第2話

文字数 14,571文字

2・ その午後

 ラーヌン公国は、ティドリア域の北方に位置している。国土の北側には深い木々の山地、南側には豊かに広がる穀倉地を抱く、大きな領土を誇っている。
 都は、ラーヌンの街だ。街は丸い市壁に囲まれ、中にはびっしりの赤い屋波の家屋が連なっている。所どころにそびえる聖堂や庁舎の鐘楼と共に、古き良き古都の趣を残している。そして巨大な白羊城は、街の北側にあった。
 白羊城。――公国の宗主・ラーヌン公の居城。
 文字通り街を支配するべく頑健堅牢そのものの、強固な威容の巨大城館。
 名門大豪族・サングル一族が建造したこの城の歴史は、二十年程前に大きく変わった。新興の成り上がり者・アイバース家のムアザフが、サングル家の姫と婚姻を結ぶことで、まんまと掌握してしまったのだ。この時から保守と伝統に守られてきた白羊城そしてラーヌン公国には、全く新しい、活気の時代が始まることになった。
 ――この日。
 春の始まりを告げる聖人クドスの日。
 街の守護聖者である聖者クドスを祝い、白羊城では大掛かりな宴席が催された。

        ・           ・          ・

 東・西・南・北の四つの城棟に囲まれた白羊城の中庭には今、ごった返すような人々が集まっている。
 酒と肉と食べ物の香りが満ちている。派手な二色柄の服を揃えた楽士達が、大きな音楽を奏でている。その音すらも、賑やかな笑いや喋り声にかき消されている。
 ムアザフ・アイバース公主催の、祝宴だ。誰でもが純粋に愉しむ宴会だ。才有る者であれば誰もが招かれる宴会だ。
 出自だの家格だと礼儀だのに強くこだわっていた名門サングル家の時代は、すでに遠い過去になった。今はもう、どんな出自でも力量さえあれば取り上げられるアイバース公の新しい時代に変わったのだ。
 実際今日の宴会にも、様々な人々が招かれていた。近隣の地主達……、街の名士達……、市政の責任者達……、傭兵業関係の武人達……、様々な地位と職種の人々が客人となっていた。彼らの誰もが気兼ねも遠慮もなしに話し、食べ、飲み、騒々しい笑い声を上げながら純粋に宴会を愉しんでいた。
 しかしながら。このように砕けた場の中でも、鋭い目を保っている者がいる。
 ――外国からの招待客達だ。
 誰もがくつろいだような態を示している。しかし慎重に眼を配り、しっかりと場の様子をうかがっている。
 この半年の間、彼らにはどうしても無視することが出来ない興味の対象があった。それは勿論、あの二人だ。
「今日は国と街の守護聖人の祝宴ですから。いつも勝手気ままなあの二公子でも、さすがにすっぽかす訳にはいかないでしょう」
「どうでしょうかね。二人の絡む姿は是非見たいのですが」
 中庭の西側の一番隅で、バンツィ共和国から訪問してきた外交官二人が、密やかに会話をしていた。半年前に城に来た赤毛の公子と、第一公子の地位に立つ兄公子とが、相当に不仲らしいという噂は、すでに広く知られていたのだ。
「でも、ほら見ろ。やっぱりカイバートの方は来ていない。父公を含めて、およそ誰の言葉にも従わない質だからな。まあこれは予想通りだ」
 逆の一角では、街の穀物取引所の幹部達が会話している。これを近くにいたレイバール国の若い文官が聞き取るや、すかさず声掛けてきた。
「こんにちは。私は今日、初めて白羊城に登城し、城の事情にはまだ疎いのですが、よろしかったらご教授もらえますでしょうか?
今、小耳に挟みましたが、兄のカイバート公子はこんな重要な公式の宴でも平気で欠席してしまうような方なのですか? 兄公子がかなり我儘な気質だとの評判は私も聞いていますが、それは事実なのでしょうか?」
 早口で一機にまくし立てた。これに取引所の重鎮は、
「カイバート公子ですからね」
対照的な、簡素な言葉で答える。
「我々も、取引所の総会に出席するという約束を見事にすっぽかされた事がありましたよ。あの御方の好き勝手な行動に言う事を利かせるのは、御父上のアイバース公でも難しいでしょうね」
「ラーヌン公は御子息の振る舞いに何も仰らないのですか?」
「どうでしょうかね。まあ、公御自身も、好き勝手をなさることでここまでの地位を築かれた御方ですしね」
 相手の意味深な笑みも、若い文官には意味が解らない。素直に疑問の顔を示す。と。右手にいた武人が、酒の杯を握ったままにんまり笑った。ラーヌン公の右腕でもあるジャクム傭兵将の許に仕える若い指揮官だ。
「カイバートの好き勝手なら、父親だろうと誰だろうと止められないさ。それに、――どうせ知りたいんだろう? あの兄弟が犬みたいに最悪の喧嘩しているのは事実だよ。いつもカイバートと遊んでいる俺が言うんだから本当だ。百ディル賭けたっていい。アイバース殿がどんなに頑張っても否定しても、無駄だよ」
 文官の眼が大きく輝く。側に居たイーラ国の参事もさりげなく振り向いた。会話に耳を傾けた。
 様々な人々の興味を引くのも当然だ。なぜなら、この不仲(らしい)二人のどちらかが、将来においてこの公国を引き継ぐのだから。
 勿論、アイバース公は兄弟の不仲を完全に否定している。だが、その言葉通りに信じる者はいない。実際、弟公子が登城してからの半年に、この二人が同じ場にいる姿は一度も見られていない。不仲の噂は枝葉を伸ばして広がっていくばかりだ。
 それが今日、やっとだ。やっと、公子兄弟二人が同じ場に揃うのだ。
 客人達の視線が、ちらちらと中庭の北側の円柱の所に立っている赤毛の公子を見ている。その公子は、挨拶と称して代わる代わるに近づき何とか話を引き出そうとする人々に、淡々と応じ続けている。評判通りの判りにくい、ほとんど感情を示さない表情を保ち続けている。
 公子の後ろには陰気な見た目の従者が控えており、隙を見つけては主に何やらを耳打ちしている。それにすらほとんど反応せず、キジスランは掴みにくい表情のままだ。騒々しい喋り声と笑い声とそして音楽が飛び交う中、無言で、冷めた眼で、静かに宴席に臨み続けている。
 その時だ。――初めてキジスランの表情が変わった。
 ちょっと驚いたように振り返った。後ろから女達の騒々しい声が上がったのだ。
「犬が……っ、誰か止めて――お願いっ」
 混雑する人々の足元を、仔犬が全速力でこちらへ走ってくる。それをラーヌン公妃とその侍女達が大慌てしながら追いかけて来る。
「ごめんなさい――ごめんなさい、でも、誰かお願い……っ、誰かその犬を捕まえて……っ」
 キジスランが動いた。素早く仔犬の前を立ち塞ぐと、足元を抜ける直前に掴んで抱き上げた。腕の中でさんざん暴れた犬が一転、公子の顔を舐めだした時には、この無害な事件を見ていた人達から平和な笑いが起こった。
「有り難う。キジスラン」
 ラーヌン公国公妃・タリアが、恥ずかしそうに下を向きながら義息の前に現れた。
 彼女は、袖口と裾に贅沢な刺繡飾りのある紅色の衣装だった。耳にも髪にも華やかな貴石のアクセサリを揺らせている。胸元には大きな瑠璃色の宝石が嵌められた大振りのメダルを付けている。
 いかにも正公妃に相応しい、豪華な装いだ。だというのに彼女は最初からずっと、中庭の隅にいた。多数の人々が行き交う中にあって、およそ公妃という立場に相応しからぬ隅の場ばかり、人の少ない場所ばかりにいた。実際、話しかけてくる人もあまりおらず、彼女はただ固い眼で時間の経過を見ていた。
「この子――この仔犬。……先日、一匹だけで城に迷い込んできて、可哀そうで、だから私が飼ったのだけれども――。
 ここは人が多いし、それに物音も食べ物の匂いも大きいから、突然驚いて興奮してしまって……暴れて走り出してしまって……。
 皆に、恥ずかしいところを見られてしまったわ……」
 ようやく言った。両腕で仔犬を受け取り、抱きしめる。人々の注目を集めてしまったことに心底から居心地が悪そうな顔を見せてしまう。
「皆が見ている前で……、また笑われる種を作ってしまって……」
「笑われる種とは?」
 珍しい。義息が挨拶以外の言葉をかけてくれたと、彼女は思った。見上げと、義息が普通に自分を見ている。人嫌いそうなのに、意外にも。
「貴方に、何か笑われる種などありましたか?」
 自然に声掛けてくる。不思議で、でも少し嬉しい。でもなぜだろう? もしかしたら?
「……。話しかけてくれて有り難う。キジスラン公子」
 もしかしたら、少し前からこの義息に対して感じていた通りだったということ? つまり、――この公子もやはり、白羊城に違和感を覚えている?
 自分と同じように、白羊城に居心地の悪さを感じている? だから今、自分に声掛けてくれる?
 少しだけ当惑し、でも少しだけ嬉しさを感じる。少しだけ笑もうとして、しかしなぜか哀しくなってしまう。自分の現実を思い出してしまう。
「……。貴方はあまり人の噂話には耳を傾けない人なのね」
「何の事ですか?」
「皆が言っていることについて、……私について」
 息子が不思議そうな顔をしている。本当に何も知らないのだ。だとしたら、つまり。これから人の口を介して自分の事を知るのだろうか……。
「タリア夫人?」
「……ごめんなさい。どうでも良い話をしてしまいました。私がここではあまり良い評価を受けていなくて、だから皆が色々と話しているというだけの話です。
 そうね……。例えば、“新しいラーヌン公妃は、何も出来ない、ラーヌン公妃という立場には全く相応しくない小娘”とか――」
「――」
「でも。仕方がないわ……。確かに、その通りだから……」
「そうですか? 私はそうは思いませんが」
 はっと、タリアは顔を上げた。
「私は、アイバース公が妻である貴方の気遣いに感謝をしていると感じています。
私自身もそう感じます。貴方は、ラーヌン公妃としてアイバース殿の横に添っているのに相応しい方です」
 無表情だが、真っ直ぐに自分を見ている。その視線が、今の言葉が無難な社交辞令などではないとタリアに感じさせる。
 この城に嫁いでから初めて、夫以外の人間から評価されたのだろうか。ほとんど喋ったことが無かった義息が自分を見ていて、評価してくれていたのだろうか。
 義息が静かに自分を見てくれるから、自分も今、相手を自然に見られる。その事だけで、柔らかな感情を覚える。嬉しくて笑おうとし、なのになぜかまた緊張して強張った顔になってしまう。
「どうかしましたか? 私は何か失礼な事を言ってしまいましたか?」
「――、いえ。ごめんなさい。違います。嬉しいんです。認めて下さって有難う。
 そうね。ごめんなさい、暗い話をしてしまって……。私の気質や態度がもう少ししっかりしていれば良いだけのことなのに……。そうすればもっと公妃に相応しい振舞いが出来るんでしょうけれどね。出自についても、元々私の生家は何の力も無い小豪族家でしかないから、軽んじられても仕方ないのでしょうけれど」
「出自についてならば、アイバース公だって似たようなものでしょう。さらに言えば私も、公の愛妾である娼婦の子という出自でしかありませんから」
 キジスランが少しだけ笑った。つられるよう、タリアもやっと笑えた。大勢が行き交う今日の宴席で彼女は初めて安堵を覚え、
「有り難う。本当に嬉しいです」
 今度こそ心からを口にすることが出来た。さらに続けることまで出来た。
「キジスラン。もしよろしければ、もう少しだけ私とお喋りをしてくれます? 貴方のことを少し知りたいから、何でも良いから教えて。そうね、例えば――貴方の従者、ほら今飲み物取りに行ってるあの人だけど、
 ――ごめんなさい。お喋りに付き合わせては迷惑よね……」
「いえ。そんなことはありません。私の従者でしたら、ルシドという名前です」
「有り難う。彼とだけはいつも親しそうね。アイバース殿は、貴方が彼とばかりいて他にあまり友人を作らないのは良くないと言っていたけれど」
「私も公からそう言われました。だから最近は少しずつですが、友人を作るようにしています。
ルシドは、遠地の里親の許にいた時から私の側に仕えていました。ずっと人との付き合いの無い中で育った私の、唯一の話し相手でしたから」
「え? そうなの? バイダ夫人とも話をしていなかったの?」
と発して声が思いがけず大きく響いてしまい、後方に控えていたルシドも公妃付きの侍女達も思わず振り向いた。
 キジスランもまた、硬い眼になる。たちどころタリアもまた怯えたようにこわばる。
「ごめんなさい……、酷い大声でこんな不遠慮な質問を……」
「いえ。別に遠慮が必要な事柄でもありませんから」
「本当にごめんなさい。でも……、気にならない事柄のだったら、教えてくれるかしら。――貴方の生母のバイダ夫人の事……。
 噂の通りなの? 珍しい赤毛の、誰もが認める絶世の美女だったという。それどころか、自らラーヌン公妃に相応しい最上の女だと堂々と名乗っていたという方で――。実際殿も、正妃であるサングル家の奥方を無視してまで熱愛し続けたそうだけれど……。
 どんな容姿の女性だったの? 本当に――本当に語り草になるほどの美貌だったの?」
「私もごくたまに、年に一度程度しか会っていませんでした。生前に最後に会ったのもずいぶん前ですし、ほとんど覚えていません」
「それでも、少しでも会っていたんでしょう? どんな顔立ちだったとか雰囲気とか、そういう印象で良いから……」
「本当に印象もありません。記憶にあるのは、非業の死を遂げた時の姿ぐらいです」
 ――え?
 タリアが虚を突かれた眼で義息を見る。
(バイダ夫人は心臓に発作を起こして病で亡くなったのではないの?)
 音楽がうるさい。息子はもう自分を見ていない。無言のまま騒々しく人の行き交う前方を見ている。
(どこが非業の死なの? 何かあったの?)
 息子の冷めた顔を見続ける。気になる。そのままを口に出して訊いてしまいたいと強く覚える。
(教えて。知りたいから、教えてっ)
 そう叫びたくて、しかし気持ちを抑える。それをしたら、やっと白羊城で見つけられた自然に言葉を交わせる相手に距離をとられるかもしれない。そう思い、口を閉じてしまう。賑やかな宴会の場の中でまた、うつ向いてしまう。
 ……思えばタリアもまた、数奇な道をたどって白羊城に来ていた。
 元々、ごく平凡な小領主家の娘でしかなかった。たまたま一族内に男子の無いまま、父親が早逝してしまった。ゆえに彼女が珍しくも、女領主となってしまった。そのたまたま相続した土地こそは、ラーヌン公国に隣接していて、そしてラーヌン公が喉から手が出るほどに欲していた水路を備えていた。しかもたまたまラーヌン公アイバースは、正妃と愛妾の二人ともと立て続けに死別したところだった。
 こうして一年前。彼女は新公妃として白羊城へ嫁いできた。
 よくある政略結婚だ。端から夫婦愛などは期待しようもない。加えて夫は、その政務への態度と同様に、女を愛することに精力を注いできた男だ。親子ほど年の離れた後妻の小娘に対しては、家族としての親愛はあれど対等な異性として見るはずもない。
“それも仕方ないけれどね”
 白羊城に出入りする、辣のある舌を持つ者は言う。
“あのバイダ夫人の後だもの。圧巻の美女との熱愛の後だものね。なにしろティドリア域中、それこそ路地裏の洗濯女までが噂話に夢中になった大恋愛の後を引き継ぐなんて、どんな女でも無理だろうに”
“ましてや、あのタリアだものね”
 さらに辣の多い者が、薄笑う。
“あの、ただ大人しいだけで、魅力も面白みもない性格ではね。それに――、
 あの地味なだけで、どこにも見どころの無い容姿ではね”
 ……楽士の音楽が変わる。一層に派手派手しくなる。
 足元では仔犬が無邪気に刺繡どりの裾にじゃれつこうとしている。それを無言のまま、困ったような目でタリアは見ている。そのタリア公妃を、周囲の人々が見ている。見られているというその視線だけで、彼女は一層に身を縮める。
 音楽がさらに甲高く、速く、騒々しくなる。中庭の右手では、踊りの輪が出来上がり、人々が次々と笑いながら加わってゆく。
 ちらちらと自分を見てくる視線にも、息子との沈黙にも、彼女は耐えられなくなった。仔犬を抱きあげると、軽く会釈をすろ。そのまま去ろうとする。だが。
「このままもう少し話を続けませんか」
 キジスランが、母親を会話に誘ったのだ。
 本当に珍しい展開に、七歩分後ろに立っていた従者のルシドもまた、露骨に驚く。主人が他者との接触を望むとなど初めてて、信じられない顔になる。
 勿論、タリアも驚いている。驚きながら、少なくとも息子が自分に好意を向けていると感じる。やはりこの息子も、自分と同じく移り住んだ白羊城に違和を覚えている、だから今自分に喋りかけてくれると、そう感じ取る。いいえ。聖者様、それは解らない。
 だが少なくとも、彼女は素直に応えられたのだ。
「有り難う。本当に。嬉しいです」
 初めて心から言えた、“本当に嬉しい”だった。
 中庭の全体に、音楽が甲高く響き渡っている。騒々しい笑い声と喋り声とが、終わり泣く飛び交い続けている。足元で仔犬がはしゃぐ中、二人だけがそのまま並びながら静かな会話を続けた。

 午後の陽が進んでゆく。
 白羊城の中庭では酒の臭いがすえ出し、鼻に付き始める。けたたましい笑い声が狂騒じみてくる。頭上では空の色が、淡く変わり出す。
 カイバートが姿を現したのは、この頃だった。そろそろ宴会も終わろうかと、差配役が最後の料理の確認し始めた頃になってからだった。
 彼は、唐突に現れた。派手な赤の胴着姿だった。すでにどこかで存分に飲んだ後らしく、遊び仲間を何人も引き連れ、下品な大声を上げながらの登場となった。
「アイバース公! 父上! 大盛況のようですね、素晴らしいっ。公国と街と我ら一族の上に、聖者の御加護あれ!」
 酔っ払いの上機嫌を丸出し、大声で笑う。一斉に集まった衆目にその醜態を堂々とさらす。
 庭の中心で客人達と歓談していたアイバースが、振り向いて見た。だが、何も言わなかった。息子のこの手の振舞いには、とっくに慣れている。世間もすでに周知だ。いまさら隠すものでも無い。ただし、大笑いしながら近づいてきた息子に対して、
「馬鹿な騒ぎは起こすなよ」
と、一言告げる事だけは忘れなかった。
 カイバートがにやっと笑いながら父親の許を離れたのと同時だ、早速挨拶と称して外地の客達が寄ってきた。酔いに付き合いながら何かと会話をしようとするのを、彼は下卑た大笑いで自ら愉しんでゆく。
 一方の弟公子は、中庭のちょうど反対側だ。先程まで義母と二人で会話をしていたが、頻繫に人が寄って来るのに気遅れてしまったのだろう、タリア夫人は犬を連れて一足先に退出してしまった。残され、いかにも人を近づけたく無いという態で、片隅に立っていた。それでも何かと声掛けて来ようとする人々に対して、生来の無表情のみで応じていた。
 二人の公子が一つの場所に揃った。だが、多くの客人達が期待した兄弟公子の絡みは、残念ながら見られなさそうだ。
 ……夕刻が近づいてきている。空が黄色を帯び出している。
 余りに騒々しい音楽に誰かが文句を言い、音楽を止めさせた。婦人たちの化粧の顔が、疲れ始めていた。少しずつ宴席を退出する人が現れ始めた。
 夕刻が近づいてきている。葡萄酒に代わり、食後の蒸留酒が運ばれてきた。カイバートはその杯を手にし、一気に飲んだ。ちらりと空の色を見た。その時だった。
「キジスラン様」
 小柄な従者ルシドが、小さな紙片を握って主人の許に立った。
「老サウドからか?」
「はい。今、届けられました。散々待たされましたが、ようやく返信が」
 受け取るや、赤い封蝋を短剣で切る。ほんの呼吸一回分の時間で、書面を読み終えるや、
「退出すると、公に伝えてくれ」
言いながら、もうキジスランの足は踏み出していた。蒸留酒を酌み交わしながら最後の歓談をする人々の中に紛れ、中庭から去ろうとした。
 それをカイバートの鋭い眼が見ていた。突然、弾かれた様にしなやかに動き、ぴったりとキジスランの行く手を遮ったのだ。
「弟御。どこにいくんだ?」
 陽気な酔っ払い口調のまま、大声で発した。
「聞こえなかったのか? 俺を無視しないでくれ。なんで去る? どこへ行くんだ?」
「――。疲れたので自室に戻ります」
「それは残念だ。そうだろう? 我ら兄弟が揃ってなければ、今日の客人達の大半ががっかりするはずだ。そうだろう?」
 嬉々と笑う。その通りだ。周囲の人々は早くも振り向き、二人に注目していた。待ちかねていた機がやっと来たのだ。
 即座にルシドが進み出た。目を神経質に引きつらせながら、素早く口挟んだ。
「申し訳ありません、カイバート公子。主人は疲れており――」
「うるさい。兄弟の語らいを邪魔するな。引っ込んでろ」
「いえ、本当に申し訳ありませんが、しかしながらキジスラン公子は本日は最初から宴会に出席されており、相当にお疲れになっています。実際、先ほどからは、軽い頭痛も覚えられてしまい――」
「そうか。頭痛か。そうか。そこまでに疲れているとなると、さすがに気の毒だな。引き留めるのは気が引けるな」
 ルシドの眼に安堵が走った。それを充分に確認してから、カイバートは大きく口許を引き上げた。
「そこまで疲れているのなら、俺が部屋まで送って行こう」
「――駄目です! キジスラン様!」
 ルシドの頭の中で何かが弾けた!
 何かが起こる。なにかとてつもなく危険な事が起こる。主人にとって飛んでもなく危険な何かがっ。
「いいえっ、結構です、カイバート公子っ。私が同行をしますので――いえ、いいえっ。もう間もなく宴会も終了しますので、それまで待ちますから――っ、キジスラン様っ」
遅い。言い終わるのすら待たず、カイバートは弟の腕をしっかりと掴んでしまった。そのまま嬉しそうに歩みだしてしまった。
「待って下さい! なぜっ、キジスラン様!」
 ルシドの凄まじい叫びに、多数が振り向く。その衆目の中、カイバートは義弟の腕を引っぱり共に中庭を抜けた。南棟の地階にあるアーチ通路に入った。その途端、
「来いっ、早く!」
 にやけた笑みが一転する。鋭敏な眼が日陰の通路の中で前方を見すえた。真っ向から命じた。
「このままついて来い、早くしろ!」
 なぜ、ついて行かなければいけない?
 その時キジスランは確かにそう思ったのだ。
 無視して見捨てれば良い。もしくは大声を発して抵抗しても。騒ぎを起こしても。幾らでも対応はできるはずだ。それなのに今、自分は付いて行ってしまう。この男の本質を見たいという好奇心に、どうしても抗い切れない。
 ――もしこの時について行かなかったならば、その後の命運は全く異なるものになったのだろうか。――
 二人は小走りながら城内ハルフ広場を横切る。広場の片隅にある厩舎へと着く。途端、カイバートは馬丁達に大声で怒鳴る。て馬を準備させ、瞬く間その鞍上へ飛び乗る。
「何しているんだ! 早く馬に乗れ、時間がない!」
 時間が無いって何のことだ? そしてやはり、本当に今、ついて行って良いのか?
「全速で走るぞ、ついて来い!」
 この地上で最も憎悪すべき、自分が倒すべき相手に今、ついて行くのか? それには明らかに危険が伴うのと分かっているのに、ついて行くのか?
 最後にもう一度だけ、迷った。上空、夕刻が近づいてきる空に、鳥が複数飛んでいた。何か奇妙な予兆じみたものを感じた。
「早く!」
 判断に迷ったのは一瞬だった。キジスランは馬に乗り、兄の後を追った。

            ・       ・       ・

 春の陽はゆっくりと傾いてゆく。
 空も空気も徐々に黄色を帯びてゆく。少しずつ夕刻の風が吹き始める。
 ラーヌンの市城壁を出て東の丘陵地に入ってゆくと、足許の地面は芽吹くの前の枯れ草ばかりなった。その草を踏みながら、二頭の馬は一度も止まる事なく、小高い丘を登っていった。
 どこに行くつもりなのか?
 馬のたてがみが夕風を受けて揺れている。視線の中、自分を扇動する義兄の背中が見えている。鮮やかな胴着の赤色を、キジスランは交錯する感情と共にずっと見据え続けている。
 ラーヌン公国第一公子。アイバース家のカイバート。
 自分より一つ年上の、腹違いの兄。
 白羊城にやってきてからの半年。まだ一度も私的な接触はない。ただ、確実に自分のことを憎悪しているとは体感している。理由は解らない。
 その義兄が自分を連れ出す以上、何かしらの危害を加える気なのだろうか。だというのにのこのこ付いてゆく自分の軽率は何なのだろうか。そして付いて行った果てに、自分は何を知りたいのだろうか。何を望むのだろうか。
 自分を取り巻く状況を、自分の中の愚かさを、丸切り体を撫でる風のように他人ごとに覚える。目の前に揺れる馬のたてがみを、その向こうで夕光を受ける義兄の背の赤色をただ見続ける。
「止まれ」
 唐突に思考は崩された。馬を止め、初めて兄の背から周囲へと目を向けた。
 気づくと自分達は、小高い丘の頂に登っていた。
 ちょうど西の平野の向こうへ陽が没する直前だった。視界の全てを占めてラーヌン公国の地を見通すことが出来る場だった。
 どこまでも連なる黒色の耕作地が、春の苗付けを待っている。広がった肥沃な平地のただ中に、ラーヌンの街が輝いている。その姿はまるで、黒びろうどの上の極上の飾りボタンだ。夕陽を全面に受けて丸い市城壁も、赤い家並みも、教会や庁舎の何本もの尖塔も鮮やかに輝き、長い影を引いている。
 そして街の北側には、巨大な白羊城の全景があった。ここから観れば丸切り、子供の玩具のようだ。南棟の上に高くそびえる鐘楼も、そこにゆったりたなびく公国旗も、何もかもが夕陽にきらきらと輝いて見える。輝きながら長い影を引いている。
 全てが金色を帯びていた。黒い影を成していた。胸の透くような光景に、キジスランもまた魅入られたかのように見続けていた。
「これが、アイバース公の所有する地だ。ラーヌンだ」
 鞍上からすっとカイバートが右腕を前に伸ばし、指差した。
「白羊城と、ラーヌンの街。それを取り囲む、公国の穀倉地帯。
 この耕地をこのまま南へと進みノラ川を越えれば、隣国・イーラ共和国。さらにその南には、リンザン教国」
 風が抜けてゆく。キジスランは無言で聞いている。
「東の方向には、バンツィ共和国。西には、レイバール国。これらの強国以外にも、その間あいだに大小多数の領主達が領地を保持している。これがティドリア域だ」
「――。ティドリア域の外は?」
「外は、ラーヌンの北の山地を超えれば、レマン域。東はアブヤド海の向こうにルール大国。南は白海を越えてイーリーキヤ域。西は大海。
 だが今はいい。今はとにかくティドリアだ。狭い域内に多くの豪族達が乱立して、土地の奪い合いを繰り返している、このティドリアの地だ」
 ゆっくりと、はっきりと語ってゆく。まるで語りながら自分の言葉を確認するかのようだ。その横顔が夕光を受けて朱色を帯び、普段の強い印象が変わっている。妙に純粋な顔に見えてゆく。
 今、春の夕日が西の地平に接した。風が強く草を揺らす音が響いた。
「俺の言いたいことが解るか?」
 振り向いたその顔が、自分を真っ直ぐに見捕えた。
「いい加減、無言は止めろ。卑怯ぶりに腹が立つ、答えろ」
「――。貴方は、ラーヌンを欲している」
「そうだ」
「それだけではない。さらに貴方は、ティドリア域の全体を欲している」
「その通りだ。俺は公国を継承し、それが済んだらすぐに公国の領土を拡大させて、最後にはティドリア域に全てを手に入れる。細々と小さな争いばかりを繰り返して消耗するだけのティドリアを、俺の手で一つにまとめ上げていく。――そのためにも、まずは確実なラーヌンの継承だ」
「――」
「言いたいことが解るな。言っておくが、貴様には例え諸聖人から断罪されようとラーヌンは渡さない。その為ならどんな手段でも取る。だから絶対に出しゃばった真似はするな」
 眼を見、大上段から断じた。丸きりそれが遠い昔から決定されていたかのよう、当然の態で言い切ったのだ。
「不満か?」
「――。いいえ」
「アイバース公の健在の内からこんな話をする俺を不謹慎だと思うか? ラーメンの宗主座にすら就いていないのにティドリアまで欲しがるなど、尊大で自信過剰の阿呆だと思っているか?」
「いいえ」
「嘘を! 貴様のそのすました顔が、殺してやりたいほど腹立たしいぜ」
 断言しながら笑う。その顔をキジスランは見てしまう。驚いてしまう。自分には不可侵の特権があり、全ての人がそれに従うのが当然と信じ切っている笑顔だ。
 突然、眼下の街から多数の鐘が響いた。
 日没を告げる甲高い鐘の音が、聖堂や鐘塔から入り乱れて風の中に響き渡る。兄弟はそちらに気を取られ、街を見つめる。
 会話が再開されるまでには、丸い陽が地平の下に沈み切り、ゆっくりと鐘の音が消え去ってゆくまでの長い時間が必要になった。
「いつからだ?」
 世界が再び静寂に戻るのを待って、ようやくカイバートは発した。
「イサル・サウドの爺と連絡を取ってるな。言え。いつからだ?」
「何の事ですか?」
「惚けるな。ばれてないとでも思っているのか? さっきの宴席で受け取った書簡も爺からだろう?」
「言っている意味が分かりません。先ほど受け取った書簡でしたら、あれは私――」
 言い終わる前、いきなり相手の馬が動いた。真横ぴったりに迫り、力づくで義弟の胸倉を掴んで引っぱる。その胸元を凝視する。
 キジスランは逆らわない。草を鳴らす風の中、また沈黙になる。今度は呼吸四回分。
「糞が」
「――」
「書簡はうまく従者に戻したんだな。やっぱりあの場で奪い取っておけば良かった。
 何が書いてあった? 急いで宴席から退出しようとしたってことは、爺からの急ぎの呼び出しだったのか?」
「別の貴方に告げる必要はありません」
「確かに。聖者クドスの名においてその通りだな」
と言うや、カイバートはいかにも不快そうに笑む。
「確かにサウドは隠居した老いぼれだが、それでもいまだに市政においては影の大立者として影響力が大きい。奴を味方に付けておけば、今後に充分に役立つ」
「そう思うのならば、貴方がサウド老と懇意になれば良いのに」
「俺は奴が嫌いだ」
「――」
「嫌い奴など、顔も見たくない。手を組むなんて真っ平だ」
「――。貴方は、好き嫌いというだけで敵と味方を選ぶのですか」
「そうだ」
 あっさりの断言に、息を飲む。好きか嫌いかの一点で物事を決めるのか? この男は?
「貴様もだ。あの老いぼれ以上に不愉快だ。白羊城内に居る事だけで許せない。だからこれ以上少しでも俺の視界の中で目障りな動きをしたら、その時には俺も容赦はしない。覚えておけ。死ぬまで大人しく引っ込んでいろ。分かったな」
 草が揺れる音が、低く響き続ける。キジスランは、無言になる。
 義兄の顔に見入ってしまう。金色の空気の中、相手の傲慢の顔が際立っていると思ってしまう。だから――思った通りを真っ向から兄に訊ねる。
「一体貴方は、何者ですか? なぜ自分にそこまでの尊大が許されると思っているのですか? 誰に対してそこまでの命令を下せる立場なのですか?」
 そう真っ向から訊ねた途端、
「“誰に対して――”」
 カイバートはこの世の不快を全て凝縮させて発した。怒鳴ったのだ!
「貴様にだ! キジスラン・アイバースに対してだ!
 アイバース公の第二子。母親は下卑た売女。父親のみならずその売女にも見捨てられて、里子にされた庶子。目に不愉快な赤毛。しかもこの赤毛野郎ときたらどうやら身の程知らずにも、この俺と次期のラーメン宗主座を狙おうと動き出したらしいという!
 その犬に命じているんだ! 俺が目の前から消したいと思っている犬にな!」
「――」
「絶対に出しゃばるなっ、絶対にだ! この先最後の審判の日まで怯えながら引っ込んでいろっ、そうすれば貴様の命を保ってやる!」
“命を保ってやる”――
 大上段から視線をぶつけられる。内面で感情は激しく動揺し、その挙句、反発を選ぶ。この傲慢無比の存在に、自分がどれ程に憎悪を抱いているかを宣したいと――断罪したいと欲する。
“怯えるべきはそちらの方だ、
 懲罰に怯えながら命乞いをするのは、大罪人たるそちらの方だ――”
「だが貴様はきっと従わない。そうだろう? 弟御」
 なのに叫ぼうとする直前、目の前の表情がまた変わった。たった今までの不遜の極致が唐突に、子供のように素直な眼に転じてしまったのだ。
 もう弟など見ていない。カイバートは前方のラーヌンの街を真っ直ぐに見ている。愛おしい物を欲するかの様に、日没と共に市門が閉じられてゆくのを、そこを慌ただしい通り抜け家路を急ぐ人々を、ラーヌンという街が活気に満ちた一日を無事に終えてゆくのを見ている。素直な感情を込めた無垢の眼で見つめている。
 陽の消えた地平に、鳥達の群れが低く飛んでいた。
「きっとその内、本気で貴様を潰さなければならなくなるのだろうな」
 その高い鳴き声に重ねるように、カイバートは続けた。
「だが、まだだ。まだアイバース公は若くて健在だ。だからまだ、時間はたっぷりある。いくらでもこの先の道筋を、お互いに描き直してゆくことができる。な、そうだろう? キジスラン?」
「――」
「貴様と話をしたのは今日が初めてだな。――貴様が俺の眼を見たのも。
 意外と悪くない顔じゃないか。本当に、貴様さえ大人しく引っ込んでいれば、俺達の間の物事は平穏に進むものをな。糞が」
 言葉の通り、キジスランはずっと兄を見ていた。気づいた時にはもうその顔から目が離せなくなっていた。
 鳥の群れは、西の果てへと去ってゆく。草を揺らす風音が、響き続ける。
 風音と冷えた空気が、錯綜する感情を静めてゆく。自分にこびりついた憎悪や葛藤や恐怖が、不思議な冷静さに覆われ始めてゆく。不思議にも今、想うままの述べたいと欲し始める。
 そう。今なら言える。言わなくてはならない事を今ならば、当然の事として言える。宣じられた相手に、同じく真っ向から宣する事が出来る。
「カイバート公子。でも違う。
 貴方に、ラーヌン宗主の座は許されない、それは神が許さない。なぜなら貴方には、それよりも先に対峙すべき事象があるはずだ」
 風音が響く。言いたいと欲する。なぜならこの不遜の兄に過去の大罪を思い出させるのが、自分に課せられた使命だから。
「今、貴方は、犯した大罪に対峙すべきだ。神の御名に怯え、そして贖罪という義務に向かうべきだ。ラーヌン宗主座を語るなど、およそ許されるはずはない。それこそを私は断罪する。だから貴方に対して私が先手を打つことこそは正当な権利として認め――」
 一瞬にしてキジスランは蒼ざめた。
 目の前、カイバートが胴着から短剣を抜く。振りかざす。自分の喉元へ確実に突き出す!
「動くな!」
 動けない。恐怖が体を縛る。直感する。――本気だ、この男は今、本気で自分を殺そうとしている!
 反射的、相手の馬の胴を蹴った。びくりとした馬が半歩だけ横に動いた瞬間、キジスランは全力で鐙を蹴った。自分の馬を全速力で走らせ逃げた!
「糞野郎が!」
 大声が風に乗って響く。
「今回は逃がしてやる、糞野郎! 確かにその通りだなっ。お互い相手の先手には十分に用心しようぜっ、胸糞悪い下種が!」
 風音の中に速い蹄の音が響く。キジスランはそのまま全速で馬を駆り、夢中で丘を駆け下る。
自分の心臓が大きく脈打っているのを自覚する。初めての義兄との対話に、相手の眼を間近に見たことに、思考も感情も激しく動揺する。
 今は物事を整理出来なかった。ただ起こった出来事を受け止めるだけで精一杯だった。強まっていく夕刻の風を冷たく感じる余裕も無かったのに、最後の赤味を残す西空に月と宵星が並んでいたのだけは、なぜか印象に残った。
 春の始まった日。その日没に、彼の世界は確実に変わった。




【 その翌日に続く 】
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