第3話

文字数 12,134文字

3・ その翌日

 陽が没した空には、穏やかな春の月が現れた。その月も滑りながら夜空を進み、やがて西へと落ちて消え、そしてラーヌンにはいつもと変わらぬ朝がきた。
 いつもと変わらない、喧噪と活気に満ちたラーヌンの一日が始まった。

「お待たせをしました。主人が帰宅をしましたので、応接の間へどうぞ」
 家令の口調と居ずまいは、文句のつけようの無い品位を感じさせた。キジスランは一晩を過ごした客間の椅子から立ち上がる。落ち着きをもって先導する家令に付き従って、通廊へと出る。
 ラーヌン市政の影の実力者であるイサル・サウドの館は、街の中心のマイダン広場から東に入った一角だった。夜明けから日没まで多くの人々が行き交う市心とは異なり、この辺りは一日を通して閑静さが保たれ、瀟洒な屋敷街に相応しい雰囲気に覆われていた。空気の質感からしてひんやりと、しっとりとしていた。
 さらにこの邸宅についてならば――と、初めて訪れたキジスランは覚える――いかにも主に相応しい印象だ。全てが整然と揃い、しかもおそろしく静かだ。間違いなく多数の使用人が従事しているはずなのに、客である自分の前には全く姿を現さずに静けさを保っている。食事と寝床の世話をしてくれた二人の男とこの家令以外は、誰も見かけていない。
「あらためまして、昨夜来主人が外出をしておりお待たせをしてしまいました事をお詫び申し上げます。
 お食事は御口に合いましたか。昨夜は良くお休みになれましたか」
「――。有難うございます」
 その家令とも、長い通路を歩む間に交わされた会話は、これだけだった。
 長く通廊を歩んでゆく。窓からは、庭が見える。庭の向こうにある外壁が、随分威圧的で高いと感じる。その頑健さを見せつけることで、影響力の分、危険に晒される確率も高い主を守っているのだろうか。
 通廊を進むにつれて、天井画の意匠も少しずつ変わってゆく。通廊は長く続いてゆく。一体どこまで連れて行かれるのだろうか。そんな奥の場へと連れ込まれるのには何か理由があるのだろうか。それはつまり、自分が信用されていないからだろうか。
 体内に、僅かな緊張が生じ出す。そしてなぜか思い出す。昨夕のカイバートの、あの尊大の笑顔……。
 ようやく通廊の最奥の部屋に達した。家令が音もたてずに扉を開け、促されるままに室内に入った時、
「キジスラン様!」
全くいきなり、並外れて神経質な顔立ちが出迎えてきた。
「何が! 何がありましたか!」
 まだ家令がいるのに、ルシドは凄まじい形相で叫び迫る。何ら表情も変えない家令が完全に出ていったのを確認してから、初めてキジスランは簡素に発した。
「別に何もない」
 その瞬間だ。
 目の前でルシドの顔が歪みだした。激する感情を抑えきれず、体を小刻みに震わせ出したのだ。
「嘘を――! なぜ嘘を付くのですか! なぜ真実を言ってくれないんですかっ、私が信用できないのですか! ――どうして……っ、なぜです、キジスラン様!」
「ルシド――」
「私は常に貴方の事しか考えていないっ、だから分かるんです! 危険だった! あの時、宴席でカイバートが近づいてきた時、私は貴方への強い危険を感じたっ。だからそう告げたのに、貴方は無防備に付いて行ったっ、私の警告を無視して貴方は――! それなのにさらに今――!」
「大声を上げるなっ」
「さらに今――、私に真実を隠すのですか!」
 顔が壮絶に歪む。充血した眼が極限まで剥き出され間近から、喰らい付くように自分を見捕える。あまりに強い感情に、キジスランの当惑は恐怖を帯びだし、意図せず半身を後ろに引いてしまった。一度だけ強く息を突き、その上で、
「カイバートとは丘の頂に行って、短い会話をしただけだ。それだけだ」
答えた。
「嘘は言っていない。ただ話をしただけだ。
 私が真実を言っていると、判るはずだ」
 長い、緊張に満ちた凝視と沈黙になった。
 ようやくルシドの怒りは収まってゆく。元の神経質な顔へと戻ってゆき、取り敢えずキジスランは大きな息を吐く事がいた。初めて室内を見る事が出来た。
 広々とした応接の間だった。いかにも趣味の良い、上質の内装だ。だが、窓に鉄製の格子が入っていることが気になった。何となく気になり扉に手をかけた時、外側から鍵かけられていることにも気づき、露骨に嫌な感情が生じたのだが。
「大丈夫です。サウド老はただ用心しているだけですから。不安は要りません」
 はっとキジスランは振り向く。はっとルシドもまたびくつく。それでなくても陰気な顔が、さらに引きつる。
「いえ……済みません、ずっと貴方の事を考えていたので感じ取ってしまいました」
「ルシド。そういえばなぜここにいる? 私がここに来ているとなぜ知っているんだ?」
「昨夕に別れてからずっと心配で、貴方の事を考えていました。だから貴方が城に戻らずそのままサウド邸へ向かったとは、すぐに解りました。そうなると私が必要になると思ったので」
 今度こそキジスランが眉をひそめる。無言に激しい不快を訴える。
 ――命じたのに。散々!
 自分の考えと感情を読むことは散々に、絶対に禁じたのに。例えそれが本人の言う通り、こちらの情緒が揺れているときに勝手に感じ取ってしまうのだとしてもだ。
 その不興を従者が察する。一層に神経質に顔を歪め、急ぎ弁明をしようと口を開いた時だ。彼ははっと扉の方を振り向いた。
「来た」
 その通り。何の音も立てることなく、扉が開いた。
 長く長く待たされた末に、ようやくキジスランは市政の大立者と対面することが出来た。
 ……
 長老と称されるイサル・サウドは、六十を幾らか超えたほどの年齢のはずだ。だが、少なくともそれより十歳は更けた風貌だ。
 目の前の毛織張りの椅子に座す長衣姿は、相当に痩せている。唇は薄く、指が長く白く、見るからに冴えた思考力・判断力・計算力を持つ者という印象だ。絶対に声や態を荒立てず、そして腹は見せず、隙一つ見えない完璧な老練ぶりだ。正に有能極まる政治家そのものの存在感だ。
「昨夜はせっかくの御来訪だというのに不在にしてしまい、大変失礼を致しました。何度も接見をお望みいただきながら中々に応じることができなかった非礼にも、心よりお詫びを致します。
 こちらの館ではゆっくりとお休み頂けましたか? 食事はお口に合いましたか?」
「こちらこそ、突然の訪問だというのに御対応下さった事に、感謝をします」
 キジスランは無難な礼を返す。一晩にわたり、自分のいた客用寝室には外側から鍵を下ろされていたことについては、あえて触れなかった。
「昨日は午後からずっと白羊城の祝宴にご参加されたそうですね。お疲れは残っていませんか? しかもその後には兄上の散歩にまで同行されたとか」
「御存知でしたか」
「お二人の間柄につきましては、以前より多数の噂を耳にしておりました。それに、貴方様ご自身の気質についても、存分に噂話が広がっていますよ」
「私の噂とは?」
「それは言わないが華でしょう」
 老人は意味深長な笑顔を示した。
 どこからともなく、飼い鳥の美しい歌声が聞こえてくる。目の前の象眼工芸の卓には、繊細な色ガラスの水差しと杯が置かれている。サウドは手ずから水差しを傾けて、薔薇香の付いた冷水を公子へ勧めた。そして唐突に話し出した。
「貴方様が再三にわたり私に接見をお求めになる理由ですが、それはカイバート公子を出し抜いての次期公位座を欲してゆえと解釈してよろしいですか?」
 涼やかな顔でいきなり核心を突いてきた。
「噂の通りに、本当に表情を変えられない御方ですね。何をお考えなのか予測に難しい。
 繰り返しますが、私への接触は、公位座就任に私の助力を欲してということでよろしいのですね?」
「――。貴方はそう思った訳ですか」
「おや。微妙な御返答ですね。違いましたか? では他に何でしょうか? 庶出の第二子で、しかも兄公子とは相当に険悪の仲で、順当に兄が宗主座に就いた暁には早々へ白羊城から出奔せざる事にも成りかねない弟公子がしつこく私に接触を求めてくる理由が、他に何かあるのですか?」
 がしゃり。
 振り向き、はっと気づく。右側に距離をおいて座っていたルシドが、いきなり卓面を強く叩いたのだ。
 ルシドが、サウドの揶揄に苛立っているその顔が、先程来の感情の不安定をそのまま引きずっているのだ。
「ルシド、失礼だぞ。サウド殿に謝罪して退出しろ」
 言っている傍から表情が、目がさらに引き上がってゆく。苛立ちを増幅させ、着実に怒りへ高めてゆく。まずい。
 サウドもまた面白そうに注目した。
「なるほど。こちら従者の方についても、噂の通りの様だ。面白い。
『キジスラン公子が連れてきた唯一の従者は、かなり気味の悪い印象の男だが、忠勤ぶりには並外れている。ろくに見るべき力量を持たない主人なのに、文字通りに全てを捧げている。異様を覚えるほどの忠義を見せつけている』。」
「失礼致します、サウド殿。私はともかく私の主人を貶める御言葉は御遠慮して下さい」
「止めろ、ルシド。部屋から出て行け。――サウド殿、申し訳ありません。ルシドっ、早くしろっ、行けっ」
 応じない、その眼に血管が浮かび始める。――まずい!
「ルシド! 今すぐに出て行け。命ずる、早くっ」
 応じない。サウドは面白がるかのよう、冷静な挑発を続ける。
「やはり確かに通常から外れている。噂の通りだ。面白い御二人だ」
「サウド殿。僭越ながらご忠告申し上げます。ラーヌン公国公子である主人の立場であれば、不敬と侮辱において貴方様を正当に罰することも可能ですよ」
「成程。確かにそうですね。たとえ妾腹ではあっても、兄たる正統の嫡子が存在していても、全く見どころに欠ける取るに足らない人物であったとしても、アイバース公にとっては血を分けた御子息であり、ラーヌン公国公子であるという点では、確かにその通りです。
 しかしながらキジスラン公子は、決して私を罰したりはなさるまい。そのようなことをしたら最も損害を被るのは御自身と御存知ですから。非力でしかない御立場がこの先、私の援助無くして、どのように未来をお築きになるのですか?」
「その様なあからさまな無礼――っ、サウド!」
「そう言えば、こんな噂も聞きましたよ。
『赤毛の公子ならば、腕一本でのし上がってきた大力量者の父の血も、妖婦まがいの存在感を誇った母の血も、およそ薄いらしい』。
 これは即ち、御両親の並外れた個性も力量も何ら受け継いでいないと言っているのでしょうかね。世間は残酷な噂を立てると思いませんか? 従者殿」
 散々の侮蔑の果てに、老人独特のまだるこい笑い声を上げたのだ。
 気付く。小鳥の声が消えている。室内が静寂になっている。空気の質感が重くなっている、キジスランがそう覚えたのと同時だ。
「サウド殿。分かりました」
 ルシドが一転、微笑んだ。
「お心持ちへの感謝に、貴方様宛てに祈りを捧げてよろしいでしょうか?」
「止めろ! ルシド!」
 遅い。ルシドが異常に大きく目を見開いている。その全身が――目蓋も指も髪の一本までも全て止まっている。――始めている!
 サウドは何も解らない。ただ空気の異質を体感し始めている。露骨な怪訝の顔で小男の奇態を見ている。解っていない。自分がその男に捕えられようとしているのに。
 キジスランの体もまた上手く動かない。椅子から立ち上がれない。“四人目だ”、と動かない体の中で正確に思い出す。ルシドの異能の餌食になるのはこれが四人目。
「ルシドっ、止めろと言ったっ、止めるんだ!」
 やっと今サウドは、自分の身の異常に気づく。だがもう遅い。彼はみるみる唇の色を失ってゆく。骨ばった指が大きく引き伸ばされてゆく。それが死にかけてゆく蜘蛛に似ていると頭の隅が思う。
「止めろ! 必要ない!」
 ルシドが自分を振り向いた。思考の中に、突き抜けるような言語が走った。
“貴方の為です――”。
 過去三回と同じだ。彼はそれを繰り返す。その言葉だけを繰り返し、暴走する。目の前でサウドの呼吸音が変わる。乾いた摩擦音になっていく。
「止めろ――! ルシド!」
 全身に有りたけの力を込めて叫ぶ。と、出来た、立ち上がれた。即座、従者の許へ行き肩を掴む。力任せに揺さぶるが相手はピクリとも動かない。止めない。いや止められないのか?
 振り向くとサウドはもう、顔色を全て失っている。――死にかけている! 神様!
反射的に卓上に手を伸ばした。繊細な造形のガラス瓶を掴み、従者の首の裏めがけて振り上げた。その瞬間、相手の眼球だけが動いて自分を見た。
“貴方の為にやったのに、どうして解らないのですか――”
 ガラス瓶が首に当たった瞬間に手に伝わった感触が、息が詰まるほど不快だった。そのままガラス瓶を落とし、瓶は床に砕け散った。ルシドは一言も発さず、同じく、椅子から床へと崩れ落ちた。
 と同時、サウドの喉が必死で空気を求める音が聞こえた。振り向くと、老人は上体を折り曲げ夢中で息を吸っていた。恐怖で顔を引きつらせながら、必死に魔物の小男から身を遠ざけようとしていた。

         ・           ・          ・

「従者の方の様子は如何ですか。医者を呼ばなくてよろしいのですか」
 いかにも同情を込めた風にサウドは言った。
「構いません。神経の細い男で、興奮するとすぐに血の気を乱してしまう質です。ご迷惑をかけてしまい、心から申し訳ありません」
 キジスランもまた丁寧に応じた。
「サウド殿こそ、発作の様子は大丈夫でしょうか?」
「どうぞお気になさらないでください。歳を取り過ぎると、毎日のように体のどこかが不調を訴えてくるものです。持病の動悸も頻繁ですよ」
 息の漏れる笑いをする。キジスランも会釈だけを返し、それ以上何も言わない。
 ――何を今さら。
 ついにルシドの異能力を人に見られてしまった。しかも最悪な事に、世に大きな影響力を持つ人物に。
 もしもこの件を世間に公表されたならば、ルシドは即座にリンザン教会から告発されるだろう。異端としての審問の上、即座に魔物として火刑に処されるだろう。勿論、自分にも厳しい累が及ぶ。つまり自分は、サウドに喉元を掴まれる場に立ってしまった。
 その魔物は今、部屋の隅の床の上に眠っていた。寝息も立てず、顔に血の気も無く、丸切り死体のように微動だにせずに眠り続けていた。その顔を見るだけで、
“貴方の為にやったのです!”
 腹の底を押さえつけられるような感覚を覚える。嫌悪感に縛られる。
 上質な毛織張りの椅子の上、一度息を大きく吸う。今はとにかく、事を進める。
「サウド殿。人の噂を教えて下さい」
「噂? 貴方様にまつわる噂を、あえて私の口からですか? ――いえ。失礼しました。もう冗談をいう時ではありませんね」
「私ではなく、カイバート・アイバースに関する噂を教えて下さい」
「そうですね。そろそろ互いに、本題に入りましょうか」
 互いが互いの無表情が掴みにくいと思う。しかし少なくとも緊張していると読み取る。その通り、サウドはゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「カイバート公子も、ここを訪問された事があります」
「何時ですか」
「一年半前です。そうです。彼の生母であられたラーヌン公妃と、貴方の生母であられるバイダ夫人とが、立て続けに亡くなられた直後です。アイバース殿が、貴方様を白羊城に呼び戻すと決めた頃です。勿論その訪問の要旨についてもお知りになりたいでしょう?
 カイバート公子の用件は、今後の私の平穏な老後生活についてでした」
「良く意味が解りません」
「カイバート公子は私が大嫌いで、顔を見るのも不快だそうです。だから二度はこの館に来ない、これが最初で最後の接見であり、最初で最後の忠告だと、そうはっきりと前口上の上、それはありがたい助言を私に下さりましたよ。つまり。
『もし自分を支持したくないのであれば、それでも構わない。ただし、他の誰も絶対に支持するなと。何があってもするな』と」
“俺は奴が嫌いだ。嫌いな奴など、顔も見たく無い”――。
「――。それで、貴方はなんと返答したのですか?」
「従いました」
 キジスランの表情が微妙に変わったのを読んだのだろう。サウドは僅かに口許を引き上げて微笑んだ。
「納得が行きませんか?」
「正直を言えば、その様な理不尽な要求に即座に従われるのが、不思議です」
「元々は私は、商人です。常に利を得ることを優先とします。もし誰かが顔前に剣を振りかざして何かを強要して来たならば、土下座の上で相手に従います。
 ……お解り頂けますか? 貴方様には、難しいですか?」
「では。だったら猶更です。なぜ今日、私と接見された?」
「――」
「私自身ですら理解できる。私ではなくあの男の支持に回った方が、よほど貴方にとって益がある。なのになぜ今日、私と会ったのですか? どうして危険の獅子の尾を踏もうとするんですか、サウド殿?」
 問うた。根本からの疑問だった。
 ……室外から、小鳥の軽やかな歌声が聞こえてくる。美麗な象眼卓の向こうでは、サウドが自分を見据えている。なかなか返答しない。キジスランは辛抱強く待つが、余りの遅さに眉がわずかに歪む。と。
 サウドは笑んだ。
「やはり、似ていらっしゃる」
「――? 何がです?」
「キジスラン公子。貴方は、御両親の馴れ初めについては御存じですか」
「耳にはしています。それが?」
「有名な話ですからね。あの頃はこのラーヌンの市井でも格好の噂話になり、皆が夢中で喋り合いましたよ。
 私は実際にバイダ夫人をお見受けしたこともあります。確かに、貴方の顔立ちと少し似たところがあります。何より髪の色がそっくりです」
 そう言って現状に不釣合いの、妙に穏やかな表情を見せた。
 ――バイダ夫人。
 高い上背と、肉感的な体躯と、圧倒的に派手な顔立ち。そして珍しい赤毛の美女。
 享楽と贅沢を好み、己の欲求を堂々示すことに何らの躊躇も無い、我儘な美女。
 若い頃までの素性については、良く知られていない。知られているのは、アイバースとの出会いからだった。二人は、小城塞都市・シエンで出会った。傭兵派遣の依頼を受けたアイバースがその城を訪れた時だった。すでにバイダはシエン城主の愛妾であったものを、二人は一目で、互いに激しい恋に落ちてしまったのだ。
 しかしだからと言って、アイバースは彼女を強引に略奪して婚姻するような愚行には出なかった。
 彼が婚姻したのは別の女性だった。その時、たまたま男系が絶えてしまい一族内紛へと陥ってしまっていたラーヌン公主・サングル家の姫だった。この婚姻を伝手に、彼はまんまとラーヌン公位座を奪取するという離れ業をやってのけてしまったのだ。
 ではバイダは? と周囲が思った時だ。
 突然、新ラーヌン公アイバースは動き出す。大公としての初仕事として、シエン城攻撃に出たのだ。その大義こそは、
『シエン城主は長年にわたり私と懇意の女性を、私との関係を承知の上で傍に置き続けている。
 寝取られ男の汚名をそそぐ為、つまり己の名誉の為に、私はシエンへと武力攻撃に出るものである』
 この無茶苦茶な弁に、世間は大いに笑った。勿論、成り上がり者の図々しい大胆さに敬意を表しての笑いだ。
 さらにシエン城塞攻城戦には、おまけが付く。包囲戦の真っ最中に、城主が急死したのだ。発作による急逝との公表とは裏腹に、おそらくは皆が噂した説こそが真実だろう。
『城主は、寝台の上で愛人に毒を盛られてくたばったのさ。もしくは、愛人に弄ばれ過ぎた果ての腹上死さ』。
 アイバースはシエン城塞をラーヌンに併合し、そしてバイダを手に入れた。彼女を最愛の恋人として迎え、街の郊外にある豪華な城館に住まわせて、存分に愛し合うことになった。……
「御母上はとにかく派手やかで堂々とした振舞いで、丸きり、この世に恐れるものなど一つも無いという印象の方でした。力量者たるアイバース殿と立ち並んでいる姿は、いかにもお似合いでしたよ」
「私は母とは、年に一度程度しか会っていませんでした。あまり良く覚えていません」
「貴方様とは髪色だけでなく、面差しにも少し似たところがあります。しかし気質は引き継いでいない。御父上からも同じく、全く引き継いでいない」
 キジスランは反応しない。事実だから。
 室内の静寂が深まる。サウドの表情が確実に引き締まっていく。
「キジスラン公子。聞いて頂きたい」
 穏やかに笑みの目が、真剣な眼光に転じてゆく。
「御父上のアイバース公は、文句のない視点と力量との持ち主です。現在のあの方の為政に、私はほとんど不満はありません。その点は白羊城の関係者達も、街の市政や組合の幹部達も同意見でしょう。
 今、ラーヌン公国は内政的にも対外的にも安定を示し、平穏と発展を享受しています。我々領民は皆あの御方に感謝し、このような時代がこのまま続く事を希望しています。
 しかしながら、次代についてを思うならば――」
 その時、僅かな音を立ててルシドの体が少し動いた。思わずサウドは言葉を切ってしまった。呼吸三回分の沈黙となった。
 長念にわたり無数の場を踏んできた市政の大立者・サウドは、今、自らが緊張をしていることを自覚した。
「繰り返します。
 私達は、現状に満足しています。望んでいるのは、この先にわたって今のままの税率と今のままの平穏が維持をされることを望んでいます。ですが。
 ……もしもあの方が次期の宗主になられた時。おそらくラーヌンの国はそのようには進まないでしょう……」
「――」
「あの方は、決して現状に満足しない方です。あくまで上位を求め続ける方です。
もしも戦乱の時代に生まれついていれば、ティドリア域の頂点まで登りつめる事も出来る素質であるかも知れません。しかし現在のように、諸国が均衡上の安定に立つ時代にあっては、あの方の飽くなき野望はとんでもない騒乱を起こしかねません。それこそ、ティドリア中に戦火を点けかねません」
「……。まさか。カイバート公子もそこまで愚かでは無いはずだ。そこまで考え無しの行動を起こす事は無いのでは」
「キジスラン公子。私の方が貴方より、あの方を良く知っているのですよ」
 サウドは片口だけを引き上げ、皮肉気に笑った。その脳裏で思い出していた。
 忘れていない。忘れられようもない。一年半前のあの日。
 忘れられるものか。まだ少年の顔立ちが、半世紀も年上の自分を真っ向から見下し、笑いながら脅したのだ。
『貴様が俺を気に入らないのは知ってるとも。勿論。とっくにね。
 だからどうだ? 貴様はどこかの田舎に引っ込むのが良くないか? ラーヌンの街はいつも月夜ではないぜ。夜中にうろついている時にいきなり夜盗に出くわすかもしれないぜ。それどころか、真っ昼間だっていきなり道端の屋根から瓦が落ちてくることだってあるかも知れないぜ。――どうだ?』
 生意気の域を遥かに超えた傲慢の、だというのに少年らしい純粋さを示す眼を、忘れようもなかったのだ。
「あの方だけは、――駄目です。今、アイバース殿が御持ちの剣、家長の剣を、決して握らせてはいけない」
「……」
「そして、私と同じ考えをもつ有力者は、このラーヌン市内にも領内にも複数人存在しています。お解りですね。今後において貴方様の味方となる存在です」
 サウドは立ち上がった。隅の書机に向かうと、書机と壁との僅かな隙間に手を伸ばし、そこに隠し置かれていた鍵付きの組木小箱を取り出した。
「これを。貴方様に」
鍵を解き、箱の蓋を開ける。丸切り儀式のような手付きで箱から書簡を取り出すと、キジスランへと差し出した。
「カイバート公子の公位継承に不支持を表明した者の名前と押印が記されています。お受け取り下さい」
 この瞬間、老練の政治家を自負するサウドは、自らの背に緊張が走ったのを覚えた。キジスランも同様だ。緊張に無表情を崩されながら発する。
「繰り返します、サウド殿。これは、あなたにとって相当に危険な選択になるのでは? カイバートが貴方に激しい敵意を向けるのでは?」
「確かに。ですから今回、貴方からの接見の御希望に応ずるのが遅れました。丹念に貴方様とカイバート公子、および白羊城の内外にかかわる情勢を調査した上での決断となりました」
「本当によいのですか?」
「すでにあの公子の周辺は、かつての私を脅迫した頃とは大きく異なってきています。次期の公主座への最大の候補という地位に対して、世間の耳目も高まっています。私との不仲の件も広く知られており、現状ではさすがに迂闊で無謀な行動は取れないはずです」
「……」
 そうだろうか。
 物事を損得で判断するのは、商人だ。そしてカイバートは商人の対極に立つ男だ。敵を泥に引きずり落とすためなら、平然と自らもが泥まみれになる男だ。
“サウドの爺と連絡しているんだろう? 糞が”
 夕刻の光と冷えだした風の中、鐘の音が響いている。
“いずれは貴様を潰さなければならなくなるかもな、キジスラン”
 赤味を帯びたラーヌンの全景を見通していた。自身も金色の夕光を浴びながら。
「……」
 鳥の歌声が止まっていた。無音の居室で、老サウドの眼に強い力がこもっていた。最後の確認へと向かった。
「キジスラン公子。貴方様は、次期のラーヌン公位に就かれる御意思なのですね」
 キジスランは、答えない。自分が負う義務が、頭を巡る。
「その様に事態を進めて、よろしいのですね」
 もし自分が公位に就いたならば、それは果たされた事になるのだろうか。その時になれば、己の底にわだかまり続けている灰色の感情が払拭されるのだろうか。
 ――解からない。
「……」
 応えなかった。赤い髪に縁どられた顔の中で表情はほとんど動かず、なのにくぐもった暗色の感情を確実に示してしまっていた。
 サウドもまた、それ以上の返答を迫ることはしなかった。

 来た時と同様、帰路の通廊もまたしんと静まり返っていた。飼い鳥の長く上品な歌声だけが冷えた日陰の空気の中に響いていた。
 来た時と同様、どの部屋にも庭にも人の気配は無い。引き続きサウドが用心深く采配しているのだろう。広い邸内をサウド自身の案内で歩み続けた果て、ようやく敷地の裏手へと至る。外へと抜ける小振りな門扉の許まで達した時だ。
 意外だった。自分達を待っている者がいた。一人の小僧が馬の横に立ち、ぴょこんと頭を下げてきたのだ。
「持ってきたか?」
 サウドの言葉に両手で抱いていた白い包みを解き、主人と客人に差し出した。
「如何ですか、キジスラン公子? “神の剣を振り下ろす天使マラク”。少し珍しい主題でしょう?」
 それは小さな聖画だった。
 懲罰の聖天使マラクが中央に立ち、悪徳に染まった堕落者達に剣を振り上げているという構図の、小さな宗教画だった。正直を言えば、何とも稚拙な出来の絵で、芸術愛好家としても知られている富豪老人が公国の公子に紹介する作品としては、およそ相応しくないと思える絵だった。
「公子。これを貴方様に贈ります。どうぞお受け取り下さい」
 なぜだ? なぜこんな不出来の宗教画を自分に贈る? キジスランは絵と相手とを訝しがるように見る。
「サウド殿。申し訳ありませんが、私は美術品には興味はありません。私が受け取ったとしても絵の価値が半減するだけですから――」
「いいえ。それでもお持ち下さい。この絵は確実に貴方様に大きな利潤をもたらします」
「どういう意味ですか」
「それは、次にお会いした時にお話しいたしましょう。それまでにどうか存分に、隅々までを含めてご鑑賞下さい」
 いかにも意味深長に言った。
 一瞬、謎かけは嫌いです、今この場で真意を教えて下さいと言おうとして、しかしやはり遠慮をしてキジスランは口を閉じてしまう。……その遠慮を、後日に猛烈に後悔することになった。
「分かりました。では、ルシドが目を覚ましたら、彼に持たせて下さい」
 そう告げ、馬に乗るべく手綱を掴もうとした時だ。
「貴方様が最後になります」
 いきなり、サウドがキジスランの腕を強い力で握ってきた。
「長い年月にわたり、私はラーヌンを上昇させるべく、様々な画策を重ねてきました。賭けとも思えるような困難な状況も幾多に臨み、それらに勝ち抜いてきました。そして今。おそらく。これが私の最後の賭けになります」
「――」
「厄災の種を蒔くことを許していけない。あの常人離れをした野望者に、ラーヌンの命運を預けてはいけない。絶対にいけない。
 その為に、必ず貴方様が次の公位にお就きなって下さい。よろしいですね?」
 老いて灰色がかった眼が、激しい熱と感情とを込めて自分を射貫いてくる。
「私には、見えます。今アイバース殿が持つ家長の剣を貴方様が差し、白羊城のバルコンに立つ姿が見えます。キジスラン殿、これを実現させて下さい。
必ず、必ずラーメン宗主座に御就き下さい!」
 異様な程の気迫で迫ってくる。それが何を意味するのかは解らない。ただ、重さを帯びた予感を覚えた。一年半前の出来事から時を経て、ついに自分の周りで物事が大きく動き出したという予感を、背中にじりじりと覚え始めた。
 動き出したのだ。義務を果たすための第一歩が、始まったのだ。
「絵を堪能されたらならば、どうぞまた拙宅へお越しください。その時を、心よりお待ちしております」
「――。分かりました。では。近々に」
 キジスランは馬に跨る。裏門を抜け、サウド邸から日陰の路地へと出ていった。
 ……昼が近い。ラーヌンの空に、春の光が満ちている。
 閑静な屋敷街の路地に、人通りはほとんどない。春の陽射しだけが、暖かく満ちている。鞍上でキジスランは、初めて疲労を覚える。緊張感は昨日の午後からずっと続いており、しかし考えねばならないことは無数にある。
 疲れに、目が眩しい。少し痛い。ふと振り見た路地の右手の後方、視界のすみで何かが動いた気がした。だがそれもおそらく、眩い視界に見間違いだったのだろう。
 陽射しが暖かい。
 春が始まったばかりの空は、青の色味が鮮やかさを増している。




【 その午後に続く 】
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