第13話 姫たちの思惟②

文字数 1,958文字

 四か月後。
 天正壬午の騒乱は徳川北条の講和により決着した。甲州国中は徳川家康の手に落ち、武田旧臣にとって、そこは二度と帰ることのない異国となった。松の心情もそうだった。しかし、いつか。生きている限り、諦めてなるものか。松の言葉は、随行家臣団の勇気と希望になった。
 
 甲州の始末がついたその日、武田家蔵前衆だった大蔵藤十郎が家康の面前に出頭した。武田再興が適わぬならば才を生かせる人物に仕えたいと、藤十郎は家康の器を測りにきたのだ。結論からいえば、この男は家康の人品高潔さに心から敬服した。家康を第二の信玄として、誠心誠意お仕えしようと決心した。
 家康も武田の人材なら誰でも欲しかった。地方の匠ならなおのこと欲しい。両者の思惑は一致した。そのうえで
「実は」
と、大蔵藤十郎は秘密を口にした。
「こののちの安全を約して下さるなら、信玄入道の孫君をお引き合わせしましょう」
「なに?」
「御聖道様の御子です」
 どういうことだと、家康は傍らの大久保忠隣に質した。
 御聖道とは信玄次男・龍芳の尊称だと、藤十郎は進言した。
「たしか盲いて家督を継げない者がいたと」
「そういえば、聴いたことがある」
 血統は正室腹で、勝頼よりも人望があった。織田信忠が甲府入りした日に寺で自害したという話も聞いている。その子というのか。
「私は御聖道様に命ぜられ、お匿いしております。居場所は誰にも、口が裂けたとて申しませぬ」
「おまえ」
「約束くださいますか。穴山入道の子ではなく、武田を継ぐのは御聖道様の子であることを、徳川家が後ろ盾となって下さいますか」
 したたかなものだ。
 利は徳川にもある。その遺児を庇護すれば、武田旧臣はそのもとへ集い、徳川のために励むだろう。そのためには、したたかなこの大蔵藤十郎を厚遇で抱えなければならない。
「大久保の寄子として、お前を召し抱えよう」
 家康は断言した。
 いいなという言葉に、大久保忠隣は応じた。この者を抱えれば、武田信玄嫡孫を掌中にできる。無駄なことは何もない。
「ただし、武将としてではなく、僧籍のままに」
「僧籍?」
「これは御聖道様のご遺言にて」
 家康は応じた。むしろ謀叛される懸念がない。既に今川氏真も庇護しているが、僧籍のものは人畜無害で、それでいて役に立つ。
「一切をお前の云うとおりにしよう」
 家康は約束した。
 武田旧臣にとっての象徴が、おもいがけぬ形で現れた。これはこれで有難いが、貞を引き抜いたことが早計となった。送り戻してしまおうかと口にする家康を、高力正長が強い口調で叱責した。
「信松尼様とのお約束は大きく、重いものにて」
「たかが女子のこと」
「いいえ、武田の家臣団。もしも尼が男子ならば、きっと従おうというほどの人望がございます」
「そのようなこと」
「取り返しのつかぬことになりましょうな」
 高力正長はこれまで諫言したことなど、ただの一度もない。信松尼と会って、果たして何を見たのかと質した。高力正長はかの地へ赴く以前に、その評判を先に降った武田旧臣より聞いている。特に癖の強い曲渕庄左衛門や広瀬郷右衛門等が挙って
「姫様のためなら三遍は死んでやる。あの方のために死ねたら、本望ずら」
 そう証言した。
 彼らはもともと勝頼が好きではなかった。その勝頼が押し付ける縁談に対し、松は真っ向から逆らった。高遠へ籠って、主家と戦さでもする勢いで気を吐いた。信玄の残された男子で、あれほどの気性の荒い者はない。小気味よい気性といえよう。おんな当主となったら忠義を尽くしてもよいと、荒くればかりの武田武者が唱えた。
 このことは、約束を違えたときの反動を想像させる。本気になった武田の恐ろしさ、家康ほどに知らぬものはあるまい。
「わかった、わかったよ。姫は粗略にせぬ」
 家康は降参した。
 貞は高力土佐守正長の元で養女同然の扶助を受けた。香具はその侍女として傍におかれた。長じたのちに、譜代・内藤左馬助政長の屋敷で養女のような形で身請けされた。高力も内藤も三河以来の同輩ゆえ、貞と香具は状況が許す限り、いつでも望むかたちで会うことが許された。
 家康が甲斐国中を掌握したとき、態と噂を流した者がいる。
「四郎殿は小山田出羽守に逃げ場を閉ざされた。あれは裏切りである」
 誰が最初に口にしたかは定かでない。しかし、勝頼を見捨てて生き延びた誰もが、後ろめたさを閉ざすため、その噂に敢えて依存した。事情を知らぬ者たちは、老婆心から貞に囁く。
「香具様の親はあなたの父を裏切ったのに、どうして仲良くできるのでしょう」
 そのような事実はない。貞は勝頼に人望がなかったことを知っていた。小山田が裏切りなら、そのときの御親類衆も譜代も誰も、裏切り者である。それを否定する以上は、小山田を責めることなかれ。
 貞の言葉は、疑いのない者の強さがあった。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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