第26話 貞と香具⑤

文字数 2,197文字

 生弌尼には生きるための気力があった。
 しかし、身体だけが気持ちに追いつかなかった。苛立ちさえ込み上げても、深呼吸ののちに
「生きてこそ」
と、生弌尼は努めて笑った。
 貞と香具に会いたい。
 希望だけが、生弌尼を支えた。
 慶長一三年(1608)七月二九日。
 生弌尼は二九歳の若い生涯を閉じた。今わの際まで、死にたくない、生きたいと、運命に抗い戦った末に息を引き取ったことを、馬場刑部は信松尼に伝えた。
「かわいそうな子じゃ」
 信松尼は声を上げて泣いた。泣くこと以外に心を慰める術を知らなかった。取りすまして経を読むだけの理性はない。そんな冷静さがなかった。そして、この情の深さこそ、武田旧臣だれもが慕う松姫のすべてだった。
 時宗である以上、己や卜山が導師を務めるのも筋違いだった。川口にはいつ遊行上人が回向するかわからない。川島作左衛門元重は急いで周辺を調べ
「姫様、宝樹寺というものが時宗にて、横山の外れにあるお寺です」
と庵まで自ら報じた。
「人をやって、導師がいるならば連れて来させよう」
 数人の者は川島作左衛門元重から場所を聞き、速足でそこへ赴いた。
「宝樹寺とはどこか」
 近くに僧がいた。その者に聞くと
「宝樹とはうちの山号にて」
「ならば案内をたのむ」
 僧に案内された先の住持は、信松尼の名を聞くと、血相を変えた。武田の姫が新しい街づくりの真ん中にいることを、住民は知っている。信松尼のためならば、是も非もない。それ急げと、住持は大勢の弟子を引き連れ、法要のため横山の庵を訪ねた。よう来たと迎える信松尼は、ぜひに彼岸へ導いて欲しいと縋った。
「仰せのままに」
 住持は信松尼の願いに応える栄誉に心躍った。
 ところが、法要の途中で遅れてきた川島作左衛門元重は、その住持をみて困惑した表情を浮かべた。傍らの金丸四郎兵衛重次に
「あれは浄土宗の住持であるぞ」
と囁いた。金丸重次は怪訝そうに、時宗ではないのかと質した。
「時宗の宝樹寺の隣にある極楽寺の住持じゃ」
「それは、どこで間違ったものか」
 法要の途中でやめさせることも出来ず、滞りなく終えたところで、金丸四郎兵衛重次から信松尼に報告された。
「それは……」
 間違った者が誰かを咎めても仕方ない。また、住持の徒労を無にもできぬ。あらためて川島作左衛門元重を呼び、どのように計らうべきかを相談した。
「乱暴とは思いますが」
 前置きしたうえで、これは大久保長安の指図だったことにしようと提案した。
「どういうことか」
「極楽寺は北条時代のものにて、新八王子の街づくりにあたり石見様は堂宇再建に多額の寄進をされております。このことから、宗派などに拘らず生弌尼様を送る指図をしたのだと、そういう噂を流せばいいかと」
「石見は怒らないか?」
「そのこと、姫様よりそっとお含み頂けば幸いです」
「悪い家来じゃなあ」
 信松尼は毒が抜けるような心地で、つい笑った。しかし、間違いを犯した誰も罰せずに済むのは、これしかない。だが、そんなことで通用するならば
「いっそ、私が導師をすればよかったかなあ」
「姫様は喪主のようなものにて、それはちょっと」
「うむ」
 落としどころとしては、それしかない。が、生弌尼はそれでいいのだろうか。最後まで不自由なことをさせると、信松尼は思った。次に遊行上人が回向したときに法蓮寺であらためて法事を行うということで、この場は決着した。横山の庵は、生弌尼の戒名より〈玉田院〉と名付けられた。侍女たちは尼僧となって、ここに生弌尼の墓を設けた。
 信松尼からの知らせで彼女の死を知った貞と香具は、幼き日に分かれて以来の小督を想い、泣いてその冥福を祈った。

 別れは死別ばかりではない。
 長く信松尼に従った丸茂勘三光直の妹。彼女の弟・伝三郎光定は縁あって武蔵府中の高安寺に修行していたが、先祖由来の丸山姓に復し、彦三郎宗玖と名をあらため小川さらには雨間村へと移り住んだ。ここへ、姉を招きともに暮らすことを勧めたのである。
「肉親とともに暮らすことは大事なり」
 信松尼はこのことを許した。
「姫様に尽くすことこそ大事と思います」
「それ以上のものもある。失って気付くのは遅いものにて」
 信松尼は丸山彦三郎宗玖にきちんと姉を迎えにくるよう命じた。丸山宗玖は信玄の娘の前に、震えながらひれ伏したが
「お前の姉のおかげで生き永らえた。その功、尼は生涯忘れぬゆえ、お前も功徳に尽くすべし。頼んだぞ」
「は、はあ!」
 丸山家は百姓となるが、のちに小人頭の支配で士分の務めに復す。
 
 貞は宮原家の子孫を繋いだ。足利一門の血を残し、武田勝頼の血を残すという偉業を為した。宮原家は徳川三百年の間、高家としての家格を保った。貞は長命だった。四代将軍の御代、八一歳まで生きた。武田家にとっての辛いことにも直面したが、断じて流されることなく毅然とふるまった。
 香具の生涯は更にドラマチックだった。内藤政長に庇護されて育った彼女は、その子・忠興の側室として嫡男を生んだ。その後、内藤家の殆どの子は香具の腹のものとなり、側室でありながら決して粗略にされることはなかった。彼女の娘は武田家のために大きな貢献をした。その偉業があってこそ、武田家は高家に迎えられることとなるのだが、そのことは物語の別として留めおく。
 小督のことを除けば、松に手を引かれた姫の生涯は決して不幸ではなかったと、断言してよい。
 結果的に、ではある。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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