第14話

文字数 12,218文字

14・ その数か月後
 
 暑い。
 リンザン教国は、夏の終わりだというのに真夏のままのようだ。今朝も突き刺すような陽射しが続いている。暑い。
 数か月の間、雨は降っていない。乾き切った空気は埃を含み、ひりつく臭いを含んでいる。視界はくすみ、白さを帯び、広がりも潤いも無くしている。カラカラの質感が陽射しを直接に伝え、皮膚に焼けつく痛みを与えている。
 暑い。苛立つ様に暑い。

 少年の声が聞こえた。
「お目覚めでしょうか。猊下」
 同時に、柑橘の香が鼻をくすぐった。レモンの香りだ。
 少年が大理石象嵌の卓上に青のガラス杯を置いた時、カタリという僅かな音が響いた。その杯へ、揃いの色のカラフェからゆっくりとレモン水を注いでゆく。それを目覚めきっていない薄目で見る。
 暑い。しかも、今日は聖アドワの日だ。――不快な日だ。
 不機嫌が頭をもたげる。起きる事に嫌悪を感じ、しかしそれでも上半身を起こして、差し出された杯を受け取る。乾き切った喉にレモン水を流し込んでゆく。
 リンザン産が端境なので、遠くのイーリーキアから運ばせたレモンだ。最高級を求めたのに、味も香りもどこか薄い。それだけで不快だ。だが、レモンの果汁をたっぷり含ませた水がなければ、もっと不快だ。腹立たしい。
 少年がゆっくりと、窓の日よけ布を巻き上げてゆく。夜が明けてから間もないというのに、もう熱を帯びた陽射しが室内に射し込んでくる。
「告解者はもう来ているのか」
 侍者の少年は振り返り、美麗な顔で微笑んだ。
「はい。すでに八十人程がお待ちです」
 ――不快だ。今朝は、最悪に不快だ。
「八十人など、多すぎるぞ」
「仰る通りです。猊下。
 しかしながら、善き信者達は皆、尊ぶべき貴方様への接見と告解を、心待ちにしている様子です。行列の先頭の者などは、貴方様との接見を切望して、二十日も前から待ち続けていたそうです。天上の絶対者に栄光あられ。絶対者の威光を地上に知らしめるという気高き使命を負われる貴方様に、栄光あられ」
「――忌々しい。呪われろ」
 唐突の下劣な言葉に、一瞬眉が歪んだ。が、すぐに少年は優美の顔を取り戻す。そのまま落ち着いた動作で窓を一つ一つ開けていき、乾いた、暑い外気を取り入れている。
 リンザン教会副教王・ザカーリは、もう不快の顔を隠そうともしなかった。
 毎月の聖アドワの日、彼は信者達と接見する。神のあまねく慈悲を神に代わって地上に具現すべく、善き信者達の告解を聞く。それが、天上の至高存在たる神が、リンザン教会組織を通じて七人の副教王へと授けた大切な、有り難き使命だ。
(有り難き、貴き使命だ。副教王七人の)
 杯を掴む手に力が入る。残っていた水を一気に飲む。
(教王には無い、使命だ)
 薄汚い貧乏人達を目にし、その汗臭い・泥臭い臭気をかがされ、無意味な祈りやら不平やら嘆願やら愚痴やらにさらされる使命だ。貧乏人を祝福するという無駄以外の何物でもない使命だ。教王には決して無い、不快そのものの使命だ。
 教王になれば、東方の香料に包まれて、上層の客人のみを相手にしている事が出来る。貧民を目の当たりにして不愉快に腹立つことなど無い。教会組織の頂点の権威座たる、教王座に就けば。
「お早うございます。副教王猊下」
 もう扉口に姿を現した。接見告解式の進行助役は、今朝もいつもと同じ態だ。
「本日もまた貴方様が、崇高なる至高者の御加護の許にあられますように。貴方様の万事が、光の許にあられますように。貴方様が信者に与える告解式が、リンザンの尊き信仰をより清浄な光の許に輝かせられますように」
 丁寧に述べてゆき、そのことで急かせる。
「ご朝食の準備が出来ております。どうぞ隣室に御移りになって下さいませ」
 自分を不快の聖務へと急かしてゆく。
「水ぐらいゆっくり飲ませろ」
「申し訳ございません。失礼を致しました。しかしながら、猊下にお目通りをし、猊下の御威光を通じて神に御前に告解をしたいという善男善女が、すでに心待ちにしており、そのゆえに今朝――」
「待たせておけば良いだろうっ。何なら、そのまま死ぬまで待たせろっ。
 なぜ朝からこんなに暑いんだっ。もっと涼しい部屋は無いのかっ」
 教王になれば、宮殿内でも最も風の抜ける、涼しい部屋を使えるはずだ。
 考える事総てが、不愉快を呼び起こす。一日でも、一刻でも早く六人の副教王達を蹴落とし、教王座の継承者に就く手段は無いものかとの、何百万回も繰り返してきた不満をまたぶり返す。
 開け放たれたばかりの窓から、少年達の合唱する清らかな聖歌が流れてきた。それを上回るように巨大な鐘の音が響き出した。今日という一日が始まった。リンザン教国の第二位の地位に就くザカーリ副教王が、この地上に見捨てられているか弱き信者たちを救うという、尊き朝が始まった。
「忌々しい!」
 不快感を、象眼の卓にガラス杯を強く置く音で吐いた。ザカーリの感情は、とっくに怒りに転じていた。

 上級聖職者とその関係者が居住して聖務を執るリンザン宮殿は、記憶に残らないほどに遠い昔から増築と改築とを繰返してきた。
 内部には、部屋と通廊と階段とが無数に、無秩序に造られている。それらが延々と連なったり途切れたり、さらにその合間に中庭やら泉水場やらを挟んだり……。文字通り、迷路のように入り組んでいた。日々に訪れる多数の来訪者の誰もが“ここは怪奇複雑だ”と覚えて困惑するような巨大な、広大な、一大建造物だった。
 そしてこの迷路宮殿を通り抜けた向こう側が、聖域だ。
 むっと暑い空気がこもる今朝。副教王・ザカーリもまた、多数の人員に囲まれながら、主聖堂の方向へと向かっていた。しかしながら。――主聖堂の前は、素通りした。
 聖域の大半を占める主聖堂。この中に入れるのは、限られた高位聖職者と、限られた身分の信者のみだ。それ以外の者は決して、壮麗たる浮彫装飾の正面扉をくぐることは出来ない。天国と見紛うようなモザイク聖画と大彫刻で埋められた内部に、入ることは出来ない。
 今朝、ザカーリは、青銅製の正面扉をくぐれなかった。扉の前を素通ると、主聖堂の側面へと回った。庶民・すなわち貧民がかろうじて入る事が出来る、主聖堂の北側に隣接する小礼拝堂へと向かった。
「猊下。少しお急ぎ下さい」
 緋色の礼用聖衣が暑い。重たい。なのに長々の道のりの途中で、何度となく助役に急かされ、不快感が増してゆく。
 だからようやく小礼拝堂の中へと入った時、ガランと装飾の少ない室内に刺激された。見慣れているはずの採光の悪い、壁画の少ない、簡素な祭壇しか持たない室内が一段とみすぼらしく思えて、不機嫌が爆発した。
「なぜ花が飾られてない! 今すぐに運んで来いっ、それに香が少な過ぎる!」
 慌てて、室内に控えていた従者達・侍者達が走り出す。ザカーリは不機嫌を丸出しのまま、黒大理石の祭壇前まで進む。教国の紋章が織り込まれてた布張りの椅子にどさりと腰かける。
「水も無いのか! レモン水を早く運べっ。花も香も水も無いとは何事だ! 聞こえないのかっ、早くっ、何をしているっ、急げ!」
 これから臭い、泥だらけの貧民達を見なければならないんだぞ! 
 そう思っただけで、新たに運ばれて来た香炉の贅沢な香も全く足りないと感じる。苛立ちが高まる。こんな下種な聖務を背負う立場に甘んじている自分に対し、腹立ちが抑えられない。いつまでも頂点たる教王の地位に登れない自分に。
「こんな安物の香しか無かったのか! 私の鼻を腐らせたいのかっ、阿呆が! ――もういいっ、とにかくもっと焚けっ。煙で何も見えなくなるほどに、もっと焚けっ」
 まき散らすような怒声に、控え立つ聖職者達や文官達の顔は強張る。助役の、猊下、では始めさせて頂いてよろしいでしょうか? との声は、もう怯えを含んでいる。
(糞が!)
 下品極まりない句は、喉奥でかろうじて押さえた。ザカーリは大きく息を突いた。
「早く始めろっ」
 二人の衛兵が扉を開けると、せっかく焚き染めた香煙が外気に流れ、入室してきた者の凄まじく汚らしい姿が露わになってしまった。
 若い男が二人だ。彼らは進み出ると、倒れ込むように座り込む。焼タイルの床に手と額を付けて、最上位の敬意を表する。
「本日の最初の告解者であるこの善き信者は、他の六人の副教王猊下ではなく、他ならぬ貴方様との接見、そして貴方様への告解を望み、今日・聖アドワの日の為に二十日も前から待機をしていました」
 床に伏す虫のようだと思う。特に右側の者などは、丸切り泥池にはまったままで来たかのようだ、頭も顔も乾いた泥まみれで、目にするだけでも苛立った。
 その男が、自分の目の前まで這い進んで来た時、泥と体臭が混ざり合った悪臭が鼻を突いた。さらに近づいて自分の左手の人差し指に嵌めた指輪に接吻をした時には、もう抑えきれず大声で怒鳴った。
「この場に来るなら、体を拭いてから来いっ」
「……。申し訳ありません。猊下」
 泥やら塵やらがこびりついた顔が、こちらを見上げて来る。こんな汚らしい物に話しかけられるなど、不快以外の何だというのだ。今すぐに踏みつけてやりたいものを!
「この儀を神の御前と思し、貴様の罪と祈りを述べろ」
 早口で言い切る。早く告解しろ。言って消えろ。汚い虫がっ。
「――」
 二人は何も言わない。ただ床の上から自分を見据え続ける。
「何をしている。告解しろ。早くしろっ」
「――」
「何しに来たんだ、早くしろっ、しないならさっさと出ていけっ、早くっ」
「――。聖天使マラクに、導かれて来ました」
「天使マラク? それがどうしたっ。何だっ」
「聖天使様です。懲罰の剣を振り上げた」
「だから何だ! いや、もう良いっ、喋らなくて良いっ。もう出て行けっ。――おいっ、こいつらを外に出せ!」
 たちどころ、扉口にいた衛兵二人が来る。座り込んでいる二人の腕を掴むと引きずり上げ、強引に扉の方へ運んで行こうとすると、左の小男が獣じみた悲鳴を上げた、と同時、もう一人が発した。
「聖天使マラクの絵っ」
“聖天使マラクの絵”。
 単語を、一瞬では理解出来なかった。意味に気づくまでには、呼吸四回の時間が必要となり、
そして突然、閉ざされていたものが起こされる。途端、内臓を掴み取られる感覚が走る。“聖天使マラクの絵”――あの絵”!
「待て! 待てっ、その者を戻せ! 皆出て行けっ、早く! 全員早く出て行け!」
 衛兵も、控えていた助役と聖職者もぽかんと驚く。多数の侍者と侍従達も同様だ。何が起こったんだ?
「猊下? 恐れながら申し上げますが……何事が……?」
「出て行けと言ったんだっ」
「しかしながら、貴方様を今、御一人にする訳には……。告解式において立会者が不在となるとは前例がありませんし、何と言っても御身の安全を考えますと……。如何に貴方様のご要望とはいえ、対処――」
「今すぐ出て行け! もう一度言うっ、出て行け!」
 凄まじい怒声で言い切った。ともかくも衛兵達は薄汚い二人から手を離す。その他の者も困惑したように顔を見合わせながら、追われるように全員出て行く羽目になる。その最後にザカーリは念押すように叫んだ。
「扉を閉めろ! 完全にだ!」
 ……そして、小聖堂の室内は、静寂になった。
「……」
 締め切った空間に、香炉の煙が漂う。泥塗れの若者二人は、再び床に身を屈めて控えている。無言で自分を見上げている。
「……」
 ザカーリは言葉を発せない。苛立つ朝、突然、飛んでも無い悪運を持って来た相手に何を言えばよいのか見当が付かない。言葉が選べず、何も出来ず、息を詰まらせ、歪んだ沈黙に陥る。と。
「絵は、私が所有しております。
 あの絵の件を知っている者は、私達二人以外におりません」
 あっさりと言われた。
「……。お前は、誰だ」
「ラーヌン公国公子・アイバース家のキジスラン」
 分厚い緋聖衣の中で、体温が冷えていった。
 混乱する。激しい混乱の眼で、相手を凝視する。相手の首筋の内側、泥が落ちている毛先が独特の赤い色なのに気づいた時、この夏に世間を騒がせた逃亡中のラーヌン公子が、赤毛の公子と呼ばれているとかの話を思い出した。
「……。父親殺しの、赤毛の公子……」
 と、ラーヌン公子が立ち上がった。無表情が崩れ、発した。
「違いますっ」
「父親を殺し、兄である新ラーヌン公も殺そうとした大罪人と――」
「違います、猊下っ」
「貴様の兄は、貴様を必死に探している。捕縛して、ラーヌン全市民の前で処刑をすると宣言――」
「私は殺していないっ。猊下、私は父を殺していませんっ。ラーヌン公を毒殺したのは私ではなく、おそらくカイバートを支持する一派で……もしかしたら――もしかしたならば……カイバート自身もこの件に関わって……。ですがこの件に関する私の主張――」
「黙れ! 貴様の主張などどうでもよいっ、それより絵だ! 貴様、マラクの絵――あの絵の何を知っているっ」
 あの絵。天使マラクの絵。その裏書。
 上へとどん欲に邁進してきた己の生涯の、ほぼ唯一の、最大のつまずきの、あの絵。
「絵についての、全てを知っています」
「――」
 恐怖と混乱が背筋を掴む。あの異端信仰を示す絵を残した愚かさを、ずっと後悔していた。恐れてきたものを。
 なぜあの時。数十年前の若い日。どうして描いてしまった、なぜすぐに燃やさなかった、なぜ……、
「……全てとは、どういう意味だ……」
 なぜと言われれば、あの時。自分は、青臭い信仰心と使命感に燃えていた。
 あの胡散臭い坊主の胡散臭い信仰こそがリンザンの信者を救うと、全霊より没頭していた。異端認定された後も、それでもしばらくあの詐欺師坊主に傾倒し続けてしまい、己の信念にかけて絵を燃やすなど出来なかった。そのまま、依頼者である小さな教会へ納めてしまった……。
 あの絵の存在をひたすら恐れ続け、だが誰の御加護だか知らないが、何も何十年間も起こらなかった。だからいつの間にか、絵はどこかに打ち捨てられたのだろう、もう地上から消えたのだろうと判断してしまっていた。安心してしまっていた。とっくに忘れてしまっていた……。
「答えろっ。どこまで絵の事情を知っているんだっ」
「あの絵を、猊下御自身の手が描いた事を知っています。その確実なる証も、得ています。
 つまり、端的に申し上げれば、――まことに僭越な物言いをお許し下さるならば、あの絵の存在をもって、私が猊下の命運を握っているという事になります」
「――」
 後悔だ。後悔以外の何物でもない。
 あの絵。教王座どころか、真っ直ぐに異端審問の場へ、そして火刑へと自分を導くあの絵。それをまさか。なぜだ?
 なぜ、世間を騒がせる親殺しラーヌン公子が持っているんだ? その逃亡中の赤毛が、なぜ今朝、今、全く唐突に自分の前に立っているんだ!
「……」
 膝が、僅かに震え始めている。香炉の香が鼻に痛く感じる。
 何とか感情の混乱を抑えようと、長く長く、必死に思考を巡らせる。突然に大転換した現実をどうやって切り抜けるか、唐突に現れた赤毛にどう対処すべきか、重く張り詰めた静寂の中で早急に、必死に策を巡らせる。と。
「キジスラン様」
 後ろから身を屈め、小男が赤毛に何やらを耳打った。それに赤毛が微かに頷くと、先んじるように告げた。
「貴方様は、私達を殺害することは出来ません」
 びくりと息が詰まる。考えを当てられた。
「今、あの絵は、何ら事情を知らない某人物に預けています。もし、私達がその者に何ら連絡を取らないままに一年を経たならば、あの絵と、あの絵の事情を記した書簡を公表するようにと依頼をしています。ですから、貴方様が私達を殺害したり投獄したりすることは、出来ません」
「――」
 露骨な脅迫だ。自分は今、恫喝されたのだ。完全に下の立場に置かれたのだ。
 ――と認識した時、自尊心が反応し出した。恐怖と当惑とが、少しずつ変わり出した。唐突に現れ、副教王たる自分を恫喝してきた赤毛に、怒りという反発を覚え出した。吐き捨てた。
「……。呪われろ」
「申し訳ありません」
「何が望みだ」
「――。はい」
“あの男を殺して……っ、復讐して……っ”。
「私の望みは、ラーヌン公国に帰還し、ラーヌンの公主座に就くことです」
 通廊から扉を遠慮がちに叩く音が聞こえ出す。
「猊下、もうよろしいでしょうか? 入室してもよろしいでしょうか?」
 キジスランは先を急ぐ。
「その為に私は、猊下の御助力を心より望んでいます。私の公主就任を、是非とも御援助下さることを、お願い致します。
 もしも私が公主座に就いた暁には、私もまたラーヌン公主として持てうる権限を用い、猊下のために尽力致します。猊下がリンザン教の頂点たる教王の地位に御就任されることを、全力で援助致します」
「――」
「即ち、この件は、猊下と私とのお互いに良い未来を築けるのではと自負しております。再びの僭越かつ不遜な物言いを、お許し下さい」
「絵は?」
「どうぞ御心配なさらないで下さい。猊下が私を保護・援助して下さる限り、絵の存在は完全に秘匿致します。また、互いの満願が成就したならば、その瞬間に即座に焼却することをお約束致します」
「貴様。私に、貴様の様な下種の弁を信じて手を結べというのか」
「それは、猊下がお決めになられるところです」
「――」
「繰り返させて頂きます。私の望みは、ラーヌン公に即位したカイバート・アイバースを追い落とし、ラーヌン公主座に就くことです。それに猊下が御援助を下さる事を、それだけを望みます」
 それだけを望む。それが叶えば、自分は白羊城に戻れる。再びあの城の中で、あの男と接触出来る。――会える。
「猊下、入室の許可をお願い致します。御返答がお願い致します。何か問題が発生しているのでしょうか?」
 扉を叩く音が強まり出す。強い芳香が鼻を刺激する。ザカーリの顔が苛立ちと憎悪に引きつってゆく。
(糞が!)
 反発の感情は衝撃も恐怖も打ち消し、怒りのみとなる。この暑く不愉快な朝に、今日の守護聖者たる聖アドワにそっぽを向かれたことに激怒する。あざ笑うように唐突に赤毛を寄こしてきた聖アドワにっ。
(こんな不快な朝に、自分の命運を変えやがって!)
「猊下、どうかお願い致しますっ、お願い致しますっ 入室を御許可下さい!」
 ラーヌン公子が、強い目で自分を見ている。汚らしい毛先に僅かに赤色を見せる髪に、従者に長々と耳打ちをされながら自分を見る無表情の眼に、怒りがふつふつと高まる。
 腹立つ。本気で腹が立つ。この赤毛はどのようにあの絵を手に入れ、調べ、脅迫手法を組み立てたんだ? 腹立たしい無表情で何を考えているんだ?
(虫の分際で自分を恫喝しやがって!)
 この赤毛の虫、自分の方が足元をすくわれて悪魔の許へ落ちる危険については、少しも考えていないのか!
「猊下。どうかお許し下さい。これより入室致しますっ」
「待て! まだだ!」
 時間が無い。とにかく今は、やるべき事をやる。今やるべき最優先は、この赤毛を確保し、世間から隠す事だ。先を考えるのは後でいい。とにかく今は自分が先手を打つ。屈辱だが、相手の強要に応じる。
(糞が! 聖アドワと赤毛!)
「貴様の取引に応じる」
 その瞬間、汚らしい赤毛の顔が初めて怯えるような安堵の息を漏らした。
「有難うございます。感謝を致します、猊下」
「身柄を保護する。今から貴様に部屋と、使用人を準備して与える。今すぐに風呂を準備してやるから、早く使え。それに食事――」
「いえ。猊下。申し訳ありません。もし可能であれば、まず最初に他のものを頂戴出来ますでしょうか」
「何が欲しいんだ」
「眠れる場所と時間を。寝台をお願い致します」
 不快と嫌悪から成る怒りが皮膚を逆撫でた。あの汚い、臭い体で寝台に乗るというのかっ。
聖アドワは呪われろ! こんな小心の、薄汚い死にかけの虫を送り込んできた聖アドワは! 虫に自分の首根を掴ませた諸聖人は喰い潰されろ!
「好きにしろっ」
「有り難うございます。本当に有り難うございます、ザカーリ猊下」
 それはキジスランの泣き出したい程の本心だった。
 これでやっと、自分は眠れる。白羊城を逃亡した夜から初めて、深く、安心して眠れる。追手に怯え、疲弊と緊張と恐怖に縛られ続けた数か月から、やっと解放される。やっと今、自分の前に新しい現実が、白羊城への帰路が拓けてゆく。
「誰か入室しろ!」
 途端、弾かれたように扉が開く。一斉に飛び込んできた人々の中から助役に向かい、ザカーリは有無を言わせない強い早口で命じた。
「この者に、部屋を用意しろ。寝台のある部屋だ」
「はい……?」
「それに世話する者を付けろ。長く滞在するから、宮殿内に空いている部屋を探してすぐに案内してやれ。今はとにかく休ませろっ。早くしろっ」
 助役は全く事情が読めず、またも困惑顔になる。至高者の代理人の一人たる御方と、憔悴し切った顔で立ち尽くす薄汚ない若者とを、煙越しに交互に見返す。さらにもう一人、みすぼらしく痩せた小男が、どこか薄気味悪い視線でザカーリ猊下を見続けているのも、妙に気になる。
「早くしろ! 早く!」
 慌てて頭を垂れた。これでまた面倒な仕事が増えたな、それでなくても今日は告解の希望者が多くて式が時間を喰いそうなのに。全く暑さの衰えない不快の朝なのに。とは思ったが、腹の中に完全に押し隠した。

               ・     ・     ・

 同じ日。
 ティドリア域の北方に位置するラーヌン公国では、空が青かった。
 暦の上ではとっくに秋を迎えているはずだ。だが今年は暑さが続いたままだった。空は鮮やかな青色を保ち、空気は乾燥し、眩い陽射しがずっと残っていた。爽やかな夏の気候がいまだに続いていた。
 この好天の朝。ラーヌン市を真っ直ぐに貫く大路・シャーリア通りには、多数の人々が出ていた。皆が期待を帯びた目で大路の始まりである南門・ジュヌーブ門の方向を見ていた。
 彼らは、新ラーヌン公の凱旋を待ち構えていた。
 ――
 新ラーヌン宗主・カイバートの軍事遠征は、今回が三度目・公位に就いてからは二度目だった。
 まだ公位に就いてから半年も経ていないのに、カイバート新公は慌ただしくも二回の軍事遠征を実施した。どちらもがイーラ国との領境に位置する小城砦への攻撃であり、そのどちらともに自らが軍勢を率い、自ら戦いに出た。そしてどちらともに、素早い勝利を収めた。
 ほんの僅かではあるが、カイバート新公は公国の領地を広げるのに成功した。この遠征にどの程度の軍費が費されたかは知れないが、ともかくも彼は父親とは異なる形で、公国を拡大させたのだ。
「まあ。つまり。この二回の遠征については、公位に登る以前からずっと狙いを付けて緻密に計画立てていたという、そういう事だ」
 大路に面した人垣の、その一番後ろに彼らは立っていた。
「君の意見はどうだ?」
 騒々しいお喋りを交わしながら待っている群衆を見ながら、バンツィ共和国商館の顧問が訊ねる。すると。
「勿論、その通りでしょう。そうでなければとても数カ月という短い期間内での二回の軍備および出兵は不可能です」
 右隣のハ―リジュ外交官は、相手を見ることも無く、およそ感情も無く答えた。
「現状から考察すると、おそらく今後もカイバート新公は活発に軍事行動に出ると思われます。三度目の遠征を取るとしたならば、やはりそれもイーラ共和国との国境付近になるのでは。イクター領内が予想されます」
 若いはずが、あまりの落ち着きのために老けて見える顔立ちが、無機質に告げてゆく。告げながら、同時に頭の中でさらに分析を進めているのが傍目にも分かる。
「イクタ―領内でも、さらに絞り込んで推察をするならば、おそらく標的はアルア城砦になるのでは」
「……。随分自信をもって言い切るな。読み違いの危険性は無いのか?」
「勿論、あります。言った通りこれは推察です。さらに言えば、現実に絶対は有り得ません。どれ程に試算を重ねても、それが確実な正解になると言い切る事は出来ません。違いますか」
「――。そうだな。……だが――」
「何ですか」
 初めて振り向いて、自分を見た。その突き放した視線が、何というか――何とも鼻についた。
 何というか――と、父親ほどに年上の商館顧問は思う――何とも尊大を感じさせる印象だ。相手が自身の土俵になど乗っていないと思っているような。相手と会話をする価値など無いと思っているような。そんな風に周囲の人間を捕えていると伝えるような口調と態度と視線だ。
 だがそれも仕方ない。この若者の知性は、外交巧者を自負するバンツィ共和国が誇る全外交官中でも屈指なのだから。明晰な精査に基づき理論を展開できる、その理論によって現実を合理化できる、圧倒的な力量の持主なのだから。――確かに、カンには障るが。
「ならば、ハ―リジュ。イーラ共和国の側の対抗については、どう見ている?」
「イーラ共和国の対ラーヌン措置ですか? おそらくは正論に基づいて地道な交渉を積み重ねる政策でしょうね。面白味に欠けますが」
「君は国交に面白さを求めるのか? まあ、良い。
確かにイーラとしても今頃は、ラーヌンとの国境線へ新たに厳重な――」
とまで商館顧問が言った時だ。彼らの左手・南門の方向から、歓声が上がった。
「新ラーヌン公万歳!」
 多数の見物客達が賑やかに声を上げる中、真っ黒の馬に跨ったカイバート新公が、市門をくぐって現れたのだ。
 大柄の黒馬が薄っすら汗をかき、毛並みが輝いて見える。その馬上で、新公は自分を賞賛する人々を見返している。心底より嬉しさを表わしている。
 一年半ほど前。公子の身分で行った初陣の際には、単騎で疾走しながらこの大路に姿を現した。その時に比べると、派手さは薄れている。が、自信と落ち着きは大幅に増している。国の万事も自身の事も、全て自らの思い通りに進めているという矜持を、たっぷり見せつけている。
 新公の後ろには、同じく汗まみれの兵士達が続いて来た。ジャクム将を始めとする、以前からよく良く知られた傭兵部隊の指揮官達の顔もあった。が、と同時。
「あの兵達は? 傭兵隊では無いな」
 見慣れない、若い兵士達の一団があった。
 すでにハ―リジュは調査済だ。彼らは傭兵ではない。今回の遠征の為に集められた、公国内の若者から成る部隊だ。
 初めての凱旋帰国に興奮し、大声を上げている。だが騒動を起こすのは厳禁されているのか何とか隊列だけは保ちながら、しかしそれでもはしゃぐかのよう、各々が騒ぎ立てた態で大路を進んで来る。バンツィの二人は人垣越しに、これをじっと見据えてる。
「珍しい。いや。新しい、か。傭兵ではない兵士達だ」
 するとハ―リジュが聞きなれない単語を発した。
「国の領民からなる兵ですから、即ち、国の部隊ですね」
「領民で軍隊を作るのか? わざわざ新規の軍隊を編成するとは、武力で拡大政策へと進むつもりなのか?
 つまりこれは、ラーヌンは今後、今までとは異なった国策を採るという事なのか?」
「勿論もしかしたら、ではありません。確実に拡大政策を進めます」
 明快な分析だ。だがやはり神経に障る口調だ、と顧問は思ったが、腹の中に抑えた。
 カイバート新公はゆっくりと大路を通り過ぎて行く。歓声と共に大路を進む背中が、強い自信を印象付けている。瑞々しい期待感を与えている。公国に新時代が来たことを、朝の明るい陽射しの中に確かに具現している。
 やがて、大路の突き当りにある王城・白羊城へと吸い込まれていった。カイバートは自身が主である白羊城へと帰還した。
 ――
 城門をくぐり、そのまま城内のハルフ広場を横切ると、バルコンの下のアーチ通路まで進む。ここで馬を降りると、すぐに南棟の中に入り大階段を目指す。
 大階段には、風が抜けていた。カイバートは速い足取りで登っていった。慌ただしく上り下りしている人々は、新公主に素早く身を垂れて挨拶をする。これを軽くいなし、二階分をあっという間に登り切る。そのまま三階へ向かい、踊り場まで達した時だ。
「戦勝を、おめでとうございます」
 初めて足を止めた。顔が笑った。涼しい風の抜ける日陰の場に、イブリスの穏やかな笑顔があった。
「あちらの戦況は如何でしたか?」 
「何の問題も無しだ。楽しめた」
「当初の予定より一日分早い勝利になりましたね。さすがの力量です」
「おい、白々しい事を言うなよ。らしくないぞ。貴様はまた痩せたな、ちゃんと食事を採っているのか?」
 気分が高揚しているのだろう、カイバートは少し子供っぽい口調だ。早口と、素直な明るい笑顔だ。
「確かに思ったより早々と片を付けられたし、しかもほとんど損失も出さずに終わった。まあ、軍費は予定よりかかってしまったけれどな。上出来だ」
「軍費に赤字を出しては、財務官が怒りますよ」
「知るか。それより俺の留守中の白羊城はどうだった? そういえばあの餓鬼はどうした? 吐いたか?」
「まだです」
「なぜだ? もう何か月も経っているのに何で喋らないんだ?」
「数か月を経てもまだ自白をしないという事は、本当に知らないという事なのではありませんか」
「それだと困る。予定が狂う。後々に面倒になるのは嫌だぞ。何とか口を割らせる拷問方法を考えろよ」
「分かりました。より効率的な手法を考慮しましょう」
「任せたぞ」
 空恐ろしい会話に、一礼して通り過ぎようとした出入り商人が振り返る。だがもうその時には、新公は笑顔に戻っていた。ポンと相手の痩せた肩に手をかけていた。
「さすがに腹が減った。まずは食事だ。イブリス、一緒に食べよう」
「いえ。私には今から取り掛かる懸案がありますので。それに空腹でもありませんので、遠慮をします」
「そう言うなよ。せっかく俺が気持ちよく帰城したんだから、付き合え。それに貴様は少し太れ」
 どんどん子供っぽい上機嫌を強めていく。強引に相手の腕を取ってしまい、そのまま大階段を登って行く。絶え間なくすれ違う人々に挨拶を返すこともなく、しかし嬉しそうな笑顔だけが続いてゆく。
 ……外では、ハルフ広場へと続々と兵士達が入って来ていた。賑やかな大声や物音がどんどん大きくなり、聞こえて来た。そこに鐘楼の鐘の音が加わった。騒々しさが、白羊城の全体にいきわたり出した。


【 その二日後に続く 】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み