第21話

文字数 10,558文字

21・ その直後

 ほとんど走らんばかりにキジスランは急ぐ。リンザン宮殿内の北西にある銀の山羊騎士団の執務室を出るや、西の中庭を目指して素早い足で進む。
 神経はひりついている。頭の中にハ―リジュ外交官の徹頭徹尾に合理的な顔が浮かび、強い苛立ちに駆られる。苛立ちながらハ―リジュの顔を思い浮かべる。
 ……
「貴方がアイバース家のキジスラン公子ですか」
 初めて会ったのは、白羊城だ。
 新たに赴任してきた外交官として挨拶を申し出て来た時だ。城内の南棟の小応接室内で、人払いを求められて二人だけで対面した時だ。
 ハ―リジュは、自国バンツィ・ラーヌン公国・ティドリア域の外交の現状を語った。全く無駄のない口調と説明内容だった。とても二十歳になったばかりとは思えない、実はその倍の年齢なのではと思わせるほどの知性、そして老成感が、強い印象となった。
 ……
「アイバース家のキジスラン公子。お久しぶりです。貴方様の消息が判りましたことをリンザン教会に感謝致します」
 再会は、騎士叙任式直後の、騎士団の執務室だった。その時もやはり、印象は変わっていなかった。独特の感情を含まない口調も、無機質な表情も、全く無駄を削いでいきなり核心を突いて来る不躾すれすれの強引な会話も、以前と寸分もたがわなかった。
「お聞き及びでしょうが、貴方様を銀の山羊騎士団騎士に推挙するようにとザカーリ猊下に進言をしたのは、私です」
「……。いえ、知りませんでした」
「そうですか。まさか御存知ないとは思いませんでした。もっとも、これは問い掛け自身が瑣末でしたね。取り消します」
「……」
「かつて私がラーヌンに駐在していた時期、私は我が共和国の執政委員会の指示により、ムアザフ・アイバース公の後継者問題を調査していました。これがカイバート公子の登位で決着した後は、新公の領土拡張政策および、それの各国への影響の情報収集していました。その任務の中途で、全く想定外にも長期の消息不明であった貴方様と遭遇出来たという展開となりました。
 率直なところ、この遭遇・再会には感慨を覚えています。これにより、対ラーヌン外交に有効な指針を構築出来ましたので」
「……」
「さらに率直を伝えるならば、私は信仰心を持ち合わせていません。ですが今回、ここリンザン教国において信じ難い偶然の許に貴方様と再会した展開には、世間で言われている“神の思し召し”という奇遇も実在するのだとの、新たな感想を得ることが出来ました」
「……」
 無表情で語ってゆくこの言葉に対し、どう受け答えれば良い?と、酷く当惑を覚えたのを記憶していた。
 この後の日々もずっと、その徹底して冴えわたる合理思考を発揮し続けてきた。一年半の時間の中で、優秀きわまった手法で現実の上に筋書きを描いていった。無為・不安・葛藤の中でうごめくしかなかった自分とは全く逆に、明快に、堅実に、適切そのものに現実を進め続けてきた。
 続けてきたのだが、
(だからと言って進め過ぎだ!)
 ……
 キリキリと神経を逆撫でる苛立ちを覚えながら、人の往来の多い階段を降りてゆく。多くの人々とすれ違い、その何人かは話しかけようとするが、それを全て無視する。キジスランは走る様な足で西の中庭目指して進んでゆく。
 つい先程だ。
 事務官との書面の確認を終えて、騎士団執務室を出たところだ。アルア城砦の城主名代とすれ違った時だ。主戦派として討議の際にはいつも不服顔をまき散らしていた相手が、
「キジスラン公子。何とも楽しみですね」
満面に上機嫌をたたえて話しかけてきたのだ。
「いつ頃になるでしょうかね。ラーヌン新公の返信は」
「え? ――何ですか?」
「カイバート公宛に発した、第一報の書簡ですよ。向こうがどんな文面の返信を送って来るか、大いに気になります」
「――。もう、カイバートに、書簡を送ったのか?」
「ええ。数日前にハ―リジュ外交官が送付したと、昨日ハ―リジュ殿から直接聞きました。ようやく始まりましたね。散々待たされましたがついに、ようやくついに、交渉の段階が始まったんですよっ。
 貴殿はまだ聞いていないのですか?」
「――」
 聞いていない。自分の知らないところでの大きな展開に唖然と驚き、キジスランは言葉が出ない。驚きはすぐに苛立ちに転じた。その場から早足で歩み出した。
 ……
 ドーライは有能だ。
「スレーイデ騎士に会いたい、今すぐにだ!」
 ただ一言の強い命令だけで、広大な宮殿の中から素早くスレーイデの所在を探し当てた。秋だというのに強い陽射しに溢れる西の中庭へと、キジスランを最短の道筋で案内してくれた。
 こじんまりとした方形の空間には、多数の果樹の鉢が豊かに並べられている。その奥の方の一角、緑色を基調としたクッションの配されたベンチに、スレーイデは一人座っていた。見つけるやキジスランは、不躾な大声を張り上げた。
「本当にハ―リジュは、カイバートに使者を送ったのかっ。勝手にっ」
 驚いたよう、スレーイデは振り向く。
 身分ある来客との接見でもあったのだろうか。青色の高級な礼服をまとったスレーイデは、いつもにも増して品位に満ちた印象だった。興奮した顔の相手を見据え、まずは会釈をしてから、
「ええ。その様です」
答えた。
「いつだっ」
「四日前だそうです。『先代ムアザフ・アイバース公の急死に関して虚偽がある』との内容の告発状を、ハ―リジュ外交官はラーヌン新公に宛てて発送したと聞きました。
 ――こんにちは。キジスラン公子」
「私は聞いてないぞっ。なぜ私に知らせず、議事にもかけずにこんな重要な事項を勝手に進めたんだっ」
「ハ―リジュ外交官の判断です。私も詳細は聞いていませんが、おそらくレイバール国との意向調整が予想外に速く進んだのでは。その上で、次回の会合を待っていたのでは時間的にも手法的にも無駄が多いと判断したのでは」
「――」
「キジスラン公子。計画の進捗は、事態を総合的に把握しているハ―リジュ外交官に任せるのがよろしいのではと、私は思います。――貴方が何を焦っていられるのかは分かりませんが、少し落ち着いては?」
 いかにもこの男らしい落ち着いた口調で示唆してゆく。その正論に、キジスランは反論できない。己の苛立ちが恥ずかしく、しかし苛立ちは消えず、ゆえに黙してしまう。
「確かに今回のハ―リジュ外交官の手法は、独断的です。が、すでにアルア城砦への軍事侵攻が目前と思われる現状では、時間を無駄に出来ないと判断したのでしょう。今は何を置いてもカイバート公の次の軍事行動を回避させるべきとの指針には、私も同意します。
 この現実について、貴方はどう考えますか?」
 どう考えるか、
「――。え?」
 現実を?
 現実は、バンツィ共和国にとってもリンザン教国とっても騎士団にとっても、自分はただの駒でしかないという事。自分の意向も感情も無視し、彼らは先へ先へ、着々と現実を進めてゆくという事。好き勝手に自分を前へ押し流し、勝手に白羊城への道を作ってゆくという事。皮肉な事に。息苦しい事に。
「本日の夕刻、ハ―リジュ殿とリュシナン騎士団総長が話し合いを持つ件は御存知ですか? 貴方も参加できるように申し出ましょうか?」
 スレーイデが語り続けてゆく。
 秋だというのに、陽射しが眩しい。灰色の胴着に暑さが染み込んで来る。暑く晴れた白っぽい空を、ふと見上げる。運命の女神が皮肉好みだという古い諺を、漠然と思い出す。
 苛立ちの感情は体内にこもってゆく。内臓を圧して、どこかが少し息苦しい。スレーイデの言葉が、どこか遠くに、耳障りに聞こえる。
「キジスラン公子。聞いていますか? どうかしましたか?」
 振り向き、相手の顔を見た。
 どこか遠くに感じた。現実感が薄れている気がした。
 不規則な瞬きが続く。暑い陽射しの下、果樹のむっとした香りの中、うっすらと寒気を覚え出す。
「公子。大丈夫ですか?」
 少し離れた場に控えていたドーライが、素早く近づいてきた。
「どうされました? 御気分は?」
「――。何を?」
「急に表情が変わって、顔色が蒼ざめ出して……。お疲れですか?
 スレーイデ殿。この中庭は少し暑さが気になります。お二人でのお話の続きは、室内に戻ってからの方が良いのでは」
「そうですね。ここからだと私の居室が近い。公子、そちらへ戻りましょう。葡萄の蒸留酒があるので、まずそれを飲んで気を整えて下さい」
 そう言い終えるとスレーイデは立ち上がる。キジスランの肩を叩き、共に歩を進めようとした時だ。
「公子。スレーイデ殿。大変申し訳ありません。私は本日この後、私的な所用があります。この後は公子に同行することが出来ませんが、どうぞご容赦下さい」
 ドーライが丁寧に頭を下げて言ってきた。
 珍しい、この生真面目な目付け役が私用で傍を離れるなんて、と、少しだけキジスランは思った。それだけだった。体内に引き続いている苛立ちとも期待とも恐怖とも見分けられない感覚が不快で、あまり物を考えたくなかった。

       ・            ・           ・

 白羊城にはすでに、多くの男達が詰めかけて来ていた。
『リンザン教国にいる赤毛の公子から書簡が届き、カイバート公の虚偽の告発および軍事拡大政策の中止が求められたらしい』。
 昨夕に届いた書簡の情報はどこからともなく漏れ、あっという間に流れてしまった。たった一晩の後には、街の多くの者が知るところになってしまった。
 翌朝には早速、多数の要人達が白羊城に駆け付け出てきた。突然に起こった国難とも呼べる事態に、書簡の正しい内容の説明を、ラーヌン新公の対応の方針を知りたがり、緊張の面持ちで集まってきていた。
 彼らは全員、二階の大広間に留められ、そこでカイバート公の登場を待っていたのだが。
「カイバート公は間もなくこちらにいらっしゃいます。申し訳ありませんが、もう少しお待ちください」
 何度も当惑顔の事務官が繰り返すだけで、待っていても待っていても、カイバート公は現れなかったのだ。だから彼らは、
「今さらアイバース公の死を口実にして、内政干渉に出るとは……」
「新公の領地拡大政策への反対を示して、これだけ大きな勢力が集まり……』
「バンツィとリンザンが主導し、そこにイーラも加わり大同盟が出来上がっていて……』
「新公の強引な拡大政策が、こんな形でツケを払わされる形に……』
『結局は、新公の子供じみた強気こそが原因で……』
大広間のあちこちに散らばり好き勝手な口調で、好き勝手に、ひたすらに喋り続けるしかなかったのだ。
「まさかキジスラン公子の名前でこんな同盟が出来上がっていたなんて、誰が思った者がいるか?」
 いの一番に駆け付けた鉄細工職人組合の代表もまた、部屋の最奥でまくしたてていた。
「今さらになってまさかあの赤毛の公子が――、あんなに存在感の無かった公子がこんな大胆な事態を引き起こすなんて、諸聖人ですら見通せなかったはずだ。これに新公はどう対応する気なんだ?」
 暖炉脇の椅子にどっしりと腰かけ、部屋に入った瞬間から今に至るまで、止まることなく喋り続けている。唐突な国難への驚きと嘆きを訴えるべく、大げさな身振り手振りで喋り続けている。次々やってくる職人仲間達を相手に大げさに、丸切りどこか面白がるかのように延々と繰り返し続けている。
「記憶違いでなければ、カイバート公は義弟のことを、白羊城に来た最初の日から憎悪していたぞ。増してや、父親殺しで断罪までした相手だ。そんな相手の要求に応ずるのか? 応じなかったら大々的な戦争になるのか?
 気になるじゃないか。カイバート公はどうする心づもりなんだ?
 第一、なぜ現れない? 今どこにいるんだ?」

 カイバートは、鐘楼にいた。
 白羊城で最も高いこの場から、街の全景を見下ろしていた。
 ……秋も進んでいるのに、今日もまた好天だ。雨も霧も無く、夏を引きずるような陽差しが注いでいる。むっと湿った風が抜けて、はるか下のハルフ広場を行き交う人々の物音を運んでくる。それらを無言で見て、聞いている。
 この主君の後ろ背を、イブリスはようやく、見つけ出した。
 イブリスは生来、体力には恵まれていない。だからこの急な石段を登るために、何度か足を止めて息を継がねばならなかった。ようやく登り切れた今も、深い息と共に無言で少し休まなければならなかった。
「……」
 さらにもう一つ苦手がある。――人の情操・情感の洞察だ。
 それでも、推測ならば出来る。主君がわざわざこの鐘楼に登る時は大きな心的な変化がある時と、推測している。だから今、ずっと下を見たままの後ろ背を見据えながら、呼吸十回という充分な時間を取ってみる。それから、声掛ける。
「すでに広間に大人数が集まっていますよ」
 どんな顔をしている?
「待たせて置け」
 ラーヌン公に登位後、常に目標へ邁進し続けた。全てを、着実に成就させてきた。それが今回初めて大きな妨害に遭い、今、何を感じている?
「好きなだけ待たせて置け。文句を言い出したら、酒でも出せ。奴らだって実は騒いでるのが楽しいんだろう? たっぷり待たせれば良いさ」
 振り返った。笑んでいた。
「何だよ、その陰気臭い顔は。貴様も下に行って少し騒いできたらどうだ?」
「貴方様は、妨害を受けた事が楽しいのですか」
「さあね」
 上機嫌だった。
 昨夜の宵口に届いた告発書簡を、イブリスは一晩に渡り熟読した。完璧に取捨選択された単語使いの文章を徹底して熟読し、熟考し続けた。対抗の素案を幾つも幾つも、一目ずつ布を編み込んでいくように微細に、慎重に織り上げていった。しかし。
「勿論、今回の件への対応案ならば、いくらでも構築可能です」
「だろうな。貴様なら」
「ですが――」
 一晩を経ても織物は完成しなかった。なぜなら、最も重要な要素が読み込めないから。だから明るい陽射しの下、主君の顔を見て正面から訊ねた。
「貴方は、義弟を完全に潰したいと望んでいるのですか」
「――」
「抹殺して構わないと解釈して良いのですか。その様な対抗策を構築して良いのですか」
「良いよ」
 本当に?
 理論であれば幾らでも分析できる。だが、人の情緒は理解に難しい。この自然な笑顔が本心なのか否か、どうしても判断出来ない。困惑と躊躇という、自身には珍しい感覚を自覚し、さらなる質問をすべきか否か迷ってしまう。無言になってしまう。
 その目の前でカイバートは、白く晴れ渡っている空を見上げた。全く自然に話題を変えた。
「しかし、本当に今年の天気はおかしいな。いつになったら涼しくなるんだ。空気も妙にべたついていて、こんな気候はおかしい」
「――そうですね」
「今のところまだ穀物や野菜への出来に影響は出てないが、この天気が続くようだと嫌な見通しになりかねないぞ。
 それにマテイラだ。暑さが続いてマテイラの体調や腹の子に障るようなら、本当にまずい」
「ええ。そうですね」
 白い陽射しに覆われた耕作地の方を、眩しそうな遠い眼で見ている。はっきりと喜怒哀楽を示す男が、何か少し印象を変えているような気がする。
「暑い。眩しいし、嫌な天候だ」
本当に、人の感情の機微は把握に難しいと、イブリスに再認識させる。

        ・            ・           ・

 リンザンの街を出て小街道を東へ進んでいくと、平らかな田園は姿を変え始める。
 地面が起伏を帯び、緩やかな丘がちの地形となってゆく。その丘の頂の辺りに所どころ、塔や城砦が姿を見せ始める。
 丘の狭間の小街道をたどっていたドーライは、やがて道を左へ折れた。北側にそびえる丘の、その中腹にそそり立つ小城砦の方へ、ゆっくりと斜面を登り始めていた。
 午後も遅い時刻だ。陽射しは強く、暑い。しかも今日は空気が湿度を含んでいる。自分も自分の跨る黒馬も、横陽を浴び続けてびっしょりの汗をかいていた。ようやく城砦に到着し、城門が作る日陰に入った時には、思わず大きな息を吐き、水筒の水を一気に飲まずにはいられなかった。
 城門上の物見台にはすでに衛兵がおり、自分を見下ろしてる。水を飲み終えると、彼はまず一礼をした。それから大きな声で用件を伝えた。
「リンザン教会・副教王猊下ザカーリ様のご下命により、こちらへ来ました」
 ――
 小さな城だ。だが頑健な造りだ。と、ドーライは思った。
 教会の所有になるこの小城砦の役割は、付近の他の城と同様、街道筋の監視だった。だがこの一年程はそれに加えてもう一つ、奇妙な役割を負うことになっていた。ただ一人の囚人を投獄する場となり、その為に何人もの者が送り込まれ、頻繁に様子をうかがう者が訪問するようになっていた。
「貴方は、ここは初めてですか」
 獄吏の一人が、延々と続く長い階段を登りながら、訪問者に尋ねる。
「はい」
とドーライは頷きながら、急な石段を登ってゆく。意外なことに、魔物の囚人が繋がれているのは地階や半地下や最下層ではなく、城の最上階だった。
「すでにこの者については、知っていますか」
「はい」
「ならば周知とは思いますが、充分に気を付けて下さい。危険ですから」
「危険?」
 違和感に、足が止まる。
「危険があるのですか? 独房の内に厳重に拘束されていると聞きましたが、違うのですか?」
「――。何も聞いていないのですか? 猊下やその関係の方々から何も?」
「……」
 ドーライは答えない。嘘をついているから。
 この来訪は、ザカーリの命令ではない。個人的な来訪だ。遠い日に眼前にしたあの魔力に強烈な衝撃を受け、忘れられないのだ。ずっと、ずっと気になってたまらず、その現状が気になってたまらず、だから何とか消息を探して、ここを訪れてしまったのだ。
「確かに囚人には細心の注意を払って拘束しています。それでも危険は伴いますので、決して必要以上に近づかないようにして下さい」
「それはどういう――」
「後は自身の目で確認して下さい。ともかくも聖天使が貴方の肩にありますように」
 唐突の聖句の後も、獄吏の口はさらに何かを意味深長に語った。だがほとんど声にならず、ドーライには聞き取れなかった。
 二人は残りの石段を登り切る。最上階に達し、獄吏は通廊の右手を指差す。
「一番奥の部屋です」
 通廊には誰も居なかった。
 なぜ? 極めて重要な囚人の房だというのに、兵士なり監吏なり扉を監視する者がいないなんて。これのどこが厳重な拘束なんだ? と訊ねようとした時だ。
「――。え?」
 驚いたことに、獄吏は独りで早々に階段を下り去ってしまったのだ。
 奇異と困惑のまま、低い息を吐いた。それでもゆっくりとドーライは歩み出す。薄暗い通廊の最奥の、七番目の部屋を目指す。
 誰も居ない。音も消えている。空気の中にチリチリとした異質感を覚え、自分が強い不安を帯びているのを自覚する。その緊張感の中、六番目の部屋まで達した時、
「あああああ――っ あ――! あああったあ――!」
 凄まじい音に、全身に恐怖が走った!
 直後、人の叫び声だと気付き、そのことに驚く。丸切り獣の凄まじい声で喚いている。だがもっと驚くのは、聖者よ――、
「あああったあぁ――! 貴様――に――――っ、会ったぁ――! 来い――!」
 なぜ自分がここにいるのが解かるんだっ。独房内に居るのに、見えてないのに、なぜ自分が分かるんだっ。
「来い――! 早く、来い――早く――早く――早く――!」
 全身を恐怖が縛り、足が強張った。“信仰を貫く者に天上の光あれ”の聖典句を早口で四回唱えた。
「早く――早くしろ、来いぃ――! 来て、言え――! 貴様――――キジス……キジスラン様――、早く……!」
 それでも、唾を飲みほして進み出る。口の中で無限に繰り返す“護り給え”と共に、部屋に達する。
 目の前の扉には、鉄鋲と鉄板がこれでもかと頑丈に打ち付けられていた。僅かに小さな覗き窓が付いていた。
「早くぅぅ――――! なぜ……キジ――スラン様に――なぜ――! 貴様が――会ったからぁぁ……キジスラン様の――――!」
 咆哮のような巨大な喚き声が、続いている。覗き窓から中を見て良いのか? このまま何も見ずに踵を返した方良いのか?
『殺してやる! 殺す!』 
 あの時の衝撃が忘れられない。なぜあのような悪魔の力の者が存在するのかが理解できず、気になって仕方がない。この男に何があったのか。生まれた時から魔力を持っていたのか。それとも悪魔と出会って力を得たのか。この後どのような命運をたどるのか。――そしてどうすれば、神の御慈悲の許に救われるのか。
「早くううう――! 何を――来い――――!」
“肩に居る聖天使よ、護り給え、我を護り給え”。
 ドーライは前に出た。覗き窓から中を見た。
 見えたのは闇だ。広い闇の獄舎の一番奥に、何かが激しく動いている。目が慣れるまでの一瞬を途方も無く長く感じ、ついに目が慣れた時。
“護り給え――”
 灰色の獣が、必死で暴れていた。四肢を鉄鎖で石壁に繋がれているというのに、それを引きちぎらんばかりに暴れている。鼻を突く腐臭の中、汚れるだけ汚れた襤褸のような服の中、極限まで瘦せ細った全身が、なのに信じられない力で暴れている。叫んでいる。
「貴様――――言えぇ――! キジスラン様は――! 言わないなら――貴様――、言わないならぁぁ――っ、殺す――――!」
 汚れに塗れた灰色の顔の中心、黒い眼が光っていたのだ。
 あの眼。公子を拷問によって口を割らせようとした時、彼はあの極限まで見開かれた魔物の眼で人を殺した!
 反射的に身を引き、視線から逃げる。心臓の鼓動が耐えられないほど強まっている。胸が痛い。打たれた様に痛い。もしかしてこの鼓動は収まらないのか? そしてそのまま死ぬのか? あの拷問の時の男達と同じように?
 嫌だ! 反射的、叫んだ。
「公子は、無事だっ」
 瞬間、全てが静まる。が、次の瞬間、再び壮絶な叫びと鉄鎖の音が始まるる。思わず目を強く閉じ恐怖に身を縮める。
「無事だからっ。聖者の御名において安全だから――だから教えて欲しいっ」
 怖い。それでも勇気をもって続ける。その為に来たのだから。聖者を思い浮かべながら発する。
「貴方はなぜ人を殺せるのだ? どうやってその悪魔の力を得たのだっ」
「――」
「貴方がザカーリ猊下にとって重要な絵を隠していると、そのせいで貴方とキジスラン公子が猊下から憎悪を買ったと、知っている。
 だが今、公子は猊下の庇護の許にいる。自由と安全は保証されている。何の心配も要らない。
 しかし、貴方は違う。貴方はいつ火刑台へ送られるとも解からない」
「――」
「貴方はずっと公子を支え、苦楽を共にしてきたと聞いた。だから、何とか貴方を助けたい。その為にも、あなたの魔力について教えて欲しい。もしそれが消せるのだったら、そうだったら、消したい。貴方を助けたい。天上の絶対者と万聖人の栄光と御業を知らしめるべく、救えるのだったら貴方を救いたい」
「――」
 咆哮も怒声も鎖の音も消えている。長い静寂になっている。ドーライは懸命に深い息を突き、恐怖と胸の痛みをこらえ続ける。
 と。一転した。
 女の様に細い金切り声が響き出した。ドーライは混乱する。何がどう転じたのか解らず混乱する。額と掌に汗が生じる。それでも、
“神の御業を。御業と御慈悲を示し、救済を”!
 恐怖を殺し、勇気を絞って前へ進む。もう一度、中を覗き見る。
 従者・ルシドは、伏していた。先程とは一転、汚れだらけの石床の上で伏して動かなくなった。ただ細い、長い泣き声だけを延々と続けていた。
「一体……貴方は、何が……」
 ゆっくり顔を上げた。静かにドーライを見た。
「生まれた時から――魔物だ」
「……え?」
「生まれた時から――。それでも――救うのか」
 黒い眼が、見続けている。
 怖い。だが同時に、哀意を覚える。神の恩寵を受けられなかった者に対して、純粋な憐憫を覚える。その想いを口にして伝えた方が良いのだろうか。
「貴方は、私に同情してくれる」
 偶然なのか? 先んじて言われる。
 声が出ない。憐憫と恐怖の間に反応出来ずに立ちつくしてしまう。――いや。それでも救わないと。なぜならこの者も含め、地上の存在は全て、神の恩寵に浴するべきなのだから。
「“天使は肩の上に。天上の絶対者は信仰を貫く者を決し”――」
 突然、咆哮が再開された。ドーライは驚く。はっと振り向いた視界、右手の階段口に、先ほどの獄吏が現れていた。
「行くなあぁぁ――! もっと――もっと話せええ――! 去るなああぁぁぁ――!」
 鎖が大きく揺さぶられて激しく鳴り響く。凄まじい咆哮と混ざり合う。耐え続けてきた神経が、ついに屈した。恐怖に圧され耐え切れず、石床を蹴って急いで獄吏の方へ駆ける。押し殺して来た緊張感が混乱し、全身を襲う。
「行くなあぁぁ――! 見捨てるなあぁ――っ、戻れ――見捨てるなぁぁぁ――!」
 感情が奔流となり、両目に涙があふれ出た。そのまま獄吏の許まで走った。逃げるように階段を下った。
「如何でしたか?」
 すぐ後ろを追いかけながら、他人事のように訊ねてくる。
「貴方は猊下からも誰からも、何も聞かされていなかった様ですね」
「……はい」
 足が止まってしまう。体を曲げながら呼吸をする。獄吏もまた足を止めた。その場で淡々と説明を始めた。
 ――あの囚人に不用意に近づいてしまったことで、すでに二人の獄吏が死んだ事。
 ――誰もが命を惜しがり、今や誰一人としてあの獄に近づかない事。
 ――日に一回、何の事情も知らない城下村の爺が食事を運ぶ以外、誰とも接触がなくなっている事。そのような状態で、すでに一年以上が過ぎている事。
 神の恩寵から見放された、全く救済の無い存在。
「一刻も早く焼き殺したいのに。どうしようも出来ない。今後どう扱えばいいのか判断できず、ザカーリ猊下も苦慮をされていると聞いています」
「……」
「正直なところ、どうすれば殺せるんだ? あの地獄の魔物は?」
「神よ。あの者を憐み、あの者の魂を救い給え」
 無意識のうちに呟いたが、獄吏は気づかなかった。涙もまた無自覚の内に、頬に伝わっていた。


【 その二か月後に続く 】
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