第20話 小督の行方②

文字数 1,610文字

 信松尼にとって気がかりがある。
 小督のことだ。ただでさえ病弱で発育も悪く、体力もない。人の家に嫁すことは憚りがあった。かといって仏門に沈めることも気が重い。
 そんなとき、上総国へ赴いていた吉田御師が八王子に立ち寄った。吉田御師はかつて小山田信茂支配にあって、富士講の札を配る檀家巡りを行なう。信玄の時代から、吉田御師・小猿屋は上総に檀家を持つ。つまり乱波のようなものだ。武田が滅び、御師たちは純粋に富士山信仰の導者になった。小猿屋は小田原征伐ののちの上総の情報を信松尼にもたらした。これは松姫随行家臣団にとっても重要な情報だった。
「庁南殿は関白に応じぬ咎で断絶」
 つまりお取り潰しである。
 庁南武田豊信は中原の雄として、北条に抵抗しつつも、秀吉の出頭命令にも応じなかった。そのため叛意を疑われ領土を没収されたのだ。本多忠勝の征伐により討たれたとも、蓄電したともされ、生死不明のままだという。
「庁南には仁科の兄様の子がいる。どうなったか知らぬか」
「仁科勝千代様ですな」
「そうだ」
 小猿屋は、これも生死不明と呟いた。ただ、茂原下永吉村にある林家で、似たような者を見たという情報もあった。ただし仔細までの裏付けがない。
「また赴くことがあるでしょう。そのときは永吉村にも立ち寄りますゆえ、気落ちなさりませぬよう」
「気遣いは無用じゃ」
「しかし」
「こんなことなら、勝千代をここへ引き留めればよかった」
 信松尼は大粒の涙をこぼした。このこと、小督が知れば、どれほど悲しむだろうか。しかし、いつまでも黙ってはいられない。告げることは辛いが、知らさぬことは出来なかった。信松尼の不安は的中した。小督は全身を振り絞るように、激しく身を捩りながら号泣した。
 小猿屋は吉田へと戻った。きっと、このことは御師たちの話題となるだろう。上総に檀家を持つ者たちが気を利かして、一日も早く茂原へ赴き、その行方を確かめてくれるかも知れない。
「辛い現実があっても、私だけは気丈でありたいものだ」
 信松尼は呟いた。
 小督は食が細り床に就いた。たった一人の兄まで失った辛さを、どう言葉に例えたらいいものか、誰にも分らなかった。弱る身体を治すことだけが、随行家臣たちの想いだった。彼らは武田家滅亡以来、まことの家族のように支え合い生きてきた。松という家長を柱に助け合いを忘れなかった。
 小督にとっての幸せは何だろう。
 皆は真剣に考えたが、どうしたらいいものか、途方に暮れた。
 三日後、卜山がふらりと御所水の庵に立ち寄った。
「ふむ、小督が」
 松が心源院に初めて来たとき、少女たちも伴っていた。二人は去り、残る少女は翳りがあった。成る程、あの娘か。
 卜山は初対面の時から、小督の翳りを気にしていた。それが、気鬱で病んでいる。誰もが救いたいと望んでいる。
「会わせて貰えまいか」
 卜山は信松尼をみた。庵の隅で床に就く小督は、青白い表情だ。
「なるほど」
 卜山は枕元に座し、小督を覗き込むようにしながら
「俗世に居心地悪いのならば、信松禅尼のように出家されることも苦しからず」
 そう囁いた。
 うっすらと、小督は目を開いた。卜山は言葉を続けた。
「戦国にあって人に生かされて今があるならば、しがみついてでも生を拾うことこそ、人としての義務である。それを背くことは人を裏切り、天を裏切る事。それ、すなわち罪である」
 小督の目は力があった。まだ、諦めていない目だ。
「そうだ、そなた兄は、まだ行方知れずというだけ。御仏の慈悲にすがり、無事を祈りお務めすることも、生きてこそのことである」
 卜山は語尾を強く発した。
 生きてこそ。生きてこその真実は、十人十色。
 卜山にだって生に絶望する遥かな昔はあった。しかし生きているからこそ、今日の喜びがあるのだ。それだけに、言霊の震わせる響きは、小督の魂をしっかりと捕まえた。
「禅尼、粥を」
「はい?」
「小督殿が、所望じゃ」
 卜山は、にっこりと笑った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み