第9話

文字数 8,935文字

9・ その五日後

“力量者は幸運の女神に言う事をきかせる事が出来る”
 イブリスの唱えた定義の正しさが証明されるところになった。
 夜半まで続いていた強い雨は、夜明けを前に完全に上がった。街の全てが洗い上げられたかのような、清々しい夜明けとなった。家並みに残る水滴がきらきらと輝く、美しい、胸の透くような朝となった。
聖ラビーウの祝日に相応しいこの素晴らしい朝に、幸運の女神に愛された力量者が帰還して来るのだ。

 カイバートは、朝の眩い陽射しの中を、ラーヌンの街へと帰還した。その様は出陣の時と同じく人々の目を強く引き付け、鮮烈に印象付けてしまうものだった。
彼はたった一騎で現れたのだ。一騎のまま街の南門・ジュヌーブ市門へと、文字通り飛び込んで帰還したのだ。……

『……勝利を収めたラーヌン傭兵軍勢が聖祝日の朝に帰還するとは、すでに昨日の内に市内に発表されており、夜明けの前から南門・ジュヌーブ門の付近には住民達が集まっていました。
彼らは、街の外側に広がる耕作地とその上に真っ直ぐ伸びる街道を見つめながら、軍勢の帰還を待っていました。陽が昇り切り、辺りが完全に明るく成った頃には、多人数の見物者達による大きな人垣が出来上がっていました。
 それから半刻程を過ぎた頃でしょうか。
 街道の上に、染みのような小さな点が現れました。雨上がりの土から上がる湿気の中、それは陽射しを返しながらどんどん近づき、あっと言う間に輪郭を結び、群衆はざわつきました。
 染みは、葦毛の馬を駆る一騎手の姿だったのです。しかも驚いた事にその騎手は、総指揮者のカイバート公子だったのです。公子本人が一騎のみで、全速で馬を駆りながら近づいて来たのです』
          (ラーヌン駐在のバンツィ外交官・ハ―リジュが本国へ送付した書簡)

「引けっ、避けろ!」
「避けろ、危ない! 早く避けろっ、後ろへ下がれ!」
 ジュヌーブ門の周囲に集まっていた人々が、大声を上げて走り出す。馬は全く速度を落とさず、そのまま躊躇なく門へと走る。全速で走り込んでくる。
「危ないっ、下がれ! 早く! ――公子が戻ったっ、帰還した!」
 あっと言う間、馬は混乱する群衆に迫った。ぶつかる!との悲鳴が上がる直前、人々の立つぎりぎりの位置を蹴ってジュヌーブ門をくぐり抜けていったのだ。
 門から始まるシャーリア大路も同様だ。こちらにも大勢の市民や近郊の住民達が集まり人垣が出来ていたものを、その直中へと馬は走り込んできた。
「早く下がれ! 馬に踏まれるっ、早く避けろ――!」
 街の警護兵達の引きつった叫びも聞こえない。慌てて後ろに下がる人の悲鳴と、やっと現れた騎手を見ようと飛び出す者の歓声にかき消されてしまう。
 悲鳴と怒声が飛び交う。皆が無秩序に動き回る。なのに丸きり何も存在しないかのように、カイバートは大路の上を疾走してゆく。大汗をかいている顔の表情は掴めないが、眼は前しか見ていないことは分かる。大路の突き当たり、公国旗がゆったりはためく白羊城のみを目指し、群衆を無視して走り続けてゆく。
 城門の直前に達した時、数人の子供が進路に飛び出た。その時初めてカイバートが大きく怒鳴った。何を言ったかは歓声に飲まれて分からなかったが、高揚した顔が一瞬怒り、直後に笑ったのを見た者はいたはずだ。内側から発する強い生気を見たはずだ。
 しかしその鮮烈さを確認する間も無い。今度こそ、大路に詰めかけていた人々は悲鳴を上げる羽目になった。
 疾走する公子に続き、遠征軍の兵達もまた走り込んで来たのだ! 馬に乗る指揮官も、徒歩の兵も、全兵が全く無秩序に走り込んで来た。隊列など無く、皆が大声で喚きながら大路に押しかけてきたのだ。
 彼らは興奮した顔で好き勝手に喚き、動き回り、駆け込む。住民達に向かっても笑ったり喋りかけたり、それどころか敢えて人垣に飛び込んで騒ぐ者もいる。いきなり女性に抱きついて悲鳴を上げさせる者もいて、これに群衆が怒り、怒鳴り、大騒ぎの混乱に拍車がかかる。全く統制の無い、破天荒な帰還となる。

『後に確認したところ、このカイバート公子と軍勢兵士の疾走行為によって、かなりの住民が押し倒され、怪我を負ったそうです。また兵士達の仕出かしによる大小の喧嘩騒動も、数えきれないほど多発しました。
 しかしながら付け足して報告するならば、その場において最も強く感じられたのは、空気の全体が高揚で満たされていたという事でした。帰還した兵士達もそれを迎えた住民達も、誰もが興奮を覚えたという事でした。これは私だけでなく場に臨んだ者皆が覚えた実感でしょう。
 今回の帰還の様子は“かつて聞いたことの無い人騒がせな凱旋帰国”として、人々の記憶に残るだろうことは、間違いありません』
                               (同外交官の報告書簡)

          ・         ・         ・

 時間が進むにつれて、陽射しは目に見えるように強さを増していた。春を通り越して初夏を感じさせる暑さになっていった。
 ……
 戦勝式典会場には、市心のマイダン広場が用意された。
 当初は出陣式典と同じく白羊城内・ハルフ広場が予定されていたのだが、昨日になって急遽、こちらへ変更となった。誰かがアイバース公に対して、『街の中心に位置しているハルフ広場こそが、象徴性という意味で今回の公子への祝勝会場に望ましい』と、強く進言したらしい。
 広場の北側には、舞台が設営されている。本来ならば今日ここで、聖人ラビーウ伝に基づく教典劇が上演される予定だった。しかし今、壇上には旅芸人達の姿は無い。代わりに白羊城の関係者達が慌ただしく動き回っているだけだ。
 そしてすでに広間をびっしり埋めた住民達・兵士達は皆、不満顔だった。なぜなら、なかなか式典が始まらないのだ。なぜこんなに待たされるのかの理由も知らされず、だから皆が不満顔のまま大声で喋り続けていた。広場の全体が騒々しさに覆われてしまっていた。
 一方で舞台の周囲の関係者達は、酷く焦っていた。
「おいっ、奴はどこに消えた!」
 有り得ない話だ。真っ先に白羊城に到着したはずの主役が、いつの間にか消えてしまったのだ。
「捜してるのかっ、なぜカイバートは見つからないんだ!」
 舞台の下、眉を吊り上げてアイバースは怒鳴る。こんな重要な場だというのに非常識過ぎる息子の行動に、怒りをまき散らして側近に迫る。
「周りの者は何をしていたんだっ。どうして誰も奴がどこへ行ったか知らないんだ!」
「いえ……、申し訳ありません。公子は一度城に入られた後、すぐにこの広場へいらしてます。いらしたのですが、気付いたら人ごみの中に紛れていて……。皆、すぐに戻ってくるだろうと思ったのですが……」
「それを止めるのが貴様らの役目だろうがっ、役立たずが!
 あの馬鹿息子はくたばりやがれ! まさか式典をすっぽかす気じゃないだろうなっ」
 怒鳴りながらも、そのまさかが無くもない可能性に気づいている。今回の遠征を経て、あの息子の自信と尊大が一層に強まっただろうとは、容易に想像がついている。凄まじく腹立たしい事に。いや、腹立たしいだけで済まず、不安も覚える事に。
 時間が進んでゆく。空の青が濃さを増し、陽射しと暑さも増してゆく。アイバースの焦燥は強まり、もはや最悪の事態に備えないとまずいと判断を下す。
「おい! 儀典官はどこだ、呼んでこいっ」
 今すぐに式典の別案を作らねばと、ついにそう決意した時だ、
 カイバートが、現れた。
 いきなり舞台と真反対の、政庁舎の扉から出てきた。驚いてざわつく人々を押し分けると、素早い大股で進む。あっと言う間広場を横切り、舞台の許へと達したのだ。
「カイバートっ、どこにいた!」
 父親の声に応えない。一度だけ振り返って広場を見渡すと、一瞬の動きで舞台の上に飛び乗った。
「カイバート!」
 途端、静まり、空気が変わった。
 広場中の視線が彼に集まり、空気が引き締まった。沸き出すどよめきのような声の中、固く結ばれていたカイバートの口許が初めて僅かに引き上がった。
「どこにいて何をしていたんだっ、おいっ」
 答えない。伸びきった前髪と無精髭、気持ちよく日焼けした肌に泥だらけの武衣をまといながら、足元から見上げる視線を受け続ける。父親を無視し続ける。
 このままいつまでも視線を浴びていたかっただろう。だが残念なことに、父親も舞台に上がってきてしまった。ラーヌン公は息子の横に立つと、一瞬だけ強く息子を睨む。一転、落ち着いた態で広場に向かい、深い一呼吸を経て堂々と発した。
「我が公国の良き領民よ! ラーヌンの住民よ! 本日、聖ラビーウの祝日と我が遠征軍の帰還に立ち会えた幸運者よ!
 皆の上に天上の祝福あれ! そして祝福を受け取ったならば、今度は皆がこの公国を祝福してくれ!」
「ラーヌンに祝福を! ラーヌン公に祝福を!」
 待たされた果ての式典開始に、群衆は大きな叫びで呼応する。広場の空気が目に見えて高揚を帯び始める。
「そして皆もすでに知る通りだ。聖祝日にもっとも相応しい報告だ。我が公国が派遣した傭兵軍は、勝利を収めて帰還した。勝った、完全な勝利だ!
 これがその勝利を導いた男、カイバートだ!」
 歓声が隅々まで響きわたった。
 だがカイバートはまだ無言だ。陽射しを受けながら、ただ硬い真っ直ぐの眼で広場の全体を見据えている。
「公子。何か群衆に発して下さい」
 後ろに控える政務官の促しも、当然のように無視する。それはつまり、己の力が他者に賞賛されるという最上の時間を、納得ゆくまで味わい続けるという意思表示なのだろうか。
 広場の熱気が収まるまでには、長い時間が必要だった。延々の拍手がようやく途絶えだした頃、見計らったかのようにアイバースが息子の一歩前に出てきた。目付きが、微妙な硬さを示した。
 どこか空気が張り詰めた、と、舞台下の官吏と外交官が感じ取る。この数日、白羊城の界隈で囁かれ出していた秘かな憶測を思い出す。鋭い眼で壇上に注視する。
 珍しい。アイバース公の顔が緊張していた。
 躊躇を示していた。その顔のまま、深い呼吸を四回付く。黒い髭を持つ口許がもったいを付けたかのように、ゆっくりと動き出す。
「この場の全員に告げる。お前達が証人となれ」
 最後の躊躇が眼を過り、そして発した。
「この勝者に、次代のラーメン宗主と成る権利を与える」
 何をすべきか解らなかった。ただ弾かれたようにタリアは右の六人分先を見てしまった。見るのを禁じた顔を思わず、反射的に見てしまった。
 舞台の真下の最前列に、もう一人の公子が並んでいた。広場に沸き上がる巨大な驚きと喜びの中に、キジスランの表情は驚くほどに冷えていた。
 それが生来の無表情なのか、動揺ゆえの顔なのか、タリアには判断出来ない。感情の無い冷めた目で舞台を見上げているとしか判らない。そして壇上では義兄がようやく大きく笑んだところだ。そのまま一歩前に出て、父親と立ち並び、
「俺が、ラーヌンを引き継ぐ」
初めて声を発し、簡素な宣言したところだった。
 広場は渦巻くような歓声になった。群衆が歓喜をもって受認したのだ。それを確認した上でカイバートは父親を振り向いた。右手を真っ直ぐに差し出した。
「それを」
「――。何だ?」
「それを俺に。俺が貰うことは、ずっと昔から決まっていた」
「……」
「さあ。俺の物だ。家長の剣を俺に」
 アイバースの片頬に力がこもる。自分の体の中の怒りという激情を、生々しく自覚する。
 この息子は広場を埋めた群衆の前で、いまだ健在のラーヌン公から支配の象徴の剣を受けようとするのか? 見つめる群衆の目の前で、実父より優位に立ったと示そうとするのか? 父親を――自分を、己の下に置こうとするのか!
 だが。結果を作り上げている。確かに自らの力で結果を生んでいるのだ。この増長極まった息子は。
 そして群衆の方も、息子の栄光を見たがっている。ラーヌン公が次期ラーヌン公へと公位の象徴を手渡す劇的な図を見たがっている。正にそれを息子自身が指摘する。
「公。皆が待ってる」
 耳の奥に歓声が響く。人前でなければ張り倒すだろう息子の増長顔を睨みながら、ずっと逡巡し続けた躊躇を、躊躇の果てに下した選択をあらためて引き戻す。
“本当にこの男にラーヌンを渡すことは、正解なのだろうか?”
「早く。皆がそれを望んでるんだ、早く。公」
 嬉々の顔で待っている。体内に歯ぎしりするほどに怒りが満ちる。それがただの怒りだけでは無いと、アイバースは初めて気づく。怒りには、ほんの薄っすらの恐怖も含まれたいたのだ。
(この息子――この男。――恐ろしい)
 アイバースは腰へと手をあて、ゆっくりと剣を抜き取った。広場の歓声が大きく熱気を高めたのを意識し、笑顔を作り、そして右の掌に握った剣を、息子へと差し出した。
 その瞬間、カイバートが子供のように笑んだ。
 ついに欲し続けた物を手にし、無垢の笑顔になった。感激に頬を紅潮させ、丸切り愛する女のように剣を抱きしめ、日差しにきらめく飾り紅石に接吻を捧げたのだ。
(キジスラン……っ)
 我慢できない。タリアはキジスランを――想う人を見続けてしまう。
 なのに、ただ無表情を保っているとしか解らない。相手が今何を思っているのか、それどころか、目の前の現実を捕えているのかどうかすら、解らない。想っているのに、自分には相手が何も解らないのだ。だからこのまま顔を見続けて良いのかすら解らず、泣きたい衝動に襲われてしまう――。
 はっと息を吞んだ。
 突然キジスランの表情が崩れた。狼狽に変わったのだ。
 目の前に義兄が――唐突に壇上から飛び降りたカイバートが立っていたのだ。
 ……キジスランは動けない。狼狽の顔をさらす。
 自分の本当に目の前に、カイバートが居る。間に何一つ挟まない位置から、真っ直ぐに自分をとらえ、鮮かな笑顔を見せつけている。
「私の遠征中、アイバース公の職務を手伝っていたそうだな。皆に向かって私の送った戦況報告の発表もしたと。よく協力してくれた」
 明らかなのは、それが侮蔑の笑みという事だった。
「感謝する。キジスラン。有難う」
 裏に有りたけの蔑みを込めながら大きく、笑顔で告げてくる。人々の視線を存分に自分達に向けさせる。
“カイバート公子はなぜ価値も無い貴方様に執着するのでしょうね。
 おそらくは自身の力量への引き立て役とでも捕えているのでしょうか”
「そして頼む。これから公国のために、お前の力を私に貸して欲しい。私を助け続けて欲しい」
 爽やかな言葉を発し、義弟を衆目へ引きずり出し、己の勝利の添え物にしているのだ。
その通り、広場はこれを感動の光景ととらえていた。
 長く不仲を噂されてきた公子兄弟が今、劇的に和解した。そして兄公子は公国の継承を宣し、弟公子へ助力を求めた。
 今、ラーヌン公国は新しい時代に立ったのだ、明るい未来へと歩み出したのだと、そう見なしていた。今日のこの突き抜ける青空と陽射しのように、ラーヌンは輝く希望の未来への第一歩を刻んだのだ。
 ――そんな未来は有り得ないっ。
 無声の叫びが発される直前、剣を持った腕が大きく広がった。いきなり義弟を強く抱きしめてしまった。
 こんな現実は有り得ない、有ってはいけないっ。キジスランは叫ぶ。ここまで自分を嘲笑する義兄に抱きしめられる現実など、無表情という武器を奪われ完全な裸にされる現実など、有ってはいけないっ。
 しかし義兄の右手の剣が、強く背中を圧している。義兄の汗と体温が皮膚に触れ、感情は千切れ、乱れ、錯綜する。憎しみ以外の多数の感情が体を覆い、選択が出来なくなる。
 違う、憎しみのみを選べ。血を吐く母親の遺言通りに、憎しみだけを抱け!
“あの男を殺して……! 仇を討って!”
「私を支えて欲しい、一緒にラーヌンを作って欲しい」
 耳元の声にひりつく憎悪を覚える。憎悪は屈折し、憧憬を含んでゆく。憧憬に留まらず、情愛じみた執念に変質してゆく。そうして容赦なく自分を、新たな未来へと押し流してゆく。
「私達二人なら、素晴らしいラーヌンの未来を作れる。発展を続ける最上のラーヌンを、力を合わせて作っていこう。キジスラン」
 輝く光の様な言葉に、拍手は止まない。ラーヌン公国万歳! カイバート公子万歳! の歓声が続いてゆく。興奮と感動と期待はいつまでもいつまでも続いてゆく。清々しく晴れわたった、真っ青な空の下。

          ・         ・        ・

 真っ青の空の下で、彼らは見ていた。
 鳴り止むことのない歓声と拍手に沸くマイダン広場で、彼らもまた、二人の公子の劇的な抱擁を見ていた。じっと見据えていた。
 ――
 市警護兵・タイールは、広場の西側にいた。すでに広場内は人でびっしり埋まっているのに、それでも中に入ろうと押しかけてくる人々を懸命に押し留めていた。
「押すな! もう広場には入れないから戻れっ、危ないから押すな!」
 喉を嗄らして職務にあたりながら、しかし時折振り返っていた。ちらちらと友人である公子と、その義兄の様を見ていた。
(キジスラン。それに、次期公主・カイバート公子の兄弟――)
 彼には、この二人の今後がかなり気になっていた。
(この兄弟に。――どうする?)
 公子二人、そして自分の今後について、彼には深く考えるところがあった。騒々しい群衆を懸命に制しながら、ずっと頭の中で考えていた。
 マラク少年は、舞台から少し離れた場にいた。主人とその不仲の兄がついに和解して抱き合うという劇的情景を、目を丸くして見ていた。
(キジスラン様と、カイバート公子の、二人かぁ)
 だが正直を言えば、彼にはかなりの違和感があった。
 困惑しきった主人の顔も、次期ラーヌン公の義兄の笑顔も何となく、どことなく訝しさを感じた。それはさらに、舞台上に立つラーヌン公の硬い姿についても、舞台下で泣き出してしまった公妃の姿についても、同様だ。理由は解らないが。
(なんか変な感じがして、解りにくいんだよなあ。この家族。本当に)
 そんなもやつきが、頭の隅にこびりついていた。
 イブリスは、舞台から一番遠い場所にいた。政庁舎の前の、その影になっている場所から主人を、主人の義弟を、そして広場の全体の一つ一つを静かに見つめていた。
 元々彼は、物事に対して楽しさや執着を覚える質ではない。だが今は不思議と、目の前の現実を面白いと感じていた。
“俺の不在の間の白羊城の様子は? 全て俺の指示通りに進めたのか?”
 ……先程会った時のカイバート公子の疲れ知らずが、真っ直ぐにこちらを捕えて来る眼が、鮮やかに思い出される。
 カイバート公子の作り出そうとする道筋が、面白い。それに加担してゆく作業が、心から面白い。そう実感していた。この公子と共に作る新しいラーヌンの未来に、期待感を抱いていた。我ながら珍しくも自然と口許が持ち上がるのを、彼は自覚していた。
 ジャクム副将とスレーイデ隊長は、並んで立っていた。
 彼らがいる舞台のすぐ脇では、拍手と歓声が一段と大きく響いていた。その歓声こそは、群衆がたった今から始まった新しい時代を認めたものだった。
“ラーヌン公国は、より良い方へと前進してゆく、より良い未来が自分達を待っている”
 そう認めたものだと感じられた。この点には、二人ともが同意している。一応、同意を覚えているのだが、
「これでラーヌンと白羊城の将来は万事、安定に向かうという事でしょうね」
 スレーイデは横顔のまま、ジャクムに訊ねてしまった。どこか確認を求める声色になってしまった。
 見つめ続けるスレーイデの横顔も、応えず無言のままのジャクムの顔も、どこかに硬さと重たさを含んでいた。
 この二人からかなり距離を置いた後方だ。住民達の人垣に紛れてしまうような位置に、目立たない風貌の男がいた。
 バンツィ共和国の外交官・ハ―リジュ――。
 沸き立つ歓声が飛び交っているというのに、彼は堅苦しかった。全く感情を含まない冷めた眼で、広場の事象の全体を観察し続けていた。
 すでに頭の中では、圧倒的な思考能力をもって今日からのラーヌン公国について、その安定の確率と危機の可能性について、自国バンツィとの外交の展望についてを、早くも予測を計算し始めていた。
 ……見ていない者がいる。一人。
 タリアだけは下を向き、泣いている。そうやって目の前の現実を必死で拒否している。それなのにどうしても解ってしまう。
 彼女の中では今、勝手に、途切れ途切れに、幾つかの単語が生じていた。生じ、過りながら、曖昧に胸の中に舞っていた。
(進む道が――変わったから――今。たった今、思いもよらない方向へと、進んでしまったから――。だから。大きく変わってしまったから、だから――)
 それはまるで、目を開けずに予言をする聖女イリアだ。
 彼女には自分が想う男と、自分自身と、そして白羊城の未来が危うい方へと変わったと、なぜか予言出来てしまった。その恐ろしさと哀しみに、ただ泣いていた。
 ――。見ていた。
 ラーヌン宗主・アイバースが見ていた。彼こそはこの場の誰よりも強い眼で見据え、それに伴うように己の過去を思い出していた。
 これまで、自分の生涯には、幾つもの重要な選択があった。その全てに自分は、盤石の意思と度量をもって臨んできた。迷いは決して覚えず、だからこそ常に勝ち抜くことが出来た。そのような自負が強くあった。
 だが、今は違う。
(全身全霊を掛けて育ててきた自分の公国は、一層の繫栄へ進むのだろうか?)
 大きな迷いを覚えてしまっている。 
(どのような道へと進むのだろうか? 自分が愛しぬいたこの公国は? そして、自分のかけがえのないこの二人の息子達は?)
 強い陽射しの下、彼は二人の息子達と広場の全体とを交互に見返していた。
 己の生涯には無縁であるべき“不安”という感情が、胸の一番深い場所に巣喰い始めていた。
 ――
 真っ青な空の、目に眩いほどの陽射しの下だった。


【 パート1終了 】

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み