第19話

文字数 8,333文字

19・ その直後

 陽射しの真下を、マラクは懸命に馬を駆る。
 彼は乗馬を始めて日が浅い。どうしてもおぼつかない騎乗になってしまうが、それでも必死に鞍に跨り、手綱にしがみつく。何とか白羊城まで達すると、正面城門を抜けハルフ広場を横切り、南棟の手前で馬から飛び降りる。
 その時、たまたまだ。二階のバルコンの一番奥の影となっている場に、独りで座っている姿を見つけた。即座、大声で叫んだ。
「タリア様! キジスラン公子が見つかりました」
 はっと彼女は椅子から立ち上がった。驚いた白犬が大きく吠える中、そのままバルコンの端まで駆け寄よると、思わず大声で叫んだ。
「キジスラン――どこに! どこにいたのっ」
「リンザン教国ですっ」
 かつてキジスランに仕え、今はカイバート新公に仕えてしまった要領の良い少年は、丸切り大昔からの馴染みのような馴れ馴れしさで前公妃にまくし立てる。
「先日の聖バアフの日にリンザン教国で発表されました。あそこにいて、今は教会に属する騎士団の騎士になったそうですっ」
「なぜ? なぜリンザン教国――騎士団ってなに? なぜそこにいるの? 教えて、今無事なの? ――なぜ!」
「取り敢えず無事です。今はそれしか分からなくて、でも分かったことがあったらすぐにお伝えしますからっ」
「待って! いつからリンザン教国に、最初からあそこにいたの? 本当に今、無事――」
「済みません、今すぐにカイバート様に伝えないといけないので!」
言い残し、少年はあっと言う間にバルコンの真下のアーチ通路に姿を消してしまう。
「待って! もう少し――」
と叫んだ瞬間、いきなりタリアの体に、びくりと衝撃じみた感覚が走った。
 だって、どうなるの?
 父親殺しとして極刑まで宣告されているキジスランが突然現れて、そうしたらラーヌンは、白羊城はどうなるの? カイバートはどうするの? それ以上に、
 生々しく思ってしまった。――自分はどうしたいのだろう?
 自分の想いなのに、解らない。解からないから、怖い。何とか、考えようとする。
 もしキジスランが白羊城に戻ってきたら、自分はどうしたいと思うのだろう……?

 そのままマラクは息を切らしながら階段を駆け上がる。
 主君・カイバートは何を考えているのだか、自身の執務室を南棟の最上階の部屋にしてしまった。『ここからの眺めが良いから』との理由だけでだ。為に、新公を訪問する人々は迷惑極まりない事に、長々と続く階段を延々と登らせられる破目となってしまったのだ。
 何とか最上階まで駆け上がり切ると、さすがに一度足を止め身を曲げ、早い息を五回突く。六回目に息を吸い込んだ直後、再び床を蹴る。長い通廊のちょうど真ん中に位置する執務室に達し、中へと飛び込むや、有りっ丈の声で叫んだ。
「カイバート様っ、キジスラン公子の行方が分かりました! やっぱりリンザン教国です!」
だが。
「マラク。遅いぞ」
 カイバートは、広い室内の真ん中からこちらを見るだけだった。
 執務卓の許に腰かけたまま、驚くこともない。それどころか、にんまりとの顔だ。その背後では、昼の陽射しの中に不釣り合いな寒々しく痩せた顔もまた、自分を見ている。
「イブリスの方が先に情報を運んだ。残念だな。お前の負けだ」
「公子が銀の山羊騎士団に入ったっていう情報も?」
「ええ。勿論ですよ」
 イブリスが笑顔を示し、一段と不似合感が高まる。マラクを当惑させる。
(何で俺の主君になる人はいつも、横に変な奴を置いているんだよ。前は陰気な化け物で、今は真昼から笑う幽霊か?)
 彼は勝手に、執務卓上の水差しと杯を手に取る。カイバートの、「毒で殺されるぞ」との冗談に、こんな時に良く言えるものだと思いながら一応笑って応じる。完全に飲み終え、一度息を吐いてから、あらためて訊ねる。
「何か、意外です。落ち着いているんですね。大嫌いだった弟公子が安全に生き延びてたって知って、怒りを剝くかと思ったのに」
「何でそうなるんだ?」
「それで貴方はどうするんです? 弟をこっちへ引き渡すようにとリンザン教国と掛け合うんですか?」
「別に」
「何でそうなるんですか? だって極刑を求めて探してた弟でしょう? 憎んでいるんでしょう? しかもザカーリ副教王の推挙を受けて騎士団に入ったそうですよ。まさかキジスラン様がこんなに理想的な形でザカーリと協定するとは、俺も思わなかったですよ。
 どうします? 伝統を自慢する銀の山羊騎士団の団員となると、簡単には身柄の引き渡しに応ずるとは思えませんよ。取り敢えず俺がリンザン教国に行って調べてきましょうか?」
「別にいい。この件はイブリスに任せた」
「俺じゃなくて?」
「そうだ。まあ、取り敢えず様子見だ」
 丸切り、明日の天気の話でもするかのよう、カイバートの物言いは大した興味も無さそうな印象だった。それなのにだ。最後に、静かな口調で付け加えたのだ。
「奴は、俺に何か仕掛けてくるかな?」
 いかにも不調和だった。どこか、期待じみたものが込もっているようにも聞こえたのだ。不思議な事に。本当に今、興味が有るんだか無いんだか。
(本当に、奇妙な兄弟だよなあ)
 マラクは自分の勘と洞察には、自信を持っている。それを使って推測しようとするが。
(互いが互いを憎み合っているんだと思うけど……。でも、ちょっとだけ、……何となく、違う感じなんだよなあ。互いをどう考えているんだから、どうも予想が付かないんだよなあ。まさか――、意外とね。まあ、……まさかね)
「もし奴が俺に挑んできたとして――まあ神にかけてそんな事は無いが――それでもし俺を倒してラーヌン宗主になったとしたら、お前はまた奴の方に付くんだろうな」
 唐突の問いにはっと、冗談無しマラクは怒る。
「止めて下さいよ! 俺と同じ名前の聖天使にかけて、そんなことは有り得ないですっ」
「何を怒ってるんだ。本当か? 奴とは随分親しかったじゃないか」
「本当です。当然です。根拠が有ります。貴方の方が確実に公国を発展させてくれるからです。公国が発展すれば、公主の権力も強まるし、そんな有力な公主の横に仕えていれば、俺の立ち位置もその分強くなるからです」
「流石だ。マラク」
 遠慮ない損得勘定を面白がり、笑った。
 カイバートは相手の左の掌を見る。そこには潰れて曲がった指二本を隠せるようにと自分が贈った薄色の手袋がはめられていた。この餓鬼とつながってもう一年を経たのを思い出した。つまり義弟を殺し損ねてからとっくに一年と少しを経ていたとことを、久し振りに思い出した。
 秋が始まり、空気は湿度を帯びている。風が室内を抜けるたびに、ほんの僅かずつ室温を落としてゆく。窓の外には、強さを失った柔らかな陽射しが降り注いでいる。
 窓辺に立ってハルフ広場を見下ろしていたイブリスが、静かに口を開いた。
「どうやら予定通りに御客人が到着したようですよ」
 途端、カイバートは立ち上がった。急いで窓へ寄り、広場を見る。そこにガルビーヤの紋章を付けた多数の馬車・荷馬車を確認するや、早足で部屋を横切る。
「イブリス、午後の執務は無しだ。客人達を迎える。リンザン教国の件は、一応人を送っておけ。
 マラク、お前は厨房に行って、食事の準備がいつ頃仕上がるか料理番に確認しろ。出来るだけ急がせろ。いいな」
 それだけを命じると、素早く部屋から去っていってしまったのだ。
 一つだけマラクに解かったのは、今ラーヌン新公の心を占めているのは、遠い過去に白羊城から追い出した義弟ではないという事だった。軍事遠征、ラーヌン為政、そして何より自身の婚姻という事だった。自分の最高の花嫁という事だった。
 ……執務室内は、静けさと冷ややかさが満ちていく。
 微風が抜けてゆく。残されたイブリスとマラクは無言になる。窓辺に並び、二人ともがそのままハルフ広場を見下ろし続ける。
 到着したばかりの馬車と荷馬車では、荷下ろしが始まったようだ。辺りを多数の使用人達が動き回っている。広場を行き交っていた人々もガルビーヤからの馬車と気づいたようだ。噂になっている新公の花嫁一行と察して集まり出している。車列の中心に停まっている一番大きな馬車に注目し出している。
 その中だ。馬車の扉が開き、女性が降りて来た。
 彼女は――マテイラはゆっくりと顔を上げて、白羊城を見渡した。その大きく目を見開いた顔に陽射しが当たり、取り巻いていた全員にこれは噂通りの、いや噂を遥かに上回る美人だと息を飲ませたのだ。
「マテイラ嬢、お久しぶりですっ、ようこそっ」
 南棟からカイバートが飛びだして、あっという間に花嫁の前へ達した。嬉しさそのものの笑顔で出迎えた。
「やっと会えました。本当にようこそ、私の城・白羊城へ」
「お久しぶりです、カイバート様。こんなに早くに再会が出来て、心から嬉しいです」
「私も同じです。心からお待ちしてました。――どうですか、白羊城の第一印象は?」
「貴方様がずっと御自慢されていた通りだわ。大きくて、素晴らしく立派な御城」
「そうでしょう? 私が言った通りでしょう?」
「ええ。残念だけれど、悔しいけれど、本当だったわ、カイバート様」
 言いながらにっこりと笑ったのだ。
 周囲から、抑えた歓声じみた息が漏れる。カイバートもまた満面の笑で婚約者に手を伸ばした。それに婚約者も手を預け、さっそく二人で親しそうに会話を始めながら、ゆっくりと南棟へと歩み出していく。明るく穏やかな陽射しの真下だ。……
「本当にカイバート様にお似合いの、文句無しの美人だよ」
 最上階の窓から見ていたマラクもまた、心から呟いた。
「確か貴方にも告げたよね? 凄い美人だって。でも明るくって、よく笑う人だって。俺が言った通りでしょう? もろにカイバート様の好みだって、貴方もそう思うでしょう?」
「そうだな」
「これって運命の女神のお導きだよ。出会うべくして出会った二人としか思えないよ。政略結婚で、しかもこっちからではなく先方からの申し出だったのによくこんなに相応しい、こんなに最高の花嫁と出会う事が出来たよ。運が良すぎるよ」
「そうだな。確かに。――カイバート殿は、常に幸運の女神を引き寄せていく。いつもながら」
 その言葉に突っ込むべくマラクが振り向いた時、ちらりと真下のバルコンが目に飛びこんだ。そう言えばもうタリア夫人がいないなとだけ気づき、そのまま視線は隣の痩せた男に定まった。運命の女神と幸運の女神と天上の絶対者との違いだけどさあ、と、主君に命じられた仕事も忘れて無駄話を続け出していった。
 執務室内には、涼しい風が絶え間なく流れ出していた。秋の涼しさが感じられる、真昼の頃合いだった。
 ……同じ頃合いだった。
 タリアは、歩いていた。
 いつも多くの人々が行き交っている大階段の方へではなく、逆の方向へと、人が少なく閑散とした北棟の方向へと通廊を歩いていた。すれ違う人はほとんどおらず、それなのに彼女は何かを隠すように、固い表情を保って歩いていた。歩きながら、考えていた。先程マラクから報を聞いてからずっと、憑りつかれたように考えようとしていた。
(生きていたのだから。――だから、会いたい。キジスランに)
 考えてみる。自分の胸の深い場所が訴えているから、それは確かなのだろう。
(でも。もし。本当に会えたら)
 それなのに、覚えてしまった。ひんやりとした感情とともに思ってしまった。
(もし、本当に会えたとしたら? ――自分は何をするの?)
 思ってしまって、だから考えてしまったのだ。
(もし、会えたら、自分は幸せを感じるの? 本当に?)
 薄っすらと冷えたものを、胸底に感じてしまった。
 窓の少ない薄暗い通廊には、僅かに風が抜けている。沈んだ色合の服の裾と袖口を揺らしていく。自分は肌寒いと感じ、足元の犬は自分の顔を見上げ、窓の外からは新公妃を歓迎する人々の声が聞こえてくる。その間にもゆっくりと時間は流れていく。砂の様にじりじりと流れ落ちてゆく。
(もしかしたら、自分は、怖いのだろうか?)
 恐れているのだろうか? 何を? と、独りで考え続けている。肌寒い風の中、思考は模糊として、全く定まらない。
 でも一つ。少しだけ解かった事があった。
 自分は、疲れを覚えているのだ。
 考えること・感じることに疲れ始めているのだ。もう嫌なのだ。そのことは解かった。

 美しい新公妃が到着した翌日からだった。
 ラーヌンでは、秋が進み出した。そしてカイバート新公は、婚約者であるマテイラ嬢を白羊城の内外・街の内外へと連れだした。様々な場所に案内をし、あちらこちらで様々な要人達に面会させ、紹介をした。
 その度にマテイラは物怖じもなく会釈をし、相手は目を見張る。「本当にお美しい」、「本当に素晴らしい花嫁だ」、「本当に最高の、輝くような新公妃様だ」。賞賛の辞ばかりが次々と発せられていく。横のカイバートに、自慢気な笑みを作らせる。
 市民達も同様だ。たまたま幸運にも新公妃を見られた者は、その並外れた美貌に驚き、即座に噂を流す。さらに幸運にも微笑みの瞬間を見られた者などは、およそ現実離れをした形容まで持ち出して、噂を高める。曰く、「誰一人こんな美貌を見た事無いはずだ」、「偽りなく聖女を上回る美しさだ」、「カイバート公は地上で最も幸運な男だ、幸運の女神に愛され過ぎだ」……。
 新公妃の美貌への噂は、あっという間に街中に広がった。期待ばかりが高まり続けたまま、一月後の婚礼祝の日へと、祝典の準備は慌ただしい速度で進んでいった。
 そのように時間は進み、ラーヌンの秋は着々と進み、そして、その日。
 ――
 空が高かった。青かった。快晴になった。

        ・           ・          ・

 天の絶対者が、ラーヌンとその宗主を祝福しているとしか思えなかった。
 秋も深まってきたこの時期、ラーヌンの空は曇りがちで、霧も出やすいはずだ。なのに今日は、見事に晴れ渡った。季節が戻ったかのように明るい、眩い陽射しが降り注いだ。
 ……
 街の南東地区にあるカニサ大聖堂前は、朝から大混雑となっていた。丸切り住民全てが来ているのではないのかと思える程の人数が集まり、文字通り、立錐の余地もなくなっていた。
 白羊城に輿入れした新公妃の噂は、今日を迎えるまでに街の全員が知るところになっていた。まるで聖伝の中の聖女のようだ、いや昔語りに出てくる魔法の女王のようだと評判は留まることなく高まり、まだ見てない者も、もう一度見たいと願う者も、皆が今日の婚礼式典を待ちわびていた。婚礼衣装という最高の晴れ着の彼女を見ようと、式典が終えて大聖堂から出て来るのを、今か今かと待ち構えていた。
 真昼の陽射しの真下、聖堂前の広場で、時間はのろのろと進んでゆく。
 びっしりの群衆は、ずっと待たされ続けている。好き勝手に喋り合ってはいるが、いつまで待っても式の終わりを告げる鐘は鳴らない。さすがに退屈を覚え出し、それでもじりじりと待たされ続け、退屈は不機嫌を帯び始める。
 路地から迷い込んできた犬が、いきなり大きく吠え立てた。それに誰かが石を投げ、しかし石は横にいた男に当たり、即座に怒声が上がった。
 これを機に不機嫌は不満に変わり、不満は怒りに、小競り合いが始まった。広場のあちこちから、騒ぐな! 黙れ! 貴様は帰れ! 等の怒声と悲鳴が上がる。広場に騒動が始まりかけた。
 その時。甲高い鐘の音が空気を揺らした。
 群衆が、一斉に振り見る。神の審判を示す浮彫りの青銅扉が開き出し、そこから新郎新婦が現れたのだ。毛皮が裏打ちされた黒色のローブという正装のラーヌン新公と、袖に大きな膨らみをもつ緋色の婚礼衣装をまとったマテイラ嬢とが、手を取り合いながら現れたのだ。
 たちどころに歓声が上がった。鮮やかな緋色を着る花嫁の噂にたがわぬ美貌に、目を丸くする。しかも彼女は、笑んでいる。大群衆の衆目を前に緊張も怯えもなく、返礼するように微笑んでいる。
 と、新郎が新婦に顔を近づけ、何やらを耳打った。途端、彼女は声を上げて笑う。それこそ花が咲いたかのような鮮やかな表情にどよめきが起こり、それに呼応したのだろうか、群衆の真ん前だというに花婿が堂々と花嫁に接吻をした。広場には興奮の大歓声が沸き上がった。
 広場に男達が現れ、声を上げる群衆を押し下げてゆく。新郎新婦が白羊城へ戻るための馬車が来る予定だったのだが、現れたのは馬車ではなく、二頭の馬だった。新郎の要望で、彼らは晴れ着のまま乗馬で帰城することにしたのだ。
 マテイラ公妃は、白い馬に腰かけた。緋色のたっぷりの裾が馬の背と鞍を覆い、鮮やかな色の対比を作り出す。カイバート公はローブの色と同じ、濡れた漆黒色の馬だ。二人は笑顔と会話を交わし合いながら並んで歩み出す。押し分けられる群衆の間を、白羊城を目指してゆっくりと進み出す。
 季節外れの雲の無い空が青い。陽射しが明るい。煌びやかそのものの夫妻の姿に、見つめる誰もが明るい未来を予想する。住民達は祝福の歓声を上げながら、広場から大路へと、新公夫妻を取り囲むように追ってゆく。
 ……深い眼も、夫妻を追っていた。
 大聖堂の中・青銅扉の陰から、黒い服を纏ったタリアが二人を見ていた。
 誰もが華やか・派手やかな装いの中で、前ラーヌン公妃・タリア夫人だけが黒一色の地味な衣装だった。『祝賀なのですからあまりに控えめな服では返って失礼なのでは……』と繰り返す侍女達の意見にも、『私は寡婦だから』の一点張りで拒絶をした。その衣装で式典の間中、丸切り陰に溶け込んだかのように存在感を消していた。
 陽射しの下、鞍上の公妃が夫を見て笑っているのが見える。それを受け止める新公が、歓びを隠すことなく振舞っているのも見える。それら全てを、タリアは遠目に見続けている。ふっと想像している。もし? と。
 もし? もしも数年前。ほんの少しだけ運命の女神の御気分が違っていたら?
 だとしたら。もしかしたら。自分があの場所にいる羽目になったのだろうか?
そんな想像をして、あまりに隔たった現実が奇異で、可笑しさを覚えた。影の場に立つ聖者像の脇で、独り、うっすらと笑ってしまった。
「タリア様っ」
 後ろからマラクが大声をかける。
「見ました? 新しい公妃様のあの豪華な姿、見ました? 本当に綺麗でした!」
 終わったばかりの挙式に、興奮を剥き出しだ。いかにも不似合いな高価な晴れ着姿で、率直そのものに思った通りを口にした。
「あんな綺麗な女性を、生まれて初めて見ましたっ。あんな美人を奥様に迎えられるなんて、本当にカイバート様は幸運の女神に愛されてますよっ」
 隣にいた侍女が横腹を押して黙らせようとしたのに、マラクは全く気づかない。調子に乗った顔のまま、さらに言ってしまう。
「これだったら白羊城としてもラーヌン公国としても、自慢の種になりますよねっ。自分達の国にあそこまで綺麗な公妃がいるなんてっ、
 ――痛いっ、何だよっ」
 あまりの無神経ぶりに思わず侍女が力いっぱい脇腹をつねり、やっと黙らせる。
 だが幸いなことに、旧公妃・タリア夫人は、小僧の言葉など何も聞いていなかった。なんの反応もしなかった。ただ、群衆の声が残る広場の方を、僅かに笑うかのような眼で見続けていた。

 挙式の後は、白羊城においての祝宴となった。
 祝典の酒は城内だけでなく、城に近い市内のシター広場にも運ばれ、住民達にも振る舞われ、誰もが酒を飲んでの大賑わいとなった。夕刻にはその広場へ美しい新妻を連れたカイバート公夫妻が現れ、飲み放題の酒に酔った群衆から絶大な祝福を投げかけられた。新公妃も、騒々しさと下品さの空気に驚きはしても、嫌な顔はしなかった。挨拶にくる人々全員に女神のような笑顔を示し、その都度に興奮の歓声が沸き起こった。
 誰にとっても幸福な婚礼の一日は、一片の雲も流れる事無く、快晴のままに日没を迎えていった。
 幸福でなかったのは、祝宴の段取りをほぼ全て無視されてしまった白羊城の儀典官と、それでなくても度重なる軍事遠征で国庫の財政が厳しくなりがちだというのに、さらにこんな派手な酒宴を主宰させられる羽目となった、公国の財務官だけだった。

            ・        ・        ・

 その同じ頃合い。同じ進む秋の時間の中。
 キジスランは早足で歩いていた。
 すでに彼には、銀の山羊騎士団騎士としての新しい局面が始まっていた。巨大なリンザン宮殿の中を毎日必死で歩いていた。歩き続けていた。――白羊城に戻るために歩き続けていた。


【 その一年後に続く 】
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