第1話

文字数 8,385文字

 凄まじい勢いで馬が走る!
 炎上する厩舎の熱。追いかけてくる兵達の怒声。多数の馬が狂った様に走り、犬達が凄まじく吠え、城棟の窓から乗り出した人々が、驚愕と恐慌の眼で見下ろす。
 それらの全てからキジスランは逃げる。追手を振り切り白羊城から脱出するべく、必死で馬を駆る。それなのにまだ眼は求めている。無意識のうちに夢中で、ただ一人の顔を求めている。
 走る。懸命に走る。城内ハルフ広場を駆け抜け、南棟真下のアーチ通路を横切り、北門からの脱出を目指す。広い中庭に突入する。その時だ、
「キジスラン様!」
 背後からルシドが叫んだ。この声だけでキジスランは弾かれた様に気づいた。
「そのまま馬を止めずに――見ずに――っ、見るな――!」
 気づいてしまった。気づいてしまった途端、喉の限りで叫んだ。
「カイバート!」
 求め続けたその顔は、自分の正面に待ち構えていた。
「飲むな! カイバート、明日の朝……杯っ」
 カイバートの右手が動く。流れるように動き、握っていた弩弓を構える。その眼が純然の殺意をもって自分を見る。その全てにキジスランは見入る。
「飲むなっ、杯に毒が――カイバート!」
 聞こえたか? 聞こえなかったのか!
 カイバートが――義兄が自分を見ている。自分の生涯を変えてしまった強い眼が、自分を殺すべく弓を引き絞り自分を捕えている。
「カイバート!」
 矢は、自分へ向けて放たれた。



1・ その日・春の始まった日

 光に満ちた、春の始まりの日だった。
 ラーヌン公国の宗主・アイバース公は、白羊城の南棟の二階にあるバルコンから、下方を見ていた。己の治める公国を、己の住まう王城・白羊城を、常通りの精力的な視線をもって見下ろしていた。

 その時――その時代。人々の知り得る世界は小さかった。
 世界は大海に囲まれていて、その向こうについて知っているのは、神のみだった。漠然の知識を持っているのは、博物学者と遠洋航海者ぐらいだった。世界はまだ未知で、ゆえに尽き無い魅力に富んでいた。知られている世界はまだ僅かで、狭かった。
 狭い世界は、幾つかの地域に別れている。全ての域の詳細については、他域の者には詳しく知られていない。
 だが少なくとも、ティドリア域と呼ばれる小さな一角については、誰もがこのような認識を持っているはずだ。
『ティドリア域とは、即ち、争い合う小さな都市国家の集まりである』。
 小指ほどの広さしかないティドリア域には、四十を超える大小の都市国家がひしめき合ってきた。ひしめき合う各国の宗主達は何かにつけては、戦役で争ったり、協定で連なったり、婚姻で結びついたり、平然と背信して分裂したり、そんなことを長々と長々と繰り返していた。そうやって狭苦しい土地の奪い奪われを、止めどもなく繰り返し続けていた。
 その、ひしめき合う都市国家の一つが、ラーヌン公国だった。
 宗主の住まう王城である・白羊城では今、公国を大きく発展させたムアザフ・アイバース公が、始まったばかりの春の光を浴びていた。

 アイバース公の座るバルコンは、白羊城内のハルフ広場に突き出すように設えられている。
 ここからは、真下のハルフ広場が、広場の向こう側にある城の正城門が、見通すように良く見える。ここに卓を持ち出し、前を大きく見渡しながら食事を取るのが、アイバースの御気に入りだ。
 今朝も、布もかけない剥き出しの卓に、幾つもの皿を乱雑に置いている。太い腕を伸ばして彼は、好き勝手に干し肉やチーズやパンを直接つまみ上げている。杯を鷲掴んで、水で薄めた葡萄酒を飲んでいる。
 ラーヌンという国の宗主となって、すでに二十年程を経ている。だが、いまだに彼の中には、若い頃からの良き粗野の質が残っていた。荒々しい戦闘にかかわる事業でここまでのし上がった彼に、気取りなどは無縁だ。およそ公国宗主という身分からはかけ離れた雑な態のまま、今朝も彼は気持ちよく食事を取っていた。
 干し肉を平らげ、ふぅっと満足の息を突く。そのまま、卓を挟んだ向かいの席に声を掛けた。
「今日は守護聖人・クドスの日だ。今日から春だ。街では大市が立つぞ。見物に行くのか?」
「ええ。もし出来たならば、行きたいと思っています」
 控えめに答えたのは、地味な茶色の服を着た若い婦人だった。彼女もまたそっと、卓上の皿に手を伸ばす。生ハムの薄切りをつまみ上げると、
「好き? 食べる?」
 膝に乗せた白い仔犬に与える。喜んだ仔犬が一口で平らげ、もっと欲しいとおねだりして頬を舐めた時、彼女の顔にはほんの少しだけ少女じみた笑みが浮かんだ。
「殿はいかがでしょうか? もしよろしかったら、一緒に市を回って下さいませんか?」
「今さらラーヌン公が夫人と一緒に市をうろつくのか?」
「……ごめんなさい。そうですよね。お忙しいと知っているのに、つい我儘を言ってしまいました。――ごめんなさい。私も行くのを止めます」
「なぜ謝る? なぜ行くのを止めるんだ? お前の好きにして良いんだぞ。遠慮せずに大市に行って、好きな物を好きなだけ買って来い。好きなだけ楽しんで来い」
「お優しい御言葉を、有難うございます。本当にごめんなさい」
「だから謝らなくていいんだ。なぜ謝るんだ。誘ってくれたのは嬉しかったぞ」
 夫の気遣いの言葉に、少しは安心したのだろうか。遠慮がちながらも彼女は微笑む。これを見るアイバースの顔もほころぶ。若い妻が素直に感情を示した事を喜び、率直に伝える。
「タリア。お前はラーヌン公の正妃だ。自分がしたいことを何でも堂々と出来る立場なのだから、何の気後れの必要など無い。
 今日は午後からは城内で宴会があるが、そこでも遠慮も気遣いも不要だ。好きなように振舞って好きなように楽しめばよい」
 宴会という単語が出た途端、新妻はまた困ったような顔に戻ってしまった。その心情ならば、アイバースもすでに充分に理解している。
 十七歳の妻は、隣地よりこの城に嫁いでまだ一年も経ていない。元より人と親しくなるのに時間のかかる気質で、なかなか城内の人間と親しむ事が出来ない。ましてや宴会の様な大勢の人の集まる場所は本当に苦手とし、苦痛を覚えてしまっている。
 夫である自分とも、親子ほどの年齢差のせいか遠慮してばかりだ。後ろに引きさがって気遣ってばかりだ。たった今も膝の仔犬を撫でながら、それでも何とか夫に心情を気づかれないようにと、気づかれて気を使わせないようにと、懸命に唇を引き上げている。笑顔を作ろうとしている。そのような女なのだ。タリアは。……
 始まったばかりの春に、風はまだ冷たい。
 朝の時間は、ゆっくりと動いてゆく。ラーヌン公夫妻は無言で、眼下のハルフ広場を見ている。引っ切り無しに行き交っている来城者達を見ている。
 宮廷の官吏……街の商人……近郊の農夫……城の使用人……多数の兵士……。
 様々な地位と職種の人々が、バルコンの真下にある通路を抜けて広場から中庭へ、中庭から広場へと出入りをしてゆく。何人かはバルコンの宗主夫妻に気づいて、会釈を垂れてゆく。時を追って人々の喋り声と荷車の音は増してゆき、広場に大きく響いてゆく。
 春の陽射しが明るさを強めてゆく。東の丘陵地から乾いた風が吹いてくる。――と。
「声が――」
 公妃がふと、小声を漏らした。膝の仔犬を下して立ち上がると、バルコンの一番前まで歩み出た。珍しく遠慮のない早口になった。
「アイバース殿、聞こえます? ちょうど今、この真下の通路を歩いています。誰かと喋りながら通路を歩いているところだわ」
「おい、手すりから身を乗り出すな。危ないぞ。誰が来るんだ?」
「すぐに広場に出てきます。ほら、赤い髪が見えてきた。全然こちらに気付いていないわ、――キジスランっ」
 振り向いた。
 キジスラン。
 今年十六歳。アイバース公の二番目の息子。
 緊張の眼が振り返って見上げる。が、そこに父親と継母の姿を見留めると、無言で頭を垂れた。
「久しぶりだな。キジスラン。元気か?」
 先にアイバースが声掛けた。
「はい。お久しぶりです。公」
「挨拶はそれだけか?」
「ご無沙汰をお詫びします」
「厩舎に行くのか。街の外に出るのか」
「はい」
「今日は守護聖者クドスの祝日だ。午後から城で宴がある。それまでには必ず戻れ。必ず出席しろ。いいな」
「はい」
 明るい春の陽射しの中、赤い髪をもつ息子が自分を見ている。いや。
 自分を見ていないのか? あの素っ気ない、丸切り感情を示さない眼は、どこに焦点を置いているんだ?
 アイバースは、自分が言葉に詰まっているのに気付いた。この掴みどころの無い息子への接し辛さに、沈黙に落ちいりかけた。それを助けてくれたのは若妻の、珍しく素直な笑顔になった。
「キジスラン。お久しぶりです。今夜の宴席には、私も出席します。貴方も是非来て下さい。待っていますから」
「分かりました。タリア夫人」
「有難う。約束して下さって、嬉しいです」
 遠慮がちながらも、嬉しさを示す。これに義息は、簡素な会釈で応じ、それで終わった。キジスランはただ一人だけの従者を連れて再び歩み出し、広場を横切り、向こう側にある厩舎へと入っていってしまった。
ここまでをアイバースは見送った。――いつもと同じく、胸には息子への違和感が残っている。
「……。タリア。どう思うか」
 まだ厩舎を見続けていた妻が、振り返る。顔は、元の落ち着かないものに戻っていた。
「キジスランは、奴は白羊城での生活に全く馴染まず、ここを嫌っているように見えないか?」
「……。ごめんなさい、私にも良く分かりません……。公子はとても無口で、ほとんど感情を示さない方ですから……。
 でも、少しは友人も出来た様に見受けています。少しずつですけれども、この城の生活に慣れて来ているのではないでしょうか……?」
「そう思うか? 俺には少しも馴染んでいないような気がするが」
 お前と同じように、とまでは言わない。
「……済みません。ごめんなさい。正直を言えば、この半年の間にあの方と喋る機会はほとんど無くて、だから私にもよく判らなくて……。母親という立場なのに、何も出来なくて申し訳ありません……」
「――」
「出来るならば母として――、いえ、一つしか年が違わないので、姉としてでも良いです、キジスラン公子と親しくなれたらと思っています。
 ……きっと良い方だと思います。本当はきっと殿の御子に相応しい、素晴らしい力量を持っていると思っています。今まで遠い土地で寂しい中で育ってきたので、貴方様に対しても戸惑いがあり、上手く接しられないだけだと思っています。まだ白羊城に慣れていないだけだと思っています」
「――本当にそう思うか?」
 それは、お前と同じだからか? お前と同じように、この白羊城に全く馴染めず、居心地の悪さを感じているからか? 身を固くして身を護るしか無いからなのか?
 思ったが、さすがに口には出来なかった。
「何だか、解かったような口を利いてしまいました。私などでは、良く解りようもないはずなのに……偉そうに……。本当に、済みません」
珍しく自分の考えを表わした事が怖いのだろう。タリアは感情を誤魔化すように仔犬を抱き上げ撫で始めた。アイバースも、それ以上の質問はしなかった。
キジスラン。
 自分と、自分が心底から愛した恋人・バイダとの息子。
 バイダそっくりの、赤い髪をもつ息子。
 ……ずっと、里親の許で育てさせた。一年半前に母親のバイダが急死したのを機に白羊城に来るよう命じたのに、なぜかそれを引き延ばし続け、半年前にようやく登城してきた。ようやく再会したのだが。
“常に無表情で掴みどころがない、何を考えているのか全く解らない”。
 息子は、不思議な質だったのだ。政務に忙殺され続け、息子に会う事もなく放っていた自分の責は棚に上げ、こんな酷い気質に育てた里親を怒鳴りつけてやりたいと思ったこともあった。――だが。
 アイバースは他者を見抜く洞察眼において、絶対の自負を持っている。だからもうとっくに気づいている。
(あの息子は、見た目だけでは判断出来ない)
 自分の力量は全て人に見せつけろ、認めさせろ、褒めさせろ。これが美徳の時代に、何を考えているのかは解らない。だが解る。
(あの息子はおそらく、何かを秘めている。――隠している)
 何かを考えていて、何かを隠している。そして何かを目指している。自分と赤毛の美女・バイダとの間に産まれたあの息子は。
 ……右手に強く葡萄酒の杯を握ったままだったのに、気付いた。
 頭上では、春の空が青を深めている。始まったばかりの春に、冷たさの残る風が緩く抜けている。向かいで妻が、膝の仔犬を一生懸命撫でている。
 頭の中ではずっと、赤毛の息子の姿を思い起こし、考えている。深く浅く、僅かにくぐもった心情と共に息子のことを考え続ける。考え続けている。……と。まただ。
 不思議だ。いつもそうだ。キジスランの事を考える時、必ずその後ろにもう一人が現れる。
 ――カイバート。
 はっと、彼は眼を見張った。
(絶対者は天上にありっ)
 絶対者の作る偶然だ。視界の右隅・ハルフ広場の西脇門から突然、葦毛馬に乗る姿が現れた。あっという間に広場を横切り、何も気づかず自分のいるバルコン下の通路へと入ろうとしてきた。
「待て、カイバートっ」
 見上げた眼の、それが父親だと気づくまでの刃のような鋭さと言ったら!
 ラーヌン公国の第一公子。自分の息子。――カイバート。
 息子の顔が、生意気な笑みに変わった。父親がバルコンの床を指さす動作をすぐに察する。真下のアーチ通路に姿を消すと、あっという間、石床を打つ小気味よい足音が近づいてきた。バルコンに現れる、あらためてにんまりと笑ったのだ。
「何か用ですか。公」
 また背が伸びた。とアイバースは思った。
 なるほど。均整のとれた体躯だ。健康な青年らしい。真っ直ぐと相手と接する態は強く、曇り一つ無い。自分の息子に相応しい。だが。いや。
 眼だ。その眼から出す自我と自信は何だ? 親との当たり前の会話にすら、まるで食いかからんばかりに発してくる強靭な自意識は?
 タリアが仔犬を抱いたまま立ち上がった。
「殿。先に失礼します。今日は宴会に備えての身度もありますので、大市での買い物は明日の楽しみにとっておきます」
 去ってゆく妻とバルコンの入り口に立つ息子は、すれ違う際に軽い会釈を交わす。だがその際に息子の視線が露骨に義母を見下したのを、アイバースは見逃がさなかった。
「ラーヌン公妃は大市に行きたかったのですか? だったら貴方も同行して一緒にお買い物をしては如何です? 可愛い大切な新妻でしょう?」
「――。昨夜はどこにいた?」
「そんな事を訊いてどうするんですか?」
「よくもまあ飽きもせずに夜遊びが続くものだな。昨夜はどこに泊まったんだ?」
「説教ですか? 貴方だって俺と同じぐらいの年には、似たようなものだったくせに」
「確かにそうだ。だが若い頃の俺は、周囲の目を気遣うような身分ではなかった」
「まあね。でも別に、身分が有ったって気にせずに遊んでも良いじゃないですか?
 今の貴方だって、存分に遊べば良いのに。――ああ。もっともあんなに若い後妻を迎えては、そんな暇は無いか」
 いかにも下品に鼻をしかめて笑う。別段アイバースは腹を立てない。この程度の無躾ならば、この息子の日常だ。
「用件だ。今日の午後は、城で守護聖者の祝日の宴がある。必ず出ろ」
「面倒臭いな」
「外国からの客も大勢来る。気を付けて振る舞え。決して城の内情を見せるな。その為にも母親に敬意を示せ。義弟と仲良くしろ」
 途端、義弟という単語に反応した。怒鳴り声を発した。
「苛立ちの運は地獄へ落ちろ!」
「黙れ。鼻垂れの餓鬼でもあるまいし。貴様達兄弟が不仲なのは私も知ってる。だがこれは政治だ。それを心得ろ」
「だからそういうのが苛立ちなんですよっ」
「乳臭い餓鬼が。第一――貴様、そんなに弟が嫌いなのか?」
「嫌いだ」
 あっさりと当然の如く言った。この機だ。
「なぜだ?」
 即座にアイバースは突っ込んだ。半年のずっと抱いていた疑問を問う機を今、掴んだのだ。
「半年前にキジスランが白羊城に来た時からだ。最初の瞬間からお前は弟を毛嫌いしていた。いや。毛嫌いというよりも憎んでいた。まだ弟がどんな人間だか知りもしない時から驚くほど徹底して嫌ってきたな。なぜだ? 以前に弟と会っていたのか?」
「貴方には関係ないでしょう? ただ嫌いなだけだ」
「確かにキジスランはあまり人好きのしない気質だ。だが、カイバート。貴様の嫌悪ぶりは異様だ。なぜそこまで嫌わなければならない? 貴様まさか、弟を恐れているのか?」
「止めろっ」
「答えろ。カイバート」
「――」
「カイバート、誤魔化すなっ、答えろっ」
「公。父上」
 カイバートの表情が大きく動いた。冗談を抜いた眼で父親と、
「その剣だ」
 父が腰の左側に差す、握り革に紅石と浅彫文様を施した飾り剣を凝視した。
「アイバース家の家長の剣。ということはラーヌン公主の剣でもある。その剣」
「それがどうした?」
「確かに貴方には、文句なく優れた力量がある。たかが弱小豪族の五男から、小戦乱続きのティドリア域に『傭兵隊の斡旋・派遣』という新しい職種を生み出した。これを育て、まんまと財と権力を築いていった。
 しかも幸運の機を掴み取り、婚姻という姑息な手でラーヌン公国を奪取してしまった。公主になってからも、国内を安定させている実力は、俺も認めている。見事だと感じる。だけれど――」
「何だ?」
「俺がその剣を腰にした時――公主座に就いた時には、ラーヌンは貴方の頃とは比べ物にならないぐらい強くなっている。なぜなら、俺の方が貴方より優れているからだ」
 思わずカっとアイバースの腕がその剣に伸びかける。だが激昂はすぐに抑えられた。
 解っている。相手は今、十七歳なのだ。
 自尊と野心に身を焦がす、傲慢盛りの年齢ではないか。ましてや、ラーヌン公国の第一公子の身分ではないか。ましてやこの自分の息子ではないか。
 不快そうに笑いながら、アイバースは息子の増長顔を見た。
「貴様のその大口通りになれば良いがな」
「なるさ。貴方だって俺の実力を知っているだろう? 聖者の名において、俺の力量の方が貴方に勝っている」
「自信なら幾らでも好きなだけ持て。少なくとも今はな。ともかく今俺が知りたいのは、カイバート、貴様の義弟――」
「話なら分かった。俺は部屋に戻って寝る」
「おい、待てっ。質問に答えていないぞっ」
 しかし息子の足は動き出す。背を向けバルコンから出ていこうとしている。まさか本気で父親である自分を無視するのかと思った時、突然足を止めて振り返った。
「答えですか? 聞きたいですか? だったら言いましょうか? なぜ貴方より俺の方が力量が上かといえば――」
「黙れ、違う。訊きたいのは貴様のキジスランへの――」
「貴方はたかが貧乏豪族のごくつぶしの五男として産まれて育った。
 だが俺は違う。産まれた時からラーヌン公国の第一公子で、しかも母親から大名門サングル家の血を継いでいる。貴方とは毛並みが全く違うぜ」
 瞬間、怒りを抑えきれなくなった!
 怒りのまま、卓上の杯を掴んだ。息子目がけてて力一杯投げつけた。なのに、
 息子はそれを受け止めたのだ。至近の距離だったというのに、杯を見事に掴み取ってしまったのだ。
「投げるなら空の杯にして下さいよ。酒が跳ねてもろに目に入った」
 胸元の右半分を赤い葡萄酒で濡らしたまま、カイバートは平然と笑っていた。
「たかが冗談なのに。昨日おろしたばかりの胴着にも染みがついてしまった」
「……。その赤い馬鹿面を魔物にさらしてろ。糞野郎が」
 丸切り面白がったまま、カイバートはあらためて会釈し、さっさとバルコンから姿を消した。あっという間の出来事だった。
 こういう息子なのだ。カイバートは。
 これが自分の息子達なのだ。カイバートと、そしてキジスランが。
 全く対照的な二人が。全く違う質を持つ二人が。この先にどの様に成長をし、どの様な道筋をたどってゆくのか全く予測できない二人が、自分の息子達なのだ。
 ……冷えた、穏やかな風が抜けてゆく。
 僅かな葡萄酒の匂いが、空気に残っている。しばらくの間アイバースは、長男の消えたバルコンの入口を見続けていた。ようやく身を戻して卓上を見た時、皿にはまだ好物のチーズが残っていたが、もう手を付ける気は無くなっていた。複雑に交錯した感情が、内臓を重たくしていた。
“俺の力量の方が貴方に勝る”と言い切る兄。
 内心に何かを隠し続ける弟。
 アイバースの左腕がふと、家長の剣にあたった。紅石の冷たさを感じた。棘の様にひりついた感触を、体の深い所に覚えた気がした。



【 その午後に続く 】
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