第19話 小督の行方①
文字数 3,936文字
小督の行方
御所水に庵を構えた信松尼は、農民に転じた北条浪人の子弟に文字を教え、婦女子に養蚕と機織りを教えた。心源院でやったことと変わりはないのだが、何もかも失った者にとっては、この慈悲こそ得難い感謝となった。武田旧臣のみならず、北条浪人にとっても、松姫様という響きは尊いものだった。
関東の統治は徳川家康のものとなった。
家康は松姫の存在を忘れてはいない。これを恋みる武田旧臣の原動力であることは、事実だった。上手に扱えば、かつて家康を震え上がらせた一騎当千の兵どもも、こののちは意のままと出来るだろう。
「藤十郎をこれへ」
大蔵藤十郎長安は、今や大久保忠隣の有力寄子として大久保姓を許される信頼を得ていた。長安は家康直々に、ある指図を得た。
すなわち松姫を中心とした、八王子に武田旧臣を結集することである。
北条を倒したのちに関東入りした家康は、江戸に拠点を設けた。扇の要にも似て、江戸は陸奥や甲信越に東海にも路がある。また江戸湾を経て外海から西国へ向かうことも出来るし、南蛮人との窓も設けられよう。適地なのだ。この江戸と甲斐の道筋に、横山の新街がある。
「ここに武田の尼姫が迎えられていることは、意味深い」
家康は甲州に至る街道筋へ武田旧臣を集めるよう断じた。秀吉に奪われた甲斐国は、家康にとっても宝の国だ。いつか取り戻すことが悲願である。
「ゆくゆくは江戸と甲斐の国境を、武田旧臣が守護すること。その頭目は十兵衛、お前が務めるずら」
「は」
「不足の物はあるか」
「されば」
大久保長安は横山の地名を新八王子とし、山城の麓を元八王子と呼称すること。新八王子に陣屋を設け、統括すること。加賀前田家に仕官した長田作左衛門を身請けしたいと申し出た。
「加賀宰相に借りを作りたくないな」
「不要の北条浪人ゆえ、我が手下が相応しく存ずる」
「やってみよう」
前田利家は家康の求めにあっさりと応じた。川島右近に質すと、あくまで戦火で荒廃した八王子復興のため雇い入れただけゆえ、加賀に連れていくつもりはないとのことだ。さりとて有能な男であることは違いない。
「内府殿の末席に加えるにあたり、川島右近の姓をこの者に与えたし」
前田利家の言葉だ。以後、彼は長田作左衛門あらため川島作左衛門元重を名乗る。
長安は西原武田家に在籍した彼の名を知らないが、いち早く横山へ目を付けた才覚を大いに評価し、新八王子の街区開発に川島作左衛門の裁量を重んじた。
新八王子から元八王子にかけて、武田旧臣が続々と結集した。ただしこれらは大久保長安の好きが出来る人材に限り、井伊直政に附いた者たちはお預けを食った状態だった。そのため
「軽輩どもに夢を譲れ」
井伊直政はそう豪語し、ここには勇士しかいないのだと嘯いた。存外、そういう言葉が効くものである。事実、八王子に土着した多くは小物頭が最高位で、歴戦の将士はいない。ただ、この軽輩とて一騎当千の兵というところが、武田旧臣の恐さである。
徳川家関東移封とともに八王子入りした武田旧臣、およそ二五七人と云われるが、文献の数字はどこまでが正確か断言できない。それほどの者が来た、その殆どが、八年前に難を逃れた松姫を慕い参じたのである。
御所水の庵は風光明媚で、大勢の者が殺到するには殺伐として好ましくない。先ず九人の小人頭が、信松尼の前に罷り越した。
「大義じゃった。みな、よう生き残ってくれたなあ」
尼僧姿だが、凛とした佇まいは正しく信玄が寵愛した松姫だ。小人頭たちは咽び泣き、こののちは信松尼の暮らしを支えることを明言した。やや遅れて大久保長安が参上した。信松尼は長安と初対面だが、龍芳から蔵前衆・大蔵十兵衛の名を聞いていた。
「龍芳兄様の御子は?」
「古府中にて、一庵を手配しております」
龍芳が顕了を託すほどの男だ。きっと出来のいい者だろう。それに家康と直接話の出来る立場で徳川に仕官している。こののちは、武田旧臣一党の将来をこの男に委ねることになるだろう。顕了をして武田家再興を果たすことこそ、松も、誰も、望むことなのだ。そのためには家康の力がどうしても必要だった。
「藤十郎」
「は」
「先ずは旧臣の暮らしが立ち行くことを託さねばならない。信じてよいのだな?」
「懸命に務めます」
信松尼は嶮しい表情をしていることに、気がついた。大きく息を吐きながら
「荻原弥右衛門」
「はい」
「そなたの縁戚が随行家臣として、この八年、助けてくれた。礼を云う」
「勿体なき哉」
「志村又左衛門もだぞ」
「有難きお言葉」
実際、縁戚を敢えて送り込んだ荻原弥右衛門昌友と志村又左衛門貞盈の判断は正しい。彼ら小人頭はもともと甲州九口之道筋奉行であり、荻原は秩父口、志村は山中口と、信松尼が恩方へ逃れる道筋に近い者たちだ。更にいえば岩殿城代も兼ねる荻原家と志村家を動かしたのは、小山田信茂だった。松は生き永らえ、信茂は討たれた。辛い結末だ。
八王子内の旧臣は組織化され、当面の目的は松姫様親衛隊という美辞麗句で奮わせるよう、大久保長安は采配した。実務上の頂点は八王子陣屋で、長安の指図で動いた。その下に旧臣たちが小者頭九人の下に形態される組織を設けた。
荻原弥右衛門昌友・志村又左衛門貞盈・石坂勘兵衛森通・河野但馬守通重・窪田菅右衛門尉忠知・原半左衛門胤従・山本土佐守忠房・中村左京安利が小人頭である。翌年、窪田正勝の子・助之烝次持をして一家を興し一〇家とした。更に浪人衆を加えて組織の強化が推進された。
旧臣の受け皿としては、これではまるで戦さのための招集だと、信松尼は顔を顰めた。
「いや、それは違いますぞ」
陣屋に所属された川島作左衛門元重は、これは街作りであると説いた。
「甲州はいま、関白殿下の采配で浅野左京大夫(幸長)殿がおられる」
「これに備えているのだと?」
「内府様は関東に移られたばかりにて、各地の境には実力のある者を配してござる。上総に古今無双の本多平八郎(忠勝)殿を据えたのは里見の備え。里見は有数の外様にて、その備えは至極当然。そして甲州は他国、一騎当千の兵が八王子に留まることは理に適うこと。いざというときの備えを怠らぬのは、武人として当然の仕儀にて」
「それは、そうだ」
八王子に武田旧臣を置くことは理に適う。地の利に長け、在地に縁者を忍ばせる武田旧臣以外に代わるものはない。
「それとは別に、関白の世で戦国を終えるという意味もござります。戦さはなくなる、そのために必要なことは二つございます」
「生産と流通か」
「御明察」
さすがは松姫様こそ、信玄公の理をいちばん弁えていると、川島作左衛門元重は微笑んだ。八王子は武州上州への路、鎌倉や相模への路を持つ。ここに、江戸からの路を得た。三方向への要となる。ここで生産した物は諸国に流通され、それが街の発展につながる。
「ゆくゆくは」
「さよう、甲斐へ路はつながるでしょう」
そのときこそ、八王子は経済の交差点となる。元八王子では難儀ゆえ、横山に移した川島作左衛門元重の真意はそこにあった。
「これは、恐れ入る」
信松尼は苦笑した。
新八王子は軍事の要所でありながら、城を持たぬ宿場の形態とするよう徹した。城下町ではないという姿勢を、大久保長安は敢えて推進したのだ。そのうえで、いざというときの陣所の必要もあった。かつての八王子城は軍事機能が失われたし、山城の不便さもある。長安はこの点についても抜かりはなかった。
信松尼のもとに長安から
「卜山舜悦和尚にお願いの儀が」
という使い番がきたのは、春早い頃のことだ。
「師によからぬことは取り次げぬ」
信松尼は使い番の名を質した。山田藤右衛門と、彼は名乗った。長安の腹心だ。
「お願いとは?」
「宗関寺の御再興の指図を賜りたく」
「まあ」
信松尼は驚きのあまり声を上げた。
北条氏照肝煎りの城下格式最高位だった宗関寺は、八王子城とともに灰燼に帰した。これを興すことは北条浪人にとって支えとなる。武田旧臣の負った労苦は、彼らの心情を理解できるものだった。
「それはよいことじゃ」
「新八王子にも幾つかの寺社を設けたく、これの指図も和尚様に頼みたいのです」
「ふむ」
「姫様の御力添えを賜りたし」
そういって、山田藤右衛門は神妙に頭を下げた。そういうことならと、信松尼は長安の書状を預かった。
翌日、小津の宝珠寺へ信松尼は足を運んだ。誰も彼も供を望んでうるさいので
「供は女子がいい」
と、小宮山民部の妻、丸茂勘三光直の妹を選んだ。小津は恩方の山ひとつ裏の山奥だ。卜山は信松尼一行を迎えると
「生きてこそ」
と、呟いた。
大久保長安からの書状に目を通した卜山は、気前のいい奴だと笑った。
「藤十郎が、ですか?」
「徳川内府が、じゃよ」
「はて」
「心源院も再興する手配があるという」
有難いことではないか。ただし、うまい話には裏もあると、意地悪そうな目で書状を見つめた。それを拒む理由はない。卜山はこの誘いに快く応じた。
この年、心源院と宗関寺は再興された。以前にも増して立派な堂宇である。夏の頃に建長寺の天叟禅師が宗関寺を訪れ、卜山は快く迎えた。ともに北条の庇護で仏道を送ることの出来た縁がある。その菩提を弔うことは責務であると、天叟禅師は呟いた。
「新しい街にも、寺社を設けられるとか」
「はい」
興岳寺は普請中であるが、小人頭たちのいる集落には程近い場にある。
「戦さは、まだあるようですな」
天叟禅師は呟いた。
「人の業は愚かしくも変わることなし」
卜山は、新寺が有事の合戦陣所になることを知っていながら、家康の望みに従い長安に応じたのだ。戦国が終わることは大きなこと、ちょっとしたことで戦さは消えぬ。卜山はそのときが時期尚早であることを見抜いていた。
御所水に庵を構えた信松尼は、農民に転じた北条浪人の子弟に文字を教え、婦女子に養蚕と機織りを教えた。心源院でやったことと変わりはないのだが、何もかも失った者にとっては、この慈悲こそ得難い感謝となった。武田旧臣のみならず、北条浪人にとっても、松姫様という響きは尊いものだった。
関東の統治は徳川家康のものとなった。
家康は松姫の存在を忘れてはいない。これを恋みる武田旧臣の原動力であることは、事実だった。上手に扱えば、かつて家康を震え上がらせた一騎当千の兵どもも、こののちは意のままと出来るだろう。
「藤十郎をこれへ」
大蔵藤十郎長安は、今や大久保忠隣の有力寄子として大久保姓を許される信頼を得ていた。長安は家康直々に、ある指図を得た。
すなわち松姫を中心とした、八王子に武田旧臣を結集することである。
北条を倒したのちに関東入りした家康は、江戸に拠点を設けた。扇の要にも似て、江戸は陸奥や甲信越に東海にも路がある。また江戸湾を経て外海から西国へ向かうことも出来るし、南蛮人との窓も設けられよう。適地なのだ。この江戸と甲斐の道筋に、横山の新街がある。
「ここに武田の尼姫が迎えられていることは、意味深い」
家康は甲州に至る街道筋へ武田旧臣を集めるよう断じた。秀吉に奪われた甲斐国は、家康にとっても宝の国だ。いつか取り戻すことが悲願である。
「ゆくゆくは江戸と甲斐の国境を、武田旧臣が守護すること。その頭目は十兵衛、お前が務めるずら」
「は」
「不足の物はあるか」
「されば」
大久保長安は横山の地名を新八王子とし、山城の麓を元八王子と呼称すること。新八王子に陣屋を設け、統括すること。加賀前田家に仕官した長田作左衛門を身請けしたいと申し出た。
「加賀宰相に借りを作りたくないな」
「不要の北条浪人ゆえ、我が手下が相応しく存ずる」
「やってみよう」
前田利家は家康の求めにあっさりと応じた。川島右近に質すと、あくまで戦火で荒廃した八王子復興のため雇い入れただけゆえ、加賀に連れていくつもりはないとのことだ。さりとて有能な男であることは違いない。
「内府殿の末席に加えるにあたり、川島右近の姓をこの者に与えたし」
前田利家の言葉だ。以後、彼は長田作左衛門あらため川島作左衛門元重を名乗る。
長安は西原武田家に在籍した彼の名を知らないが、いち早く横山へ目を付けた才覚を大いに評価し、新八王子の街区開発に川島作左衛門の裁量を重んじた。
新八王子から元八王子にかけて、武田旧臣が続々と結集した。ただしこれらは大久保長安の好きが出来る人材に限り、井伊直政に附いた者たちはお預けを食った状態だった。そのため
「軽輩どもに夢を譲れ」
井伊直政はそう豪語し、ここには勇士しかいないのだと嘯いた。存外、そういう言葉が効くものである。事実、八王子に土着した多くは小物頭が最高位で、歴戦の将士はいない。ただ、この軽輩とて一騎当千の兵というところが、武田旧臣の恐さである。
徳川家関東移封とともに八王子入りした武田旧臣、およそ二五七人と云われるが、文献の数字はどこまでが正確か断言できない。それほどの者が来た、その殆どが、八年前に難を逃れた松姫を慕い参じたのである。
御所水の庵は風光明媚で、大勢の者が殺到するには殺伐として好ましくない。先ず九人の小人頭が、信松尼の前に罷り越した。
「大義じゃった。みな、よう生き残ってくれたなあ」
尼僧姿だが、凛とした佇まいは正しく信玄が寵愛した松姫だ。小人頭たちは咽び泣き、こののちは信松尼の暮らしを支えることを明言した。やや遅れて大久保長安が参上した。信松尼は長安と初対面だが、龍芳から蔵前衆・大蔵十兵衛の名を聞いていた。
「龍芳兄様の御子は?」
「古府中にて、一庵を手配しております」
龍芳が顕了を託すほどの男だ。きっと出来のいい者だろう。それに家康と直接話の出来る立場で徳川に仕官している。こののちは、武田旧臣一党の将来をこの男に委ねることになるだろう。顕了をして武田家再興を果たすことこそ、松も、誰も、望むことなのだ。そのためには家康の力がどうしても必要だった。
「藤十郎」
「は」
「先ずは旧臣の暮らしが立ち行くことを託さねばならない。信じてよいのだな?」
「懸命に務めます」
信松尼は嶮しい表情をしていることに、気がついた。大きく息を吐きながら
「荻原弥右衛門」
「はい」
「そなたの縁戚が随行家臣として、この八年、助けてくれた。礼を云う」
「勿体なき哉」
「志村又左衛門もだぞ」
「有難きお言葉」
実際、縁戚を敢えて送り込んだ荻原弥右衛門昌友と志村又左衛門貞盈の判断は正しい。彼ら小人頭はもともと甲州九口之道筋奉行であり、荻原は秩父口、志村は山中口と、信松尼が恩方へ逃れる道筋に近い者たちだ。更にいえば岩殿城代も兼ねる荻原家と志村家を動かしたのは、小山田信茂だった。松は生き永らえ、信茂は討たれた。辛い結末だ。
八王子内の旧臣は組織化され、当面の目的は松姫様親衛隊という美辞麗句で奮わせるよう、大久保長安は采配した。実務上の頂点は八王子陣屋で、長安の指図で動いた。その下に旧臣たちが小者頭九人の下に形態される組織を設けた。
荻原弥右衛門昌友・志村又左衛門貞盈・石坂勘兵衛森通・河野但馬守通重・窪田菅右衛門尉忠知・原半左衛門胤従・山本土佐守忠房・中村左京安利が小人頭である。翌年、窪田正勝の子・助之烝次持をして一家を興し一〇家とした。更に浪人衆を加えて組織の強化が推進された。
旧臣の受け皿としては、これではまるで戦さのための招集だと、信松尼は顔を顰めた。
「いや、それは違いますぞ」
陣屋に所属された川島作左衛門元重は、これは街作りであると説いた。
「甲州はいま、関白殿下の采配で浅野左京大夫(幸長)殿がおられる」
「これに備えているのだと?」
「内府様は関東に移られたばかりにて、各地の境には実力のある者を配してござる。上総に古今無双の本多平八郎(忠勝)殿を据えたのは里見の備え。里見は有数の外様にて、その備えは至極当然。そして甲州は他国、一騎当千の兵が八王子に留まることは理に適うこと。いざというときの備えを怠らぬのは、武人として当然の仕儀にて」
「それは、そうだ」
八王子に武田旧臣を置くことは理に適う。地の利に長け、在地に縁者を忍ばせる武田旧臣以外に代わるものはない。
「それとは別に、関白の世で戦国を終えるという意味もござります。戦さはなくなる、そのために必要なことは二つございます」
「生産と流通か」
「御明察」
さすがは松姫様こそ、信玄公の理をいちばん弁えていると、川島作左衛門元重は微笑んだ。八王子は武州上州への路、鎌倉や相模への路を持つ。ここに、江戸からの路を得た。三方向への要となる。ここで生産した物は諸国に流通され、それが街の発展につながる。
「ゆくゆくは」
「さよう、甲斐へ路はつながるでしょう」
そのときこそ、八王子は経済の交差点となる。元八王子では難儀ゆえ、横山に移した川島作左衛門元重の真意はそこにあった。
「これは、恐れ入る」
信松尼は苦笑した。
新八王子は軍事の要所でありながら、城を持たぬ宿場の形態とするよう徹した。城下町ではないという姿勢を、大久保長安は敢えて推進したのだ。そのうえで、いざというときの陣所の必要もあった。かつての八王子城は軍事機能が失われたし、山城の不便さもある。長安はこの点についても抜かりはなかった。
信松尼のもとに長安から
「卜山舜悦和尚にお願いの儀が」
という使い番がきたのは、春早い頃のことだ。
「師によからぬことは取り次げぬ」
信松尼は使い番の名を質した。山田藤右衛門と、彼は名乗った。長安の腹心だ。
「お願いとは?」
「宗関寺の御再興の指図を賜りたく」
「まあ」
信松尼は驚きのあまり声を上げた。
北条氏照肝煎りの城下格式最高位だった宗関寺は、八王子城とともに灰燼に帰した。これを興すことは北条浪人にとって支えとなる。武田旧臣の負った労苦は、彼らの心情を理解できるものだった。
「それはよいことじゃ」
「新八王子にも幾つかの寺社を設けたく、これの指図も和尚様に頼みたいのです」
「ふむ」
「姫様の御力添えを賜りたし」
そういって、山田藤右衛門は神妙に頭を下げた。そういうことならと、信松尼は長安の書状を預かった。
翌日、小津の宝珠寺へ信松尼は足を運んだ。誰も彼も供を望んでうるさいので
「供は女子がいい」
と、小宮山民部の妻、丸茂勘三光直の妹を選んだ。小津は恩方の山ひとつ裏の山奥だ。卜山は信松尼一行を迎えると
「生きてこそ」
と、呟いた。
大久保長安からの書状に目を通した卜山は、気前のいい奴だと笑った。
「藤十郎が、ですか?」
「徳川内府が、じゃよ」
「はて」
「心源院も再興する手配があるという」
有難いことではないか。ただし、うまい話には裏もあると、意地悪そうな目で書状を見つめた。それを拒む理由はない。卜山はこの誘いに快く応じた。
この年、心源院と宗関寺は再興された。以前にも増して立派な堂宇である。夏の頃に建長寺の天叟禅師が宗関寺を訪れ、卜山は快く迎えた。ともに北条の庇護で仏道を送ることの出来た縁がある。その菩提を弔うことは責務であると、天叟禅師は呟いた。
「新しい街にも、寺社を設けられるとか」
「はい」
興岳寺は普請中であるが、小人頭たちのいる集落には程近い場にある。
「戦さは、まだあるようですな」
天叟禅師は呟いた。
「人の業は愚かしくも変わることなし」
卜山は、新寺が有事の合戦陣所になることを知っていながら、家康の望みに従い長安に応じたのだ。戦国が終わることは大きなこと、ちょっとしたことで戦さは消えぬ。卜山はそのときが時期尚早であることを見抜いていた。