第11話

文字数 11,668文字

11・その直後

 鐘楼からの長い道のりを経て自室に戻ると、キジスランは自らの手で扉に鍵をかけた。
 部屋の右手の奥、素っ気ない壁面にかけられている聖キージュ殉教画の前まで進むと、血まみれの聖者の絵を壁から下ろす。慎重に額から外す。
 すると、もう一枚の布絵が現れた。法悦顔のままに殺されていく聖者に代わり、無表情の聖天使マラクが現れた。
 ここまでをマラクは――天使ではなく被創造物のマラク少年は横で、無言で見ていた。そんなちゃちな隠し方でいいのか? とは思っても、口には出さなかった。その代わり、絵が窓際の陽射しの下に運ばれるや素早く画面の一点を指さし、早口で発した。
「ほら、ここだよっ。天使の足元。びっくりして飛び跳ねてるこの茶色の犬。俺が描いた方がよっぽど上手いよ、この下手糞な犬。
 俺が会ってきたのは、若い頃にあそこの寺院に住み込んでたっていう寺男の爺さんで、この犬、実は爺さんが昔飼っていた仔犬なんだって。だから爺さん、この絵の事を覚えていたんだよっ。勿論、この絵を描いた奴の事も! 
 キジスラン様! 証人が見つかったんだよっ、ついに確証が取れたんだよ!」
 興奮気味の大声で叫んだのだ。
 画面の右側――懲罰の剣を振り上げる聖天使と天軍天使達。
 画面の左側――傲慢の報いを受ける背徳の王ダリスと宮廷人達。
 突然の神罰に恐慌に陥りながら逃げ惑う罪人達という、聖典外伝中の地味な逸話だ。凡庸な主題に基づく、四十年以上も前に描かれた凡庸な絵だ。この一年間、見尽くす程に見続けてきた稚拙な画面だ。
 画面自体は、どうでも良い。問題は、この絵の裏側だ。裏側の下部に走り書かれていた、字余りの四行詩だ。

《 地の底の炎が天までを貫く時
  地上は全て焼けてただれ、滴り、闇を濡らす
  硫黄の臭気が西へと流れさった後
 人々は新たな都が天より降臨するのを見届ける 》

「この詩って、何だっけ……? どこかで聞いた気がするけど。はっきり覚えてないけど、でも確か、いわくのあった……確かまずい詩だったような……?
 調べてみないと解らないけど、調べてみましょうか? 解ると思うから」
 あっさりと言った。
 キジスランは、リンザン教古語にあまり詳しくなかった。だから老サウドが殺された直後、託された絵の裏に書かれた小さな語句を正しく読んだのは、たまたま横にいたマラクだった。しかもこの句からリンザン教に絡む飛んでもない背景までを調べ上げたのも、小生意気と可愛げとを持ち合わせた小僧・マラクだったのだ。

 ……始めたのは、一年前の春の終わりの頃。
 怪我が回復せず、ルシドが床から起き上がれなかった頃。そのルシドに代わり、なし崩し的にキジスランの従者を務めるようになってすぐの頃。
 まずはマラクは、四行詩の出典を調べ出したのだが、
「解りましたっ、簡単でしたっ、でも大変な結果でした!
この詩、昔トライー師が書いた文です。『神の国の地上の実現』っていう異端禁書の冒頭に書かれていた詩です!」
 白羊城を飛び出してからたった数日後だ。戻って来るやマラクは、大きく眼を輝かせて叫んだ。
「トライー派です! 知ってますよね? 名前だけでも聞いた事ありますよね?
 トライー派って、今から四十年ぐらい前に、リンザン正教会から異端って認定された会派です。一時は信者数も凄かったけど、異端認定された途端、あっという間に消えちゃった背教信仰ですよっ。この絵は、トライーの基本信条に基づいた絵なんですよっ」
 ここからマラクは、たっぷりの身振り・手振り・表情を織り込みながら説明を始める。驚いたことに、複雑に絡み合った教会史やら信仰教義やらの話を、いともすらすらと、解りやすく、しっかり要約してキジスランに解説していったのだ。
 四十数年前、トライーという乞食僧が唱えた、過激な清貧信仰……、
 その急激的で熱狂的な流行……、
 危機を覚えたリンザン教王と教会組織……、
 正教会の公会議での異端認定……、
 トライーの逮捕・火刑……、
 あっという間のトライー派の消滅……。
「言いたいのはですね、この絵を描いた画家だか聖職者だかは、トライー信者だったって事です。異端の認定は永久に有効だから、今もやばいって事です。もしこの絵が公になったら、即座に異端火刑台送りになるって事です。
 サウド様はこの絵を極秘に、厳重に保管していました。なぜ?って考えれば、この絵が極めて重要だからです。とにかく今貴方が調べるべきは、誰がこれを描いたかって事です。分かりました?」
 端的にまとめた。ただの小僧からはおよそかけ外れた知識を披露しただけでは無く、キジスランに進むべき方向までを、マラクは示したのだ。
 ……陽射しの眩い夏が始まった。
 マラクは絵の細部を、コツコツ調べてゆく。画中に描かれている制作年や、小さなモチーフや、絵の具の種類などを手掛かりに、あちこちの教会・庁舎・工房へと次々と、細々と立ち寄っていく。
「創作の年まで書き込むなんて、迂闊すぎだよなあ。聖天使マラクを祭る教会や寺院に当たりをつけて、この創作年で調べて、どこの染料商家の絵の具を使っているかとかを調べていけば、どんどん絞り込まれてくっていうのに」
 邪魔くさい前髪をかき上げながら、調査の現状を着々と報告してゆく。すぐまた夏の陽射しの中へ飛び出してゆく。根気よく根気よく歩き回り続け、調べ続けてゆく。
 ……空気が湿度を帯び出した。秋へと進んだ。
 伸びた前髪をようやく結んだマラクは、もう一度ここまでの全容と己の導いた推論とを、キジスランに説明した。
「サウド様はこの絵を、貴方への贈品にした。貴方と同盟を組んだ日に。
 って事は、この絵は貴方の武器になる物なんですよ。って事はおそらく、間違いなく作者は今、世間に影響力を持つ重要人物なんですよ。サウド様はこの絵を使ってその大物に圧力をかけ、貴方の味方に付けさせる狙いだったんですよ。
 で。その大物だけど――。
 実は、何となく浮かび上がってきましたよ。ちょっと信じられない人物。リンザン教会組織の中の、大物の人物!
 でもまだ確証が無いから、もう少し時間を下さい。もう少し遠くまで回ってきます。もうひと頑張りして調べてきます」
 言い終えるやまた即座、元気よく白羊城から飛び出してゆく。
 ……冬。小雨がちの灰色の空の下。
 マラクは分厚い外套姿で走り回る。
 彼は、ラーヌンのみならずティドリア域の多くの街を訪れ、多くの人と会い、話し、検証を重ねてゆく。時折に帰城してはキジスランに現状を報告し、キジスランから充分な金貨と人伝手を受け取り、また出立してゆく。
 これを何度か繰り返し、繰り返し、長い冬は終わり、光の春が始まり。そして。
 ……今日。春の盛りの、陽射しが強く射し込む場。
 絵と、じっと待つキジスランの目の前だ。
「確証が取れたんだよ! ザカーリだったんだよ!」
 マラクは興奮に顔をこわばらせて叫んだ!
「この絵の作者は、やっぱリンザン正教会の副教王・ザカーリだったんだよ!
 ザカーリは――、今、教会組織で教王に次ぐ地位の副教王猊下は、まだただの聖職者だった若い頃にトライー派を信じてて、だから異端書『神の国の地上の実現』に基づいた絵を描き、冒頭詩まで書いてしまったんだよ!
 凄いよ! 貴方がこの絵を世に出した途端、ザカーリは異端者として火刑台送りだよ! つまり貴方はこの絵一枚で、猊下を思いのままに使えるって事だよ! 黙ってないでもっと喜んでよ!」
 稚拙な懲罰天使の絵。宗教史にありがちの異端話。サウドの残した謎かけ。それを、一年という時間をかけて結び付けることに、マラクは成功したのだ。
 今、目の前でマラクは笑っている。十四歳という年齢らしく子供っぽく興奮し、いかにも褒めてくれと言いたげな顔で見つめて来る。
「ザカーリ猊下自身もこの危ない絵の事を、きっとずっと探したはずです。必死になって。でもまさか回り回ってラーヌンの第二公子が持っているなんて、聖女の股の下心ほども思ってないだろうから、――ああ、御免なさい。いくら何でも下品過ぎですね、
 とにかく、これで貴方は何でも出来る! 勝てる! 兄貴じゃなく貴方が次期公位に就けるんですよ!」
「――」
「あれ? キジスラン様、どうしたんです? 急に気難しい顔にならないで下さいよ。今の言い回しに怒ってるんですか?」
「――。いや」
 中途半端な間の後、ようやく、ゆっくりとキジスランは口許を引き上げて言った。
“貴方は勝てる、公位に就ける”。
 その言葉に、確かに低く淀むものが生じてしまった。胸底に僅かに、鈍い痛みじみたものを覚えてしまった。だがそれも、
「どうしたんですよ。貴方はこんな、聖者キージュも顔負けも最高の福音を貰ったっていうのに」
 春の透明な陽が射し込んでいる。そしてマラクは笑っている。
 透明な陽射しの中。明るい笑顔の前。一度、深く呼吸する事によって、気持ちは落ち着きを取り戻す。
「それから俺にも、もっと感謝を見せて下さいよ。ねえ、お願いしますよっ」
 本当に、図々しくも明るい、楽しい笑顔だと感じる。見ながらふと、思い出す。あれも春だった。この自室だった。今と同じ、眩しいほどに明るい陽射しの射しこむ昼過ぎだった。……
『俺は小さな餓鬼の頃にベア通りの教会前に捨てられて、そのまま教会に拾われて育ったから』
 ちょうど一年前、初めて白羊城へ呼び出した日。あの日のマラクはいかにも怯え切った顔だった。敬語も無い猛烈な早口で、庇護と同情を買おうとする態を丸出して、いきなり語りだした。
『ずっと下働きをさせられて、散々殴られて、でも殴られながら一生を終わるのは絶対に嫌だった。
 だから、教会に一人だけ聖典の良きリシア人みたいに親切な坊さんがいて、その人に必死に頼み込んで、何とか読み書きを習って夢中で身に付けて、それからはこっそり書庫の本を必死に読みまくって。だってきっとこの先、聖者の御加護の許に何かの役に立つと思ったから。
そうしたら、本当にそうなった。全くたまたま偶然、サウド様の目に留まった。聖女様の幸運のお陰で、あの屋敷に勤められるようになった。
 ――そうしたら、あの事件で。貴方と出会って。
 本当に本当に、聖者様・聖女様の色んな偶然が重なって貴方と出会って。で、今。この白羊城に来て――』
 いつまでもいつまでも身上話を延々と続けた。その果てにマラクは、キジスランの許で働き出すことになったのだ。
 途端、自分語りの通りだ。彼は驚くような知識(特にリンザン教会関連について)と、驚くような行動力とを発揮し続けた。結果、行き詰っていたキジスランに前進の契機を作ってくれたのだ。加えて、
「おめでとうございます! 聖キージュの次ぐらいの万能を得たキジスラン様! でもあんまり強運に恵まれると、悪魔が嫉妬して近づいてくるかも知れませんよ!」
 ごく目の前、自分の冗句に自分で笑っている。本当に人懐こい、心から豊かな感情を表す顔だ。
 気づくと、自分も影響されている。一年を経て、この少年に対しては自然に表情が出せるようになっている。たった今も、素直に相手に問いかけられる。
「マラク。聖典中の天使マラクだが――。確かその役割は、懲罰だけではなかったな」
「そうです。道に迷う人を導いて助ける役割もあります」
「名前の通りだ、マラク。お前は私を導いてくれている。助けてくれている」
「え?」
「有り難う。感謝している」
 素直に言った。言うことが出来た。
 真昼の光の中、自分の表情が柔らかくなっているのが分かった。この人懐こい少年との遭遇が、新しい空気を呼び込んだ。新しい道を拓いた。大きな幸運になった。そうキジスランは確認し、自然に笑むことが出来る。
 がちゃり。
 扉の鍵音に、二人は同時に振り向く!
 緊張の沈黙は呼吸三回の後、マラクの怒鳴り声によって破られた。
「何で名乗ってから入んないんだよっ、驚くだろう!」
 扉口でルシドは、憮然と立ち尽くしていた。目の中に老女のように神経質な怒りを見せつけたまま無言のままだった。
 空気が気まずくなってゆく。それに全く気付かずマラクがさらに叫ぼうとするのを、キジスランが先回った。
「マラク。今日はもういい。厨房で何か食べてから帰れ。それとも今夜は城に泊まっていくか?」
「いえ、街に戻ります。政庁の文書庫に行って、当時のリンザン教公会議の正確な記録があるか探してみます。食事は貰いますけど。――それから、キジスラン様、
 この絵。やっぱりもう少しマシな隠し方の方が良いですよ。俺が貴方の兄貴なら、あの鋭さなら、一番短い祈祷句を唱える間に見つけて奪い取りますよ」
「そう思うか?」
「貴方の巻き添えで怖い目に合うなんて、俺はもう二度と嫌だから」
 無神経と人懐こさそのものの台詞に、思わずキジスランは苦笑した。
「あと、とにかく早くザカーリ猊下宛てに書簡を送って、接触の伝手を作っておいて下さい。とにかく早い方が良いです。早く、前広に動き出しておかないと、何が起こるか分かりませんよ。慎重過ぎると悪魔が穴を掘るって、どっかの諺にもありましたよ」
 この言葉に、再びキジスランの表情が強張った。それにマラクは勿論気付かず、さっさと部屋から出て行った。そして勿論、ルシドは気づいた。室内には無言の二人が残され、一転の静寂となった。
 ……明るく暖かい室内で、空気が変わり出してゆく。ゆっくりと、ひんやりと、冷気に沈み出してゆく。
 気難しく張りつめた眼で、もう一人の従者・ルシドが自分を見ている。自分の表情も低く、重くなってゆく。
 見ている。――あの一年と少し前の夜。揺れる灯火の中。自分の顔を触った血の指の感触を思い出す。
「――ルシド。用は何だ」
「バンツィ共和国のハ―リジュ外交官が、本国から戻りました。貴方宛ての書簡が届いています」
 右足を引きずる歩調で、歩き出す。
「ハ―リジュ外交官の意見には信用が置けます。別の筋からも調べましたが、確かに彼の進言通り、バンツィの有力者の一部は次期公位にカイバートが就くのを危惧しているようです。あの男の気質を引き続き危険視しており、将来、自国とラーヌンとの外交関係に困難が生じるのではと覚えているようです」
「――」
「お疲れですか? 報告は後にしましょうか」
「いや」
「今日、何かありましたか?」
「……。いや」
 右足を引きずりながら、近づいてくる。独特の足音が耳に付く。
 結局、拉致の際の傷は治り切らなかった。自分の迂闊で負わせてしまった不具への負い目が、心中に不快を呼ぶ。
 違う。不快の本当の原因はそれではない。
“いいえ。私は貴方の心は読みません。信じて下さい”
 相手の無言の眼が告げてくる気がし、嫌悪感が腹の奥を圧迫する。
“信じて下さい。私は、貴方の為に存在しています。何が有っても、貴方の為だけにです。信じて下さい”
 視線を避けるように立ち上がった。窓の許に進み、身を預けるよう外を見た。
 眼下では、春の盛りの陽射しが一層に増していた。今日もラーヌンは美しい。街は育ち盛りの少女のように、豊かさと生気に輝いている。その全景を見ながら、後ろ背のままキジスランは訊ねる。
「ハ―リジュ外交官は今、白羊城内に来ているのか?」
「いいえ。市内のバンツィ商館だそうです。明後日こちらへ来るそうです」
「タイールだが。彼はまだノラ城塞から戻ってこないのか?」
「タイール? そう言えばノラへ派遣されたまま、まだ戻っていませんね。城塞警護の勤務はもう終わっているはずでは? まだ戻らないという事は、急遽現地で何か別の勤務を命じられたのでしょうか」
「カイバートは? 今、どこだ?」
「――。え?」
 その時、キジスランは相手を見ていなかった。だから分からなかった。
 周囲の空気が重さを帯び、ルシドの眼の色が確実に変わり、そして、壮絶な皮肉を込めた薄ら笑いを作ったのだ。
「貴方様も良く御存知の通り、カイバート公子は一昨日から、東部の領境の視察に出ています。その姿を貴方が見たいと切望しても、私にもどうにも出来ません」
 瞬間キジスランは素早く振り向く。信じられないという目で相手を見た。相手の陰湿そのものの表情に驚いた。
「私はただ視察先の――! 今日の滞在先の確認をしようとして……。私が何を切望しただって――?」
「知りたいのでしょう? 姿を見たいのでしょう? ずっとそう思っていたのでしょう?」
「心を読むな!」
「何度でも言います。読んでいません。貴方の感情が揺れていると、勝手に感知してしまうのです。それは私自身にも止められません。
 今日、何がありました? アイバース公と会っていたようですね。御父上と話している最中にもカイバートの事を考えて悩みましたか?」
「――、ルシド、出て行け」
「貴方の執着があの薄汚い小僧の方に移ったのかと思いましたが、やはり違いましたね。相変わらずあの男の事を――ああ、……露骨な怒り……、貴方のこんな激しい感情は久し――」
「出て行けと言ったっ」
「確かに、さっき奴が言った通りだ。貴方は絵の件で、なかなか先に踏み出さない。なぜなら、一度踏み出してしまったらもう引き返せないと知っているからですよね? そうですよね? カイバートを完全に潰す道を進む事に、躊躇を覚えているからですよね? で。それで?」
 ルシドが露骨に笑う。
「それで結局、貴方はカイバートをどうしたのですか? 奴に何をしたいのですか?」
「出て行け!」
 皮相の笑を止めない。そして動かない。キジスランは相手に迫ると、その胸倉を掴んだ。力づく強引に引きずり通廊への扉に叩きつけた。
「いい加減にしろ! これ以上私を怒らせるな!」
 なのにルシドの方こそ、さらに上回る怒りを剥き出した。叫んだのだ。
「貴方には私が必要です! 貴方を公座に就ける為に、私は貴方に出会ったっ。その為に私は生きているっ。その命運を変えることは出来ない!」
「決めつけるな! 出て行け!」
「変えさせない! それが私の使命です、その為ならば何でもやります! 私にはそれが出来ます!」
「出ろっ、去れ! 魔物!」
 この一語に、ルシドの顔が壮絶を帯びた。言葉の通りに魔物じみた。キジスランは力任せに相手を室外へ押し出す。その目の前で扉を締め切る。
「だったら言って下さいっ、貴方はどうしたいんですか!」
 凄まじい大声でルシドは叫ぶ。扉を打ち続ける。
「答えて下さいっ、早く答えてみて下さい、答えないのは卑怯ですっ、キジスラン様!」
 扉を打つ激しい音が室内に響く。その音からキジスランは逃げる。扉から最も離れた場へ――陽の射す窓の方に向かう。再び光の中のラーヌンを見る。
 どうしたいかだって?
 赤い家並みも多数の尖塔もきらきらと輝くラーヌンを見る。その向こう側の豊かな色合いの耕作地を見る。
“これがラーヌンだ。俺の欲しているラーヌンだ”
 日没の夕光に、そう言った。一年と少しを経て、その言葉の通りに、あの男は着実に公国を手に入れてゆく。あの時とは異なり、今はもう自分を敵視すらしない。敵視どころか、見る事もない。存在すら忘れているかのように。
 その男を出し抜いて潰し、自分はラーヌンを手に入れるべきなのか? そうして母親の仇を取るべきなのか? それが神の許に進むべき正道なのか?
 街の全てが、真昼の色彩に輝いている。背後の日の射さない薄闇からは、
「答えて下さい! 貴方には答える義務があるはずです!」
扉を打つ音が続く。恐ろしい正論をもって耳を打ち続ける。
 息が締まる。息苦しさのまま、声に出さずに痛烈に叫ぶ。
(誰か決めてくれ! どうすればいいんだ、早く!)
 ……
 キジスランの問いに対する答えは、ほとんど時間を置かずに与えられた。
 春の太陽がゆっくりと没し、訪れた静かな夜。その夜半。
 ムアザフ・アイバースが発作で倒れた。

         ・          ・         ・

 その時。キジスランは部屋で、眠りに就く直前だった。
 突然の扉を打ち鳴らす音に、驚いた。一瞬一年前の夜を思い出し――“貴方の為なら、貴方の将来の為なら、体を切り刻まれることなど――”、あの時の生理的な不快感が、さらに半日前の口論の嫌悪がよみがえり、扉を開けるのに躊躇を覚えてしまった。ただ一本のロウソクが灯る室内で、しばらく動きを止めてしまった。
 扉を打つ音が止まない。深く息を吐いた後、意を決して扉へ向かう。腕を伸ばし、用心深く少しだけ開ける。
 そこに立っていたのは、血塗れの従者ではなかった。涙を滝のように落として激しい泣き顔を見せる、ラーヌン公付きの側仕えだった。
「――! ――っ、――!」
 激しい興奮と嗚咽の中に吐かれた言葉を、キジスランは理解出来ない。
 呼吸三回の間、無言になってしまう。それからようやく訝しがるような、それどころかどこか冗談じみたような口調で応えてしまう。
「嘘だろう?」
「いいえ! 聖者様! いいえ――公子! 事実ですっ、神の御名において事実なんです!」
「……」
「キジスラン公子! 早く! 早くしないと間に合わないっ。今すぐアイバース公の部屋へっ、早くして下さい!」
「――」
「早く! アイバース様が亡くなってしまう! 早く!」
「――」
 それでも分からない。分からないが、キジスランは取り敢えず出来る事をする。夜着の上に上衣を纏うと、部屋から出てゆく。
(アイバース公が亡くなるだって?)
 何を言っているんだ?
 だって、今朝会ったじゃないか。陽射しを浴びる鐘楼で、自分の真横に立って、共にラーヌンの街を見下ろしたじゃないか。見下ろしながら、自分の事を深く心配してくれ、心からの助言をしてくれたじゃないか。ほんの今朝の事だ。
 薄闇の通廊を独り歩いてゆく。側仕えは先に帰した。ルシドも居ない。自分独りの靴音が夜の通廊の壁に響き、その音が耳に付き、思考が上手く動かない。
『一緒に食事をとろう。明日来い。バイダの話はその時に聞く』
 言っていたのに。それが今死に掛けているなんて、一体何を言っているんだ?
 その時、薄闇の中にカイバートの姿が浮かんだ気がする。足を止めてしまう。冷えた緩い風が吹き、右手に持つ燭台の火が大きく揺れた。
 再び足を進めた時、それは早足になった。心臓を打つ鼓動が速まった。自分の足音が耳に付く。音はすぐに小走りに、瞬く間に駆け足に変わる。
 ラーヌン公の私室のある東棟までは、こんなに遠かったか? なぜ今夜の城内はこんなに静かなんだ? 皆今どこにいるんだ? タリアは? ジャクム将は? すでに公の許にいるのか? そしてカイバートは? 
 カイバートは今、遠地にいるのか? こんな夜なのに?
「キジスラン公子!」
 びくりと振り返る。城に頻繫に出入りしているリンザン教の聖職者だった。その老僧が息を切らせ慌てふためきながら左手の階段を登って来るところだった。
「すでに危篤に陥っていると聞いておりますっ。何とも突然な……っ。なぜ突然にこのような事が起こり――」
「どうして誰も箝口令を出してないんだ!」
 引きつるように叫んだ。突然の不当な叫びに慌てる僧には、二度と見向かない。もはや全力で通廊を走り出す。それでもまだ現実を受け入れられない。
(だって、今朝会ったのに――、食事をしようと、……明日、食事を――だから、
そんなことは有りえないのにっ)
 これは嘘だと感情が必死に訴える。嘘だ、悪質な間違いだ、だから確かめないと。だから燭台の炎を揺らし、キジスランは走る。長く長く延々と続く闇の通廊を、走り続ける。
 ついに前方に、ラーヌン公の私室が現れた。その重厚な扉の前まで達し、キジスランは一度立ち止まる。なぜか人を介してから入室した方が良いのか?などという下らない考えが浮かび、即座に打ち消す。
ブ ドウ葉文様の浮彫を持つ樫材の扉を、力を込めて押し開けた。素早く薄暗い室内へ視線を伸ばし、そして見捕えた。思った。
(ほら、やっぱり嘘だった。大嘘だった!)
 四つの柱が天蓋を支える大きな寝台の上。まさに父親は顔を横に向けて、駆け込んできた自分を出迎えた。真っ直ぐに見てくれた。
 ――
 喜びの分、現実は容赦なくキジスランを圧した。
 父親の見開かれた眼は、全く動いていなかった。その事実に気付くまでには、呼吸七回という、恐ろしい程に長い時間が必要だった。
「動かさずに、そのまま貴方が来るのを待っていました」
 寝台の横には、父親と長くにわたり手を携えて来た、スレーイデ傭兵隊長がいた。彼が低い、静かな、淡々の声で伝えた。
「私は、夕刻まで公と御一緒でした。酒を交わしながら歓談をしていたのですが、その時に軽い胸の痛みを訴えられて……。すぐに医者を呼んで診させ、薬湯を飲まれ、その上で貴方様を呼びましょうかと声掛けたのですが、明日朝に会うからよい、今日はもう寝ると仰って部屋へ戻られて――。
 そして……、唐突に激しい発作を……」
 スレーイデの端正な顔が、深い哀しみをたたえている。ただラーヌン公を見つめ続けている。彼の周囲では医者、侍従長、それに数人の側仕えが同じく、茫然の顔で立ち尽くしている。その顔のまま、ただ主君を見つめている。
 薄闇の中に、女性の細いすすり泣きが聞こえていた。
 寝台の向こう側に、タリアがいた。白い夜着の上に外套だけを纏い、結いあげる間も無かった髪が長く垂れていた。
 その髪の下、青ざめた顔が泣いている。たった二年しか添い遂げられなかった妻は、夫の枕の許で床に膝を付き、声を殺して泣いている。
「キジスラン……」
 押し潰されてしまったかのような眼が、義息を捕えた。
「私は、間に合ったの……、殿の、最期に。でも、たった今――本当に今、今に……殿は息を……。貴方は――間に合わなくて――」
 ふらつきながら立ち上がり、何とかキジスランの許まで来る。今はもう人目をはばかりもしない。義息の腕を掴むと、それにすがり付いた。ふらつく体を、相手に預けた。すすり泣きが号泣へと変わった。
「何度も名前を呼んで――、貴方と、カイバート公子の名前を――。なのに、ほんの少し間に合わなくて……。なぜ――本当にこんなに、急にっ。貴方が別れを告げるのすら間に合わなかったなんて……、そんな……なぜ……っ、こんなに突然っ、嫌――っ」
 これを機に、男達も嗚咽を漏らし出す。低い天井の室内に大きな哀しみが響きだす。たった半刻前までは誰も想像しなかった現実を前に、誰もが涙を流し出す。ラーヌンという国に一時代を築いた男の消失を心底哀しみ、声を潰して泣き始める。
「……御父上に別れを……、キジスラン、お別れを告げて……」
 小声で告げる。ごく間近、乱れた息が届くほど間近にある義息の顔を、凍り付いた薄闇の中に見上げる。
 ――彼女は狼狽した。
 キジスランは無表情だった。完璧な無表情で、ただ無機質に父親を見ていた。拒絶を見せつけていた。
「なぜ、そんなに冷たい顔を……」
 反射のよう、体内に罪の記憶がよみがえる。
 あの時は、互いに相手の気持ちを理解出来たと感じた。自分達は互いの奥底を理解し合えるのだと信じられ、だから相手が必要だった。だから交われた。なのに今は。
 違う。目の前の相手は遮断している。自分も、自分達が犯した最低の罪も、殿も、殿の死も。丸切り、現実そのものを遮断し、拒絶してしまっている。
途 端、タリアの感情が大きくぶれた。哀しみが一気に怒りへ転じた。
「そんな顔止めて! キジスラン、どうして……っ。殿は意識を失してからでさえ扉の方を見て――貴方を待っていて、そのまま天へを――っ。なのになぜそんなに冷たいの? なぜそんな顔をするの?」
 なぜ拒絶するの!
 あの罪も知らずに殿は去ったのにっ。私達は殿に、神の前に赦されないことを犯したのにっ。なのになぜそんなに他人事の顔なの? そんなの許されるの!
「殿は貴方を見続けたのに――! なのに貴方は、何を見ているの? 殿を見ず何を! ねえ、お願いっ、殿を見て――私を見て!」
 見ていない。罪を犯した父親を見ていない。自己だけの中に閉じこもり、自己だけを護っている。共犯者である自分も見捨て、無表情という卑怯な手法で自己のみを護っている。現実への対峙事を拒否している。
「その顔をやめなさい! 何か言いなさい!」
 己の現実を拒否している。恐れて、逃げている。この弱い義息は。
 卑怯者!
 右腕を振り上げた。無言の死者が見据える中、あまりに場違いな音が響いた。義息の顔を力一杯打つ音だ。
「卑怯者! ずるい卑怯者!」
 室内の男達全員が、いたたまれないという顔になった。どう反応すれば良いか判らず、空気はひりついたまま冷たさと静けさに陥った。
 それでも、キジスランは強張った無言のままだった。
 凍り付いた無表情は動かなかった。怒りのあまりに慟哭し始めた義母の前で、ただ必死に現実を拒否し続けていた。


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