第18話

文字数 7,104文字

18・ その十日後

 紺碧色の海を見下ろすガルビーヤ城に滞在していた十日間、カイバートはずっとマテイラを見ていた。
 マテイラもまた真っ直ぐにカイバートを見返していた。二人は出会いの最初から気が合ったようだ。毎日の様に遠乗りに出たり、鷹狩をしたり、舟遊びに出たりと楽しみながら親しく会話を交わし、日を追うごとに、あっと言う間に距離を縮めていった。
「カイバート様。ほら、あの崖の波打ち際が見えます? 分かります?」
 今日は四回目の舟遊びだ。遊興ならばやっぱり海が良い、船が良いとカイバートが強く望んだのだ。
 船上でもマテイラはすぐ横に寄り添う。しなやかに伸びた体が少年のように快活に動く。生来の明るい気質のままに、次々と様々な話題を持ち出して客人をもてなしながら、自らも心から楽しんでいる。
「あそこの崖の水際に、洞窟が有りますでしょう? あの中には舟で入れるんです。中に入ると、水の色が信じられない程に透き通っているんですよ」
 顔に波の飛沫が当たるのも気にせず、船べりから身を乗り出して指差す。
「水中の崖の隙間から、水を透かして光が射しこむんです。だから本当に綺麗な、透き通った青色、まるで宝石のような青色に輝くんです」
 そして何と言ってもその美貌。水面に反射する陽射しを受けて振り向くマテイラの顔こそが、宝石だ。カイバートは瞬きも惜しむように見入ってしまう。
「是非その青色を見せて下さい、今から洞窟に入りましょう」
「私も貴方様に見て頂きたい。でも、今は駄目です。この船では大きすぎて入れません。もっと小さな舟で行かないと」
「だったら今すぐに一度城に戻りましょう。小舟に乗り換えて、すぐに中に入りましょう」
「今すぐに? 随分気が短いんですね、大国ラーヌンの宗主様なのだから、もっと落ち着いた方だと思っていたのに、全然違うなんて」
 言いながら可笑しそうに笑う。その明るい色の瞳から目が離せない。見ながらとっくにカイバートは想像している。彼女が白羊城内を公妃として華やかに歩く姿や、さらに彼女が健康で愛らしい赤子を抱いて笑っている姿までを、もう想像し始めている。
「洞窟は明日の楽しみにしましょう。明日もきっと良い天気です。この時期のガルビーヤは天気も豊穣の海も、毎日本当に綺麗ですから」
 その通り、空も海も抜けるように青い。マテイラの纏う服もまた青。全てが光の中に輝いている。
 その二人を、ガルビーヤ領主マル卿が後ろから見ていた。眩い光と爽やかな海風を受けながら仲良く喋り合う二人を、感慨と共に見ていた。
 ……今から十三年前だ。
 領地を継承するはずだった息子とその妻は、流行病であっけなく天へ召された。
 一族には男子がいない。老齢の自分も間もなく天へ向かう。その時に領地を継ぐのは息子の忘れ形見の娘しかおらず、その孫娘がガルビーヤの女領主となれば、たちまち周辺の豪族達に領地を食い物にされてしまうとは、不信心者の胸底の潜む小鬼より明らかだった。孫娘と領地の将来が、本当に不安で仕方なかった。だから――。
 海の上には、潮風が絶え間なく抜けている。
 今日の食事は、船上で愉しむ事になった。船が揺れるからとても落ち着いて召し上がれませんとの意見に、カイバートが耳を貸さなかったのだ。これにマテイラもまた嫌がるどころか、『それも楽しそう』と賛同したのだ。
「ラーヌンでは魚と言えば鯉です。国内でも鯉の養殖をしています。でも私は子供の時から魚が好きではなかった。『美味しくないから絶対に肉しか食べない』と我を張り、父のアイバース公からも怒鳴られましたよ。
 でも、ここで食べる魚はどれもみな美味しい。これならいくらでも食べられる」
 ゆったりと揺れる船の上、運ばれてきた酢漬けの魚と貝を食べながら、カイバートが言う。その口調も表情も背筋も食欲も、いかにも若さと健康と精力に溢れている。
 有力国・ラーヌンに登場した、若き新公。
 すでにティドリア中から届けられてきたマテイラへの婚姻の申込は、全て退けた。このラーヌン新公に、こちらの側から孫娘との婚姻を持ち掛けてみた。その婚姻に伴う契約条項として、
 ――ラーヌン公妃となった後も、彼女のガルビーヤ女領主の地位が保証される事、
 ――ガルビーヤが他国から侵攻に遭った際は、ラーヌン公はこれを全力で阻止する事、
を付け加えた。
「この酢漬けには葡萄酢をたっぷりかけると、一層味が引き立ちますよ」
「でも酸っぱくなり過ぎませんか? それは苦手だ」
「そんなこと無いわ。葡萄酢どころか、ライム汁を溢れるほどかけても美味しいんです。酸っぱさが良いのにそれが苦手だなんて、子供みたいで可笑しいわ。是非お試しになって、是非」
 いや。良い。契約の条項などは、二の次で良い。
 今、自分の大切な孫娘は可笑しそうに、嬉しそうに笑っているのだ。未来の夫候補を気に入り、心から喜んでいるのだ。それが一番だ。十分だ。本当にまさかこんなに恵まれた良縁になるなど予想出来なかった。こんなにあっという間に孫娘の幸せが確約されるなど。――全ての偉大なる聖人達よ。心より、心より感謝致します。
 マテイラのきらめくような笑顔の背後には紺碧の海がどこまでも広がっている。豊穣の海の恵みの許、自分の孫娘は愛し、愛される伴侶と出会った。幸福な未来へと向かい、進み出した。

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 カイバートが未来の妻の笑顔を見ながらライム味の魚を食べている頃合い。
 遥か南のリンザン教国では、キジスランが出立した。ようやく、やっと、緩慢な死の場であったザカーリ別邸を出立し、白羊城への帰還の道を踏み出した。
 ……
 快晴の空の下を、馬車はなだらかな丘が連なる田園を走ってゆく。キジスランは夢中で馬車の窓から外をうかがう。自分が居たのはリンザンの街をいさかか離れた丘陵地だったと、初めて知る。
 暑さを帯び出した真昼の陽射しの中を、馬車は南の方向へ進んでゆく。前方の視界は眩さで見えにくい。それでも丘の描く地平線の向こうに少しずつ、一つの輪郭線が浮かび上がり、それが壮麗な建物群だと、聖堂の巨大な天蓋・天を突く鐘楼・宮殿の複雑な屋並みだと、徐々に解かり出してゆく。
「……天使は、肩に……」
 新しい局面が始まった。無意識に呟いた言葉に、隣に座っていたドーライが振り向いた。
「緊張していますか、キジスラン公子?」
「――。いや」
「恐れは、必要は無いと思います。取り敢えず貴方様の立場は、危険的な段階を脱しましたから」
 彼らしく控え目に、しかし偽りなく述べる。
「銀の山羊騎士団への所属は、貴方様に確実に利を生みますが、不利益は生みません。加えて、存在を公にしてしまう事で、貴方様の身の安全も増します。貴方様が衆目を受ける事で、もしも兄上が貴方様の暗殺を狙ったとしても、その成功率を引き下げる事になります」
 兄上という親愛感の単語と、暗殺の成功率という冷酷感の組み合わせに、冷めた可笑しさを覚えた。
 ドーライはすでに、助祭の聖衣に着替えている。栄誉たる銀の山羊騎士団に相応しい、分厚い織とびっしりの刺繡という贅沢な装束は、彼の質素な気質にはいかにも不釣り合いだった。これもまた、あらためて相手を見たキジスランに奇妙な可笑しさを与えた。少しだけ口許を上げて笑ってしまった。
「公子? 私は何か出すぎた、失礼な事を言ってしまいましたか?」
「いや。――有難う」
 少なくとも自分は、笑を結べる場までは進めたらしい。
 馬車は瑞々しい田園を揺れながら走ってゆく。眩しい陽射しの下に、巨大な聖堂の天蓋がくっきりと輪郭を結び始める。天を突く無数の尖塔に添えられた大小の聖者像が、光の中に神々しく浮かび上がってくる。
 教国の都・リンザンの街の、その大半を占めるリンザン大聖堂と大宮殿が目の前となった。

            ・        ・        ・

 聖バアフ礼拝堂は、リンザン大聖堂の北壁面に付属している。
 そこには今日、立ちこめる程に香が焚かれていた。窓は閉じられ、香の白い煙はほとんど動かない。高い天井から多数吊るされた騎士達の紋章旗もまた、だらりと動かない。
 その堂内の両壁際に、三十人を超す騎士達が立ち並んでいた。
 数年ぶりの騎士叙任式に、彼らは正装だ。マントは、紺に近い深青色。胴着も同系色で、その上には“立って剣を抱く山羊”の騎士団紋章がきらめく銀糸で縫い取られている。同じく後方に並ぶ聖職者達も、贅沢な造りの華やかな聖衣姿だ。室内の全体がどこか時代錯誤とも感じさせるほどに派手やかで煌びやかだ。
 だがそれも、当然だろう。なぜなら銀の山羊騎士団は天上の栄光を地上に体現し、リンザンの教義と理念を護る団体なのだから。その崇高な理念を示すに相応しい美麗は必須たるべきなのだと、彼らは皆そう思っているはずだ。
 そしてもう一つ。彼らが共通に覚えているのは、己の血筋・家柄・そして騎士団騎士であることへの強い自負だった。だからこそ彼らは今、目の前を歩んでいく新参者を、冷えた眼で捕えざる得なかった。
 キジスランは礼拝堂の中央を、前方へと歩んでゆく。
 彼も同じ、騎士正装だ。その顔は、さすがに堅い。この数日間、スレーイデからずっと騎士団の歴史的背景や、現在のラーヌン公国の状況や、それに対するリンザン教国の外交的立ち位置や、その他多数の解説を受けてきた。それでもいまだに己が騎士団に属するのが正しいのか否なのかは、判断しきれない。だが、道は他に無い。だから今は固い無表情のまま、両壁際に並ぶ騎士達の間を前方へ進んでゆく。
 ちらりと流れた視線の中、左手の騎士達の後ろから四番目に、スレーイデがいた。キジスランが前を通る時、いつも通りの柔かな態で会釈を垂れた。
 前方へ。さらに前方、礼拝堂の奥へ。
 むっと空気がこもっている。香の煙が鼻を突く。奥の、色大理石に銀製装飾を加えた豪華そのものの祭壇の許へ。最奥へ。
 そこにザカーリ副教王がいた。峻厳な眼に怒りを潜めながらキジスランを待っていた。
『何としても天使マラクの絵の所在を吐かせろ! 吐かせたら即座に殺せ!』
 出会いの直後に起こった事を、自分は薬を飲まされて覚えていない。だがそう叫ぶザカーリの声と顔とは、心の深いところで記憶していた。
 あの時も今も、彼は自分を災厄の種と捕えている。憎悪の眼がそう告げている。なのにそのザカーリが、転機をもたらす。自分を、ティドリア域の不安定要素であるラーヌン新公への持ち駒に据えるという抜け目ない政治手腕を示した。結果としてそれが、自分の道を切り拓いた。――皮肉を好む幸運の女神よ――。
 祭壇の許に達し、キジスランは厚い緋色の敷物に両膝を付き、頭を垂れた。途端、騎士団長・リンザン教王の代理者であるザカーリの声が、堂内に響いた。
「至高と栄光の光を発する天上の絶対者の御名において。絶対者が地上にて息をする人に求め命じたるところについて――」
 助祭達がゆっくりと香炉を振り続ける。そのまま聖典のカイバラ章の朗読が続いてゆく。長い一章に綴られた崇高なる聖句が、強い香りと煙の中に響き続ける。
やがて“全ては絶対者の御意思に委ねられよ”の文言をもって朗読が終わった時、一人の名前が呼ばれた。
「信義という使命をもちリンザン教教義とその信者を守護する銀の山羊騎士団。その騎士団を統括する総長。リュシナン家のオスタル」
 キジスランは目を上げた。
 老人だ。痩せた、髪も髭も真白に変じた、かなりの高齢者だ。だというのに背筋は真っ直ぐ伸び、一分の隙も無く騎士正装を着こなした者だ。
 おそらくはティドリア域でも五指に入る古き名門・リュシナン家の老当主は、完璧の厳格と毅然をもって登場するや、低い、重い声を発した。
「本日。天上の全能者の御前において。
 その栄光を地上にて守護すべき任を負う銀の山羊騎士団への新たなる加入希望者を、この場に知らしめす。その者がリンザン教義を守護するに相応しい資質・技量を保持しているか。また貴ぶべき騎士団の戒律を遵守しえるか。
この場に集い得た騎士団員諸氏に、判断を求める」
 リュシナンが騎士団総長の座に就いてから、既に二十年を超えた。新入団者の叙任式も十回を数えたが、それでも、
「アイバース家のキジスラン。ラーヌン公国公子。
 父親は旧カルディム領宗主・アイバース家の五男・ムアザフ。ラーヌン公国・先代宗主。
 母親はバイダ。家系は不詳」
 自らが発する言葉の異様に、不快を覚える。
 発足から二百二十六年。尊ぶべき格式の継承のため、団員の血筋にはよほど純潔が求められて来たというのに。まさか成り上がりの下級豪族筋の、ましては娼婦の腹から出た者を入団させるなんて。しかも父親殺しで訴追・逃亡中の男を、自分が総長たる栄誉の騎士団に入団させねばならないなんて。
「この者の入団は、リンザン教・ザカーリ副教王猊下の推挙によるものである。入団資格に欠落は無いと、ザカーリ副教王猊下が保証するものである。
 入団に異義がある者は、申し立てよ。申し立てが無い場合には、この者の入団は神の御前と騎士団の栄誉の許に承認をされる」
 一瞬、横のザカーリを見た。この聖職者の強い野望の質ならば、とっくに心得ている。今回もその野望が何やらを画策し、ために自分の騎士団に割を喰わせたのだろう。考えるだに腹立たしい。
(誰でもいい。異義を言えっ)
 だが勿論、異義を唱える者はいない。いまだかつて、古式を誇る式典に否定が持ち出されたことなど無い。その通り今も、暑さと芳香がこもる堂内にはつつましい静寂が保たれている。
 と。場の末席に近い辺りでは、僅かな囁き声が発せられた。
「あの公子は、父親殺しの罪人として追われているのではないのですか?」
 イーラ国出身の若い騎士が、隣に立つスレーイデ騎士に訊ねたのだ。
「評判となっています。現ラーヌン公は、あの公子を父親殺しの大罪人と訴え、極刑を望んでいると」
 スレーイデは、静かな眼でキジスランを見つめたまま答えた。
「冤罪でしょう。キジスラン公子は、父公を深く敬愛していましたから」
「そうなのですか? だとしたらば、あの公子が騎士団騎士となった場合、我らは同胞の名誉のために無実を証明しなければならなくなるのでは?」
「それは我らがリュシナン総長と、推薦者であるザカーリ猊下が判断することでしょう。騎士団そして騎士にとっての最善の決断を採られるはずです」
「そうなのですか――?」
 若い騎士は不満顔のままだ。不満はおそらく、他の騎士達・聖職者達も一緒だ。だが神の御前の叙任式を乱すなど、そんな前例ない行為に出る者はいない。
 長い、本当に長い静寂の後になった。
 そして強い芳香が充満した室内に、
(――。全能者は騎士団の栄誉を御守り給え。栄光を妨げる者へは、悪者の汚名を着せ、素早く排除し給え)
リュシナンの低い声が宣した。
「この者の我等が騎士団への入団は、神の御前に異義が無いものとする。」
 成り上がり者と娼婦の間の子・大罪人であるキジスランの入団が、全能者の御前に承認された。
 ……祭壇の右手後方から、助祭服姿のドーライが現れる。
 両腕で、鮮やかな紅色のクッションを支えている。その上には、淡水色と薄日色の二つの貴石を嵌めた長剣が横たえられている。
 銀の剣は、恭しくザカーリに捧げられた。騎士団長たるリンザン教王の代理である副教王ザカーリが、これが騎士団創設にあたり時の教王より下賜された宝剣であることを確認し、あらためて隣の騎士団総長リュシナンへと手渡した。
「神の御前において。また、銀の山羊騎士団の名誉を示す宝剣の御許において」
 膝まずいたままキジスランは僅かに視線を上げた。総長の背後の壁に掛かるリンザン教国旗・銀の山羊騎士団旗・リュシナンおよびザカーリの紋章紋旗の一番端に、ラーヌン公国のアイバース家の紋章旗があった。
「神の、その不滅と栄光において。騎士団の栄誉において」
 あの旗が掲げられる場へ、白羊城へと、自分は戻るのだろうか。その時自分は、どのような立場で、状況で、あの男と対峙するのだろうか。
「己の名誉において。宣誓を」
 剣が右肩、続き左肩に置かれる。キジスランは宣する。
「全能の神との貴ぶべき契約たるリンザン教義、教義をあまねく広めるべき教会、その庇護を受ける幸いなる信仰者、そしてそれらを名誉と共に守護る銀の山羊騎士団の理念及び戒律。
 これら全てを、全身全霊を賭して護り抜くことを、剣の御許に宣誓致します」
 剣は左肩を強く圧し、僅かな痛みが走った。リュシナンそしてザカーリが、それぞれの思惑の許に表情をしかめた。キジスランは、騎士団の騎士となった。
肩の上に、聖天使は舞い降りたのだろうか。
 聖天使は、導きの聖マラクだろうか。懲罰の聖マラクだろうか。

            ・       ・       ・

 銀の山羊騎士団への叙任入団式が終って、数カ月後。
 夏の終わりを告げる聖バアフ殉教の日。
 ほぼ一年余にわたり行方不明となっていたアイバース家のキジスラン公子の所在が、公表された。
『冤罪逮捕を逃れるべく逃亡中であったラーヌン公国・アイバース家のキジスラン公子は、現在リンザン教国に滞在中。当地にて、リンザン教会が主催する名誉たる騎士団・銀の山羊騎士団騎士に叙任された』との公式の発表が、騎士団より出された。
 その報は直ぐに、ティドリア域の各地に広まった。
 ラーヌン公国の王城・白羊城にも、素早く伝わった。


【 その直後に続く 】
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