第13話

文字数 21,342文字

13・ その夜半

 長い長い、暑さのこもった一日は、ようやく終わった。
 燃えるように色合いの日没を経て夜が訪れたと同時、ごった返していた白羊城が、一変した。あれ程に騒々しかった人と音が消えた。弔いの夜に相応しい、死に絶えたように静まり返った夜になった。
 ……キジスランは今、疲れきった身を寝台に横たえた。
 今日という暑い一日。余りにも多くの出来事が、一気に自分に覆いかぶさった。そのことを思い出そうとしても、火照った思考も感情でうまく整理ができない。何を感じ、考えれば良いのか分からない。それでも何かを考えたくて、しかし疲労を重くまとった体は、休息だけを欲していた。だから横たわるやほとんど間も置かず、眠りに覆われていった。
 いつの間にか、キジスランは黒い眠りの底へと落ちていった。
 深淵の様な眠りの底で、長い、続き絵のような、奇妙な夢を見始めていた。
 ……
 夢だ。
 夢だとの自覚があった。不思議な事に、そう思いながら夢の中にいた。
 粘つく様にまだるこい薄闇の中に、老サウドが立っていた。
 彼は左目に短剣を刺さしたまま、そこから鮮血を流したまま、立っていた。血で顔の半分と長衣までもが赤く染まっているのに、しかしゆったりと微笑みながら、何かを無音で語りかけていた。
 何か重要な事を言っていると解る。だが、言葉は聞き取れない。言葉は延々と無音で続いている。聞き続けている内に、漠然と、ひんやりとした恐怖を感じ出す。
 ふっとサウドは消えた。
 虚ろになった闇に、続き、マラクが現れた。
「マラク?」
 声をかけると、少年は反応する。いつものように元気よく笑う。笑いながら素早く口を動かしている。が、サウド老同様に無音で、聞こえない。この少年の話はいつも明るくて興味深くて役立つものだったなとは思い出すのに、何を言っているのか分からない。
「聞こえないぞ。何だ? マラク」
 闇のまま、無音のままだ。徐々に苛立ちを覚える。マラクの顔もまた、徐々に強張っていく。怒り出してくる。それに不安を、不穏を、恐怖を覚え始めた頃、マラクは唐突に消えた。
 また、現れた。三人目はアイバースだ。
 正に、アイバースだ。先程まで目にしていた通りの、膨張した黒い肉塊のアイバースだ。その姿で柩から半身を起こしているという奇怪さだというのに、しかしその眼はかつてのままだった。強さと優しさと、そして自分への信頼を伝える眼だった。
「公。父上……」
 自分を諭すように、たしなめるように何かを語りかけている。丸切り、一昨日の鐘楼の場と同じだ。ただし朝の光ではなく薄闇の中だ。そして無音だ。
「聞こえません。何でしょうか? 公、聞こえない」
 柩から出て、ゆっくりと進んで来る。歩くたびに、腰の家長の剣が僅かな硬い音を立てる。
 父親が目の前まで達した時、僅かに腐臭が鼻を突いた。倍にまで膨れ上がった右腕が伸ばされてきた。黒い指が自分の額に触れた瞬間、奇妙な刺激が皮膚に走った。
 そのまま、アイバースは消えた。
 と。唐突に視界が変わった。闇は消え、世界は陰鬱な秋の夜明けのような薄色だ。空気に肌寒さを覚え、なぜか神経がチリチリと逆立つのを感じた。
 その中に、現れた。
 豊かな肢体。これ見よがしに伸ばした髪は結い上げもせず、たっぷりと背中に垂らしている。真っ赤な髪色に縁どられたその顔が、ゆっくりと近づいて来る。
 最後に彼女を見たのは、遠い昔だ。なのによく覚えている。並外れて長かった小指や、首の横の小さな痣や、並外れた美貌と印象的な真っ黒の瞳や。そして圧倒的な自信を見せつける様や。
「……。久しぶりです。バイダ夫人。――母上」
 途端、自分はあの城館・ザフラ城館の中に居た。
 年に一度か二度、気ままに呼び出された。常に彼女は豪奢な服に身を包み、自分に向かって好き勝手に喋り続けた。自分の望み通りの生活についてを、それを自らの力で手に入れたことについてを、アイバース公を全身で愛し全身で愛されているについてを真っ向から自慢しながら、延々と語り続けた。
「でも、これだけでは満足しないわ。私の住む所はこんな詰まらない城館じゃないから。白羊城だからよ」
 いつもそう言って、口許を妖艶に釣り上げて笑った。
 よほど機嫌の良い日には、彼女は自分を館の奥まった一室に案内した。その小狭い室内の窓の脇、鉄細工の格子のついた飾り棚のカギを解いた。中にいくつも並んだガラス製の小瓶の中から、磨き上げられた、深紅色の瓶を取り出した。図々しい程に派手やかな笑顔と共に、言った。
「大丈夫よ。誰かに使ったりはしないわよ。持っているだけよ。
 なあに、その顔? 怯えてるの? お前が望むなら、これの使い方を教えてあげるわよ。」
 ――毒薬だ。
「それで。どうするつもり? お前には異母兄がいるわね、公に良く似た、強い野心家そうの。いかにも切れ者の。で。お前は何が望みなの? お前の生涯だから、私にはどうでも良いわ。好きなように自分で決めて。
 それで。お前は何を望むの、キジスラン?」
「私の望むもの……」
 声にして応えた瞬間、幽霊は笑った。その口から多量の血を吐いた。
 あの日の光景だ。あの日と同じだ。彼女は凄まじい血を吐いて床に崩れ、もう決して起き上がらなかった。
 いや、違う。今、バイダは血を吐きながら、笑っている。笑いながら何か告げている。ああ。分かった。先ほどの三人と同じことを言っているんだ。言っている。
“早くしないから。躊躇しているから。だから”、と。
 ――
 眼が覚めた。
 真夜中のように感じた。窓の鎧戸が風に揺れて半開いていた。隙間から完円の白い月が見えた。
 気づくと動悸が強く、寝汗が酷かった。それ以上に、ひりついた緊張感が体を縛っており、取り敢えず、寝台の上で一度大きく息を突いた。
 これではもう、眠りに付けないだろうと思う。しばらくは漠然と、鎧戸のきしむ音を、冷えた空に浮かぶ月を捕え続ける。だが、やはり疲労の方が勝った。間もなく眠りへと再び落ちていき、そして――再び悪夢に落ちていった。
 ……また、マラクだった。
 今度は、想像だにしなかったマラクだった。彼は裸でうずくまり、身を折る様に曲げている。苦しんでいる。
「マラクっ、どうしたっ」
 体中に、傷を負っている。時に左手が痛むのか、左腕を腹に押し当てかばっている。苦痛に猛烈に顔を歪ませている。
「何があったんだ!」
 歪んだ顔がこちらを向く。絶望を訴える眼で、見据える。
「マラク……っ?」
 這いずる様に、目の前に迫ってくる。と、マラクの泣き顔が一変した。憎悪の限りをこめて叫んだ。
「だから早くしろと……!」
 途端マラクの手が自分の左手を掴み、その瞬間、
 痛い!
 相手の痛みを共感する。激痛が指に走る、指が――指の骨が――骨が潰れている! 痛い!
 ……掛布を跳ね飛ばして起きる。思わず上体をかがめ、左指をかばう。
 震えるように、堅く閉じた左手の指を動かしてみる。痛みはただの悪夢だったと確認しても、それでも心臓の鼓動が静まらない。
 ただの夢だ。恐ろしいほど不愉快で、生々しい現実感の悪夢だ。そう確認をしても、軽い吐き気すら覚える不快感は消えていかない。今度こそもう、絶対に眠れないと自覚する。取り敢えず、水が欲しい。
「ルシド」
 隣室へ向かって呼んだ。が。
 ――応えが無い。
「ルシド……?」
 片隅の蝋燭の火は風に揺れ、消えかけていた。
 寝台を降り、火を燭台に移す。手に握り、寝室から隣の私室に移る。夢が未来を告げるという占星術者の論についてならば、キジスランはあまり信じていない。問題は、
『大変な一日になりました。今夜は十分にお休み下さい。私が隣室で控えていますので、安心して存分にお休み下さい』
 寝る前にそう告げたルシドが、そこにいないことだ。いつもならば、こちらの感情が波立っている時にこそ、先回るように控えているのに。
 ルシドの顔が、いつにも増して堅苦しく、神経質に強張っているのにも気づいていた。だが、今日というあまりにも劇的な一日ならば、あの男をしてもそんな事もあるだろう思い……、いや。そんな事より、自分と兄の事で思考と感覚は一杯で……。
 闇が、僅かに重さを帯びた気がする。何となく、不穏の影が生じ出す。
 まるで従者のそれが移ったかのよう、神経が研がれていると自覚する。空気の質が硬いと知覚する。取り敢えずルシドを捜した方が良いとなぜか感じ、服をまとった。靴を履き、通廊へと踏み出た。
 ……白羊城は、完全な静寂に陥っていた。
“日没と共に城内の全ての活動を止めろ。城外に住む者は全員帰宅しろ”。
 明後日にラーヌン公となるカイバートが発した、最初の命令だった。明日、永遠に居城を去るアイバース公に、自分が心から敬愛していた父親に、最後の夜を静かに過ごして欲しいと願ったからだ。それに従い、城内の人数は激減していた。夜が明けてか一日中、あれ程に騒々しさの続いたかった白羊城が、今、真逆の静寂に包まれていた。
 キジスランは、通廊を歩む。北棟の地階にある使用人用の宿泊部屋にルシドがいる事を期待し、そちらを目指す。
 城内には本当に物音がない。本当に人がいない。通廊の窓から下のハルフ広場を見ると、かろうじて幾つかの篝火が灯されて、揺れている。数人の衛兵の影も揺れて見え、それらが妙に遠く感じられて、なぜか現実感が薄い。辺りは無音だ。
 何かが、おかしい。
 まるで、悪夢の続きだ。音の無い、闇に覆われた長い通廊の先から、老サウドの血まみれの顔が、アイバース公の膨れた全身が、マラクの叫びと痛みが出てくる気がする。なぜ?
 なぜだ? 悪夢など見た事なかったのに? なぜ夢のマラクの痛みに共感する?
(指を潰すって、それは……)
 足が止まった。
 嫌な事を思い出しかけ、それは思い出すなと感覚が賢明に判断した。
(とにかく、早く、北棟の地階へ)
 早足で歩き出す。左手が握る燭台の光が、大きく揺れながら闇を照らす。このひりついた闇と静寂から早く切り抜けろと、体の奥底が命ずる。早く、早く抜けないと。さもないと――。さもないと、何かが? そう思って階段を下り出した時だ。
 階下の闇から、階段を登ってくる足音が聞こえた。
 幽霊?
 ぞくりとした薄い恐怖が背筋に走る。まだ自分は悪夢の中だったのか? いや、
「――ルシド?」
 燭台の灯の届く一番遠いところに、従者の痩せた全身が浮かび上がった。自分を見た途端、その顔が大きく驚いた。
「なぜ? ルシド、こんな時間にこんな所に……?」
「キジスランは様こそ、なぜ……」
 階段の半ばで足を止めている。
「――。ルシド?」
 それは如何にも奇妙ではないか。真夜中に闇の通廊を走っている主人を、ルシドが無言で迎えるなんて。それどころか僅かに視線を横にずらし、避けるように眼球を小刻みに揺らせているなんて。
「なぜ、こんな時間に城内を歩いているんだ?」
「――。水を取りに。厨房へ」
「水?」
 しかし、ルシドの手は空だ。
いや。空ではない。キジスランは気付いた。左の掌の中に何か握っている。その手を背中の方へ動かす。隠す。
「何を持っているんだ?」
「――。済みません。本当は、水を取りに行ったのではありません。――本当は……、マラクに会いに――」
「マラクが城内にいるのかっ、今日は街へ戻ると言っていたぞっ」
「いました。料理番達と一緒に、厨房の隣室で寝ていました」
「奴はどうだった?」
「はい?」
「マラクの様子はどうだった?」
「……、寝ていました」
「寝ていた――」
 取り敢えず、一度目を閉じ強く息を吐いた。生々しい夢は、ただの悪夢として片づけられた。
 目を開ける。再び相手に声掛けようとした時に、あらためて気づく。
ルシドは階段の中途に立ち止まったまま、ぴくりとも動いていない。硬い顔のまま。
あらためて、率直に問うた。
「こんな真夜中に、なぜマラクを訪ねるんだ? それに、――左手の中に、何を持っている?」
 何かに気付いてゆく。沈黙の中に、ルシドの異様に硬い顔が、見ている内にもさらに冷たく、凍る様に固まってゆく。
 キジスランは一歩、段を降りる。と、ルシドは即座に一段、降りて退いた。
「ルシド。手に持ってる物を渡せ」
「――」
「ルシド!」
 凄まじい不快の顔をルシドは作った。突然背を向け、明り取り窓を見る。虚ろな闇となっている外に向かい、左腕を振り上げる。手の中の物を投げ捨てようと力を込める。
 キジスランは飛び出す。強引に飛びついて相手を壁に押しつける。燭台が石段に落ちて転がり、光が大きく揺れた。
「ルシド!」
 大きく揺すった時ルシドの掌が緩み、中身が床に落ちた。瞬間、驚くほど大きな音が響いた。二人の手が同時に伸び、相手を押しのけキジスランは掴み取った。
 赤色の小瓶だ。
 悪夢が体現した。あの瓶。バイダ夫人が大切に大切に持っていた瓶。愛でるように撫でていた瓶。――毒の小瓶。まさか持ち出していたのか!
「なぜ勝手に城館から持ち出した! 使ったのかっ、誰に使ったんだ!」
 ルシドの顔が、怒りを含みながら笑いを作った。
「言え! 使ったのかっ、今夜、誰に! マラクか! マラクになぜ!」
「マラクなんて今、城に居ませんよ。あんな価値も無い下卑た餓鬼に、わざわざ貴重な毒――」
「じゃあ誰だ! 誰に使った! ルシド!」
 再びルシドは笑った。そして、言った。
「言わなくても、解るでしょう?」
 薄闇に、冷気を知覚した。
 体の中の血が、下に落ちていく気がした。言葉の意味が、はっきりと理解できてしまった。激情が体内を抜ける直前、逆に押し潰した単調な、冷淡な口調になった。
「使ったのか。まさか、――カイバートに」
「はい」
 揺らぐ光の中、ルシドは鮮やかに微笑んだのだ。
(神様――)
 唇がゆっくりと呟いた。途端、キジスランは右腕を振り上げた。生まれて初めて、ありたけの力で人の顔を打った。ルシドは壁伝いに二段分をよろける。それでも笑う。その襟首を引きずるように持ち上げると、再び壁に押し付けた。
「なぜだ――! 私の兄を!」
「兄? 貴方を喰い潰す獣でしょう? 自分でも知っているくせに。アイバース公が亡くなる日が限界になると分かっていたくせに」
「そうだ! 公が亡くなる日を恐れていた! だが、現実はそうならなかったっ、お前だって見ただろう? 私は――私とカイバートは、初めて同じ血を持つ者と感じ――その瞬間から別の未来――」
「『そうならなかった』? いいえ。その通りですよ」
「違う! 見ただろう! 見たくせにっ、私達が和解したのをっ」
「見ました。あれこそが正にカイバートじゃないですか。分かっているくせに」
「どういう事だっ」
「どういう事って?」
 切れた口内から僅かな血を見せながらルシドは壮絶に笑った。
「カイバートは貴方を潰します。その為に貴方を抱擁した」
「――」
「あれ程に執着していたくせに、一体あの男の何を見てきたのですか? 驚きだ。まさか、たった一度だけの、あんな芝居で騙されるなんて」
「――」
 たった一度の芝居、たった一度の抱擁、たった一度の涙――
 思考の中で、言葉は大きくなってゆく。相手の弁が理にかなっていると、そのように理解をし始めてしまう。黒い覆いをかぶせ敢えて見なかった現実を、少しずつ見始めてしまう。
 そうだ……。アイバース殿も、父親も気づいていた。カイバートが必ず自分を潰すと、そう真っ向から助言したくれたではないか。ほんの一晩と半分の前。死の朝に。
 父親の黒く膨れた姿が、悪夢の様に浮かび上がる。それを察知したかのよう、ルシドは唐突に核心を突いた。
「アイバース公も、カイバートの手にかかったと思えませんか」
 途端、再び腕を振り上げた。殴りかける。が、腕は止まる。胸の中で、黒い覆いがちりちりと剥がされ始めてゆく。
「……そんな事――あり得ない! 医者は発作だと――」
「医者は買収でも脅迫でも動きます」
「黙れっ、そんな事があるはず――あってはならないっ」
「この突然のアイバース公の死で、カイバートがどう動いてきたか解っているのですか?
 突然、奴の外出中を狙ったかのように公は亡くなり、奴は遠地から昼夜兼行で走り、皆を驚かせての帰還。そして感傷的な哀しみの涙。さらに不仲の義弟を抱き、新たな公国を作ると誓い合う。見る者を全員感動させます」
「その通りだっ、何が悪いっ」
「そして、公の死の原因を押し付けます」
「――。え?」
「貴方に、父親殺しの罪を着せます。あの男は」
 とどめのように、ルシドは言った。
 石床に落ちたままの燭台の灯が大きく風に揺れて、消えた。周囲が闇に落ちた。それに目が慣れて薄暗い視界が戻って来た時、両者は互いの痛い程に強張った表情を意識した。
「だから私は――。私は、だから、貴方を護る為にやりました」
「お前は……」
「はい。私は、全て貴方のために――」
「お前は、神の御名において、自分の考えが正しいと信じているのか?」
 途端、ルシドの眼は引きつり、凄まじい声で怒鳴った。
「まだ事実を認めないんですか! なぜです! どうして自分の未来よりあの男を大事にするんですか! 何を望んでいるんですか!」
「ルシド、自分の考えに確信があるのか?」
「はい! 貴女の甘ったれた見通しなどよりおよそ正しい!
 ええっ。そうです。そもそもの始まりはあの日、――貴方の母上が亡くなったあの秋の日、あそこからだ。
 私は、気づかなかった。本当に、なぜか迂闊にも気づかなかった。しかし貴方は気づいて知っていたんだ。あれはカイバートが引き起こしたと知っていたくせに!
 バイダ夫人が召され――違うっ、何が“召されて”だっ、毒殺され、それをやったのがカイバートだと知っていながら私には言わなかった! 隠した!
 一体貴方にとって、あの男は、何なんです?」
「――」
「私は――私は、何なんです? 貴方の栄光の為にだけ私は生きているのに、なのに私は貴方にとっての何なんですか?
 これまでだって私達は共に困難を克服してきたじゃないですか。なのに今、貴方は最大の危機の中にあるのに、それなのに私を無視する。なぜ? なぜそこまで、貴方はカイバートに執着するのですか!」
「……」 
「でも、もういい。もう、カイバートは貴方の前から消えました。カイバートは消え、貴方が次のラーメン宗主です」
「……」
「貴方が新ラーヌン公です。――新公主、万歳。神の御加護あられ」
「……」
 新ラーヌン公、万歳――
 薄闇の中に、言葉が円になって回る。よく解らない。言葉を掴み切れない。
 カイバートは消えて、自分がラーメン宗主になる……
 カイバートは消えて……
 赤い胴着を着たカイバートが甦る。
 大股で、素早く歩く。動作はいつも機敏だ。機敏が過ぎて、粗野にも近い。なのに時にはっとするほど印象を変えるのは不思議だ。一週間前だったか? 市庁舎での評議会公式行事に参加した際、礼服を着て父親と並んだ姿は、びっくりする程に貴公子然として優美に映っていた。
 笑っている。接見室で遠方からの客と楽しそうに談笑している。ハルフ広場を歩きながら、友人達とじゃれ合って笑っている。宴席で酔い、羽目を外して馬鹿笑いしている。かと思うと、時に怒る。頻繫に苛立って周囲の者に怒鳴り散らす。
 そして眼。眼はいつでも、前方を真っ直ぐに見る。決して躊躇をしない。曇らない。
“これがラーヌンの全てだ”。
 夕刻の鮮やかな色彩に染まった世界を真っ直ぐに見据え、そして黙した静謐の眼。
 あの眼が消えるのか?
 それは、許されるのか? カイバートが未来永劫に地上から消えることなど、本当に許されるのだろうか?
「……許されのか?」
 闇の中、声色が僅かに変じていた。不穏を帯びていた。ルシドは主人の顔を見た。
 怒っていた。表情に乏しいはずの主人が、かつて自分が見た主人の中で最も素直に怒りを剥き出していた。気づいた。こんな状況だというのに皮肉の可笑しさを感じ、ルシドは笑顔になった。
 ああ。この表情。憎悪する相手を絶対に許さないという点で、カイバートとよく似ているじゃないか……!
「はい。許されます」
 それでも即応する。自分にはそれが出来る。
「カイバートを地上から抹消する事ならば、私に許されます。なぜなら、それが出来るのは、そうして貴方を護れるのは私だけですから。いいえ。それだけでは無い」
 出来るからやる。今だ。
「地上からだけではない。それだけじゃ済まさない。あの男の全て、貴方から全て消し去る事も出来る!」
 今度こそ躊躇なくキジスランは右腕を振り上げる。その殴打からルシドが逃げられたのはほとんど反射だった。避けながら、思わず主人の上腕にしがみつく。これにキジスランがよろけた。踏み出した右足が石段を外し、もろに倒れ込んだ。この瞬間を逃がさなかった。
 倒れ込んだ主人の体に馬乗る。一瞬で首を押さえつけ主人の自由を奪う。信じ難いことに、ルシドの痩せた非力の腕が、完全にキジスランの動きを押さえ込む。
 キジスランは驚愕の顔をさらすだけで、まだ気付いていない。その目の前でもうルシドは始めかけている。やりたくてやりたくて、でも許されずに諦め、でも長く渇望して歯噛みし続けてきたことを、今なら存分にやれる。もう自身を止められない。
 僅かに魔物じみた笑みを示す。相手の首を完璧に押さえつけ、顔を近づける。啞然としている主人の眼を至近から見捕える。
 薄闇なのに、互いの瞳が細部まで見える。ルシドはその虹彩まで見捕える。今頃になって相手も気づいた。が、もう遅い。ルシドの中の魔は黒い霧のように、いとも簡単に相手の中に侵入する。侵入しながら、その中を見捕えてゆく。探してゆく。
 どこだ? どこにいる?
 主人と、そして自分の進むべき道を妨げる存在。自分達の未来を奪い壊す存在。今すぐに抹殺しなければ。さもないと先手を取られる。だから今。今すぐ。今この、千載一遇の機に!
 鈍く光っていた。
 闇の片隅に見つけた瞬間、ルシドは――黒い霧は喜びと憎しみに震えを覚えた。獲物への殺意が全感覚に走る。光が像を結び出し、憎むべき、殺すべきあの姿が浮かび上がってくる。憎悪に、喜びに、快感すら覚える。あの男、
 こんな場に堂々と存在しているなど、許せない。許さない。今、出来る。主人の心深くに住み着き続けるカイバートを殺せる。カイバートに襲い掛かる!
 ――その瞬間に起こったことを、キジスランは全く解らなかった。
 突然、解放された。奪われていた力と視界が戻った。
目の前、ルシドの眼が考えられないほどに剥かれている。その眼球に素早く赤い血管が走ってゆくのすら見える。そしていきなり始まった長い、凄まじい悲鳴!
 圧倒されて、何も出来ない。今にも失神しかねないルシドを、恐怖をもって見据えてしまう。階段に倒れ込んだまま、ただ相手の次の動きを待つ。
 と、ルシドの細く強張った指が自分の肩を掴んだ。喰い立てた。
「早く」
「何が……、――ルシド、痛い!」
「早くっ」
「手を離せっ、止めろっ。何を――何が起こって――」
「早く逃げろ――っ」
 千切られそうな肩の痛みの中、ルシドは宣した。全てを決する一言を吐き出した。
「早く逃げろ! カイバートに殺される!」

           ・        ・        ・

 キジスランは走る。
 まるで真夜中に叩き起こされたかのように、思考が働かない。事態がどう動いているのか全く分からない。
“カイバートに殺される”
「どうして! カイバートは生きているのか!」
 叫んでもルシドは答えない。足を引きずってしか動けないはずのルシドが、なのに自分の右腕を掴み、信じがたい強さで引っ張り続ける。闇の通廊を走り抜け、自分に止まる事を許さない。
「待てっ、答えろ! カイバートは――っ、ルシド! どこへ行く気だっ」
 答えない。掴まれた腕が痛い。
「答えろっ、でないと走らないっ、どこへ!」
「自室へ!」
 やっと応えた。振り返りもせず、そのまま走り続ける。
「自室へ、貴方の部屋へ、天使マラクの絵……!」
「なぜ、あの絵が――」
「貴方が生き残る武器ですっ、あの絵だけは何としても……っ」
「解らないっ、どういう事なんだ!」
 もう答えない。灯りの内暗闇の通廊で、ルシドは力を緩めない。常人離れした知覚と力で走るルシドに先導され、つい先刻、あれ程に怯えてたどった道を戻り切る。半開きのままだった自室の扉へ体当たりするように走り込む。
 この後のルシドの動きは、圧倒的な素早さだった。
 壁にかかっていた絵を落とし、その裏側に隠されていた天使マラクの布絵を抜き取ると、巻き取り胴着に差し込む。寝台の敷布の下からまとめておいた多数の書束を取り出し、一まとめに布に包む。それをキジスランはただ茫然と、立ち尽くして見る。
「早く! 金貨と宝石を――、早く!」
 突然振り向く。噛みつくように命ずる。
「何をして――っ、早く逃亡準備を!」
「――。どうして今夜、私は逃げるんだ? 誰からっ」
「はやく外套を着て、一番丈夫な靴を――! 早く!」
「説明しろっ、でなければここから動かない」
 衣装箱の蓋裏から小袋を取り出していた手が止まった。
 言うべきか言わざるべきか迷ったのは、一瞬だ。ルシドは毒づくような目で睨みつけながら言った。
「奴は生きている」
 内容の重大さに比べて、簡素そのものの言葉だった。キジスランは黙って立っている。眉間に僅かにしわを寄せ、不穏の眼で従者を見、錯綜する感情を懸命に抑えながら、やっと発した。
「だって、さっき、殺したと……毒で……、そう言ったじゃないか……」
「まだ、今は生きている。忌々しいがまだ」
「……」
「明日の朝死ぬ。朝食で奴が使う杯に毒を塗ったから。それを――一夜分だけ先手を取られるなんて!」
「生きて……。本当に――?」
「生きている、そして先手で貴方を捕えに来るっ、だからすぐに逃げ――」
「仕掛けた毒に、気づいたのかっ、だから私を捕えに――」
「違う! そうじゃない! 貴方の中のカイバートから解ったんだ! 奴の本心が見えたんだ、今夜、貴方を捕えと!」
「私の心を見たのかっ」
「黙れ! 今はそんな事どうでも良いっ、早く!」
 まだ動けない。キジスランはまだ思考が回らない。なのに感情だけは素直に反応してしまう。背中を震わせるほどに安堵と喜びを覚える。それ以上の感情は動揺に混ざって、自覚出来ない。ただ繰り返してしまう。カイバートはまだ存在していると。自分を魅してしまったあの巨大な存在は、今もまだこの地上に居ると。
 次の瞬間、ルシドは宝石を詰めた小袋をキジスランの胸に押し付けた。
緊急時にと備えておいた小袋の重さが、現実だった。感情を選択する間も無い。頭の隅に過ったのは、こんなに早くこの小袋を握る日が来たんだなという間の抜けた感慨、そして、
『どうして先手を打たなかったんだ?』
あれはやはり正夢だったんだという、およそ意味の無い確認だった。
 小袋を胴着の中に押込む。一番丈夫な外套をまとい、隅に立てかけてあった剣を掴む。その時点でルシドの声は悲鳴になる。
「もう来ている! 直ぐに――直ぐ来るっ、早く!」
 部屋から走り出る最後、キジスランは燭台の火を消そうと身をかがめた。その刹那、小さな光の中に鮮明な室内の光景が浮かび上がった。こんな場合だというのに、余りに場違いな感傷に襲われた。
 この一年半、ここで自分は幸福だったのだろうか?
 ここで、自分を愛してくれた父親や、自分が愛してしまった義母や、そして自分を憎悪し翻弄し続ける義兄と出会った。白羊城に住まう家族と共に過ごした。それが今、過去になる。もう二度と取り戻せない。
 火を吹き消した。部屋は闇に落ちた。
 ――
 静寂の通廊を走り出した時、空気の色が変わったのが解った。今夜、余りに負荷のかかった長い一日の果てに、自分の感覚がルシドの感覚に共感してしまったのが解った。異能が、自分の背中のすぐ後ろに危機が迫っていることが察した。
(カイバートに捕まるのだろうか? 捕まったら、どうなるのだろうか?)
「早く!」
 永遠の様に急かされ続ける。胸と喉が一気に渇いていくのが分かる。南棟を真っ直ぐ貫く通廊が、途方もなく長いと感じられる。
「早く! とにかくすぐに地階へ――大階段へ、早く!」
 南棟の西端の階段に達し、三階分の階段を一気に駆け下ると、一度通廊を逆戻る。二階から地階に降りる階段は一箇所しかない無い。その大階段だけは早く通過しないと。そこに先回られ待ち伏せをされたら、もう逃げようが無い。
 どれ程走れば良い? あとどれぐらい走るのか? 今、自分は白羊城を脱し、公国から逃げるのか? どこまで走るのだ?
 喉が渇きの苦痛を訴る。肺が空気を求める。延々の通廊の闇を切り抜けようやく、ついに地階への大階段が見え始めた時、
「あ――」
 全く状況にそぐわない、幼児じみた小さな声をルシドが漏らした。
 ルシドの感覚を介するまでもない、キジスランも頭上を見上げた。
 物音だ。こもった物音が闇に響いている。乱暴に物を動かし、ひっくり返す音が重い反響となり、去ったばかりの自室の方から響いてきた。
「来た! 早く!」
 ルシドは足を引きずり再び走り出す。すぐさまキジスランも追う。この時点に至りようやく思考は動き出す。自分の置かれている現実を理解し始める。
(カイバートに捕まる。捕まれば、ほぼ間違いなく殺される。
 あの冷酷の眼の前で、自分は殺されて、消滅する。――神様)
 大階段に飛び込む。小さな明り取り窓から月光がもれる踊り場までを、ルシドが先行して走って下る。ぼんやりと光る踊り場目指して一気に駆け下り――、
 ルシドの足はそこで止まった。
 ルシドは踊り場の一点を見つめたまま、先へ進まなかった。素早く主人を振り返り、目で来るな!と告げたが、遅かった。キジスランもまた淡白い月光の届く場所に飛び込んでしまった。
「やっぱり来た。こっちで待ってた俺が正解だった」
 踊り場に、誰か立っている。武衣だ。兵だ。
 男が下から一歩ずつ登っくて足音が、僅かに聞こえる。六段を刻んだ時、逆光になっていた男の顔の輪郭がようやく結ばれた。その顔を認識できた時、キジスランの体内に思いがけない希望が走った。
「タイールっ」
「久し振りだな、キジスラン」
 長らく白羊城を不在にしていた友達は、以前と変わらない、明るい笑顔をみせていた。
「白羊城に戻って居たのかっ、タイールっ」
「領境での任期が伸び伸びになって、やっと明けて二日前にこっちへ戻ったばかりだったんだ。まさかいきなり白羊城のこんな混乱に出くわすとは思わなかったよ。大変なことになったな」
即座、キジスランは走り寄ろうとし、
(え?)
足が止まった。友の右手には、剣が握られていた。
 まさか。だっていつも通りの陽気な口調と表情だ、まさか。
「助けてくれるのだろう?」
 するとタイールはにこりと笑った。笑いながら、首を横に振った。ゆっくりと一歩ずつ足を進めて近づいてきた。
「なぜ……? まさかこの場で私を捕えるのかっ、待て、止めてくれ」
「それは困る。すぐに上に居る連中がやって来る。そうしたら俺が手柄を独り占め出来なくなる。
 お前の従者は気持ち悪いほど勘がいいからな。お前の部屋じゃなくてこっちで待ち伏せてて、やっぱり正解だった」
「どういう事だ! キジスラン様の友人だったくせに、背信してカイクバートに寝返ったのか!」
 猫じみて歯を剥くルシドは無視し、タイールは真っ直ぐに友人を見て、意外そうな顔を示した。
「俺は今でも、お前の友人だぞ。キジスラン」
「だったら私達を助けてくれ。このまま見逃してくれ」
「それは出来ない。俺はお前の友人であるけど、カイバートの友人でもあるんだから」
「分かった。カイバートが払った報酬額の倍を渡す。だから――」
「キジスラン、だから違うって。勘違いするなよ」
 全くいつも通り、よく一緒に街を歩きながら喋っていた時のように、至極和んだ当たり前の口調で、タールは現実を告げ始めた。
「老サウドの事件の少し後だったかな。カイバートの方から声を掛けられて、友人になった。つまり俺は、お前達兄弟の両方の友達になった訳だ。
 俺は、お前達兄弟の二人共が好きだ。だが――お前とカイバートとでは力量が違い過ぎる。お前達が衝突したら、必ず奴の方が勝つのが決まっている。だから俺があちらに付くのは、当然だろう?」
「……」
「俺は、白羊城の衛兵隊の部隊長の地位が欲しいんだ。明後日になったらラーヌン公座に就く奴は、お前がサウド老からもらった例の絵と、それからお前自身を欲しがっている。だからその二つとも俺が手に入れて新公に渡し、おれは部隊長の座を貰う。悪くないだろう?」
「……。私が天使マラクの絵を持っていると、カイバートに喋ったのか」
「まあね。もっとも奴も、ある程度は絵について知っていたけれどね。俺としては、自分が知っていることを話しただけだ。別に悪い事では無いだろう?」
 そして、決定的な一言を発した。
「誰だって、強い君主の側に居るのが良いと思うに決まってる。お前じゃ駄目だ」
 再び、石段を登り始めた。
 ルシドが怒りの眼で相手を睨み据えたまま、歩を下げてキジスランに近づく、陰の中、丸めた絵を取り出し素早くキジスランの胴着に押込む。
「奴は一人です。私が何としても食い止めますから、貴方はその間に絵を持って城外――」
「キジスラン、止めとけ。俺の腕を知ってるだろう? お前とその気持ち悪い従者二人ぐらいならこの場で難なく天国だが煉獄だかに送れる。止めとけ」
「……」
「とりあえず俺はお前には危害は加えない。捕えてカイバートに渡すだけだ。彼は先々まで充分に見通す質だから、まあ、お前を即座に処することはないだろうよ。――多分な。
だから安心しろよ。大人しく俺に捕まった方が良いから。それが一番お前の為だ」
 本当に、いつも通りの陽気な人懐こさで言った。その笑顔に、友と感じていた男が自分に隠して考えていたところに、生々しい現実感を覚えた。
 ゆっくりと、タールが階段を登り始める。近くから見る友はこんなに大柄だったか? たくし上げた袖口から覗く腕はこんなに太かったか?
 薄闇の石段の五段分まで近づいてきた時、ルシドが前へ出た。懐から短剣を抜き出し主人の前に立った時、タールが困ったように笑った。
「お前は引っ込んでろ、ルシド。俺だって無駄な血を流させるのは面倒くさいんだよ。
 キジスラン、頼むからこいつを止めてくれ。どの道カイバートからは逃げられないんだから、どうせなら俺に手柄を立たせてくれよ」
「黙れ! 裏切者!」
「引っ込んでろって言っただろう!」
 タールの右腕が振り上がる。剣が素早く走ったと思った瞬間、乾いた音と共にルシドの短剣は弾かれ、階段の下へ転がる。即座、タールが左腕でルシドの襟首を握り、壁に押し当てた。右手で扱う剣先を、その喉元に突きたてた。
「キジスラン、お前の好きにして良いぜ。お前が決めろよ。こいつを助けたかったら武器と、それに、今持ってるんだろう? 絵を出せよ。その上で俺に従え」
「駄目です! キジスラン様!」
 タールが素早く腕に力を入れ、ルシドの喉が潰れた音の息を吐いた。
「こいつに用は無い。この場で殺しても良い。だからキジスラン、早く決めてくれ。俺に従うか、それともこいつが死んだ後で俺に引きずられていくか。
頼むから早くしてくれ。他の奴が来てしまうから」
 言い終え、タイールはあらためてキジスランを振り見て、
 ――ちょっと意外だった。
 ちょうど、最初に会った時に戻ったようだ。白羊城に来た直後のように、友の表情は消えていた。何を感じ、何を思っているのか全く読ませない、冷めきった無表情だった。己の生涯の瀬戸際に全く動揺を示さなかった。
 嫌な感じを覚えた。観念したのか? それともまだ何か切り札を持っているのか? それとも愚かにも、今の自分の状況を把握し切れていないのか、まさか? 何を考えているんだ、この赤毛の親友は?
 その問いには、キジスラン自身にも答えられなかった。
 彼には今、石段の上に落ちて光っている短剣も、どう転んでも殺されるだろうルシドも、自分の胴着の中に納まる絵も、遠いものになっていた。結局、現実は変えられないのではと思えて、もう判断することを止めてしまっていた。
 結局現実は、決して自分の望む方には進まないのではないか。カイバートの望む方へしか進まないのではないか。
 もう自分は、カイバートの手で握りつぶされる道筋から逃れることは出来ないのでは無いだろうか。それならそれで、もう良いのだろうか。
「キジスランっ、答えろ!」
「従う」
「有難う。助かるよ」
 悲壮な呻きを洩らしたルシドの喉を強く押さえつけたまま、
「こっちへ来てくれ」
言った。赤毛の友が一言も発することなく間近に来たのを確認すると、まずは従者を強かに殴り、それからキジスランの右手首を確実に握った。剣先をこちらの首許へと移した。
 その時だ。
「キジスラン?」
 下からの声に一瞬、タールは振りむく。
 その機をルシドが掴む! 力任せにタイールに身をぶつける。あっと声を洩らしタイールの足は石段から滑った。体当たったルシド共々、まともに階段を落ちていく。
「キジスラン――っ!」
 タリアが叫び続ける。キジスランもまた巻き添えで落ちかけたものを、右手で階段の欄干を掴み取り、かろうじて免れた。悲鳴の中、二人だけが激しい音を立てて階下まで転げ落ち、地階の床で止まった。
 ルシドには運があった。意外なことに神の御加護を受けて、急所を打つことは無かった。
 だが、タイールに運は無かった。彼の大柄の体は面白いほどに転がった果てに、そのまま煉獄まで落ちてしまった。うつ伏せた体はもう動きを失っていた。
 その遺体の脇に立ったまま、タリアが手で顔を覆って体を震わせていた。
「キジスランっ、――キジスラン……! 彼は死んだの? 何で――嫌!」
 駆け下りてきた義息に、恐怖の眼で叫ぶ。
「聖者様――っ、なぜこんな事に!」
「なぜ貴女がここにっ」
「なぜって……! だって――今夜は寝れなくて、だから――、お祈りを……殿の為に、そう、部屋で一人でお祈りをしようと――でも何だか――、不安で……怖くて、こんな時間なのにどうしても落ち着かなくて……怖くて――」
 恐慌に陥り、倒れ込みそうで、でももうそれ以上に気持ちが耐えきれない。何も考えられない。ただ夢中で、力づくで欲するようにキジスランに抱き付く。
「怖くて……殿が……、全てが。――だから、とにかく御祈りを、礼拝室へ行こうとして……怖くて、殿が、殿が――あのまま、何も知らず死んで――。違うっ、
 もしかして貴方も同じように考えていたらと、そんな事を想って……もし、同じ様に考えて礼拝室に居たらと、そうしたら――会えるからと……貴方にっ」
「――」
「貴方に会いたかったからっ」
 言った。言ってしまった時、初めてタリアは相手が旅装の厚い外套を羽織っているのに気付いた。そして相手の顔。なによりもその顔。
 キジスランは、どうしようもなく辛い顔で自分を見ていた。一年半の間自分が見続けた顔が今、初めて、感情のありたけを示し、その顔で自分に訴えていた。
 ――相手も今、自分を欲している。でも、離別の時が来ている。
「どこへ行くの?」
 キジスランは答えない。答えられない。
「何があったの? 話して。いつ戻るの?」
 もう二度と会えなくなるとの予感を、両者ともが素早く、的確に察した。長い、遠い離別になると。
「行かないで」
 恐れずに言う。言った途端、涙を覚える。
 キジスランもまた目の前で泣く相手を、恐れずに見る。感情は抑えられない。自分はやはりこの義母を愛しいく感じていると思い知らされる。この人といた時間は幸福の一種だったのだと、心から理解する。
 感情が混乱する。何かをしたい。言いたい。それが何も出来ず、だからただ一度、強く抱きしめる。
「キジスラン様、追手が来ます!」
 上階からの物音そして人声が大きくなっている。もう時間が無い。
 キジスランは温かなタリアの体を手放した。一言だけ言った。
「貴方に会えて幸せでした」
「待って! 帰って来るのでしょう? すぐにっ」
 抑えきれない感情は奇妙な作用を示した。キジスランに笑顔を選ばせた。
「すぐ戻るって言って。すぐ会えるってっ」
「――済みません」
「言って! 早く!」
「……神の御名の前に、私が地上で最も愛したのはアイバース公で、その次が貴方でした。
 でも、私には今――」
「今? 何? キジスランっ」
 もう答えなかった。離れ、でも振り返った。一度だけ、夢中でタリアに唇を押し当てた。次の瞬間に再び走り出した。

 静寂の白羊城が確実に目覚めてゆく。唐突に始まった物音と人声は、見る見るうちに大きくなってゆく。明らかな騒乱が始まってゆく。その中をキジスランは足を引きずるルシドと共に、全速で走ってゆく。
 南棟を脱してハルフ広場に入った頃、キジスランは従者がかなり遅れを取り出しているのに気づいた。広場の半ばまで達した時には、ついにルシドは鈍い音を立てて石畳の上に転んだ。潰れた、呻くような苦痛の声を発した。
「ルシドっ」
「いいから先へ! 貴方は先に広場を横切って厩舎へっ」
「足が、さっきの階段の転落で――」
「いいから! 早く」
 すり切れた服から覗く右膝が、血を流し腫れ始めているのが分かる。これではもう走れない。それでなくても引きずっている右足にさらに深手を負い、もうこれ以上従者は走れないとキジスランは判断する、が、
「私は走ります。何があっても貴方に追いつきますから、だから早く! 馬を!」
有無も無く言い切った。
 もう逆らわらない。その通り、ルシドを置いてキジスランは走る。すでに後方では夜気を切って大声が飛び交い出している。
「逃げた!」
「早く探せ! 捕まえろ!」
「城外に逃がすな!」
 大声が、はっきりと響き出す。物音が拡大しだす。自分を捕えようと、多くも者が叫び、追いかけて来る。そこから全速で逃げる。
 心臓が激しく鼓動する。キジスランの体内の血流は速まり、強く脈打ち、熱を帯びる。つっている頭が勝手に思考してしまう。
(カイクバートに捕まる)
 もうその定めからは、逃れられないと思える。ならば捕まってしまった方が良いのではないか? そうなれば、あとはもう自分で考えなくて良い。自分は、すべきことから解放される。母親の遺志の為にあの男を殺すという圧力から解放される。その方が良いのではないか。
 思う。もう走るのをやめた方がいい。止めて、あの男の前に屈しろ。
 そう思って、思いながらそれでもキジスランは走る。なぜ?
 前方、広場の片隅。そこに灯る小さな光が、少しずつ大きくなってゆく。厩舎に隣接する番小屋が目前となる。一瞬足を止めて振り返った時、つい先ほど走り出た最上階の端の自分の部屋が目に飛び込んだ。そこに灯りが付いていた。大きく開け放たれた複数の窓越し、まるで影絵のように、何人もの人間が慌ただしく動き回る輪郭が浮かび上がっている。と。
 その影の一つが、窓のところで止まった。
 はっきりと見極められた。なぜならその影はご丁寧にも、手許の燭台の灯をわざわざ自身の顔に近づけ、照らして見せたのだ。そしてゆっくりと手を振り、瘦せこけた頬を持ち上げて笑ったのだ。
 見事にカイバートに勝算を敷いた相談役・イブリスは、室内の男達を窓の許に呼び、キジスランを指さした。その途端、男達は一斉に室外を――自分を見、次の瞬間一斉に走り出した。
 即座、キジスランもまた本能的に逃げる。考えることすら止めて走り、逃げる。厩舎の番小屋にたどり着くや、その扉を体当たりするように開けた。その瞬間に目に飛び込んだのは、
「キジスラン公子……? 何ですか?」
雑魚寝をしていた四人の馬丁達の全く同じ、虚を突かれて滑稽な程に呆けた顔だった。
「こんな時刻に、何の用ですか?」
 カイバートは堅実だった。『策謀を成功させるには最小限の人数のみを動員しろ』との権謀鉄則を守ったようだ。馬丁達は何も知らされていない。ただ延々と自分を見るだけだ。
 なぜ? 諸聖者よ、それでもやはり逃げろとの御指図でしょうか? それもまた、定められたところなのでしょうか? 私は、貴方達に感謝をするべきなのでしょうか?
 苦しい息を弾またまま、扉口に立ち尽くす。背後の闇からは人声や物音が混ざり合い、小さく、ぼやけたように響いている。
「何か――急な客人でもあったのですか? 今夜は城内に人が少ないはずなのに、なんだか妙に大きな物音がしますね」
 なぜか言葉が詰まる。答えられない。八つの目は、自分を上から下まで舐めるように見ている。
「公子、酷くお急ぎのようですが、何かあったのですか?」
「もしかしたら急な外出ですか? こんな夜中に?」
「南棟の方に物音がしますが、何を騒いているんですか?」
「公子、この物音は一体何――」
「いいから馬を準備しろ! 二頭!」
 飛び込んできた勢いそのまま、狂ったような声でルシドが叫んだ!
「早く! 早くしろっ、早く起きろ!」
 語気に飛ばされ、慌てて全員が立ち上がる。急ぎ厩舎へと向かう。それについて小屋を出る直前、ルシドは凄まじい顔で皮肉を主人に吐くことを忘れなかった。
「貴方はよほど御兄上の許に残りたいようですね、キジスラン公子」
 ――
 松明が灯された瞬間、厩舎の馬房に十数頭並んでいた馬たちは激しく首を振って不機嫌を示した。四人の馬丁は小走りって一番手前の馬房に入り、でテキパキと作業を進める。
 それは、ムアザフ・アイバース公の発案だそうだ。いつ何時どの様な事態が起こるかも知れないからと、常時三頭の馬を鞍と手綱付で待機させている。さすがは傭兵業にかかわって大成した人の発想だと、評判になったそうだ。
(でも、それが実際に使われるのって、俺が勤め出してから初めてだな)
 最も若い、まだ子供とも呼べる馬丁はこう思いながら急いで、鹿毛の馬の鞍の腹帯を点検していく。最後にポンと、馬の腹を叩く。
「二頭とも大丈夫です。どうぞ、公子」
 そのまま馬を馬房から引き出し、手綱を差し出す。公子はそれを受け取り、即座に鐙に足を掛ける。
 その時だ。気付いた。
「あれ? また誰か来ますよ」
 二人は同時に振り向いた。馬丁達も。
 厩舎の出入口の外側、ハルフ広場の向こう側から数人の兵士が何か叫びながら全速力でこちらへ走って来る。
「何か叫んでるぞ? よく聞こえないが何を言っているんだ?」
「何を? 公子を――? 何を待てって?」
「捕えろと言っている、え、なぜ?」
「キジスラン公子を、捕えろと言っているのか?」
 途端、ルシドは叫ぶ!
「早く!」
 次の瞬間、馬丁の小僧が握っていた松明を奪った。片隅に高々と積み上げられていた干し草めがけて力一杯投げつけた。
「止めろ――!」
 悲鳴になった怒声の中、白羊城が自慢する公国産の上質の干し草は、一瞬のうちに炎の塊となった!
「なんで――! 火が――!」
 途端、馬達が猛烈に暴れ出す。突然の白煙と熱そして炎に全ての馬が目を血走らせ、地面を割らんばかりに蹴りつけ、甲高いいななきが長く響く。炎はあっという間に大きく燃え上がる。暴れた一頭が房の壁にぶつかり首を切り、赤い血粒が飛び散った。厩舎の全体が、手の付けれない大騒ぎに陥った。
(馬が焼け死ぬ!)
 馬丁の小僧が真っ青になる。何をしていいのか判らず、しかし何かしなければと焦り、馬の悲鳴じみた鳴き声に硬直する。顔が真っ赤になる。
(焼け死んでしまう! 馬をっ、馬を助けないと!)
 考えない。ただ夢中で馬達を房に繋ぎとめていた綱を次々、全て外してゆく。
「この馬鹿が――! 悪魔に殺されろ――!」
 馬丁頭が半狂乱の怒声を発したのと同時、馬が一斉に房から飛び出し、狂ったように走り出した。
「今っ、早く! キジスラン様!」
 馬達が飛び出してくる直前、両者は馬の腹を蹴った。怖がる馬を強引に走らせ、炎と煙が蔓延する厩舎から走り出す。正にその時、走り込んできた五人の兵達と鉢合わせた。
彼らは夢中で手を伸ばす、手綱を掴もうする。が、走り出した馬に、指先は僅かに届かなかった。舌打った。
「逃げた! 追え!」
 叫んだ一呼吸後、兵士ははっと振り返る。恐怖で硬直する。目の前、目を剥いた馬達が一団となってこちらに走ってくるではないか。
 反射的、五人は身を伏せ、目を閉じた。凄まじい蹄音が去った時、奇跡的に踏みつけられずに生き延びた事を神に感謝すると同時に、歯ぎしりを覚えた。彼らに褒賞と昇進を約束するはずの獲物はもう、広場を一直線に走っていってしまった。
「正城門には衛兵がいます! キジスラン様、中庭を抜けて北門へ! あそこから城外へ――市外へ出ます!」
「待てっ、マラクを残していけない、タールが喋ったのなら彼の身が危ないっ。街にいる彼の許へ立ち寄ってから――」
「多分マラクはもう捕まっている!」
「なぜっ」
「さっき言ったのは本当ですっ、奴は今夜、北棟で寝ている、もう救出できないっ」
 その瞬間はっと、思い出さない方が良い事を思い出してしまった。
潰れた指。――あれは、指の関節を締め上げて潰すのは、白羊城に伝統の拷問方法だ。
「奴などどうでもいい! 貴方が全てだっ、早く北門へ!」
 もう返答出来ない。一度だけ心の底が絞り出すように叫び上げた。
(マラク! 私のせいで、マラクっ、神様!)
 広場に犬が放たれ、けたたましい吠え声が始まった。犬の吠え声それに男達の怒声と叫びが交錯する。南棟の窓が次々と開けられ、城内に就寝中だった人々が何事かと顔を出し、広場を見下ろす。赤い炎と白煙に包まれてゆく厩舎に、恐慌のままに走り狂う馬達の様に驚く。
 城内から続々と人々が、大声と共に飛び出してくる。そのただ中、中庭を目がけてキジスランとルシドは夢中で走る。
「正門じゃない! 北門だっ、そこから逃げる気だっ」
「皆、北門へ向かえっ、門を閉じろ!」
 広がってゆく白煙と炎そして凄まじい物音の中を、キジスランは駆ける。首の僅かな後ろで、状況は自分の運命を追い立てていく。その中をただ必死で駆ける。
 極限の緊張の許に、思考は不思議と明敏を増し出す。霧が晴れるように清明となり、深い考察を始め出す。解り出す。このまま捕まって自己の判断を放棄するのは、単に子供じみた卑怯だと。ここまでを進んできたのに、今さら弱気に流されて自分の命運を、未来を止めてしまう事は、許されないと。なぜなら自分は、あの父親の子だから。あの母親の子だから。――あの兄の弟だから。
 白羊城に住まう者として、未来を切り拓く義務を負っていると、今、初めて、心から解る。だから今は走らなければならない。このまま逃げ切れば別の未来が始まる。別の未来は今夜から始まる。必死で走り、南棟下のアーチ通路を抜け中庭に入る。
 その瞬間、
 鼓動が大きく脈打つ感触を覚えた。
 別の形で出会っていたら、道筋はどう変わっていたのだろう。あの秋の日、たま訪れた城館で母親の死を見なければ。豪華な内装の一室で、目を剥き、血を吐き続ける母親から、死にゆく者とは思えない強さで見据えられなければ。
 その直前に、重苦しく雲の垂れこめた雲の下の風景の中。もし、見かけていなければ。
 中庭の回廊の角。赤々と燃える一本の松明の光の許。
 カイバートが立っていた。
 けたたましく四方の壁に反響する蹄音に、振り返ったところだった。途端、弾かれたように左へ二歩動いたところだった。右手にしていた弩弓を強く、素早く握り直したところだった。
「カイバート!」
 キジスランは喉の限りに叫ぶ。
「飲むな! 明日の朝――杯……毒が――!」
 ルシドが何かを喚いた。が、聞こえない。中庭に響く蹄音が耳を覆ってしまう。
「飲むな――毒!」
 流れるような動作で弩弓を構える。視界の中で全てがゆっくりと動く。カイバートが弩弓を目元によせ、弓を固定し、そして完全に静止する。
 あの矢は自分を貫くのだろうか。自分はカイバートに倒され、全ては終わるのだろうか。それとも矢の向こうに新しい未来が拓かれるのだろうか。
 カイバートが真っ直ぐに自分を見た。勝利を確信し、僅かに笑んだ。
 見入った。
 見入ったまま、左耳が僅かに空気を切る音を捕え、そのまま矢は、闇の中に消えていった。
 次の瞬間、二頭の馬は中庭を走り抜けた。白羊城の北棟下のアーチ通路を抜けて北門へ、城外へと走り抜けていった。
 もうキジスランは振り返らなかった。
 初めて見たあの日から続いた二年半、何千何万の光景の、これが最後になった。決して忘れ得ないだろう。カイバートの傲慢な勝利の笑みは、体の全てに深く刻まれた。
 別の未来は、夜を越えて拓かれてゆく。
 キジスランは白羊城を出て、夜の中へと駆けていった。


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