第23話 貞と香具②

文字数 1,444文字

 高力土佐守正長のもとで養育された勝頼の娘・貞。何不自由なく、それでも松たちの境遇を思い、過ぎたるを慎んで成長した。もうどこへ嫁行っても不足のない、見目麗しい姫である。
「上(徳川家康)様の計らいにて、姫の輿入れ先が決まりましてござる」
 高力正長の子・摂津守忠房は、にこにこしながら、縁起の良いことだと微笑んだ。
「どちらへ参るのでしょう」
「上総の宮原家にございます」
「どういう御家でしょうか」
「古河公方家の庶流と伺っております」
 ということは、足利家の系譜である。戦国最強と謳われた武田家の姫に相応しい格式ではあるまいか。貞は徳川家譜代に持ち上げられて、関東足利家のひとつに嫁入りする。このこと、八王子でずっと案じているだろう松姫にも伝えたい。
「その儀は抜かりなく」
 高力忠房は貞のことを、よくよく父から釘を刺されていた。その正長も関ヶ原の前に他界し、貞も臨終に立ち会った。貞を実の娘のように案じた正長の遺志を尊重し、忠房も年の離れた妹のように接した。忠房は聡明で、貞をよく理解していた。ならば、もうひとつのことも察しているだろうか。貞は口にするのも遠慮がちだ。だから、客を呼んであるという高力忠房の言葉に、根拠もなくときめいた。
「貞姫様!」
 客間で待っていたのは、内藤家に預けられた香具だ。
 これこそ、貞の本当の願いだった。香具に会いたい、会って、この嫁入りの事を伝えたかった。それが、一度できちんと済んだ。すべて高力忠房の配慮だった。
「ありがとうございます、ああ、天の養父様のおかげでしょう」
 貞が高力正長のことを父と呼んだことはない。土佐殿と呼んで、どこか距離を置いていた。養女待遇の貞は、長く親不孝者だった。
「父上も勿体ないことをした。早く死ななきゃよかったのになあ」
 高力忠房の頬を涙が伝った。
 香具は内藤家でよくして貰っていると笑った。養父のように慈しんでくれた内藤左馬助政長は関ヶ原の功で上総佐貫を領している。そこで娘のように可愛がられているのだと笑った。
「庁南の勝千代殿にも会いましたよ」
「へえ」
 小田原征伐で庁南武田家が滅んだという噂は、二人とも聞いていた。勝千代存命を松から知らされたときは、どんなに安堵したことか。
「勝千代殿は、林という家に納まっているけど、いつでもどこかに仕官したいって。ただ、内藤家は私だけで手一杯みたいで、無理は云えませんから」
「小督姫にも教えてあげたいわね」
「はい」
 香具の嫁入りはまだ先のようで、縁談めいた噂話はまだない。しかし内藤政長には思う処がある様子だと、香具は笑った。少女の頃に別れた二人は、蝶のように脱皮した眉目秀麗な姿で、時を忘れて歓談した。
 宮原勘五郎義久に嫁いだ貞姫は、幕府の高家という格式の正室である重責を負った。それでも夫は優しく、決してきつい物云いをする男ではなかった。この婚儀にあたり幕府からの注文はひとつだけだった。
「嫡男を生んだら、その者が宮原家を継ぐ。あとの庶家は穴山姓を称すべし」
 顕了がいる以上、武田家はそこが嫡流である。穴山を名乗らせるのは見性院への配慮であった。
 この婚儀のことは、滞りなく済んでのちに、高力忠房自らが八王子に赴き、信松尼へ報告をした。
「亡き父・土佐守ならばこうしたことでしょう」
「かたじけない」
 小督の養育に失敗した引け目を持つだけに、信松尼は貞が宮原義久に嫁ぐ話を、心より喜んだ。何より香具が仁科勝千代に会ったことが嬉しい。あとで川口に赴いて、小督に教えてやろうと、信松尼は微笑んだ。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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