第12話

文字数 7,623文字

12・ その翌日

 翌日もまた春の盛りに相応しい、清々しい夜明けになった。
 昨日と全く同じだ。心地よい曙光が、ラーヌンの街を染めてゆく。街の北側に位置する巨大な白羊城城も、美しい黄色の光に浮かび上がってゆく。昨日と全く同じ、美しい一日の始まりを迎えている。
 だというのに。
 信じられないことに今、もうその城の主はいなかった。本当に、信じられないことに、ラーヌン公はもう居ないのだ。――そして城内では、大騒動が始まっていた。
 城に駆け込んできたのは、あらゆる職種の男達。
 傭兵隊の指揮官達・ラーヌン市政の重鎮達・商工組合の幹部達・リンザン教会の聖職者達・外国の外交官達・その他、多数の人々……。彼らが皆、全員、同じ驚愕と呆然の顔で、城内の通廊を走っていった。
 逆に城から出て行ったのは、領境の警備に付く兵士達。それに各国の密使達。
 この日に限り、密使達も密使という不穏当な名称は必要としなかった。彼らの懐には、ラーメン公の急死以外にも多くの情報が書き留められているはずだ。だが今、城の警備兵達も彼らに構う事はなかった。人々が見ている目の前で、堂々と城の正門から馬を飛ばしていった。彼らは“唐突の検問”や“不慮の事故”に会うことも無く、ラーヌン公の死とその周辺事情という重大情報を運んで、母国へ走り抜けていった。
 ……夜明けが進んでゆく。白羊城の混乱と騒々しさは、いよいよ増してゆく。
 だがそれでも、物事は少しずつ仕切られているらしい。送葬の段取りは、少しずつだが確実に進められていた。誰がそれを主導しているかは判らないが、少なくともそれはラーヌンの二人の公子ではなかった。
 第一公子カイバートは数日前より、東の領境へと視察出張中であった。
 第二公子キジスランは、今ようやく、固まってしまった思考を動かし始めたところだった。拒否したくて止まない現実と、何とか対峙しようとし始めたところだった。

 白羊城の礼拝室は、西棟の二階だ。
 室内の内壁には、全面にわたって壁画が描かれていた。主題は『良き死者達の復活』。礼拝室に最も相応しいものだ。
 今より半世紀ほど前、先代城主一族・サングル家の時代に描かれた絵は、贅をつくした高価な顔料のお陰で、色がほとんど褪せず、美麗のままに残されていた。喜悦の顔で昇天を待つ良き死者達は、数えきれない人数におよび、その衣装や持ち物、腐敗の様に至るまでを微細に、多彩に、色とりどり・びっしりと描きこまれていた。
 夜明けと同時に正城門が開かれて以来、この部屋に弔問客が押しかけている。室内の中心に眠る、ラーヌン宗主ムアザフ・アイバースに別れを告げに来る。その巨大な仮柩を覗き込み、その瞬間、
(……ああ神よ、本当に死んでいる)
(……昨日まであんなにお元気だったのに、信じられない)
(……使者の魂に平安あれ、こんなに急に亡くなられるなんて何があったんだ?)
と、一様に驚き、さらに嘆きと哀しみの句を続ける。
 きらきらと光る聖具に囲まれて柩の中に眠るアイバースは、もう決して目覚めないのだ。動かないのだ。信じられない事に。
 横では、家長の剣もまた、まるで主人に添え寝をするかのように横たえられている。採光が悪く、ために昼間だというのに灯されている燭台の光に、銀色の刃が鈍く無音で輝いているのが、印象に残る。
(……お気の毒すぎる。まだまだやりたいことが山ほどあっただろうに……。
 心残りがあっただろうに……)
タリア夫人もまた、無言だった。
 彼女は柩の背後に、独り座っていた。客の弔意に応えること無く、感情に翻弄された果ての茫然自失の顔をうつむけていた。
 青天の霹靂のような事態に、急遽の間に合わせなのだろうか。公妃が纏うにしては、簡素に過ぎる灰白色の喪服に、白いヴェールで顔を覆うだけという姿だった。だというのに、ヴェール越しにうかがえる痛々しい表情は、普段の印象を変えていた。こんな状況に不謹慎だが、なぜか、どこか、生々しい美しさを含んでいた。
 第二公子キジスランもまた、父親を見ていた。
 彼は、隣室にいた。礼拝室に隣接する聖具室に、独りで身を置いていた。扉に切り抜かれた小さな覗窓から弔問の様を――父の柩を秘かに見ていた。
 独りで居たい。今は決して人と会いたくない。なぜなら、今はどうあっても自分を保つ事が出来ないから。でも――父親の傍にいたい。
 子供っぽい矛盾に、子供っぽい手法を採った。その情けない軟弱さをしったしてくれる父親ももういない。狭い、暗い聖具室の中、彼は扉に半身を寄りかけるように椅子に掛けている。扉に切り抜かれた小さな覗き窓から、ただ礼拝室を――父親の仮柩を見ていたいと欲し、だから見続けている。
 ……時間はのろのろと進んでゆく。
 午後も深くなり、ようやく礼拝室内に晩春の日差しが差し込み始めている。室温は少しずつ上がり出している。全く途絶えずに続いてやって来る弔問客の中から、少しずつ、不謹慎な声が上がり始める。
(……おい、心臓の発作だと、こんな事になるのか……?)
 急死からまだ一日も経ていない。だというのに、はやくも遺体には黒い変色と膨張が目立ち始めていたのだ。
(……妙に膨らんでいるし、黒ずんでいる。ほら、黒ずんでいるぞ……)
 死体の相は、時間と共に異様を強めていた。聖職者達の手で顔に施された白粉には意味がなくなり、死者のまとう純白の礼服の縫い取り糸ははちきれそうになっていた。
(……まさかね。暑さのせいだろう? それとも……“あれ”のせいなのか?)
 何人かの弔問客の頭の中には、生々しい色合いの薬瓶が思い浮かんだ。まさかね。まさか、毒が使われたなんてね。
 なんとなく、少しずつ、嫌な感触が生じ始めている。嫌な感触を受けながら、弔問客は引きとどめなく狭い、暑い室内へと押しかけて哀しみを伝え続けている。刻々と午後の時間が流れてゆく。
 ……
「キジスラン様」
 聖具室の奥から声がした。礼拝室とは反対側の扉からだ。
 キジスランは答えなかった。
 しばらくの無音の後、ルシドは暗がりの中から少しだけ進み出てきた。さすがに今は、極限の遠慮と気遣いとを示しながら、小声で伝えた。
「城の侍従長からの伝言です。
 市心の聖カニサ大聖堂での御葬儀ですが、予定が変わりました。暑さのせいで御遺体の痛みが予想を上回って進んでいるということで、明後日ではなく明日の午後へと早まりました。明日の朝方と思われるカイバート公子の帰還を待って、すぐに行うと」
「――」
「聞こえましたか、公子?」
「――」
「キジスラン様、葬儀の予定が変わり――」
「まだ、弔問客は登城しているのか」
「弔問客? ――はい。一向に減る様子はありません。階下の広間にはずっと、来城者が押し寄せて控えています。おそらくこのまま日没まで途切れないのでは」
「――」
「――。今は、遠慮をしなくても、良いのでは」
「――」
「貴方と御父上は本当に親しい、良好な関係でしたから。この様な急死での貴方の気持ちを考えると……。今は、御父上の前でお泣きになっても、それを人目にさらしてしまっても構わないのでは?」
 では、少なくとも今は自分の心を読んでいないんだな、と、こんな時なのにキジスランは他人事のように冷笑を覚えた。
 自分を最も愛してくれた父親との突然の別れは、哀しい。哀しみが大きすぎる。だから昨夜から今に至るまで、自分はそれを現実として上手く受け入れられない。タリアから顔を打たれ罵詈を受けても、どうしても現実として認める事が出来ない。
 いつ、現実は自分を取り込んでゆくのだろうか?
 その時、自分は哀しむのだろうか? ある日、ある時に突然、自分は大声で泣き喚きたい程の、誰かを呪いたくなる程のどうしようもなく強い哀しみを覚えるのだろうか?
「キジスラン様、聞いていますか? 是非今は、御父上の隣――」
「今は、何時頃だ」
 一瞬、ルシドは怪訝な顔になって周囲を見た。多数の物が置かれている小狭い室内は、北側に小さな窓が一つあるだけだった。この息苦しい空間で、主人は時間の感覚が無くなる程に長く過ごしていたのか。
「もう、陽が傾き、夕刻が近い頃合いです。ああ、ここは風が抜けなくて蒸し暑いですね。気温が落ちるのにはまだもう少し時間がかかりそうです」
「――。でも、明日の朝方」
「はい?」
「その刻限までに、帰還できるのだろうか。本当に。カイバートは」
 無防備に言った。――その瞬間だ。
 丸切りその言葉を神が耳にしたかのようだ。丸切り、計ったかのよう、礼拝室の中で数人がざわついた声を上げたのだ。
「――え? 戻ったのか?」
「まさか。城に戻ったのか? こんなに早く?」
「この部屋に向かって来ているのか? 今? カイバート公子が?」
 途端、弾かれた様に椅子から立ち上がった。そのまま目の前の扉を押し開け、キジスランは礼拝室へ踏み入った。たった今『カイバート公子が?』の会話をした羊毛組合所の役員達の、滑稽なほど驚いた形相に出迎えられる羽目になった。
 室内にいた人々が一斉に振り向き、驚く。突然現れたキジスランに注目する。
 礼拝室の後方に開け放たれ扉口を、キジスランはじっと見ている。早速寄ってきて愁傷の辞を掛けようとする客人の事は、完全に無視をする。ただずっと無言で扉口を、その向こうに連なっている通廊と階段の方を見ている。
 皆も、扉口を気にする。赤毛の公子との両方を、ちらちらと見返す。タリアもまた、見ている。立ち上がり、白色のヴェールの下から泣き腫らした目のままで、秘かに、ひたすらにキジスランを見ている。
 妙な沈黙になる。僅かな酸質の腐臭が、鼻に触れる。
 暑く淀んだまま、しんと静まった空気の中で誰かが言った『本当に帰城したのか?』との声が、大きく響いてしまった。それと同時だ。
 階段の方から、複数の足音が聞こえてきた。
 数人の人声も混ざっている。だが石壁に響いてこもり、良く聞こえない。声は見る見るうちに近づき、大きくなってゆく。付き添い者を鋭く叱咤する言葉や、激しく感情が込められた声。聞き覚えのある、少し甲高い、よく通る声。
 その声が、現れた。室内に向かって大きく叫んだ。
「アイバース公――!」
 本当にカイバートは戻ってきたのだ。
 東の領境から街道を使わず、途中の湿地を突っ切ってきたのか? 短靴は完全に泥に覆われている。靴どころか、泥は上衣にまで飛び散り、乾いてこびりついている。いや。正確には上衣は着ていない。肌着だけが、水でも浴びたかのように汗にまみれ、体に張り付いている。額もまた同じく汗と埃に塗れ、為に前髪が短くなったように映る。
 その前髪の下に、誰もが見たことが無いものがあった。動揺し、狼狽し、泣き出しそうなカイバートの顔があったのだ。
「公……、父上――」
 全員の視線の中を真っ直ぐに奥へ、柩の前まで進む。黒い塊になっている父親の正面に達した時、大きく顔を歪ませたのが印象的だった。皮手袋を外したばかりの右手を、まるで怯えるようにそっと父親の顔に伸ばして触れてゆく姿も。
 そして、嗚咽が聞こえだした。
 今度こそ、だれもが沈黙した。圧倒的な不遜の自信家カイバート・アイバースが、公の面前で泣き出したのだ。
「なぜ……、こんなに、急に……、俺のいない間に……」
 嗚咽が強まっていく。カイバートは身を屈め、父親の顔を抱くように、衆目の中に泣き続けてゆく。
 当初はこの光景に居合わせる幸運を喜んでいた外地の情報家達も、感情を変え始めた。公子の姿に、純粋な哀しみを覚え始めた。カイバートは今、目の前、敬愛する父親の急逝を全身全霊で嘆いているのだ。
「貴方が居たから、だから俺は……自由に振舞えて……。だから――なのに……、
貴方が何時も俺の後ろにいて……、支えて――。だから、俺も強く居られたのに……、それなりの、神様、なぜ……?」
 胸に詰まるような小声を発する。ただひたすらに父親の顔を見つめ、人目など無いかのように、幼児のように泣き続ける。
 と。その視線が、移った。
 柩から七歩分はなれた後方の左手。無言で立っている義母弟を見た。
「……」
 キジスランは、自分を見る義兄に驚いた。目を赤く歪ませているその泣き顔の脆さ・弱さに驚いて、見入ってしまった。
 そして今、兄が自分を見続けている。自分が声をかけてくるのを待っている。
 どうするべきなのか? 
 感覚が緊張するのを覚えた。だがその逡巡は、自分でも驚くほどの短い間に、自然に消えていった。気づいた時キジスランは、
「カイクバート公子」
と、小声で呼びかけていた。それに兄が一層に顔を歪ませた事に、そして、
「キジスラン――」
 兄が自分の名を呼ぶ返したことに、鮮烈さを覚えた。
 カイバートが歩み寄って来る。ごく自然に腕を伸ばしてくる。身は一瞬強張った。が、丸切りすがるように、カイバートはその体を抱きしめた。
「公が……居ない、居なくなってしまった……」
 乾いた泥と、汗の臭いがする。
「こんなに突然に居なくなって……、居ない。俺は、残された……。公国と共に、残されてしまった……」
「……。はい。……そして、
 貴方が父上を継いで、ラーヌン宗主になります。カイバート公子……」
 勇気をもち、静かに答えた。
 抱きしめて来る力が、一層に強まる。その頬が顔に触れた時、生温かい涙の感触を肌に覚えた。混乱する感情の中で、キジスランは大きな変化を感じ出した。
 一年前、陽射しの中に凱旋した時にも、抱きしめられた。あの時は自分を引き立て役に据えて充分に踏みにじるべく、存分に楽しんで嘲笑するべく抱きしめられた。
 それが今、変わった。今は哀しみを共有する抱擁だ。哀しみの中に、心から自分を求め、頼ろうとする抱擁だ。
「俺は――怖い」
「――」
「公が居ない、なのに、俺は独りでラーヌンを引継がなければならない。――そんな事が出来るのか。不安で、今、怖い……。だから――」
「……」
「助けてくれ」
 長く自分が立ち続けてきた断層が、薄れてゆく。初めての遭遇からの二年半、ずっと自分をとらえて混乱させ続けてきた感情が変質してゆくのを、覚える。たった今までは決して見えなかったものが、新たに開いていくのを覚える。
「俺を、助けてくれ、キジスラン」
「――」
「不安なんだ。俺一人では不安で、……だから――助けてくれ」
「――」
 現実は、未来は、予測から変わり始めたのだろうか?
 兄の体温が伝わる。ふと、昨日はこうやって父親の体温を感じたことを、記憶のどこかが思い出す。
“白羊城から去れ。俺が死んだら、奴はお前を潰すぞ”
 ほんの昨日に、父はそう警告した。その父は今、白い帷子に覆われて、もう決して動かない。横では家長の剣もまた、射し込みだした陽射しを受けて、鈍く無言で光っている。
 本当に未来は、世界は、予測から変わったのか?
「一緒に、手伝ってくれ。公国を護るのを手伝ってくれ。頼む……」
 未来が変わってゆく今、自分は白羊城から去らずに済むのか? カイバートから逃げずに――離れずに済むのか? ずっとこの男の傍に居られると、そう感じ始めた自分は甘いのか? それは悪魔に魅入られた者が見る幸福な楽観なのか?
 いや。そうではないのかも知れない。
 実際、この時に義兄弟の抱擁を見ていた者のほとんどが、似たような未来図を描き始めていた。兄弟の右手のごく間近から抱擁を見ていたイーラ共和国の官吏などは、早くも頭の中に『アイバース公没後に懸念されていた公子兄弟間の不和が、劇的に解消した件について』から始まる報告書の一文を練り始めていた。
 勿論、部屋の最奥から公子兄弟を、そして室内の全体を冷徹な眼を崩さずに俯瞰するバンツィ共和国・ハ―リジュ外交官のような者もいる。だがしかし、多方の者は兄弟の和解という図に、ラーヌンの明るい未来を予想し始めていたのだ。
「明日の、葬列を――俺と一緒に先導してくれ。圧倒的な力量者だった公に相応しい、立派な葬儀にしたいから、だから俺を手伝ってくれ」
「――。はい」
「公を神の御許に送った後は、必ず、俺を助けてくれ」
「……」
「私に、協力してくれ。公国の為に、公国を残した父上の為に、――俺の為に、手助けをしてくれ」
 子供のように素直に言った。最後に、もう一度だけキジスランは思った。もう一度だけ、疑いを思った。
(この言葉は、カイクバートの真実なのだろうか)
 判らない。
 だが、兄の体温を感じる。相手が、自分に体を預けるように寄りかかるその重みを感じる。無防備に見せる泣き顔に、二年半の時間の流れが氷解してゆく。
「ずっと一緒に。白羊城で。――頼む。キジスラン」
「はい」
 キジスランは返答をした。別の未来は、ここから始まるのだろう。
 ……
 日没間際の日差しは室内に差し込みながら、ゆっくりと動いていく。
 室内の暑さは、消えていかない。僅かな腐臭をたたえたまま、微かに動いている。誰もが、兄弟の抱擁を見守り、ラーヌンに新しい時代が始まったこと感じている。
 タリアもまた、見ている。
 これ以上は泣けないほどに泣いた目に、また涙があふれてくる。目の前で起こっている全く予想していなかった展開に、戸惑いを覚えている。未来が明るい方向へと大きく変化したことに驚き、戸惑い、そして喜びを覚える。
 ふと、柩の中へと目を動かし、肉塊となった夫を見た。――思った。
 決して夫婦という関係には至らなかった。しかし夫は、深く信頼と親愛を示してくれた。
 だというのに自分は、完全なる裏切りの罪を犯し、その大罪を後悔して、後悔して、後悔して、怖れて。――でも、同い年の息子への感情は消せなくて。たった今も、どうしても消せずに、涙の止まらない眼で見つめてしまっていて。
 その息子の未来が、変わったの? 本当に?
 公国も、公国を継ぐ息子も、愛してしまった息子も、皆が変わるの? 夫の死と引き換えに? 本当に? 自分も変わるの? どの様に?
 だというのに同時、感情のどこかに僅かに、小さな棘のような感覚も覚えている気がするのは、自分の罪悪感のせいなのでしょうか、天上の万能の神様?
 ヴェールの下、いつまでの泣き続けている公妃より、さらにはるか後ろの方。
 部屋の隅の、陽射しの無い場所。誰も気づかない,薄暗い、淀んだ空気がこもった場所。そこから、ルシドもまた見ていた。
 彼もまた、憎むべきはずの男からの抱擁を受ける主人の横顔を見続けていた。見ながら、その内面で感情を激しく混濁させていた。複雑に捻じれた、猛烈に捻じれ始めた未来を、明確に予感し始めていた。
 その顔が、歪み出していた。壮絶に引きつり出していた。
 ……夕刻の陽は低く、まだ差し込み続けている。
 暑さはなかなか消えなかった。礼拝室を埋めた人たちは、陽射しの中に静かな感慨を保っていた。
 冷えた夜は、まだ遠い。だが遠くから、ゆっくりと近づいて来る。

【 続く 】




 
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