第25話

文字数 12,172文字

25・ その五日後

『天上の世界を地上に降ろした』。
 リンザン教国宮殿の壮麗さ・壮大さについて、よく使われる表現だ。その通り、今日のような暗い空の下でも、宮殿は圧巻の絢爛ぶりを見せつけていた。
 ザフラ城館を出発した一行が帰着したのは、五日後になった。その時すでに宮殿前広場では、急使が待ち構えていた。馬車が到着し一行が下車してくるや、いきなり大声で叫んだのだ。
「カイバート公率いるラーヌン軍勢が、イーラ共和国との国境域にあるヒス城砦への遠征を発表しました!」
 馬車から降りかけていたスレーイデの足は止まった。一瞬思った。
(運命の女神の望むところは、徒労なのか?)
 ちょうど降り出した雨の中、他の面々も全く同様だ。その場に立ち止まってしまった。唖然やら驚愕やらを示しながら、『どういう事だ? 結んだばかりの条約が破棄されたという事か?』、『有り得ない、神の御前に有り得ない事態だ』等々、思わず口に出し、互いに顔を見交わしてしまった。
「協定破棄の可能性ならば、予測していました」
 はっとスレーイデは振り返る。ハ―リジュはの顔は、例によって全く感情を示していなかった。
「自身の不利となる当協定にあっさり同意するカイバート公及び白羊城側の対応は、明らかに異質でした」
「そう感じていたのなら、なぜ今まで告げてくれなかったっ」
「貴殿はあの対応に、奇異を覚えなかったのですか?」
「――。いや」
「私は覚えました。これまでのカイバート公の言動を考慮すれば、あの会談の展開には明確な違和感がありました。ですから、帰還の道中において考察を重ねてきました。
 今現在、私に複数の提案があります。これから即座に会議を開きたいのですが、ザカーリ副教王猊下とリュシナン総長を御呼びする事は可能ですか。キジスラン公子にも参加してもらい、今すぐにこの件の対応策――」
「残念ながら、公子が会議に参加するのは無理です。御体調が……。
 それ以上に、御気持ちが酷く不安定のようで……」
 雨粒越し、横からドーライの声が遠慮しながら割り込み、二人は同時に振り見た。
 キジスランの馬車は西の壁沿いの、諸聖人立像の前に停まっていた。強まり始めた雨を受ける馬車の中、ぴくりとも動かない横顔が沈んでいた。
“価値を持たない、ただ名前のみが価値の存在”
 的確な評価と一瞬のみの苛立ちを、ハ―リジュに覚えさせた。
「解りました。体調不良ならば仕方がありません。今から開く討議には欠席され、充分に休まれるようにと公子にお伝え下さい。御大事に」
それだけ告げ、見捨てる。すぐにリンザン教国の事務官を呼び、即時の討議開催を指示する。スレーイデも、騎士団の書記に声掛け、素早く打ち合わせ出した。ドーライも副教王の側近に呼ばれたらしい、困惑の顔のまま皆に付き従って宮殿の中へと入っていった。
 ……雨が強まってきた。
 ほぼ全員が、彩色柱をもつ宮殿玄関へと吸い込まれて行った。その頃、キジスランはようやく馬車から降りた。体を打つ雨が冷たいと思った。
 何も考えなかった。ハ―リジュの伝言の通り、今は休みたかった。そのためにはまず玄関に入らなくてはならないと思った。壮麗巨大な階段を登り、極彩装飾の長い通廊を進まなければならないと思った。自室までは途方も無く遠いと、途方も無く疲弊を覚えるだろうと、漠然と思った。
 足が進まなかった。ただ、雨が強まって来たと思った。

“徒労”という滑稽な単語が、一番相応しい。長い時間の長い努力には、何の意味も無かった。
『一々事前に報告をしてからの軍事遠征など、あるか? そんな馬鹿馬鹿しいものが、この地上にあると思うか?』
 ザフラ城館から帰城した翌日。カイバート新公はこう発したそうだ。とっくに招集していた傭兵と国軍兵、そして集まった住民達を前に、街の中心・マイダン広場で平然と叫んだそうだ。
『ラーヌンはラーヌンだ。他国に指図を受ける必要は無い。ラーヌンは常に拡張してゆく。拡張をしていかなければ、先へと進めない。広い世界は見られない』
 そして出陣していった。端から外交協定を遵守する気など皆無だったのだ。
 ――この無礼極まりない罰当たりに対し、同盟側は素早く懲罰を議決する。
1・リンザン教王の名による、ラーヌン公への信仰破門宣言
2・ラーヌン公国への軍事行動を公式発布
3・ラーヌン公が軍事侵攻で得た土地を、軍事侵攻によって奪回
4・ラーヌン公国の公都・ラーヌンへの軍事侵攻
 これを段階を追って実施することが、決議された。その翌日には、第1案『信仰破門』が実行されたのだ。
 だが破門も、ラーヌン公カイバートには大して効かなかったようだ。木で鼻を括ったような数通の返信が、のらりくらりとリンザン教国に送られてきただけだった。
 次は、第2案『対ラーヌン公国への軍事行動の公式発表』の段階だ。
 ちょうど冬が始まった頃合いだった。

               ・      ・      ・

『ラーヌン公国へ軍勢が攻め込むらしい!』
 それを聞いた瞬間、
「もうカイバート様はリンザン教王様から信仰破門っていう恐ろしい罰を下されているのに? それなのに? さらに?」
公妃マテイラは驚きと不安を隠しきれない顔になった。
「『破門なんて気にしなくていい』って、『そんなの建前だけの問題だ、一応謝罪の書簡は送っておいた』ってカイバート様は言ってたけれど、その謝罪が良くなかったの? 上辺だけの謝罪とされて、だからさらに怒ってしまったの?
 先日の小さな軍事遠征だって、殿は遠慮して戦闘は仕掛けなかったのに、それなのに、それでもまさかラーヌンに軍勢が攻めてくるの?」
 こう早口で言う間だけでも、ふっくらの美貌は怒ったり泣きかけたり同意を求めて皆を見回したり、様々な感情を見せつけてくる。大きくなった腹を重たそうに支えながら、室内に控えていた古参の侍女に詰め寄る。
 窓の外からは、今日も相変わらずハルフ広場の騒音が聞こえてくる。城内にも朝から、多くの人々が行き交っている。今日も白羊城はいつも通りだ。それなのにいきなり日常が変わってしまった事が、彼女には信じられない。
 それは、公妃の私室に集ってきた他の侍女達にとっても同じだ。誰もが突然の出来事に不安と恐怖を感じて抑えられない。
「奥方様。とにかく気を静めて下さい。御子に障ります。まずは椅子に掛けて、ゆっくりと呼吸をなさって」
 皆が全く同じように眉を強張らせる中、最年配の侍女だけは何と落ち着きの顔を保っていた。
「私には外交の詳しい事は解りませんが、まさかいきなり白羊城が攻撃されるような事はありえないはずです。マラクを呼んできましょうか? 彼なら色々と教えてくれるはずです」
「だったらキジスラン公子の事は解かる?」
「キジスラン公子?」
「軍勢は、キジスラン公子の名の許にやって来るんでしょう? お前はあの公子が白羊城に居た頃を知ってるわよね、だから教えて。
 殿は、キジスラン公子との面会も問題なかった、公子も元気だったって普通に言っていたけれど、でも。
 もしかしてキジスラン公子の方は父殺しの断罪の事で、まだ殿を許していないの? それともあの公子は、昔から殿を嫌っていたの? だとしても自分の生まれ育った国を攻めるなんて、そんなに薄情な方なの? 恐ろしい方なの?」
「さあ……。あの赤毛の公子がここにいた期間は短かったですし……。とても無口で、取っ付きの良ろしくない方で、私もほとんど接する事がありませんでしたから……。御父上であるアイバース公とは仲がよろしかったようですけれど。マラクも仕えていましたが、公子に見捨てられた挙句に一時は投獄されたりと、さすがにあまり語りたくはないんじゃないかしら……。あとは――」
「あとは?」
「――。先の公妃に御訊ねになれば……」
「タリア夫人に?」
「あの方とは、公子も仲がよろしかったようですから」
 こんなに不穏感に満ちた室内なのに、それでも何人かの侍女達が静かな陰湿な笑みを作った。
 マテイラにはその意味が解らない。聖女の御配慮と御加護なのか、彼女はいまだにその噂を耳にしていない。

 タリアは、ザフラ城館に居た。
 結局彼女は、ザフラ城館に居ついてしまった。唐突の転居だったが、この事を気に留める者はいなかった。元々白羊城内に、彼女の存在感など無かったのだから。
 唯一の例外は、マテイラ公妃だ。
 マテイラだけは一度お会いしたいと、是非会ってお話をしたいと何度か使者を送ってきた。だがそれも断り続ける。マテイラこそは、彼女がもっとも会いたくない存在だった。誰とも会いたくなかった。それなのに。
 ……初冬の鬱陶しい天気の日。がらんと調度の無い空間に、大声が響いた。
「キジスラン様が攻めてきます!」
 マラクがザフラ城館に現れたのだ。いつもの通りの大袈裟な表情で叫んだのだ。
「まだ聞いてませんかっ。聞いてませんよねっ。遂に来るんですっ、今朝正式に、キジスラン公子の同盟側がラーヌン領内へ軍事侵攻するっていう通達がきましたっ。ついに向こうが怒ったんですよっ。破門だけでは済まなくて、ついに軍勢が攻めて来るんです!」
「……。そうなの?」
「ラーヌンを軍勢が攻めるんですよっ。しかもその軍勢は、キジスラン様の名前で来るんですよっ、なんでそんなに落ち着いているんですかっ」
「そうね」
 確かに、自分でも不思議なほどに落ち着いていた。ごく普通に、横に座っている犬の背を撫でていた。邸内に入ってすぐの待合室の、冷えた空気の中だ。
 目の前でマラクは、露骨に興奮した顔をしている。すでに小僧とは呼べず伸び伸びと成長した相手の、しかし相変わらず子供のように慌てた顔を見て、可笑しくて、思わず場違いかにも微笑んでしまった。我ながら不思議にも。
「なぜ、わざわざ私の所へ知らせに来てくれたの? もしかしてマテイラ夫人に頼まれたの?」
「マテイラ夫人? 何ですか、それ? 知りません」
「だったら、なぜ?」
「だってタリア様は以前、キジスラン様と親しくされてたではないですか。キジスラン様が出て行ってからはずっと寂しそうで、そのせいか遂には白羊城を出てこっちに住んでしまったし」
「――。貴方も、私とキジスランの噂を信じているの」
「いいえ。俺は貴女様もキジスラン公子も、二人共がアイバース公を心から敬愛しているって知ってました。まさかそんな事をするはず無いっていうのは、俺が一番知ってます」
 真っ直ぐの眼で言う。タリアに遠い微笑みを作らせる。
「それでですね、タリア様。俺はこれからキジスラン様に手紙を書こうと思っています。だから貴女様も一緒に如何ですか?」
「手紙?」
「俺、以前に一度キジスラン様に手紙を送ったんです。キジスラン様の消息が分かった時です。
 俺は今、白羊城でカイバート公に仕えているけど、別に貴方様に敵意は持ってないって。確かに元はと言えば、貴方様に見捨てられて拷問まで受ける羽目にまでなったけど、でももう貴方様への恨みは残っていない、もし再会する機会があったら、昔のように親しくしたいって内容の手紙です。返事はありませんでしたけど。
 で、今回も、何とか戦役を避けられる道はないかって考えて。まあ無理だろうけど、それでも俺なりにキジスラン様に頼んでみようと思って」
 冷えた室温の中、熱を込めて伝えてくる顔は、極めて真面目だ。だがその真面目には勿論、小賢しい計算が含まれていた。
「本当に戦争になるかどうかは解らないけど、でもラーヌンと白羊城の為に、俺みたいな者でも、何か出来る事があったらと思って」
 今後の展開がどう動いても、自分だけは損を取らないよう、小利口に先手を打っていた。なぜなら、神だか運命の女神だかの思し召しは、読めないから。
 今後、実際に戦役になるのかならないかも、なったらどちらが勝つかも、その後に何か起こるかも、確実な事は何一つ無いから。
「ですから、折角ですから、タリア様も俺と一緒に手紙を送りましょうよ。キジスラン様もきっと貴女様のことを心配していると思いますよ」
 白羊城がどうなろうと知った事ではない。だが、自分だけは勝ち残る。その為に、キジスランとの関係を再開させとかないと。その為には、かつて公子と親しかったタリア夫人も巻き込んで、少しでも勝率を上げておかないと。
 そんな計算に気づいているのか、いないのか。
「タリア様、どうです? 俺の話を聞いてます?」
「ええ。聞いているわよ」
 タリアはただ、微笑んでいた。
 そこにはもう以前の、おどおどと人目を恐れる印象は無かった。穏やかに落ち着いた、物静かな存在になっていた。薄茶色一色の地味な衣装に、化粧も施していない顔だというのに、不思議とそこには静かな美しさが醸されていた。
 その姿が、すっと立ち上がる。
「ここは冷えるわね。暖炉の有る部屋に移りましょう。お腹は空いている?」
「良いんですかっ、心配ではないのですか?」
「私はもう、白羊城を出たから」
 答えた時、白羊城を出た日の、あの肌寒かった空気が記憶を過った。
 なぜあの日、白羊城を出て、ここに来たのだろう?
 その時の気持ちを思い返そうとして、自分でも解らない気がする。ただずっと、白羊城に居たくなかった気がする。たまたま“ザフラ城館で会談”という単語を耳にした気がする。そこがアイバース公の愛人の居館だったとか、キジスランが来訪するとか、そんな事は関係なかった気がする。
 白羊城に居たくなかった。そこに居る人々と会いたくなかった。――それだけだった気がする。
「違いますよっ、白羊城の事じゃありません」
「そう? じゃあ何?」
「キジスラン様の事ですよ。本当に、どうして気にならないんですか? 心配じゃないんですか?」
「……。どうしてでしょうね」
 これも、解らない。どうして? 
“私が一番愛したのはアイバース公で、次が貴方でした”
 あれは、真夜中? 何年前の?
 あの時は、キジスランの帰還を白羊城で待つと、心底から思った。だが。
 ――白羊城には、時間という現実ばかりがあった。当てにならない約束を信じ続けられるほど、自分は強くはなかった。自分の場所が無い辛さの方が、じりじりと心を占めていった。長すぎる時間の中で、想いはいつの間にか、少しずつ、霧散していった。
 だから、ようやく安らぎを得られた今になって、またあの頃を想えと言われても……。もう微笑むしか……。
「……。外は嫌な天気ね。今年も冬が来たわ。ラーヌンの冬は灰色で、憂鬱で、本当に嫌い」
「タリア夫人?」
「また雨になりそうだわ。城から一人で騎乗してきたのなら、お腹が空いているでしょう? 何か食べていって」
「……。はい」
 マラクは素早く察した。
 つまり、この夫人にはもう、キジスランは無関係らしい。という事はつまり、自分にとってもこの人は接する価値は無いって事だ。
 もう追求はしない。代わりにマラクは、見事な愛嬌の笑顔になった。
「凄く空腹です、タリア様。羊は食べられますか? この辺に来るのは初めてなんですけど、道中で羊を一杯見かけて、そうしたら無性に食べたくなってしまって」
 さあ、もう用は無い。さっさと美味しい羊を食べて、食べ終わったらさっさと白羊城に戻ろう。
「この辺りって他に美味しい料理はありますか? 葡萄酒は作ってなさそうですよね?」
「そうなの。残念だけど葡萄酒は他所からの物よ。それでも良い?」
 また穏やかに笑い、足元の犬も嬉しそうに尾を振る。二人と一匹は、調度品の無い通廊を歩み、共に居間へと向かって行った。館の外は今にも雨が降り出しそうな、肌寒い灰色だった。

 やはりカイバートはそこに居た。
 雨が降る直前の、霧のかかった屋並みと田園を見ていた。鳩の羽毛と埃が溜まった、いつもの場だ。冷えた空気と鳩の鳴き声の中だ。
 と。鳴き声が止まる。
「やっぱりここに居ましたね」
 空と同じ、灰色の長衣姿で現れた。息切れしながら階段を上がり切ると、イブリスはそのまま主君の横に立った。
「あの時も、ここで会いましたね。覚えていますか?」
「あの時って何だ?」
「キジスラン公子が貴方を告発してきた時です」
「そうだったか?」
「下も、あの時と同じです。広間にはもう大勢が集まっていて、騒然となっていますよ。戻って、同盟側のラーヌン進攻の件についての所信を述べなくて良いのですか?」
「騒がせておけばいいさ」
「そう言うと思った。やっぱり同じですね」
 イブリスは笑む。そして両手で運んできた瓶と杯を見せた。
「今日はまだ大量の政務が残ってますから、軽い出来の品ですよ」
「イブリスという名の者こそは、聖者達に褒められよ。祝福されよ」
そう言い、にんまりの顔で蒸留酒の杯を受け取ったのだ。
 ……今日もあの時と、いつもと同じだ。
 真下のハルフ広場にも、そこから南へと延びる大通りにも、多くの人々の姿が動いている。様々な声や音が混ざり合い、高い鐘楼の場まで響いてくる。
 杯を口に運びながら、カイバートは前方から霧雨が近づいてくるのを見ている。いつもと異なり、長い無言を保っている。
「ヒス城塞へ出陣したものの、攻撃せずに停戦交渉で帰還するとは、貴方としては大人しい軍策を取りましたね」
「単なる延期だ。遠征計画を中止した訳ではない」
「それで。失策を取ったと思っていますか」
 怒るか? 一番嫌いな失策・失敗と言う単語に。
「いや。今回はこんなものだろう」
「不満ではないのですね」
「同盟側だって阿呆じゃない。対抗自体は予想していた。だが、連合の所帯だけに簡単には利害が一致しないだろう、対抗するにすると時間がかかるだろうと踏んでいたんだがな。正直、こんなに素早く動いてくるとは思わなかった。よほど有能な奴が主導しているんだろうな」
「私も同意見です」
「だがそんな事を考えても意味はない。もう現実は進んでいる。こっちもさらに対抗するだけだ。――とっくに対抗策を練っているだろう?」
「ええ。案は複数有ります。レイバール国の密使からの報告も、悪くない手ごたえですよ」
「障害なんて何時でも幾らでも出る。全部乗り越えていけば良い」
 ごく自然に、当たり前に言う。風に流された霧粒がつく顔はいつも通りに、はっきりと強い意思を示している。
 この男に仕えて数年だ。国を護るのではなく変ることを優先する質に、自身の欲求を堂々と優先させる質に、新しい君主像を見た。この男と組み、共に物事を変えていく事に、愉しみを覚えて来た。
 ザフラ城館での弟公子との接触にも、問題はなかった。この兄弟間には何かしらの心的葛藤があるのではとの不安は、杞憂だったらしい。酒を飲む横顔には変わらず落ち着きを感じさせる。芯を感じさせる。
 その芯の強さで、この先もどこまでも視線を伸ばし、いよいよ幸運の女神に愛されるのだろう。自分もまた、この男の横で共に世界を作るのだろう。それこそが、自分に女神が与えてくれた幸運だろう。
 ――イブリスに思わせた。迫りくる霧雨に世界が覆われるまでの、静かな、幸福な時間だった。
「雨が降り出しましたね」
 存分な静寂を味わった後、ようやくイブリスは発する。
「お見せしたい書簡があります。そろそろ中に入りましょう。霧粒が冷たい。空気がかなり寒くなってきました」
「そうか? 全然寒くないぞ。朝からずっと暑い。今も暑いくらいだ」
「いくら何でも暑いという事はないでしょう? 貴方は朝から夜までいつでも動き回り過ぎているから、暑くんですよ」
「昨日今日あたりは特に暑くて、腹が立つ。まあこのまま季節外れの天気が続き、その果てに奴らの出陣が遅れる事態でも起れば、少しは神に感謝してやるんだがな」
「貴方はリンザン教会から破門されてますよ。神きっと、貴方の感謝も門前払いしますから」
 軽口が愉しく、素直にイブリスは笑った。蒸留酒の杯を置く、二人並んで歩み出した。狭い急階段に入るや、空気は滞って一層に冷気と湿り気を帯びていた。
「ほら見ろ、やっぱり酷く暑いじゃないか」
「そうは思えませんよ。どうも貴方とは肌感が合わない」
「貴様は幽霊に近いから寒がりなんだろうよ。今日が寒いなんていう奴は、裸に向いて塔から吊るしてやる」
 カイバートは延々と、他愛なく喋り続ける。階段を下るイブリスに、心地よい笑を造らせてゆく。
「貴方といると、本当に愉しい」
 雨は、徐々に強まり出していた。

            ・      ・       ・

 空は重たく、空気も湿っていた。
 リンザンの街の郊外にも、冬が始まっていた。今年は夏が暑く、長く、秋が極めて短かいという、奇異な季節感だった。そんな気候のせいだろうか。イーラ共和国では疫病の兆候が現れたらしい。
 嫌な話だ。十数年前、自分が子供の頃にも、リンザンで酷い疫病が流行った。自分の両親もあっけなく神の御許へ召されてしまった。あの年もずっと異様な天気が続いていたのを覚えている。
 あまり長くは公子の許を離れたくない。用事は早目に済ませたい。だから街道では無く、丘陵を突っ切る脇道を選んだ。急坂ばかりの悪路に難儀し、馬が大量の汗と疲労を示し出した頃にようやく、目的地の城門へと達した。
「申し訳ありません、馬に水と餌を貰えませんか」
 すぐに番兵に頼む。無理をかけたことを馬と神に詫びる。そして、出迎えてきた獄吏へと、丁寧に頭を垂れた。
「御無沙汰をしています。本日も、ザカーリ副教王猊下のご下命により訪問しました。貴方の上に神の御加護あれ」
 ……ドーライの訪問は、今回が三度目だった。
 もう城内の造りは覚えている。一人で暗く狭い通路をたどり、急勾配の階段を昇ってゆく。
 その頃にはもう体の奥が強張り出していた。真昼でも陽の射さない石段が気に障り、自然と守護聖者の名前を唱えていた。登り切り、足を止めて、右手を向き、最奥の部屋が視界に入った途端だ、
「早く……! 早――早く――!」
 獣じみた声が響いた。
「早く――来い――――!」
 緊張が身に走る。だが怖れ無い。己の使命を確認する。頑丈に鋲打たれた扉の前まで進み、ゆっくり告げる。
「久しぶりです。元気でしたか」
 扉の覗窓から中は覗かない。それは獄吏から厳禁されている。自覚もしている。扉から少し距離を取り、親愛を込めて述べる。
「キジスラン公子の現状を知りたいと思います。ですから、伝えます。
 公子は引き続き、騎士団の一員として職務にあたっています。変わらず宮殿の中で過ごしています。身に危険を覚えるような事態は、何もありません。不安はありませんので、心配しないで下さい」
 魔物の叫びが止まり、低い唸り声じみたものへと変わった。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「――無事――」
「ええ。そうです。キジスラン公子は、リンザン宮殿内で自由に、安全に、落ち着いて過ごしています」
 安堵の吐露か? それとも嗚咽なのか? 自分が生命を捧げて護ってきた主人の安寧を、呻いて喜んでいるのか? だとしたら、とても本当のことは――『いいえ。本当は今、公子は、感情を凍らせてしまっています。反応を失くしています』とは、伝えられない。
 ……かつて、一度だけキジスラン公子に訊ねた。
 ザフラ会談の少し前だ。夏の暑さを引きずる秋の陽の下を、リンザン宮殿の別棟へと向かうために、上階のテラスを通っていた時だ。共に歩く中、散々に迷いを覚え、だがやはり伝えずにはいられなかった。勇気をもって告げた。
「――。貴方様の従者の現在について、御存知でしょうか。
 今、酷い状況で投獄されています。言葉にするにも躊躇を覚えるような状態で、獄内に繋がれています」
 公子の足が、止まった。
「余りにも悲惨で、不憫を覚えます。貴方様に長年仕えた従者だったと聞いていますが、救済のために動かなくてよいのですか?」
 テラスに射す濃い陽射しに、顔の陰影がくっきりと浮かび上がった。それでなくても硬い表情がさらに固まったのが分かった。
「気を悪くされましたでしょうか。申し訳ありません。しかし、このままでは余りにもと感じました。もし私に何か出来る事があればと思い、出過ぎた事を口にしてしまいました。お詫び致します」
 呻きに似た息が漏れた後、首を僅かに動かし、目を向こうに逸らしてしまった。為に顔の陰の線が際立ち、唇だけが無言で動くが読めてしまった。
“死んでくれ”。
「……」
 一体この主従の間に、どの様な闇が有ったのかは知らない。なぜ従者が魔物の力を持ったのかも。今、公子が従者にどの様な感情を抱いているのかも。
 ただその時、強く眩い陽射しの下、純粋に、心から感じた。二人共が“可哀そうだ”と。“神よ、この人達を憐れみ給え”と。
 ――
「貴方は神に祈りなさい。それが貴方の魂が救われる、唯一の道です。貴方の呪われた力を神が御業をもって取り除き、浄化して下さることを求めて、祈りなさい」
 気が付くと嗚咽は止まり、獄内は静まっていた。
「貴方は本来であれば、教会が定めたる尊法に則り極刑されるべき罪を負っています。しかしながら、いまだに処されずにこのように地上に留まり続けている。これも、絶対なる天上の存在の御意思でしょう。己の身に宿ってしまった罪科を深く悔いる時間を、貴方に与えているのでしょう。それに貴方は、祈りを持って応えるのが正道です」
「本当か」
「真実です。祈りにより貴方の救済――」
「本当に、キジスラン様は今、平穏なのか?」
「え?」
 咆哮でも嗚咽でもない。普通の声で言ったのだ。
「真実を言え」
 チリチリと空気の触覚が波立った気がする。
 嘘と分かったのか? 隠すべきなのか? 隠しても無駄なのか? まさか今この魔物は、自分の心を読んでいるか? だとしたら今思っていたあの記憶も……、
 “死んでくれ”。
「早く言え」
 空気が重さを帯び出す。ザカーリ別邸での悪夢の記憶が過る。見るだけで二人の男を殺すのを目の当たりにした、あの時の恐怖感が。――いや。
 いいや。恐怖は、意志と信仰の許に飲み下せるはずだ。天上の光を信じろ。恐れるな。
(栄光たる絶対者よ、光たる御業をお示し給え……)
 二歩を前に出た。覗窓から中を真っ直ぐに見た。
 そこにいたのは、魔物では無い。人間だ。以前よりさらに痩せた、限界まで痩せた人間だ。全身の骨が浮き、四肢を鎖でつながれ、汚れに塗れた、獄吏からも見捨てられ、誰にも見られずに放置されて命を終えるだろう、弱い、哀れな人間だ。
(憐れみ給え……)
 皮だけとなった顔から、眼が夢中で自分を見ている。敵意なのか? 解らない。だが必死で見てくる。すがり付いている。
(憐れみ……救い給え……、どうか……)
 それは、ただ救いたいという想いだ。魔力がどこからどう生じたかなどは、どうでも良い。純粋な憐憫だ。
 助けないと。自分が信仰の力の許に、この者を神の慈悲へと導かないと。
「貴方を、救いたい」
「……。本当か」
「はい。貴方が、気の毒だ。貴方の力になりたい」
「本当に、同情してくれるのか」
「はい。だから貴方には隠さず、真実を告げたい。
 キジスラン公子は先日、カイバート公と面会をしました。会って、お二人だけで何やら話し合われました。その内容は解りません。ただ、公子の心には、かなりの負担がかかったようです。それ以降ずっと悩んでいる御様子です。今も、カイバート公との軍事衝突を前に、相当に苦悩しているように見受けます」
「――」
「聞いていますか? 大丈夫ですか? どこか体が痛むのですか?」
「――。会ったのか。あの男に」
「ええ。カイバート公に、会われました。カイバート公の事を、知りたいですか?
 あの公がずっと領土の拡大を続け、ゆえに他の国々との間に緊張が生じているとは、先回に話した通りです。和平条約も破り、リンザン教王からは破門を下されました。リンザン教国とその同盟側は、ラーヌン公国に武力をもって侵攻することを決定したようですが、私の見るところではおそらく実際の戦闘にはならず――」
「あの男に――っ」
「どうしました? 私の知っている事は全て話ます。公の何が知りたいのですか?
公の私的な部分についてならば、結婚後、公妃との仲は極めて良好です。確かまもなく御子――」
「あの男に――会い――! ――それ――――!」
「落ち着いてっ。言って下さい、カイバート公がどうしましたっ」
「――会っ――――っ、あの――――を――――!
「ですから何をっ、貴方はどうしたいのですかっ」
 突然、叫びが止まった。
 唐突に全ての音が消え、完全な静寂になった。
「死んでしまえ」
「……」
 ――喉が閉じるのを感じた。
 喉が少しずつ絞まり、息が苦しい。聖者の名を言おうとして、それが出来ない。
(天上の絶対者を讃えよ。その御業は善き信者を導く。信者を光に輝く道へと導く――)
 懸命に唱える。その間にも喉は詰まり、息が苦しい。空気が欲しい。
(その御業こそは救いを示す。救い給え、――私を。――私の、信仰の――)
『信仰』の単語とともに、様々な感情……同情……憐憫……疑問……、混乱……が一塊となって押し寄せる。身を圧してくる。感情は一塊の恐怖となり、その間にも喉は締まってゆく。
 嫌だっ。死にたくない!
 自分は死にたくない。父と母の許へ行きたくない。嫌だ!
 恐慌と苦痛に、死への本能に圧される。でも、だから、それだから信じる。信仰だけにすがる。それしか抗ずる術を知らないから。
(救い給え! 信仰の力をもち――救いを――を――私――――)
 自分の為に思う。そしてこの者の為に思う。ただ思い、抗ずる。欲し、信じる。
(私と、この者を――この者を救い給え――!)
 ふっと喉が開き、苦痛が霧散した。
 世界は滞った静寂だった。それを破るように、遠いところから野犬達の吠え声が聞こえた。夢中で空気を求める肺が満たされるまでの長い時間に、ずっと聞こえていた。
 ……ドーライは、思った通りを喉から発した。
「栄光の絶対者は、救い給え。この者を」
 ルシドはまだ自分を見ていた。血走っていた憎悪の眼は、もう光と感情を失っていた。
 そして唇が動き、再び同じ事を無音で言ったのが、解かった。
『死んでしまえ』

 冬が進み出す。
 人が死ぬ。


【 その三日後に続く 】
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