第29話

文字数 12,975文字

29・ その翌日

 風の強い夕刻となった。
 上空には黒い雲が流れ続けている。間もなく雨が来る。風が含む冷気と湿度が、それを告げている。
 ジャクム将はゆっくりと馬から降り、街道の地面に立った。灰色の髪が大きく風に揺らいだ。
 タリアは一言も無く馬車から降りた。装飾の無い黒一色の外套が、重く風をはらんだ。何も示さない顔で、まずは雲の流れる暗い空を見た。
 領境を目前に、バラドの耕地は見渡す限りが平らかだった。初冬の寒々しい、色彩の無い風景だった。湿った暗色の土だけがむき出しになり、その上を真っ直ぐ街道が貫いていた。この褪せた風景のただ中に、白羊城派遣のジャクム率いる小隊は到着した。
 ジャクムと同行者・タリアは、話すことも無い。ただ風の抜ける街道の先を見ている。そこにある数本のポプラ樹が、風に大きく揺れ動くのを見続けている。
 風が止まない。風音が耳を切り続ける。そして。やがて。
「来たようですね」
 ポプラ樹の向こうに少しずつ、黒い影が現れ出していた。
 強い風を受ける旗に、剣と天秤の図章が描かれている。リンザン教国の軍勢は、総勢で三百兵程に見えた。領境を目前に、戦闘にも備えられるべく隊列を作り接近して来た。
「行きましょう」
 歩き始めたタリアの眼が、強張るように見据える。騎馬の指揮官達を順々に見回してゆくが、そこに見出せず、今度は後方の馬車を求める。立ち上がり剣を抱く山羊をかたどった騎士団図章の馬車を、じっと見る。
 両軍勢ともにゆっくりと進み出る。領境を示す聖カニサの祠とポプラの許へ達すると、ジャクムが自兵の一人を、敵勢の許に走らせた。戦闘の意志は無い事を伝え、互いの行軍の停止と、代表者同士の接見を求めた。
 タリアは馬車を見続ける。扉が開き、中から騎士の濃紺の武衣をまとった者が出てくるのを見続ける。強い横風を受けながらこちらに歩んでくるのを、輪郭が大きくなってくるのを、やがて自分の目の前に立ち無言で一礼を垂れるのを、まるで続き絵のように漠然と見続ける。
「お久しぶりです。タリア夫人」
 相手が、自分の名を言った。淡と。
 その一言だけで、判った。
「久しぶりです。キジスラン公子」
 この義息の心情は自分と一緒だと、判った。相手の眼でも、判った。自分を見ているが捕えない、遠い眼だ。
 自分と同じだ。感情はもう、時間の中で塵に埋もれてしまっている。
“貴方が婚姻の相手だったら良かったのに……”
 あの時、相手を心底から求めた感情は真実だった、だが――過去だ。時間という現実を経た果てに、今はもう霧散した。
“行ってしまうの? すぐ戻るって言ってっ”
 あれは、白羊城に馴染むことの出来ない者同士の感情が、運命の女神の皮肉に導かれただけだ。白羊城において満たされなさを引きずる者同士だったという、そんな空虚な偶然だけだった。
 今は、二人共が白羊城を出た。もう相手に何かを感じることは出来ない。あの日のあの瞬間に互いの想いが重なったことは、遠い奇跡だった。
「……」
 不思議な程に言葉は出なかった。互いに話すことが無かった。僅か呼吸の二回を経ただけで、キジスランの眼はタリアを離れ、ジャクムに向かった。
「カイバートは?」
「キジスラン公子。ご無沙汰をしております。御変わりは有りませんでしたか?」
「挨拶はいい。カイバートの病状は?」
「――」
「カイバートはっ」
「亡くなられました」
 風が音を立てている。キジスランは言葉を発さない。
「昨夜、夜半を前に亡くなられました。今現在、白羊城内において、葬儀について討議をしています。リンザン正教より破門中であるので、どのような形にて葬儀を執り行うかについて」
 風の中、無言の表情がさらされ続ける。そのまま表情は動かず、硬直した。いや、僅かに唇が動いた。
“嫌だ”
 濃紺の外套が大きく揺れている。革の手袋の右指が、僅かに動いている。繰り返す。
 嫌だ。
「キジスラン公子。白羊城の総意におき、貴方様には城内への御帰還を要請致します。貴方様の安全は、先代アイバース公以来、二代のラーヌン公への忠勤を誇りとする私の名誉において、保証を致します。貴方様の御体に傷一つでも付いた場合には、私は即座に我が身が八つ裂かれることを受け入れます」
 嫌だから。守護天使よ。
 後方では、同じく白羊城の政務官から報告を受けたスレーイデが、顔色を変えている。キジスランは動かない。唇だけが無言で訴え続ける。否定する。
 嫌だ。諸聖人よ。嫌だ。嫌だ。神よ。嘘だ。嫌だ。
「なお、カイバート公の亡くなられる直前に、マテイラ公妃が御出産されました。難産とはなりましたが、無事の御誕生となりました。――姫君でした。
もしも御子が男子であれば、公位を継承して頂く事も有り得たのですが、神の御意思の許にそうはなりませんでした」
 嫌だ。こんなの嘘だ。嫌だ。誰かが嘘を付いている。
「ですので白羊城としては、アイバース公第二子である貴方様においてラーヌン公座にお就き頂きたく願い上げます。ともかくも一度白羊城に来て頂き話し合いを持ちたいとが、白羊城執政関係者の総意です。よろしく御願い致します」
 嘘だから。誰かが酷い嘘を付いている。なぜ?
 だって、カイバートに会いたかった。
 母親の遺言も、母親の死の真相も、ルシドの予言も、そんなものどうでも良かった。ただの口実だ。カイバートに会いたかっただけだ。それが、出来なくなったのか? 永久に? もう居ないのか? 本当にカイバートは死んだのか?
 違う。嘘だ。
「キジスラン公子。聞いていますか?」
「……嘘だ」
「死の詳細についても、その場に立ち会った者が報告を致します。
 公子。このまますぐに帰城して頂きたい。軍勢についても、街の市壁の許までの進軍は許可すると決議されています。これからすぐ――」
「嫌だ」
「白羊城に御帰還頂けませんか」
「嘘だからっ」
「公子?」
「大嘘を付くな! 嫌だ――――!」
 奇声のような甲高い悲鳴が風音を破った。
 驚くジャクムの目の前、キジスランは泥の地面に両膝を落した。顔に手を当て、体を折り曲げ、引きつった大声で叫びながら泣き出しのだ。
「公子っ、どうなさったっ、しっかりして下さいっ」
 即座スレーイデが走り寄る。腕を掴み立たせようとするが、立たない。拒否し、そのまま身を伏し、人目もはばからず激しく、見苦しく泣き続ける。
 唐突にタリアが見捨てた。踵を返し、馬車に戻り始めた。
「タリア夫人。公子に声を掛けて下さい。私達はどうしても彼に白羊城に来ていただく必要があります。説得して下さい」
「私は説得など出来ませんから」
「それは困りますっ。今回、貴女様に御同行頂いた主旨は、白羊城の――」
「公子が何を望んでいるのか、私には解りません。ですので何も出来ません。
 もう私は、この場には必要ないでしょうから」
 あっさり言い切る。挨拶も無い。もう足元で泣くキジスランに一瞥も残すこと無く馬車へと戻ってしまった。ジャクムに驚きと不快と不可解とを同時に押し付けた。それでも彼は現実を動かしてゆこうとする。
「スレーイデ。どこまで報告を聞いた?」
「お久しぶりです。御元気で何よりです、ジャクム将。
 たった今、カイバート公が亡くなり、後継の男児も産まれなかったとの報を聞きました」
「この国難に対応するため、白羊城はキジスラン公子に公位座に就いて欲しいと決議した。これを、リンザン教国および銀の山羊騎士団の名代として承認して欲しい」
「公子が、新ラーヌン公――」
 その時スレーイデの端正の眼は、現実へ対峙する緊張を示した。
 今、自分の決する選択は、多くの者の未来に巨大な影響を与える。同盟の未来、騎士団の未来、リンザン教国の未来、ラーヌン公国の未来、キジスラン公子の未来。そして、自分自身の未来……。
「スレーイデ。返答しろ」
「……。貴方の御意見は? ――確認をとらせて下さい。貴方も真意よりこれを支持されるのですか?」
「君も知る通り、私もまた、アイバース公が育てたこの公国と白羊城を愛している。
ラーヌン公国を混乱に落しかねない現状を回避するために、私はこの措置を、支持する。単なる傀儡としての一時的な公位でも構わない。とにかく今は、公国が外国勢力から蹂躙されないための緊急措置が必要だ。後の事は、後に対処すればよい」
「……」
 本来なら今すぐここに騎士団と教国の代表者を呼び、彼らと共に協議するのが正当だ。もしくは一度預かりの懸案とする事が。だが。
 そうすべきではないと判ずる。無駄な混乱や不調和、利害関係に基づく私利私欲を避けるためにこの場で、自分とジャクムのみで即決した方が良い。その方がラーヌンにとって、皆にとって善き未来を造れる。審判を司る聖天使の御名において。
『後の事は、後に対処すればよい』
 そうだ。不確定な未来の全てを吟味する必要は無い。とにかく今は、速やかに目の前の現実を進めろ。
 最後にもう一度足元で不様に泣き続ける公子を見る。スレーイデは言った。
「今、キジスラン公子は体調不良により混乱をきたしており、御自身での判断を下せません。よって、公子に代わる同盟側の代表として、白羊城の総意への同意を、承諾いたします。私がその決定の全権と責務を負います」
 強い風音と号泣の響く中に宣し、現実を進めた。
 両陣営の兵士達がうずくまって大泣きする赤毛の公子を、奇異の目で見ている。ざわめき始めている。
「キジスラン公子。立ち上がって下さい」。
 スレーイデは情けなく喚き続ける相手を見下ろす。苛立ちに近い、だがそれだけではない複雑に混濁した感情を覚える。
「兵達が見ています。貴方は、新ラーヌン公となる御方です。その様な醜態を人前にさらすことは即座にお止め下さい」
 続くスレーイデの口調は、普段からは縁遠い、皮肉と嫌味じみたものが込められていた。
「よろしかったら、なぜそこまで泣くのかを、後から教えて下さい。
 白羊城に戻りたいという貴方の悲願は叶うのでしょう? 御自身は何もなさらず、しかし不思議な程幸運の女神に愛された果てに、新ラーヌン公として帰還出来るのに」
 答えなかった。不様に号泣し続けた。
 冷たい風は強まり、灰色の空に雲は速い勢いで流れていた。
 ……とっくに馬車に戻ったタリアが、窓から静かに空を眺めていた。

 この時から丸一日と一晩。
 領境バラドと白羊城の間を何度も何回も、多数の使者達が走り抜けていった。困難な現実を進めるべく、それに対応すべく、白羊城側と同盟軍勢側とは緻密な打ち合わせを重ね続けた。それぞれの側がそれぞれの最善を求めて、動いていった。
 キジスランだけが、動きを止めた。
 キジスランは天幕の簡易寝台に横たわり、文字通り動きを止めた。表情は無く、一つも口を効かず、物も水も取ろうとしなかった。現実が動く事に最後の抵抗を示していた。
先日の奇態からの心神喪失に、周囲から『魔物払いを呼んだ方が良いのでは』との意見も出たが、これには衛士・ドーライが強く反対した。安易に魔物憑きを持ち出すなど、その方が神の創造したる摂理への疑心になっていると。魔物などよほどの事態でも無い限り、現れ得ないと。そう断じ、彼は地道に介護を続け、その結果として、一つの現実が進む時に立ち会うことになった。
 ――
「公子。起きる事は出来ますか?」
 静かな呼びかけにようやく反応し、自分を見たのは、バラド野営地で二晩を過ごした翌朝だった。医師が朝の診断と瀉血を終えて去り、二人だけになった時だった。
「喋る事は出来ますか? ――覚えていますか?」
 天幕の外では、冬ガケスが甲高く鳴いている。他の物音は無い。
「ラーヌン公主カイバート公が没した事、公妃が出産され、姫君が御誕生の事。白羊城が貴方様に、ラーヌン公への登位を望んでいる事。
 これらの現状を、御理解されていますか? どうなさいますか?」
 答えなかった。自分を見た眼が、また離れた。
「幸運にも、この先に貴方様が進む道は、貴方様御自身で決める事が出来ます。お好きな様に選択なさって下さい。ラーヌン側の要請を拒否しましか? それとも、新ラーヌン公として白羊城に入城されますか?」
 冬ガケス達が騒々しい。霧の立ち込めたバラドの平地に、そろそろ陽が昇り始めているのだろうか。
「公子? どうされますか?」
 天幕の天井を見たまま、キジスランはゆっくりうなずいた。
「それは、ラーヌン公位を受けるという意味ですか? それが貴方様の本意ですか?」
 そろそろ霧の中を、薄い光が貫き出しただろうか。答えは無かった。
「少し、意外でした。貴方がラーヌン公位を受け入れられるとは」
「他に選べない」
「え?」
「何もない」
 発した言葉には、何らの感慨も含まれてなかった。
 カケス達がうるさかった。キジスランは敗北を宣し、先の現実へと押し出された。

 ……この翌日。
 ラーヌンの街では、住民達は市心・マイダン広場に集められ、白羊城名代から『ラーヌン宗主カイバート公の死』と、『公妃による姫の出産』の公表を聞いた。
 さらに、公表は付け加えられた。
『次のラーヌン公国公位には、カイバート公の義弟・キジスラン公子が就く。
 公国および白羊城の体制は盤石のまま、キジスラン公子に引き継がれる。
 キジスラン公子は明日、リンザン教国軍勢を率いて帰還し、白羊城に入城する』
 群衆は唖然と驚く。カイバート公の死を哀しむ間も無い。騒然となる。
 新公は、あの父親殺しの赤毛の公子なのか?
 その公子が軍勢を連れて入城するのか? それはつまり、公国が同盟側に敗北したということなのか? 引きつれた軍勢は、赤毛の公子が自分達を圧するためなのか? それとも逆に公国を守るためなのか?
 ラーヌンの街に明日、何が飛んでも無い事が起こるのか?
 ……騒然のまま迎えた翌日。
 折しも諸聖人の為の安息日。今にも降り出しそうな分厚く曇った午後。本当に、新ラーヌン公・赤毛のキジスラン公子とその軍勢は、街に到着した。
 さあ、何が起こるんだ?
 大罪人との汚名を着せられ、対抗としてラーヌン侵攻を主催し、果てに新ラーヌン公に登る赤毛の公子は、どのような態を示すのか? 何かを住民に訴え出るのか? 街と白羊城に対して何を行うのか?
 不安・期待・恐怖感やら好奇心やら。もろもろの興奮を抱きながら住民達はシャーリア大路を埋めたのだが、その結果は拍子抜けするものになった。
 ――何も起こらなかったのだ。
 どころか、何も観えなかったのだ。新ラーヌン公は勝利を誇示する騎馬ではなく、馬車での帰還だった。その姿を全く見せなかった。衛兵が周囲を固める馬車で淡々と、あっと言う間にシャーリア大路を走り抜け、白羊城に入ってしまったのだ。昂ぶる感情と共に待っていた人々は何ら反応しようもなく、何とも居心地の悪い空気だけが残されることになった。
 ……降り始めた小雨と奇妙な静けさの中、キジスラン公子は白羊城に到着した。
 城門を抜け、ハルフ広場を渡り、南棟の入り口において、馬車を降りた。

             ・     ・     ・

 馬車から降りて石畳を踏んだ時。
 右足首の重心がぶれ、視界が横に流れた。アーチ通路の向こうに記憶通りの中庭の様が映り唐突、鮮烈な心象が走った。
“カイバート! 毒が杯に……飲むな!”
 真夜中だ。馬の目が血走り、犬がけたたましく吠え、人々の怒号の飛び交う中、炎が激しく燃えていた。
 そしてあれは、
“早く! ついて来いっ”
 陽が傾いてゆく春の夕刻。金色の日没を前に、初めて共に時を過ごした夕刻。美しかった。全てが始まった、鮮明に輝く色彩の夕刻。
 地面が揺れたかのよう、体が大きくぶれる。なぜ? もう自分の中には何も無いのではなかったのか? それでも感情は主張するのか?
「キジスラン様!」
 大階段を降りて飛び出してきた誰かが、目前に迫った。思わず怯えるよう一歩下がり、馬車にぶつかり、鈍い痛みが背中を走った。
「必ず貴方と再会できるって信じてましたっ。聖天使にかけて信じてましたっ。でも、まさかこんな形になるって――こんなに白羊城が混乱している中で、貴方が新ラーヌン公として戻って来るなんて……」
 突然現れたマラク少年の、青年に成長した姿を漠然と見てしまう。記憶と比べて遥かに大きく背が伸びたと思い、大人びた顔付になったと思い、左手の白い手袋が気になり、彼には言うべきことが――謝るべきことがあったと思い、でも良く思い出せない。色々なものが上手く定まらない。一つだけ訊ねる。
「カイバートはどこに居る」
「柩ですか? 実は教会から破門中ということで、どんな葬礼を執り行うかについてずっと難航しているんですよ。今のところ検討されているのは――」
「どこに居るんだ」
「御遺体を見るつもりなら、今は駄目です。その理由――」
「どこだ!」
「どこって――城内の礼拝室です」
 いきなりキジスランは南棟に踏み入る。目の前の大階段を登り出した。
「待って下さい、まだ疫病が残ってて移る恐れがあるかもしれないって医療者が言ってますから、御遺体を見にはいけません。今は駄目です、後日にして下さい。御遺体なんかより今は、大広間に向かって下さい」
 慌ててマラクは横に並び、早口で巻くしてゆく。だがよく聞き取れない。“御遺体”という突き放した単語だけが耳の中に響く。足が速まる。
「御遺体は引き続き、医療者達が扱っています。疫病感染の恐れが完全に無くなるまで、誰も見られません。それより為政官達が大広間に集まってて、貴方の事を待ってますよ。早急に確認しないとならない懸案が一杯あるみたいで、その一部は本当に今すぐの確認が必要みたいです」
 足が速まるにつれ、感情は勝手に、みるみる内に乱れ始める。喉を絞り、顔を熱くし、目の涙に連なろうとする。
「事前に貴方の体調が良くないって報告を受けてましたから、皆さん、かなり心配してます。本当なら先に少しお休み頂きたいんですけど、とにかく最初に彼らと会って下さい。いいですか? このまま大広間に行きますよ」
 泣くのか、自分は? スレーイデに貴方の感情はあまりにももろい、丸切り子供じみて不様が過ぎて見苦しいと叱咤されたのはいつだ? 昨夜か? 昨年か?
「そこで通廊を左に折れて大広間へ――、違いますよっ。道順を忘れちゃったんですか? 左へ行って下さい」
 マラクが腕を掴んで引っ張ろうとするのを、
「離せっ」
怒鳴った。強引に振り払った。いきなりキジスランは西棟目指して走り出した。
「キジスラン様!」
 走る。昼なのに薄暗い通廊を西棟の礼拝室向けて走る。
 一列に並んだ明り取り窓から、ハルフ広場の人々のぼやけた声が聞こえてくる。軍勢停止とか安全保障とか領境変更とかの単語が聞こえてくる。そんな事どうでも良いのに。そんな事、自分の現実から遥かに遠いのに。
 西棟が近づくにつれ、城内を歩む人が減ってゆく。途方も無く長い通廊を走る。石段が多すぎると、遠すぎると、どこまで続くんだと感じ、それだけで泣きそうになる。
 やっと西棟に入り、それでもしつこく続く通廊と小階段を走り続け、ようやく、やっと、礼拝室が見えてきた。今さらの緊張感が体を縛り、足が止まろうとするのを無理矢理に動かし――、
 礼拝室の扉の前に、黒いマントの若者が腰かけていた。いきなり走ってきた赤毛の公子に驚き、思わず立ち上がった。
「こちらへの入室はお控えください。まだ疫病に感染する恐れが――」
 従わない。相手の体を押しのけ強引に中に入った。扉を閉じ、錠を下した。
 振り返って室内を見た瞬間、薄暗さそして奇妙な臭いが感覚を覆った。アイバース公の死の時の記憶が身を覆いかけた。奥の祭壇前に、黒い色を見つけた。
 柩だ。“御遺体”の。
 薄闇に黒色が溶け込み、輪郭がぼやけている気がする。現実感が乱されてゆく気がする。やっぱりこれは現実ではないのではないか? やっぱり全てが嘘ではないのか?
「キジスラン様っ、柩に近づかないで下さいっ」
 扉の外でマラクが叫んだ気がする。だが酷く遠い。蓋が閉じられた黒い柩が目の前にある。それだけは現実なのか?
 世界が無音になる。父公の時の記憶がまた押し寄せる。あの時、この部屋で、柩の前で、カイバートが自分を抱きしめた時の感触が。
 ゆっくりの十三歩で、柩の前に達する。何も考えない。躊躇も無い。そのまま蓋を持ち上げ、中を見下ろす。
 ――御遺体だ。
 動かない、死人だ。緋色の豪奢な装束を着ていても、その胸の上で父・アイバース公から譲られた家長の剣を抱いていても、ただ異様で不快な肌色をした死体だ。物体だ。
 これはあの男ではない。あの男が、動きも光も失ったこんな存在のはずがない。自分が憎悪し、憧憬し、こんなにも執着し続けたあの男が、こんな無機質な物体であるはずがない。有り得ない。
 これはただの御遺体だ。だから違う。あの男は、カイバートは、――どこかにいる。
 いきなり背後へ肩を引かれ、よろめいた。錠を開けて入ってきた誰かにそのまま引きずられ、通廊に戻される。今更ながら防疫用の黒いマントを肩にかけられかける。
「お願いですから従って下さいっ。貴方の身にまで何か有ったら、ラーヌンはどうなるんですかっ」
 白い面・黒い上衣の男達が五~六人、自分を取り囲んでいる。歪んだ夢の中の様な、奇妙な光景だ。それともこれが、真の現実なのか? だったら訊かないと。早く訊かないと。
「カイバートはどこにいる?」
「え?」
 マラクが面を外し、驚いた顔で見る。
「カイバートに会わないと。マラク。今、カイバートはどこにいる?」
「キジスラン様? どうしたんですか?」
「言わないとならない事がある。会って伝えないと。大切な事だから早くしないと」
「……。どうしたんですか……?」
 まさか気が触れてしまったのか? とマラクは驚く。困る。
 男児を産めなかった公妃を見限ってザフラ城館から駆け付けたのに。白羊城でこれまで通りの地位を保つべく、素早く鞍替えたのに。おかしくなられては、今までにずっと重ねて来た考えが全部狂うじゃないか。
「どうしたんです? しっかりして下さいっ。カイバート様は亡くなってます。今、貴方も御遺体を見たじゃありませんかっ」
「違う。柩の中は死体だ。カイバートではない。彼はどこだ? 死んだなど嘘が伝わっているのは、何か事情が有るからか? もしかして身を隠しているのか? なぜだ? 言え」
「だからカイバート公は亡くなってますって。代わりに貴方が次のラーヌン公になるんですよっ」
「何を言っているんだ? ラーヌン公はカイバートだ。アイバース公が生前からそう宣していた。公が――アイバース公が急逝した時の事は、お前も覚えているだろう? カイバートは外地にいたものを猛烈な無理を押してここに駆け付けたんだ。ここで、私達は共に泣いたんだ。共に力を合わせてラーヌン公国を作ると誓ったんだ。正にこの礼拝室でだ。それを忘れ――」
「混乱してるんですか? キジスラン様っ、しっかりして下さい!」
 これを少し離れた場から見ていた。
 イブリスは近寄ることはなかった。ただ見ていた。眉一つ動かさず、淡々と見ていた。もう良いから。
 次期ラーヌン公の奇態が、混乱による一時的なものでも、聖者の慈悲で正気に戻ろうと、どうでも良い。どちらにしてもこの新公の許では、かつての刺激と魅力は塵一つほども残らない。
 白羊城はただの城になった。だから、もう良い。
「……。キジスラン様――。おかしくなっちゃったんですか……?」
 イブリスが音も立てずに立ち去った通廊で、駄々をこねる幼児のように“どこだ”を繰り返している。純粋な憐憫と、それ以上に己の未来が歪み始めたことに、マラクは泣き出しそうに顔を歪ませる。それでも。
(でも――。まだだ)
 一つ、大きく息を吐く。
(まだ諦めなくていい。まだ大丈夫だ。俺にはまだ、切り札がある)
 あらためて、二呼吸を吐く。彼自身の現実を強引に進める。一転して、人たらしの様な明るい笑顔をキジスランに向けた。
「キジスラン様。カイバート様の許に案内しますから、大広間の方へ行きましょう」
「カイバートは大広間にいるのか?」
「ここにいても寒いだけで何もないですから。さあ、行きましょう」
 マントを脱ぎ、虚偽の笑みのままキジスランの腕を取った。早くも頭の中では、もう一つの可能性を考え始めていた。あの夜の事を一から思い返して確認し始めていた。
 それは冬の嵐の夜。――公妃が出産した、あの夜。

 陽が沈むと急速に雨と風が強まり出した。冬の嵐となった。
 ザフラ城館では、いよいよマテイラ公妃の産気が始まった。すでに室内にはラーヌンで一番との評判を誇る産婆と、その二人の娘が入っていた。公妃付の侍女達の中から最年長の一人も入り、それ以外は医者も含めて皆、遠ざけられた。
 今までに星の数ほどに赤子を取り上げて来た産婆は、公妃を診るなりすぐに頼もしい言葉を発した。
「大丈夫。赤子は無事に生まれます」
 皆をほっとさせたのだが、
「けれどこの御産は――」
 何かを足しかけ、しかし止めた。そして出産の夜は、館の者は全員先に寝て下さいとの、妙な指示を出したのだ。
 夜が更けるにつれ、出産が迫るにつれ、外では雨も風も激しくなっていった。庭の木々は大きく唸り、雨が鎧戸に叩きつける音が凄まじくなっていった。
 ここに、公妃の呻くような息音が混ざる。呻きの間隔が徐々に短くなってゆく。産婆と侍女の、『聖女様が御守りです』、『女ならみんな耐えられます』、『もうすぐです、もうすぐですから頑張って』等の声が繰り返される。
 それらをマラクは、扉越しに聞いていた。
 公妃身辺の責任者として、彼だけは独り待機していた。部屋の前、冷たい風の抜ける通廊に身を縮めて腰かけて、産まれる子は男か、女か、死産か、それぞれの場合にどう動くの自分の得になるか、そんな事をずっと考えながらずっと待っていた。
 叩きつける風雨はどんどん酷くなり、公妃の息が悲鳴に近づいている。マラクは寒さに震えている。一度ならず自室へ外套を取りに戻ろうかとも思ったが、その間に赤子が生まれたら困ると迷い、ずっと震えている。もうどのくらい待ったんだ? まだどのくらい待つんだ? と思う間にも、
(糞っ、寒い!)
 また凍える風が通廊を走った。もう我慢出来ない。素早く立ち上がる。部屋に戻ろうと踏み出した瞬間だ。
(生まれた!)
 赤子の産声が聞こえた。直ぐに扉に向かい合う。男か女か、子供も公妃も健康なのか、早く知りたい、早く知らせろ、扉を開けろと願う。だが。
 扉は開かなかった。
 雨風の音の中に、赤子の声は聞こえている。公妃の呻きも続いている。そしてなぜか、扉は開かない。
(……。何か――)
 嫌な予感を覚えた。自分のこの手の直感は当たるのを、彼は知っている。扉の取っ手を凝視し、禁を犯しこれに手をかけるべきか迷い、ついに手をかけようと決した時だ。
「姫です」
 扉が開き、その隙間から素早く侍女が告げた。
「健康な姫です、奥方様のお体も無事です」
「男児じゃなかったか……。でも、まあ、――仕方ないか。子供もマテイラ様も無事なら、まあ……」
「――」
 僅かな隙間から見える侍女の半分だけの顔が、
「何だよ、その顔。男じゃなくても仕方ないだろう? 取り敢えず無事なんだろう?」
異常に堅く、猛烈に緊張している。なぜだ?
「姫は、二人です。双子です。不吉です。聖女様」
 瞬間、マラクは唖然の顔になった。と同時、頭は勝手に、生涯最大の計算を始めた。
 今死にかけているラーヌン公、近づいているキジスラン公子、白羊城と公国の状況、産まれたばかりの姫、双子という世から極めて忌まれる存在……。これらを全て掛け合わせて、凄まじい速さで計算をする。どうする? どうするのが一番良い? 俺にとって一番得になる?
 冷えた風が抜け、甲高い音を立てた。マラクの生涯最大の決断は、この強い風音と寒気の中で下された。
「妹姫を、隠す」
「え?」
「このままどこかへ隠す。白羊城と公国を混乱させないための策だ。お前、決して人に言うなよ。言ったりしたら、お前を俺と同じように潰れた指にしてやる。いいな、生まれたのは姫一人だ。いいなっ」
 侍女が露骨な躊躇の顔になった。だがマラクの方は、一度決意した以上もう躊躇しない。さらに幸運の女神の御業において、熟練の産婆はこの事態に驚くほど慣れていた。
「双子の出産の際には、今までも然るべき対応を何回も行ってきました。特に権門の奥方の御出産では、いつもの事です」
 早々に秘密厳守を誓い、速やかに続けたのだ。
「ひとまず妹姫は、私どもの許にお預かりします。今回は幸い、公妃様もほぼ意識を失われています。御自身が産み落としたのが双子とは覚えてないでしょう。
妹姫の今後についは、貴方様の御指示をお待ちしてます。どうぞ幼子が聖女の御加護の許に幸せを得られるよう、充分に時間をかけて里子の先を決めて下さい」
 マラクに拍子抜けの顔をさせるほど、あっさりと応じたのだ。驚くほど速やかに、テキパキと、慣れ切った手法をもって現実を進めていったのだ。
(あとは、天上の御加護あれ。俺と同じ名前の、導きと懲罰の聖天使マラクの御加護あれ。
 他の誰でもなく俺の未来の上に、最大の御加護あれ!)
 さしものマラクの顔も、寒さと緊張の中に強張っていた。
 ……夜明けの直前。ようやく嵐が収まった頃合い。
 まだ雲が速く流れる空の下を、こっそりと産婆の娘が城館から出て行った。その胸には、羊毛の布に包まれた赤子が一人、抱かれていた。

 西棟から南棟へ戻ると、城内の人の往来が一気に増え出す。その中をキジスランは、早足で歩いてゆく。
「疫病で危篤と聞いた時には激しく動転して、思わずリンザン宮殿から飛び出してしまった。だが冷静に考えれば、あの男が疫病などで死ぬ訳がない」
 歩きながらマラクに向かい、抑揚の無い早口で話し続ける。
「それでもやはり怖かった。父のアイバース公も突然にあっという間に亡くなってしまい、私は死に目に会う事も出来なかった。今回もあの男に限ってとは信じていたが、まさかと言う事も有るから、だから間に合う内に白羊城に駆け付けられて良かった」
 奇妙な饒舌さで話し続けてゆく。
 気付くと二人の周囲には、男達が集まり出していた。新ラーヌン公となる赤毛の公子のどこか異質な光彩の眼で、なのに早口で妙な事を喋り続けてゆく姿に、不審と異様の両方を覚えながら共に歩んでいた。
「会わないと。言わなければならない事がある」
 ちょうど短い階段を二つ終えたところで、スレーイデ騎士が駆け付けた。即座に状況をとらえるや、素早く大声で発して対処をする。
「キジスラン公子は様々な事態の急変に、酷い疲労と心労を覚えてられる。今、一時的に混乱に陥ってしまわれたようだ。公子の負担になるので、皆はすぐに公子から離れて欲しい」
 またその場にアイバース公時代よりの旧知の為政官を見つけ、『今は公子を人前に出せない。落ち着くまで隔離するように。またこの件について火急に白羊城の重鎮達と打ち合わせたい』と耳打つ。とにかく平穏をもって現実を進めるべく最善を尽くす。
 その間にもキジスランはマラクに訊ね続けていた。
「あの男は今、大広間にいるのか? もう寝所から動けるほどに回復したという事なのか?」
「――。そうですね」
「なら良いが。もし私が帰還したからという事で無理しているのだとしたら、それは止めて欲しい。勿論、その気持ちは胸を締め付けられるほど嬉しいが、本当に止めて欲しい。是非寝室に戻って休んで欲しい」
「……。カイバート様は、お休みになっていますから」
「そうなのか? 大広間へ寝所を移したのか? まあ確かにカイバートは昔から、狭苦しい場所が嫌いだったからな。
とにかく、早く会いたい。早く伝えないと」
「カイバート様に会って、何を伝えたいのですか?」
 その問いに、答えなかった。その代わり、表情が無かった顔が、ほんの少しだけ笑んだ。
 ――
 外には、雨が降っていた。白羊城内を歩む者達の上に、夕刻が近づいていた。



【 その数日後~そして7年後に続く 】
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