第12話 姫たちの思惟①

文字数 2,469文字

 姫たちの思惟


 三人の姫。
 武田勝頼の娘・貞。北条氏政の妹を母に生まれたこともあり、心源院門前の随行家臣団にとっては
「在住の民衆に畏れ多い方と思われている」
ということもあり
「我らにも、随分と当たりが柔らかくて、まことに助かります」
という、ありがたい存在だった。気丈な貞は、仁科盛信の娘・小督を妹のように可愛がった。本来お付である小山田信茂養女・香具にも、侍女としてではなく思うとのように接した。まことに慈悲深いことだと、香具は控えめに感謝した。
 物の書では、信松尼のもとで三人が養育されたとある。
 一方では、早いうちから徳川に通じる者の手で養育されたという記録さえある。高力土佐守正長は三河松平家で
「鬼の作左、仏の高力」
とうたわれた清長の子だ。駿河田中の高力正長が、どのように八王子まで赴き、そういうことになったものかは、仔細がわからぬ。徳川と北条の関係は、甲州征伐のときに同盟だったくらいで、天正壬午の乱で敵対したものの、往来に関しては正規の手順さえ踏めば、支障はなかったのかもしれない。
 物語は後者の論で進めたい。
「どうして貞姫を、徳川へ渡す必要がござろうか」
 信松尼が毅然と拒んだのは、想像に易い。
 高力正長の応対を取り次ぐ北条氏照も、やりにくそうに、しかし明瞭な言葉で
「小田原の兄からの仰せにて」
と、答えるしか出来ない。松姫一行の庇護と放免のため、氏照は小田原と随分掛け合った。三人の姫の存在は、このとき世に現れた。北条家は天正壬午の駆引きで、出来る限り徳川とは争いたくなかった。甲州の火事場泥棒とは別なのだという、意思表示をしたかったのだろう。貞を預けるという勝手な物云いは、北条の血を引くからという理由だった。貞は武田の姫ではなく、氏政の姪だ。そういう意味での、勝手な決定だった。
「嫌です。なぜ父を討った徳川のもとへ」
 貞の不服も正論だ。
 こういうとき、高力正長の立場は厳しい。が、父譲りの〈仏の物腰〉で、これを急ぐことなく説得し続けた。徳川家康は甲州征伐にあたり、織田信忠の目を盗んで、多くの武田旧臣を匿い保護した。無益な殺生を好まぬ家康の高潔さを、正長は強く訴えた。穴山梅雪は家康を通じ信長から武田家の相続を許されていた。勝頼に失望した武田家臣団は、梅雪に与力する条件で徳川の庇護下に入ったのだ。
 しかし、本能寺で織田信長が没した。
 穴山梅雪も上洛帰途を土豪に襲われ絶命した。
 宙に浮いた武田旧臣は、家康が喉から手が出るほど欲しい人材の宝庫だった。その旧臣心の支えとして、武田縁者を欲するのは道理だ。多くの武田係累は信忠の血祭りによって果てた。それでも武田の者はいるはずだ。家康は手を尽くして探させた。
松の存在を知ったときは、大いに喜んだ。
 しかし、寸でのところで松は得度を終えていた。これでは旧主を恋みた旧臣が挙って出家しかねない。だからこそ、貞の存在は貴重だった。勝頼に冷ややかな旧臣たちも、その姫ならば、思慕の情は別という家康の見識は正しい。
 貞の難色は、子供の身勝手とはわけが違う。ふたりの姫を守るという自負がある。だからこそ松は貞を庇い、手元に留めようと努力した。
「ひとこと宜しいでしょうか」
 金丸四郎兵衛重次が口を開いた。
「我らがこうして生きていく気概を持てるのは、松姫様のおかげです。松姫様をお守りするという一心で、生きる望みを保ってござる」
「なにが云いたいのか」
「つまりは、徳川に匿われた者たちにとっても、望みとなる御方が欲しいのでは、ということなのです」
 家臣は主君を見限る自由がある。事実、勝頼は見放された。しかし、甲州に生まれたからには、武田家そのものは裏切れぬ。このことは大切だと、金丸四郎兵衛重次は説いた。徳川に仕官しようと、北条に仕えようと、武田の者を中心に結束する力。これが甲州人の心意気なのだ。
「徳川家に逃れた旧臣たちは、きっと寂しいでしょうなあ」
 松は言葉を失った。貞も、辛いところを抉られた心情だった。
「これは、痛いところを」
 貞は苦悩した。苦悩の末に
「わがままを聞いて欲しい」
 貞の願いは、最初に侍女として接した香具と一緒ならというものだった。
「わたしも」
 小督は兄に去られて、今また二人の姫と別れるのが辛かった。しかし、これ以上の言葉が出せなかった。貞は勝頼の娘、香具は小山田信茂の養女で外孫。小督との血縁は遠い。近い血縁は、直接の叔母姪である松だけだった。一緒に行きたいという言葉を、小督はぐっと飲みこんだ。
 香具は聡明な娘だった。貞の望むことならば
「どこへでも」
と笑った。甲州最強郡内勢を率いた小山田信茂は人間味溢れた武将だった。きっとこういう風に、辛いことも笑って和ませる力があったのだろう。香具はまさにその血を継ぎ、ここで発揮した。
 だれでも別れは辛い。
 しかし、生きてさえいれば、きっとまた会える。
「信松尼殿、どうか徳川を信じてくだされ」
 高力正長は幾度も頭を下げた。これでは、拒むことも出来ない。
「三河守殿には、北条の者ではなく武田の姫であること、よくよくお含みあるべしと」
「きっと伝えましょう」
 この夜、貞と香具は小督の寝具で一緒に寝た。こうしていると、ただの子供でしかない。しかし生まれた家が違うだけで、各々背負う荷が異なるのだ。
「不憫なことである」
 松はそういって、泣いた。翌朝は蒼天で、ぐっと暑い。刺すような陽は、もう天空にあって空の色を蒼く染め上げている。
「もう、用をなさぬゆえ」
と、松は出家前に愛用していた櫛を貞に、香具には懐剣を与えた。
「向こうに着いたら、武田家に仕えていた者たちと会うことがあろう。松も、その者たちを誇りに思うと伝えて欲しい」
「きっと伝えましょう」
 小督は泣かなかった。最後まで笑顔を絶やさなかった。一行が心源院から見えなくなるほど遠くに去って、初めて大声で泣いた。この娘もまた、抱えきれないほどの重い運命を負っている。
松は修行の間、この姫の養育だけに全力を注いだ。随行家臣団は松の想いを受け止め、自分たちの力で考えて、生きる道を探った。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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