第26話

文字数 9,738文字

26・ その三日後

 三日後。カイバートは倒れた。危篤に陥った。
 ――
 その日。
 ラーヌン公はいつも通りに多数の人々に接しながら、精力的に執務をこなしていた。進攻布告を受けてやるべき事なら幾らでもあり、それを夢中でこなしていた。その間にも、
「何でこんなに暑いんだ」
と、繰り返していた。確かに今年は天気も気温も不安定だったが、さすがにもう冬の寒さは始まっていたのに。
「貴方のここ数日の口癖になってますよ。今日は雨も降ってるし、こんな日に暑いなんていう人間は天国から見放された背教者ですよ。まさに貴方ですよ」
 例によってマラクは、からかいながら返す。返しながら頭の隅のどこかで、つい先刻のマテイラ公妃との会話を思い出す。
 ……
「カイバート様の事だけれど、この数日、かなり疲れているみたいなの」
 彼女もまた汗をにじませて暑そうだったが、これは勿論、妊婦のゆえだ。
 長椅子に座したラーヌン公妃は、丸々と膨れた腹をゆったりとした上衣で覆っている。周囲の侍女達に風を送られたり、水を勧められたりしながら、呼び出したマラクに真剣な顔で訊ねて始める。
「ずっと遠征の準備やザフラ会談の準備に追われて……。出陣して戻ってきたらすぐに破門騒動が起って、そしてついに軍隊が攻めてくるかもという事態でしょう? ずっと政務に追われて、さすがに疲れが溜まっているみたい。さっきも一緒に食事をとったのだけれど、こんなに肌寒い朝なのに暑い暑いと繰り返すし、どこか体が変なのじゃないかしら? 少し休まれた方が良いと思うんだけれど……」
「あの方の場合は、動き回っていないと死んじゃうんですよ」
 にっこりとマラクは笑った。
「まあ少しは休めとは、俺も思ってますけどね。でも俺どころか審判天使が言ったって絶対に従わないでしょうけどね。
大丈夫ですよ。とにかく元が魔物みたいに頑丈な人だから」
 まっさらな笑を、真正面から見せてくる。つられるようマテイラも僅かに口許を上げ、ふぅーと息を突く。
 取り敢えず、この若者は好きだ。白羊城に来て沢山の人と出会ったが、この若者は一番好きな一人だ。いつも明るくて楽しくて、今もその通り、憂鬱な雨空を消し飛ばす元気を室内にまいてくれる。それに。
「もう一つ。マラク、ここだけの話……教えてくれる? 今回の件……」
「何です?」
「今回の戦役の件――。
 初めて聞いた時は怖くて取り乱してしまったけれど……。でも、殿は心配しなくていいって……。
 これは、信じて良いの? 本当のところは、どうなの? 同盟側の軍勢を敵に回しているのに、本当にラーヌンは無事なの? 本当の本当に心配しなくて良いの?」
「俺も最初はもう、本気でびっくりしましたけどね。でもまあ、こっちも大丈夫ですよ。おそらく進攻はあっても、実際の戦闘にはなりません。双方ともが外交交渉に持って行きたがるはずです」
 簡単に言った。ずっと心を苛んできた不安を、一瞬で吹き飛ばしてくれた。
 こうしてマラクは、いつもはっきり答えてくれる。訊ねれば何時でも、どんな状況も隠しだてせず解りやすく教えてくれる。だから大好きだ。
 マラクは卓上にあった、公妃の滋養にと遠地から運ばれた干しショウガに手を伸ばす。高価な品だというのに遠慮なくつまみ上げ、口に放り込んだ。
「まだ公にはなってませんが、あっちの陣営からも内々で、交渉を望む旨の書簡が来ていますから。しかも何故だか、複数の筋から別々にね。
 すでにイブリスが水面下で対応しているみたいですよ。まあ、こっちは一度条約破りをしていますから、ちょっと不利な折衝になるかも知れませんが」
「殿が条約を破ったから……」
「はい。元を正せば。――これ、苦くて変な味ですね」
「あちらはそのくらい殿の事を怒っているって事でしょう?」
「そりゃもう。お陰でリンザン教会から破門宣告されましたからね。まあ勿論、そんな事を気にするような方ではないけど。端から天国なんか平和すぎて詰まらない、誰が行くかって思っているんじゃないかな?
 この分だと、またまた条約破りをするかもしれませんよ。そうしたらまたまたまた、ラーヌンの危機だ。今度はもっとすごい事が起こるかもしれませんよ? 御腹の御子も驚いて飛び出してきちゃうかも知れませんよ?」
 懸命にショウガを噛みながら、普通に言う。ニコニコ笑う。こちらも思わず笑まずにいられない気にさせられる。
 決して不安が消え切った訳では無いが、でも現実は思っていたほどは深刻でないらしい。少なくとも自分や、自分達夫婦や、それからこの白羊城ででは、幸福な日常がこの先も消えずに続いてゆくらしい。彼女に深い安堵の感情を覚えさせてくれる。
「これ、やっぱり苦くて美味しくないよ。普通の干し果物はないの? ブドウとかリンゴとか?」
 下品にも口の中からショウガを出しながら横の侍女に言った途端、
「図々しいわね! これがどんなに貴重な品かも解らないくせに!」
若い侍女は大声で怒鳴り、周りから笑いが起こった。
 マテイラも笑う。本当にこの青年がいるだけで、空気が変わって嬉しい。いつも楽しい無邪気な言動ばかりだ、だから誰からも素直に好かれるんだと、心から思う。
 つまり――彼女も知らないのだ。
 マラクはとっくに、敵主宰のキジスランに書簡を送っていたのだ。必ずキジスランに『お前を許すから自分の事も許して欲しい。また会いたい』と言わせる、切々と情に訴える手紙を送っていたのだ。幸運の女神がどっちに微笑んでもこのまま白羊城に居続けられるべく、すでに、とっくに行動していたことを、彼女も誰も知らないのだ。
 仕方ないわね、他の干し果物を持って来て上げてと、公妃は明るく告げた。さらにマラクとのお喋りを続けた。
 窓の外では、雨が強まっている。その中、ハルフ広場を行き交う人々の音が響いている。今日もやはりいつも通りの日常が続いている事を告げている。
 ――カイバートが倒れたのは、その夜だったのだ。
 
 寝台の上で、カイバートは苦痛の表情をさらしている。朦朧の意識の中で、ひたすら『暑い』を漏らし続けている。
 すでに寝室内には、白羊城の男達が詰めかけていた。急遽に呼び出された医者が横たわる患者の顔・目・舌・皮膚を慎重に診るのを、じっと見守っていた。医者の顔が徐々に歪んでいくのを、息を殺して見守り続けていた。――そして。
「疫病です。皆様はすぐに退室して下さい」
 彼らの顔色が同時、一斉に変わった。
「疫病です。イーラ国始め幾つかの土地で発生したとは聞きましたが、まさか白羊城で、しかもまさかカイバート公が……、まさかこんな事が……」
 一斉に、全く同じ事を思った。
 ――まさか! まさかそんな事が!
イ ブリスの顔色も変わる。彼は動揺を自覚する。この唐突の事態に思考が動かない。まさか自分の思考が停止してしまう事が信じられない。その代わりに思い出してしまう。たった数刻前の事。
 ……いつも通り、共に食後の蒸留酒を飲んでいた。
 雨が降り止まなかったので、お気に入りの二階バルコンには出ず、なぜだか城内で一番広い大広間で、二人だけで飲んでいた。高い天井を誇るだだ広い空間の中、夜の白羊城の静けさの中、揺れる灯明と雨音を傍らにしていた。今後の同盟側への対応方針を討義していた。
 それは、いつも通りだったのだ。いつも通りの日常だったのだ。たった数刻前だったのだ。
(もう戻れないのか?)
 無意味な事を思うなど、無意味だ。そう認知しながら自分は今、無意味を想っている。感情を揺さぶられている。
(戻れないのか? あの日常へ、共に杯を交わして未来を語るという幸福な日常へ、もう戻れないのか?)
 感傷という、最も不要な物に思考を奪われてしまった自らを覚える。
 その横でマラクは、猛烈な速さで思考を回していた。今一番必要な事を――どうやって白羊城から退散するかを夢中で考えていた。
(疫病なんか移されてたまるものか。嫌だ。絶対に嫌だ。すぐに城を去らないと)
 始まった大騒ぎの中、露骨な驚きといかにもな悲痛の顔を作りながら、懸命に考える。
(考えろ。大事なのは、薄情者との汚名を受けずに逃げる事だ。その為にはまず、主君の危篤を心から嘆く演技だ。その上でのさりげない態での退去だ。さあ、考えろ。どうする?)
 他の男達も一様に動揺に陥る。感情に揺り動かされ、大声での嘆き声、祈り声、早口での喋り声が無秩序に混ざり合い、狭い室内は騒然に陥る。
「静まれっ、みな静かにしろっ。議論は別室でやるべきだっ。とにかくすぐに退出しようっ」
 誰かが叫び、誰もが真実と理解した。皆が一斉に動き出す。足早に通廊へと出てゆく。
 その退出の最後だ。ジャクム傭兵将が足を止め、振り返った。医者とその助手達・医療者達に取り囲まれた寝台を見据えると、小さな声で呟いた。
「アイバース公と一緒だ」
 彼もまた、思い出しても無意味な事を思い出してしまった。それはあの日。最後の日。真昼。
 ……あの日。自分は盟友ムアザフ・アイバースと共に、執務室に居た。大きな執務卓に多数の書簡を並べ、新たな傭兵依頼の件で忌憚なく意見を交わしていた。熱心に、延々と交わしていた。
 熱くなったアイバースが、
「それでは採算が取れると思うのか!」
と怒鳴った。途端、自分も負けずに、
「採算を言うのなら、この依頼自体を受けるべきではないはずだっ。なぜ受けた!」
と声を張り上げた。互いに若造の様に顔を赤くして怒鳴り合った。それが心から愉しかった。最高に愉しかった。
「午後は客人に会わないとならない。この続きは明日の朝だ。いいか、兵数の件は絶対に譲らないからな」
 最後にアイバースはこう告げ、大きく息を突いた後、笑った。それが最期になった。その夜に倒れ、そのまま没した。
 それと全く同じ現実が今、息子のカイバートにも起こっているのだ。
「中に入れて!」
 通廊に響く。夜着のままの公妃が、泣き出しそうな顔でこちらに押しかけてくる。
「駄目ですっ、奥方様! 疫病だそうです!」
「部屋に入ってはいけませんっ、絶対にいけません! 駄目です!」
 人々が止めようと懸命になっている中、ジャクムは進み出て行くと、こんな時だというのにまずは公妃に一礼を垂れた。
「ジャクム将! 殿が――本当なの! 嘘でしょう? だって昼前に会ったのよっ、いつも通りにお話をして、今は執務が詰まっているから無理だけど、時間が取れたら一緒にサイダリの店に行こうと、そこで布地を見ようって、だから体調を崩さないようにしておけって言っていたのよっ。確かに少し疲れていて声がかすれている感じがあったけど、だからそのことを聞いたら、大丈夫だ、ただこのところ妙に暑さを感じるっていうから、それはおかしいって私が言ったら――」
 喚く様な早口が終るのを待たない、ジャクムは素早く言う。
「急いでお会いになり、すぐに退出を」
「聖者様! 何て事をっ。入っては駄目ですっ、お腹に御子までいらっしゃるのに!」
 侍女が甲高い声を無視し、彼は公妃を連れて入室してしまった。真っ直ぐに寝台へ向かい、そこで彼女は燭台の灯にさらされる夫を見た。
 ……掛布は外されている。高熱に赤くなった裸身が、光に浮かび上がっている。
 目を固く閉じ、顔は苦悶に歪んでいた。意識は有るのだろうか無いのだろうか、ただ荒い息を吐いていた。首を微かに揺らしながら、それでも「暑い」と漏らしていた。
「なぜ……」
 思わず手を伸ばし夫の顔に触ろうとするのを、ジャクムが腕を掴んで止めた。途端、マテイラは引きつけるような甲高い声を一つ上げる。嗚咽しだす。
「嫌……っ、殿が、こんな……。こんなの嫌……っ」
 常に精気にあふれ前のみを見ていた男が、こんな弱い様をさらす事が、信じられない。会った最初の瞬間から強さしか無かった男、その強さで自分を全身全霊で愛し、自分に幸福を作ってくれた男が、目の前、こんなに苦しみに顔を歪ませている。死にかけている。その現実を受け入れられない。
「嫌だから……。こんな……カイバート様……」
 ぼんやりとカイバートの目が開いた。朦朧のまま妻の方を見た。唇が僅かに動き、漏らした。
「……大丈夫だ」
 かすれ声で言い、また眼を閉じてしまった。
 室内には次々と、水桶を持った男達が入って来る。運ばれてきた防疫用の黒い外套を、医者と彼に従う医療者達が大急ぎで纏ってゆく。
「公妃様。もう御退出下さい。貴女様には安全に御子をお産み頂かないと」
 ジャクムの言葉も、彼女は聞いていない。変わりはてた夫の姿に打ちのめされ、泣く以外に何も出来ない。今の弁がいかに重要かを考えることが出来ない。
 ちらりとジャクムの眼が、右手の壁に描かれた『剛毅の聖者・カニサ』の絵を見た。聖者の右手が力強く握る巨大な剣を見た。思った。
 ――かつて、盟友アイバースが取った、その大胆な手法。
 主家の瞬間の隙をついて公国を奪取した、剛胆極まった手法。だったら自分も、今、隙を突けば良いのか? 今、この隙をつけば、同じ事が出来るのか? 自分の左手に居る、この泣き続ける女性を使えば?
 考えを消す。聖者から目を離す。
「誰か。公妃を部屋から退避させろ。いや、出来るなら白羊城から離れた方が良い。すぐに手配をしろ」
「嫌! 離れたくないっ、殿から離れたくないっ」
 泣きながら叫ぶのを、周囲の者が引っ張るようにして退出させる。通廊に出てからも喚き続け、それに侍女達も一斉に応じ、大騒ぎが辺りに響き渡る。
 室内では、医療達が一斉に防疫用の白い面を付けた。消毒用の香料が焚かれ、独特の臭いが充満し始めた。
 寝台の上、ラーヌン公が死にゆこうとしていた。

         ・           ・          ・

 重厚な色彩の天井画を誇る小会議室には、いつもと同じ面々が集まっていた。“対ラーヌン公国問題”という同じ議題を、繰り返し同じ様に討議していた。
 すでに対抗策の第2段階『ラーヌン公国への遠征』の目標は、ラーヌン公が過日に奪取したジャイニブ城に決定している。今日は遠征計画の詳細が報告されていた。今日もまたハ―リジュが、完璧な主導をしていた。
「追加となる遠征費用と、その負担配分の算出結果をお伝えします。この配分に対しては反論を中心に、皆様各々が強い主張を持たれると思いますが、まずは数値の確認からお願い致します」
巨大な黒色の円卓に座した出席者達の顔は、それぞれの思惑を示している。
 ……銀の山羊騎士団総長・リュシナンは、心底よりの不快面をさらしていた。
 彼の誇りには、余所者の若造の外交官ごときが己の騎士団と教国とを巻き込んで大事を主導するなど、不快以外の何物でもなかった。
 ……その隣で騎士・スレーイデは、苦渋を帯びていた。
 彼は昨夜、リュシナン総長に呼び出された。騎士団独自の密使として、他陣営に知られずに白羊城へ向かうことを命じられた。この行為が同盟の結束に不和の種を蒔くとは、彼の予測に充分過ぎた。
 ……副教王ザカーリは、出席していない。
 彼の政治的洞察力は、どんどんこじれるラーヌン問題への深入りを、これ以上は危険と判断したようだ。ここへきて関与を遠ざけ出した。勿論、この先において事態が好転し出せば、抜目なくまた関わってくるつもりなのだろうが。
 そして。
 ……キジスランも、同席していた。
 同席はしていた。何も見ず、何の反応もしないが。
「この配分内容についての、貴方の御意見をお願いします。キジスラン公子」
 問われ、だがキジスランは動かない。静かな呼吸七回分という無反応を経て、初めて少しだけ視線を動かし、抑揚のない声で答えた。
「今後もカイバートは、拡大を止めない。何が有っても」
「――。そうですね。それを阻止するために今、私達は集っています」
 ハ―リジュの皮肉の弁も理解できないのだろう。どころか、聞いてもないだろう。
 赤毛の同盟主催者は椅子に座したまま、もう動かなかった。生気の無い、光の無い眼のまま討議の間中ずっと、円卓の中心に置かれた“神の御前の銀山羊”の銀像を見つめ続けていた。
 この会議の終了後だった。
 小会議室から十三室を隔てた、騎士団総長の執務室だった。
 ――
「このままには進めないぞ。奴はもう名前だけの同盟主宰者では済まない。進攻という段階になれば衆目の前に姿を出さねばならないのに、あの死にかけた体たらくぶりをさらすというのか? それこそは我が騎士団の名誉を損なう事態だ」
 木彫の幾何学紋様に飾られた背椅子に深く掛けたまま、リュシナンは怒り混じりに吐き出す。不満の眼は、正面に立つハ―リジュに対しても向けられている。
 それにハ―リジュは、顔色一つ変えずに同調をした。
「御言葉の通りです。公子の体調は、大きな不安要素です。今後の軍事進攻という局面までの万全での体調の回復は、必須です。
 実際のところはどうなっているのだ? 今、何の薬を服用されているのだ?」
「いえ。公子は薬を飲んでいません」
 ハ―リジュの右側、窓のすぐ際で、ドーライは正直に答えた。
 彼は、この部屋に呼び出されたのだ。ザフラ会議以降、完全に表情を失ってしまったキジスラン公子の容態について、真っ向から様々な質問を受けることになったのだ。
「あの方は全く薬を飲んでいません。決して飲みません」
「どういう事だ」
「分かりません。薬どころか、医者に会うことも拒絶しています。
 体調も不安ですが、それにも増して御気持の方が……。正直なところ日々に生気が失われていくような印象です。とても軍事遠征に同行するなど難しいのではと思われます」
「だからその様な者に主宰を名乗らせるなど、我々の有り得ない恥辱なのだっ。
 もういい。ハ―リジュ。あの赤毛を外しての遠征計画立てろ」
「それでは今回の進攻主旨の整合性が失われてしまいます。
 ドーライ。君は公子の信頼を得ている。君が公子を説得し、医者に診させるようにしろ」
「すでにこれまでにも何度も説得を試みています。ですが――」
「それでも説得しろ。君の責任において、何としても医者にかからせ薬を飲ませるんだ」
 圧を込めてハ―リジュが命じた時だ。
 ――挨拶も何も無い、いきなりだ。
 全くいきなり、バンツィ共和国の駐在員が部屋に飛び込んできた。騎士団総長に礼を捧げず、どころか一言も無く一直線にハ―リジュの許へ駆け付けるや、素早く耳打ちをしたのだ。
(何だ、この礼儀知らずのバンツィ人はっ)
 不快そのままに怒鳴ろうとした時、リュシナンは異様を見た。
 ハ―リジュが絶句している。この男の反応としては信じられない事に、驚きに捕らわれ、そしてその顔のまま素早く発した。
「ラーヌン公カイバートが危篤。疫病の様です」
 え!
 リュシナンとドーライが全く同じ驚愕顔を示す。次の瞬間、リュシナンは椅子から立ち上がった。叫んだ。
「隔離しろ! ラーヌン公と会談したものは全員、宮殿外に出ろ! ハ―リジュ、貴様も出席している。貴様もだ、ドーライ! この部屋を去れっ、すぐに去れっ、ハ―リジュ!」
「すでに会談から十分な時間が経過しています。もしも感染していたならば、とっくに発病しているはずです」
「まさかキジスランの異常は、疫病が原因ではないのかっ」
「そんな事はありませんっ。ザフラ会談に出発の前から体調は不良気味でした。私は公子に横におりずっと見ており、その上で私――! 諸聖人よ!」
 叫んだ! 視界に窓が映ったのだ。下の広場の石畳を、正に一人が馬車寄せに向かって走っていたのだ。その者の髪が赤色だったのだ!
「公子が馬車に! 彼もこの報を聞いたんだっ、白羊城へ戻る気だ!」
「なぜ今白羊城へ戻るんだっ」
とリュシナンが訊ねる直前、ドーライは走り出そうとする。だがその肩を掴み、強引に止めた。
「なぜ! 公子が白羊城に向かってしまうっ」
 激しい動揺するドーライに、いつもの冷静な態に戻ってハ―リジュは告げた。
「今すぐ、採るべき対策をまとめる。だから待て。呼吸二十回分だけ待て」
 ――
 呼吸二十二回の後、ドーライは部屋を飛び出し全速で走ったが、間に合わなかった。
「キジスラン公子! お待ち下さい!」
 宮殿前広場に踏み出した正にその時、彼の目は馬車が門を抜けて左へ曲がるのを見捕えた。
 そのまま足を止めず、右に曲がる。広場の裏手の厩舎を目指す。その背中へ向けて遥かに遅れて走るハ―リジュが、苦しそうに息を切らせながら叫んだ。
「今後逐次に指示を送るので、その指示通りに確実に動けっ。今はとにかく公子に追いついて足止めろっ」
 最後には律義にも、
「残念だが呼吸二十回では、最終的な対応までは講じきれなかった」
と付け加えて。
 ……馬に跨り、宮殿を飛び出す。全速で馬を駆る。
 街の裏通りを何度も曲がる。街を出た後も丘を抜ける脇道を選んで走る。とにかく馬車への先回りを目指す。
 傾斜の多い道を走り続け、全身が汗と渇きに覆われた頃、ついに脇道は北街道と合流した。丘から一転、大きく開かれた視界の中、田園の中、初めてドーライは馬を止めた。
「神は人の願いを見通されよ。受け入れられよ」
 感謝の句を声にする。広がる麦畑の真ん真ん中を抜ける街道の上を、後方からこちらへと走って来る馬車の姿を見とめたのだ。即座に馬車へと向かい、
「止まれっ、キジスラン公子に話がある!」
 ドーライは叫ぶ。強引に止めさせる。途端、
「止めるな! 邪魔するなっ、ドーライ!」
 文字通り目を剥き、噛みつく様な顔だった。つい今朝方の虚ろの眼から一転、怒りを剥きだして馬車から飛び出してきたのだ。
「死んでしまう! カイバートが疫病で――すぐラーヌンへ行くっ、邪魔するな!」
「聞いて下さい、ハ―リジュ外交官がこの件――」
「邪魔をするなら殺すぞ!」
 下馬した相手を、満身の力で突き飛ばした。泥に落され、ドーライは唖然と驚く。が、それは隠す。落ち着いた態を貫き、腰の水筒を差し出す。
「邪魔はしません、とにかく落ち着いて、私の話を聞いて下さい。まず水を一杯飲んで下さい。それから――」
「毒だろう!」
「え?」
「解ってる、毒だ! いつもだっ、いつも、いつだって私の邪魔するのは毒だっ。いつでもだ!」
 自嘲しようとし泣きそうに怒っている。さらに殴りかかろうとするのを素早く避け、腕を掴んで止める。途端、獣じみた叫びを上げる。
「落ち着いて下さいっ。貴方が心底よりカイバート公に執着していることは察しています。だから今、危篤の報に激しく動揺されている事も理解します。聞いて下さい。貴方はラーヌンへ行けます。ラーヌンへ行って頂きます。そうハ―リジュ外交官が望んでいます」
「嘘だっ」
「本当です。ハ―リジュ外交官が急遽、この件の対策方針を講じました。その内容については、これから馬車内で説明をしますので、まずは落ち着いて水を飲んで下さい。その上でハ―リジュ氏の作――」
「ハ―リジュは関係ない! 時間が無いっ、疫病なんだっ、死んでしまう! アイバース公もあっという間に死んでしまったんだっ。私は今すぐカイバート――白羊城に……!」
「白羊城へ行きます。私も同行します。信じて下さい。私は常に、貴方の味方です」
「――」
「白羊城へ行きましょう。その前にまず水を飲んで落ち着いて下さい。それから馬車に乗って下さい。そこでハ―リジュ外交官の作った案をお話しします。
 ――私を信じて下さい」
 泣きそうに怒り、なのに自分を見る。すがろうとする。自分の感情を掴めず選べない子供の様に、何も出来ずに混乱している。
「さあ。これを」
 何も出来ない。だから差し出された水筒を受け取った。水を飲むや、呻きにも紛う息をキジスランは吐き出した。
「馬車に乗り、白羊城へ行きましょう」
 言われた通り馬車に戻るや、ドーライも追うように同乗する。御者に全速で走れっ、と命し、泥をねじるように車輪が動き出す。
 激しく揺れる車内で、キジスランはもう何も喋らなかった。選べない感情のまま、必死で窓から前方を見ていた。その姿を見ながら、ドーライはついてしまった嘘を、聖者とキジスランとに秘かに謝罪していた。


【 その翌日に続く 】
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