第23話

文字数 11,184文字

23・ その一ヶ月後

 会談の朝は、冷え込んだ。
 肌寒い風が吹き抜け、空では灰色の雲が動いていた。この数日ずっと続いた雨は止んだが、たっぷりの湿気は残っていた。ラーヌンの秋らしい、冷えた感触の朝になっていた。
 ザフラ城館の門の許には、多数の男達が立っていた。
湿った風にさらされながら、彼らはずっと、前に伸びる路を見ていた。路の先にある林を見ていた。黄色に覆われた落葉樹の木立を、じりつくように見据え続けていた。
「どこまで来ているんだ?」
「はい。隣村までは来ているとの連絡を受けています」
 進行役と警護担当者はすでに四回、同じ会話を繰り返している。
 いまだに同盟側の外交官一行は、到着していない。これまでに三回、兵を派遣して様子を見に行かせているが、『数日来の雨でぬかるんだ路に、馬車が難儀しているそうです』という返答が届けられるだけだ。
「まだ着いてないのか? 予定から大幅に遅れてるじゃないか」
「何が起こってるんだ? こんなに遅れるという事は、その後の段取りも変わるのか?」
「饗宴まで遅れるとなると、大事だぞ、準備に猛烈な迷惑を被るぞ」
 辺りにいる者達が皆、苛立つ様に喋っている。その中心に立ち、今日の会議を差配する進行役も焦りを覚えている。式典の遅延ならば何度となく経験しているが、今回のように重要な外交会談でのここまで遅延は、さすがに無い。さすがに困る。さすがに、会議の成功に影響が出る。
 そろそろ昼が近づいてきた。風が強まり、激しく雲が動き、時折に雲間から薄日が射し込み出した。どうやら今日は、天気が変わりそうだ。
 黄葉した木立が揺れている。いつまで経っても何も現れない。ついに進行役は、
(駄目だ。これ以上はまずい。これ以上遅れて式次を大幅変更させるのは、まずい。極めてまずい)
しびれを切らせる。五度目の兵の派遣を決意し、部下に向かい大きく声を張り上げようとする。  その時だった。
 黄色の林の奥に、馬の姿が見えた。
 先導の数騎が、現れてきたのだ。続き、木立の中に続々と馬車が現れてくる。その数が十台に近い。事前の連絡よりも大幅に人数が増えていそうな事に、今日の応接役が舌打つ。これは客人達の部屋の振り分けをやり直さないとならないぞ。
 見え隠れし出した薄日の許、ついに最初の馬車が到着した。そこから降りて来た騎士を見た時、出迎える白羊城の面々の顔が変わった。驚きの息を突いた。
「御機嫌よう。久しぶりだな」
 かつて良く見知った傭兵指揮官は、銀の山羊騎士団の紋が縫い取られた胴着をまとっていた。以前と全く変わらない落ち着きと品格をもって現れたのだ。
「今日のこの会談が、ティドリア各国とラーヌンにより良い未来を築けることを、期待している。勿論私も、私の所属する騎士団の名誉の許に、最善をもって臨むつもりだ」
 カイバート新公の為政が始まって間も無く、その施策が受け入れられないとスレーイデ指揮官は静かに白羊城を去っていった。自領を持たないこの人がどこに行くのかと思われたが、騎士としてリンザン教国にいたのか。今回の事態にも関わってきていたのか。
 二代目の馬車からは、リンザン教国の事務官・外交官達が現れた。その次の馬車からはイーラ共和国の政務官達だ。誰もがまずはザフラ城館の華やかな外観へ驚き、その後すぐに緊張の顔に戻って館内へと案内されていく。
 バンツィ共和国の馬車は、かなり後方だった。
 この馬車に、白羊城の文官達が注目した。今回の懸案はリンザン教国の名で進められてきたが、真の主導はバンツィらしいと聞いている。かつてラーヌンに駐在していたバンツィの若い外交官が主導しているという話だが。
「到着が遅延しました。カイバート新公及び白羊城側は、これよりすぐ会談に入る事は可能ですか」
 小柄な男が、降り立つやすぐ、強引な口調を発した。歓迎を述べようとした進行役を口ごもらせた。
「到着直前に、休止を取らざるを得ない事情が発生しました。その為の遅延です。時間を取り戻す為にすぐに討議に入りたいのですが、そちらの御準備は。カイバート公は直ぐに御着座できますか」
「――。新公も、その他の出席者も、すでに城館内にてお待ちになっています」
「では早速始めましょう」
 外交官・ハ―リジュは、そのまま早足で歩み出してしまう。当惑する案内役を付き従える形で館の中へ入っていった。そして。
 最後方の馬車の扉が開いた。
 キジスランが、降りて来た。
 辺りにいた者が一斉に振り向く。二年ぶりに見る赤毛の公子は、明らかに憔悴した青白い無表情で現れた。
「――。御無沙汰しております。キジスラン公子。
 本日、この場にてこの様に無事に再会が出来ましたことを、諸聖人に感謝致します」
 白髪の頭を深く垂れながら、進行役は告げた。
 それは本心だ。長く白羊城に仕えてきた彼は、この公子を良く知っている。表情が乏しく、無口で、人好きのしない質だったが、父公とだけは不思議なほど素直で穏やかな関係だった事を記憶していた。だから父親殺しの断罪は信用できず、内心では同情していた。
 公子は下を向いている。他者も周囲も見ない。言葉も発さない。やはり己のことを極悪人と責めた白羊城に遺恨があるのだろうか。
「お疲れのように見受けますが。キジスラン公子。大丈夫ですか?」
「申し訳ありません。公子はこちらへの途上で体調不良を示され、為に到着が大幅に遅れました」
 続いて降りてきた衛士らしき男が、気遣った体で告げた。
「会談の前に少し休める場所はありますでしょうか?」
「承知しました。すぐに部屋へご案内致します」
「医者の準備もありますか」
「医者? 医者が必要な程酷いのですか? すぐに呼び寄せますが、しかしながらたった今バンツィ外交官が、即時に会談を開始するとおっしゃいました。すぐにその確認――」
 会話が終るのも待たない。いきなりキジスランは歩み出した。うつ向いたまま、全く周囲を見ようせず、速い歩調で城館へと向かってしまった。同行しますのでお待ち下さい!と、案内役が慌てて追いかけることになった。
 この行動を、周囲の全員が奇異の眼で見送った。二年振りの赤毛の公子は、一層に人好きから隔たった、重苦しい、気の詰まる雰囲気になったと、皆に思わせた。

 同盟側の交渉団の到着を知らされると、カイバートは握っていた書面そして葡萄酒の杯を、卓上に置いた。向かいに座り打合せていたイブリスに、あっさり告げた。
「すぐに始めるぞ。そしてさっさと終わらせよう」
 立ち上がり、長衣の裾を揺らせて、極彩色の植物壁画の部屋から出てゆく。
 通廊に出た時、明り取り窓からちらっと空が見えた。雲の流れが速かった。薄日が射したり途絶えたり、天気が急速に変わりそうだった。

 キジスランは、案内された居室の奥に座っていた。
 ドーライだけが扉の許に立っていた。ハ―リジュやスレーイデや他の外交官達は別室に集まり、これから始まる交渉の最終確認を行っていた。
「また進行の担当者が来ました。すぐに会議が始まるそうです」
 答えない。先刻、馬車の中で激しく嘔吐してしまった時から、もう喋らない。蒼ざめた無表情で不規則に息を突く。ドーライに不安を覚えさせる。
「大丈夫ですか? 少しの時間だけでも横になった方が良いのでは?」
「……」
「吐き気が残っているのでしたら、下を向いていると辛いのでは?」
「……」
 下を向き続けている。そうしないと、室内が見えてしまう。
 “使いたい相手はいる?”
 まさか――。
 母親が寝間として使っていた居室に通された。
 古い記憶の通りの室内が、目の前にある。それを見たくなくて浅く腰かけ、上体を折り曲げている。でも見えてしまう。濃い色彩の花文様の壁も。分厚い織布の天蓋付き寝台も。精緻な木組みの飾り棚も。
 “何、その顔? 怖いの? 毒が怖いの?”
 飾り棚の、鍵付きの扉……それを背に、艶然と笑った。窓からの陽射しの中に、髪の赤色が一層際立っていた。
「公子。そろそろ会談の場へ向かう事は出来ますか」
 通廊から、人声や物音が聞こえてくる。庭からも、行き交う何人もの声が近づいては消えてゆく。時間は動いている。会議が始まる。
「恐縮ですが、急がれた方が。すでにカイバート公も臨席されているそうです」
 会う。
 あの男と、今から会う。
 現実は、ここまで来た。もう避けられない。会わないと、自分は先に進めない。でも会えば、自分に何か起こる。何が起こるか解らず、怖い。
「公子。もう少し待って欲しいと伝えましょうか? もしくは――
 あまりにも酷い体調不良にて、会談は欠席せざるを得ないと、そう伝えましょうか?」
「……」
「本当に大丈夫ですか? 本当に?」
 そして滞った室内に、ドーライの言葉が響いた。
「『前を見据えめる者の肩には、その心を護る守護の天使が舞い降りる』」
 僅かに視線を上げる。真摯な眼が自分を見ていた。
「天使が肩に居ると信じる事は出来ますか」
 天使が、何?
 天使など、そんな事は知らない。居ようが居まいが、どうでもいい。今、何が正しいのか解からない。
「行くか行かないか。決められますか」
 行こうと行くまいと、そしてここに残っていても、押し潰されるのだから。
「……」
 息が苦しい。天使も、肩も、もういい。考える事が出来ない。ただ、空気が欲しい。大きく息を吸う。
「有難う」
 無意識に発した単語が、状況に合っているのかも解らない。ただ、ほんの僅かながら“潰されたくない”と感じた事は解かった。
 乾いた喉に唾を流す時、“守護の天使”と、舌が無音で呟いた。立ち上がった時、流れた視界の隅に、窓が映った。
 庭の泉水盤の形も、その背後の立木の並びもあの頃の通りだと、そんな意味を成さない記憶が流れて、すぐ消えた。

            ・        ・        ・

 会談の部屋は、ザフラ城館内で最も広い、庭園を眺めるための巨大な窓を設えた大広間だった。
 その頃には上空の雲の大部分が消えて、昼過ぎの陽が射し込み出していた。室内の全面に並べ掛けられたタピスリーの色が、派手派手しく浮かび上がっていた。
「遅れました。失礼を」
 キジスランは部屋へ踏み入る。
 と、着座していた二十人全員が立ち上がって迎えた。いや。正確には、十九人だ。立たない者が一人いた。それが誰か予測出来るから、キジスランはそちらへ向かない。焦点を合わせない。
「……」
 視線を落して奥を目指す。両陣の代表十人ずつが横並ぶ巨大な卓の、一つだけ空席になっていた真ん中の席に着く。
 見ない。
 あの男が居る。その現実への応じ方が解らず、怖い。物音のしない室内に恐怖を感じ、内臓が絞られる。
“殺して……あの男を――っ”
 途方も無く長く感じた無音を破ったのは、左に座るハ―リジュの速い口調だった。
「では始めます。討議内容につきましては、事前に書簡内にて提示をしていた通りです」
 挨拶も前置きも無く、いきなり討議の本題に入った。

1)先代アイバース公の急逝に関するキジスラン公子の汚名の払拭・名誉の回復
2)現在のラーヌン公国の軍事拡大政策に対する遺憾・停止要求

 これに、ラーヌン側が応じる。カイバートの右側に座している相談役・イブリスが、適切に回答してゆく。キジスランの記憶と同じ、幽霊の様に痩せた体をくすんだ色の長衣に包み、イブリスは低い小声で応じてゆく。

1)先代アイバース公の急逝は、客観的に毒殺の可能性を感じさせる様相だった。
 さらに翌朝には、カイバート公の杯に毒が塗布されているのが確認され、当時の状況から見てキジスラン公子の犯行とするのに矛盾はなかった。
 しかしながら、今となってはもう確証は出ず、カイバート公にもその罪科を訴追する意思は無い。神の御心たる慈悲に基づき、断罪を取り消す所存である。
2)ラーヌン公国の軍事遠征は全て、自国の安全を目的としたものである。全て、国境を接する土地へ対するものである。この遠征に第三者が干渉をすることには承服しかねる。
 しかしながら、そちらの「ティドリア域の安定維持の為」という意見は、一応尊重する所存である。

 暖炉に火は無く、室内には湿度がこもっていた。
 双方ともが事前準備を充分に詰めていたのだろう。会談は予想よりよほど無難に進行していった。
 ハ―リジュの抑揚の無い声、イドリスの低い小声が淡々と交わされてゆく。それに他の出席者達が、細微な確認と質問とを重ねてゆく。キジスランは、それらの議論の声を遠くに聞いている。
『会談の進行および質疑応答は、全て私が対応します。貴方様は、黙していて下さい。私的な発言――特に、不明瞭であったり感情的であったりの発言は、討議に不利な影響を与えかねないので、くれぐれも控えて下さい』。
 事前の打合せの時、不躾に近い遠慮無さで告げられた。その通り、キジスランは沈黙を保っている。混濁した情緒の中、引き続き、何を考えればよいのかを考え続けている。
 うつむけていた視線を少しだけ動かし、室内を見た。ここがかつて、バイダ夫人が嬉々として客人を迎えていた部屋だったことを思い出した。
 壁に記憶と同じ、これ見よがしの巨大タピスリーが並んでいる。
 いや。違う。右手の壁の聖クドスの奇跡を描いたタピスリーは、間違いだ。あの場所には最もお気に入りと言っていた、華やかな狩猟図の大画面が掛かっていた。暖炉の上も、そうだ。あそこは花瓶ではなかった。大判の極彩色の陶皿が飾ってあった。
 質疑を交わす人々の声に、水音が混ざってるのに気づく。
大金をかけて造らせた庭の水路もまた、自慢していた。白粉をたっぷり塗った顔で、噴水の貝殻型の意匠がどうだの、足場のタイルの色合いがどうだのと長々と語り、満悦の笑みを示していた。
 そんな瑣末な記憶ばかりが呼び起こされる。ひり付いた感傷が流れる。苦々しい想いと共に、そのまま漠然と視線を左に動かしてゆき――、
 はっと気づいた。
 カイバートが、自分を見ていた。
 途端、質疑も水音も耳から消える。即座に視線を落とす。恐怖が走り、呼吸が詰まる。息苦しく、どうすれば良いのか解らなくなり、その時間を途方も無く長く感じ、苦しく感じ、耐え難く感じ、だから。
 ……ゆっくりと、キジスランは相手を見た。
 カイバートは、静かだった。
 記憶の中の義兄は、常に子供のように強くて激しい視線と表情だった。それが今、印象を変えていた。成熟の眼で自分を見ていた。
 見ている。丸切り、自分達の間には何も無かったかのように、互いの過去には何らの接点も無かったかのように巨大な卓越しに普通に、じっと、自分を見ている。
 何を考えているのだろう?
 解らない。
 出会った時から、この男について理解できたことはほとんど無い。それなのに気づくと自分は、執着してしまっている。母親を殺した相手を殺すという当然の責務に、躊躇を覚えてしまっている。なのに相手は何のていらいもなく自分を見ているという現実に、当惑する。
 カイバートが目を逸らした。隣のイドリスに何やら小声で語り掛け、それにイドリスがうなずいている。ごく普通に議論に立ち合っている。
 急速に天気が変わっているらしい。陽差しが強まっていた。陽の位置が低くなり、もろに室内に差し込み出した。窓向きの席の者が眩しさを訴え出し、館の応接役が“すぐに日除けをお持ちします”と慌てて動き出した。
「確かに眩しいな。ここは」
 カイバートも言った。
 通廊から、『日よけ布をどこに置いたっ』、『すぐに探せ、阿呆っ』等の怒声や、ばたばた走り回る音が聞こえてくる。なかなか見つからないのだろうか、討議は中途半端に中断し、中途半端に時間が過ぎてゆく。部屋を変えてはどうでしょうかと、ラーヌン側の一人が提案する。
 と、カイバートがあっさりと言った。
「もう良いだろう。終了だ」
 あまりの言葉の意外に、イーラ国書記官が思わず“え?”と間抜けた声を発した。
「ムアザフ・アイバース公の死については、自然死と認定。キジスラン公子への断罪は取り下げ。軍事遠征については、今後挙行の前には必ず諸国へ事前報告を行う。
 これで終了だ」
 言い切り、そのまま立ち上がって退出しようとし、全員の唖然の視線を浴びる。さしものハ―リジュも驚きを示し、だが即座に突いた。
「ラーヌン公。今の御発言を貴方様の御真意と採用してよろしいのですか」
「そうだ。あとはお前達で詳細を詰めろ」
「再度確認致します。本当にこれでよろしいのですね」
「そうだと言っただろう? さっさと書面に残せ。俺は外出する。
 キジスラン。お前も来い」
「え?」
「早く。一緒に来い」
“早く来い! 一緒にだっ”
 違う。あれは、白羊城の宴会だ。
 決して忘れない。この男との深い接触の瞬間だ。記憶の中に絵の様に鮮明に刻まれた瞬間だ。
振り返って自分を見ている眼は、あの時より余程静かだ。でも同じだ。あの時と同じ、自分が付いてくるのを当然として見る眼だ。
 イブリスのこけた頬が皮肉な笑いを示した。それが何を意味しているのか解らない。その間にももうカイバートは、扉を抜ける。部屋から消えてゆく。
 今、怖いのか?
 ――もう解らない。だが、カイバートが自分を呼んでいる。
 考える事が出来なかった。キジスランは椅子から立ち上がった。義兄を追って、部屋から通廊へと出て行った。

          ・        ・         ・

 不要な記憶は、しつこい程に押し寄せてくる。
 通廊の木組み天井の花文様が一部不揃いな事。床石の中でも茶色の石は滑りやすい事。そして通廊を抜ける空気の冷えた感触。それら過去の記憶と目の前のカイバートの姿とが異質すぎて、現実感が伴わない。
 カイバートが前を歩いている。黒の長衣姿が引き締まり、似合っている。かつてアイバース公が好んで着ていたのと同じ服装で、そのせいか父公と同じ、成熟した者の印象を受ける。
 自分が付いてくることを疑わず、振り向かない。そのまま通廊を抜けて外へ出ると、突然現れた新公と公子に――敵対しあうはずの兄弟の姿に、警備兵達が驚く。馬を二頭準備させるとカイバートはすぐに跨り、初めて振り返る。
「一緒に来い」
 応じる。
 予想もしなかった展開に、恐怖は混乱に同化している。息苦しさの自覚も出来ない。門を出て丘を目指す義兄を、その後ろ背を追う。後ろ背が、夕刻の陽を受けている。
“あの男を殺して……っ”
 あの日は、陽射しの無い灰色の朝。ここから少し北へ離れた場。晩秋の寒さの中、薄暗い丘を進んでゆく騎乗姿を見かけてしまい、全てが変わったあの鮮烈な朝――。
 今、秋の城館の周囲で、田園は夕刻を迎えている。東からの風が、羊の声を運んでいる。あの朝も羊は鳴いていただろうか。風は吹いていただろうか。
「景色が綺麗だな」
 はっと現実に戻された。義兄は丘の頂に近い場に馬を止めていた。風景を見ていた。
「ここからだと、景色が広がって見通せる。ザフラ城館まで良く見えるぞ」
 低い陽射しの中、少し目を細めて遠景を見据えてる。周囲を肯定する顔だ。この男が遠くを見る時はいつもそうだ。
「若造のマラク。今、俺の所にいるぞ」
 振り向き、自然に自分を見る。だから自然に見返して、応じてしまう。
「マラクの事なら、聞いています」
「びっくりするほど利口だし、目端が利くし、役に立つ奴だな。何より人懐こくて騒々しいのが良い。貴様が傍において可愛がっていたのも分かる」
「はい」
「今回も連れて来ようと思ったが、本人が嫌だと言って来なかった。さすがに貴様に遠慮したんだろう。
 タリア夫人には会っていないが、相変わらず白羊城にいるらしい。それから俺は、ガルビーヤ領主の孫娘と結婚した。もうすぐ子供が生まれる。本当に楽しみだ」
 当たり前のように普通に言われて、どう反応すれば良いのか解らない。だが、遠くを見る義兄の横顔は落ち着いている。当惑しながらも自分はそれを見てしまう。
 結局この男の呪縛から逃れられないまま、ここまで来てしまった。恐らくこの先も、捕らわれ続けるのだろう。その現実は怖い。が、今。息苦しさは呼んでいない。
 捕らわれることは、罪悪ではないのだろうか。それでも時は前へ進み、自分を押し潰しはしないのだろうか。
 陽にかかる雲が、淡い色に染まり始める。羊の声が、風に運ばれている。風を受けるカイバートの顔が、大きく笑った。
「見ろよ。右手のあそこの雑木林の中。やっぱり付いて来る奴がいたな、
 スレーイデ! 隠れているなっ、良い夕刻だな!」
 黄葉がこもる木立の陰から、馬上の姿が現れた。スレーイデは声は発さず、優雅な一礼のみを返す。その後ろには、ドーライの姿もあった。
「スレーイデの奴、俺達を見に来たんだ。俺達が派手な喧嘩をするのではと心配したんだ。笑えるな。
 奴を見るのは久しぶりだ。いつも高潔で礼儀正しい男だったな。アイバース公に対しても、ずっと誠意と忠義を示し続けた。良い奴だ」
「はい」
「奴の尽力もあって、貴様は銀の山羊騎士団に入ったんだろう? 今、騎士団員としてリンザン宮殿に住んでいるのか?」
「はい」
「良かったな。安定して所属できる場所があって。安心した」
「え?」
「もう一人の男は、貴様の新しい従者か衛士か? 様子を心配してわざわざ見にくる者が傍に居るのなら、良かった」
当たり前のように言う。自分を気遣って。まるで父親のアイバース公のように。
「……」
 なぜ?
 これが、あれ程に自分に憎悪をぶつけてきた男なのか? あれ程に、刃物の様に鋭く襲い掛かり、自分を完膚なく踏み潰した男の言葉なのか? それともかつて父の柩の前で見せたように、これも残忍な芝居なのか?
“飲むな! 毒が……!”
 父が没した逃亡の夜から二年。
“殺して……あの男を……!”
 母親が殺された寒い朝から四年。
 長い長い時間、この男を倒すために苦しんだ結末が、これなのか? 野心を果たし公位を盤石とし、いまや落ち着きと寛容を得たこの男に対して、それでも自分は対抗すべきなのか? どの道が正しいんだ?
 夕刻の陽と風を受ける横顔を、見てしまう。もしここにルシドがいたら、この男の本心を――違う、自分の本心を見抜くのだろうか? 自分は今、自分の本心を認められるのだろうか?
 自嘲じみたものを覚えた。乾いた可笑しさに、口許が笑むように上がった。
「どうした? 貴様が笑うのを初めて見たぞ」
「……いえ」
「寒くなってきたな。すぐに鐘が鳴る。陽が没む」
「――。『ラーヌンは綺麗だ。広い。そしてこの先はティドリア域へ、さらに外の世界へと広がっている』」
「何だ?」
「貴方が言った。昔。私が白羊城に来て、初めて貴方と話をした時。私を連れて街の外の丘に登った時。日没を見る為に」
「――」
「貴方が言った。さらに、言った『俺はもっと広い世界を欲している』」
「そんな事があったか?」
 不思議そうな顔だ。覚えていないのだ。あの、自分を変えた春の夕刻を、カイバートは覚えていない。
 近郊の村から、簡素な鐘が響き出した。
 冷えた風と、羊の声が流れる。沈みゆく太陽が、雲の色を変えてゆく。世界は調和に満ち、その世界を見るカイバートの顔もまた、夕刻の世界に調和している。キジスランは今、色を帯びた空気を心地良いと感じ始めている。
「本当にここからだとザフラ城館が小さいな。全景が手に取るように見通せる」
「はい」
「以前にも、この辺りから振り向いて見た。随分前」
「……。え?」
「あの時は確か朝だった。急いでいたからゆっくり見ている暇なんて無かったが」 
 ……何?
「あの朝は、良く覚えている。俺もバイダ夫人も、ゆっくり起きた。前夜からずっと、アイバース公の惚れ話を聞かされていた。かなり下卑た話で面白かった。
 朝になっても昨夜の酔いが残ってて、バイダは眠そうで、それでもまだ少し二人で喋っていた。そうしたらバイダが突然倒れた。驚いた」
 何を……っ、
 目の前、真っ直ぐに自分を見る顔の輪郭が、鮮明に浮き上がる。その顔が当たり前のように続けてゆく。
「いきなり倒れて口から泡を吐いた。しかも前夜から使用人達を全て追い出していて、俺独りしかいなかった。焦った。あっという間に動かなくなり、どうしようもなかった。そのまま急いで城館を後にした」
 なぜ――、なぜ今、いきなり、その話をするんだ……っ、
 言葉を選べない。舌と思考が強張り、上手く発せられない。なぜ――、
「……母……私の母を、見捨て……去った――」
「俺を毒で殺そうとした女だぞ。当然だろう?」
 え? 
 ――神様、
「俺に得体の知れない薬入りの飲み物を勧めてきた。何だか気持ち悪くて、俺は飲まなかった。逆にちょっと飲ませたてみたら、あの女はいきなり泡を吹いて倒れて死んでしまった。ただちょっと様子を見に来ただけなのに、飛んでも無いことに巻き込まれた」
 神様! 何を……そんな……っ、
「あの頃、俺の母であるラーヌン公妃は病死に向かっていた。だから俺は警戒した。もしアイバース公が後妻としてあの女と正式に再婚でもして、その果てに貴様を次の公位に指名でもしたらまずいとな。だからあの女の様子を見にここへ来ただけだった。
それなのに、まさか殺されかけるなんて。しかも逆に、あの女の方の死に出くわしたなんて、有り得ない事が起こった朝だ」
 嘘だ! 嘘だ! 有り得ない嘘だ!
 だって、バイダは息子である自分など愛していなかった。眼中にすら無かった。そんな息子の事を思って人を殺そうなどするものかっ。
 それなのに死んだのか? 間違って死んだというのか? 殺されたのではなく事故で! 自分の毒で! 自分の負ってきたのは、こんなにも間違った現実だったのか!
 叫びたいのに声が出ない。鐘の音がいつの間にか終わっているのに初めて気づく。時間だけが進み、義兄が自分の現実を動かしていくのに気付く。やっと一つの単語を、
「……嘘だ」
全身の力を振り絞って発する。
「貴方が、母を殺したんだ」
 カイバートは真っ直ぐに首を振り、否定した。
「事故だ。まさか俺に毒を仕掛けてきてたなんて、思いもしなかった。
馬鹿な女だ。たしかに何度も『早く白羊城に入りたい』と言っていた。放っておいてもすぐに望みは叶ったものを。焦ったんだろうな。
 俺を誘って来たり、心底から馬鹿な女だ」
「……。え?」
「愉しめれば良いという質だったんだろうよ。まあ、俺も愉しめたから良いか」
 遠い羊の声……冷えた、湿った風……
「それから、貴様もあの朝、ここに来ただろう? 俺を見ただろう?」
 柔らかな色の雲が、沈みかけた太陽にかかっている。その現実が変わってゆく。自分の世界が、流されてゆく、嘘だ……、
 自分も、見られていたのか? あの呪いの朝に?
 間違っていたのか?
 あの始まりの瞬間からすでに、全て、間違った現実だったのか!
「少しだけ迷った。貴様をどうするか。
 確かにあの時は、俺の邪魔になるかもと怖れた。だから貴様を殺そうかと一瞬だけ考え、迷った。
 貴様が白羊城に来た時も、アイバース公にこの件を喋るんじゃないかと、その前に殺した方が良いのかと、厳重に眼を据えていた。まあ利口にも、貴様は何も言わなかった訳だがな。
 本当に無駄に手を汚さなくて、面倒を起こさなくて正解だった。結局、貴様の存在が俺に与えた影響は、今回の下らない外交交渉ぐらいだったし」
「……」
「貴様に『母親殺し』と勘違いされたまま終わるのも嫌だから、一応、真実を伝えておこうと思った。もうこれが直接会う最後の機だしな。伝えたぞ」
(神様――)
 そう無意識に唇が動いてしまった。それをカイバートは読み取ったのだろうか。面白いと思ったのだろうか。小さく笑みを見せた。



【 その四年前に続く 】
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