 冷えた眼で、口の中でずっと、聖女達の名前を唱えていた。

【 続く 】
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