第8話 仏の手②
文字数 1,603文字
松の言葉は、従者のすべてを動揺させた。泣かぬ者は誰一人いなかった。老若男女問わず、ただ目頭を抑えて、それでも潔かった。
「姫!」
無念を押し殺して訴える者たちに、松は黙って頷くだけだった。ここの誰よりも辛いのが、双肩に数多の責任を突如負った松そのものだ。随行家臣たちが殊更重荷となる言葉など、どうして口にできようか。
「無念でも、生きることを優先とすべし。悔しさは胸の奥に刻め、ただし口にするな。挫けている暇はない。私たちはここにいるが、今も白刃に追われる家臣たちがいる。その者たちの逃げ場となれるよう、わたしたちは強くならねばいかぬ」
皆は泣きながら頷いた。ああ、松が男子だったなら、どれほど頼もしいことだっただろうか。それでも、男子はいる。仁科盛信の嫡男・勝五郎だ。柱があれば、どんなに傾いても家は立ち直せる。皆はそう信じて、前を向くことが出来た。
このとき、松を中心に集った者は、高遠から従った松姫付・金丸四郎兵衛重次をはじめ甲州九口之道筋奉行を拝領した家の係累たちだ。龍芳の指図で向嶽寺に赴かねば、彼らとて今ごろ野辺に骸をさらしたことだろう。親や身内が起請文を出して徳川家康に庇護され織田信忠の手から逃れたことなど、彼らはまだ知らない。
「お尋ねします」
松に向き直った侍女は、丸茂勘三光直の妹である。
「姫様は甲州攻めの総大将とかつては許嫁でござりました。名乗りを上げれば、きっと恩赦を賜れると思われますが」
「そうだろうか」
松姫は自分に云い聞かせるような口調で、やんわりとそれを否定した。もし、そうであるならば、兄・盛信は松を信忠に差出しただろう。しかし逃げろと示唆したからには、もはや許嫁という約束は霧散していることを意味する。信じられるのは信忠ではなく、盛信の意思だ。
「ここまできて、晩節は汚すまい」
松の意思は、織田との敵対に他ならない。迂闊なことを口にしたと、丸茂勘三光直の妹は気付いた。
「浅はかなことを」
「いや、そう思うことも自然なり。責めはせぬ」
松は三人の姫と、甥の手を握った。この子供たちを守らねばならない。武田家再興、それだけが松の生きる道標だった。
このなかで年長なのは、勝頼の娘・貞だ。貞は自分の立場を理解し、一挙一動が全ての者に見られていることを弁えていた。早熟で聡明な娘だった。
「叔母上を母とも思い、幼き姫を妹のように」
模範解答だ。が、松はそれを打ち消した。
「背負うのは貴女ではありません。わたしを支えて下さればよろしい」
「でも」
「その気持は、有難く頂戴しましょう」
貞は北条家からきた継室の娘で、氏照はまだ見ぬ叔父にあたる。ここで生きていく上で、松を支えるべきという気負いが強い。それを、松は見透かした。今の状況は、まだ四歳で背負える重荷ではない。
「支えてくれるうちに、いつか荷を分けあえるときが来るかも知れません。そのときまで、姫たちが立派に育って下さればよいのです」
貞姫は力強く頷いた。これまでは、香具は貞の付女であり小督は従妹だった。まことの姉妹のように結束しなければいけない。生まれがどうとは、云ってはいられなかった。
「勝五郎は、姫たちをしっかりとお守りあれ」
「はい」
甲斐の出来事、惨事を逃れた人の行方、それらは遅れて刻々と伝わった。いい話もあれば、よくない結末もあった。その噂を吟味し、災いを呼び込まぬよう、松は随従家臣たちとの慎重な協議を密とした。世が世なら、武田家の者にここまで重用される身分でない彼らは、だからこそ、誠心誠意、松の期待に応えた。
織田信長が甲斐に入り、信忠のやりすぎを叱責したとも聞いた。そんなことは、もうどうでもよかった。あのような非道をするような男に嫁いでいたら、どのような毎日を過ごしたことだろう。嬉々と実家の滅ぼされた様を聞かされたものかと思うだけで、ゾッとした。破談になって、本当によかった。松の思いは、決して偽りではない。
「姫!」
無念を押し殺して訴える者たちに、松は黙って頷くだけだった。ここの誰よりも辛いのが、双肩に数多の責任を突如負った松そのものだ。随行家臣たちが殊更重荷となる言葉など、どうして口にできようか。
「無念でも、生きることを優先とすべし。悔しさは胸の奥に刻め、ただし口にするな。挫けている暇はない。私たちはここにいるが、今も白刃に追われる家臣たちがいる。その者たちの逃げ場となれるよう、わたしたちは強くならねばいかぬ」
皆は泣きながら頷いた。ああ、松が男子だったなら、どれほど頼もしいことだっただろうか。それでも、男子はいる。仁科盛信の嫡男・勝五郎だ。柱があれば、どんなに傾いても家は立ち直せる。皆はそう信じて、前を向くことが出来た。
このとき、松を中心に集った者は、高遠から従った松姫付・金丸四郎兵衛重次をはじめ甲州九口之道筋奉行を拝領した家の係累たちだ。龍芳の指図で向嶽寺に赴かねば、彼らとて今ごろ野辺に骸をさらしたことだろう。親や身内が起請文を出して徳川家康に庇護され織田信忠の手から逃れたことなど、彼らはまだ知らない。
「お尋ねします」
松に向き直った侍女は、丸茂勘三光直の妹である。
「姫様は甲州攻めの総大将とかつては許嫁でござりました。名乗りを上げれば、きっと恩赦を賜れると思われますが」
「そうだろうか」
松姫は自分に云い聞かせるような口調で、やんわりとそれを否定した。もし、そうであるならば、兄・盛信は松を信忠に差出しただろう。しかし逃げろと示唆したからには、もはや許嫁という約束は霧散していることを意味する。信じられるのは信忠ではなく、盛信の意思だ。
「ここまできて、晩節は汚すまい」
松の意思は、織田との敵対に他ならない。迂闊なことを口にしたと、丸茂勘三光直の妹は気付いた。
「浅はかなことを」
「いや、そう思うことも自然なり。責めはせぬ」
松は三人の姫と、甥の手を握った。この子供たちを守らねばならない。武田家再興、それだけが松の生きる道標だった。
このなかで年長なのは、勝頼の娘・貞だ。貞は自分の立場を理解し、一挙一動が全ての者に見られていることを弁えていた。早熟で聡明な娘だった。
「叔母上を母とも思い、幼き姫を妹のように」
模範解答だ。が、松はそれを打ち消した。
「背負うのは貴女ではありません。わたしを支えて下さればよろしい」
「でも」
「その気持は、有難く頂戴しましょう」
貞は北条家からきた継室の娘で、氏照はまだ見ぬ叔父にあたる。ここで生きていく上で、松を支えるべきという気負いが強い。それを、松は見透かした。今の状況は、まだ四歳で背負える重荷ではない。
「支えてくれるうちに、いつか荷を分けあえるときが来るかも知れません。そのときまで、姫たちが立派に育って下さればよいのです」
貞姫は力強く頷いた。これまでは、香具は貞の付女であり小督は従妹だった。まことの姉妹のように結束しなければいけない。生まれがどうとは、云ってはいられなかった。
「勝五郎は、姫たちをしっかりとお守りあれ」
「はい」
甲斐の出来事、惨事を逃れた人の行方、それらは遅れて刻々と伝わった。いい話もあれば、よくない結末もあった。その噂を吟味し、災いを呼び込まぬよう、松は随従家臣たちとの慎重な協議を密とした。世が世なら、武田家の者にここまで重用される身分でない彼らは、だからこそ、誠心誠意、松の期待に応えた。
織田信長が甲斐に入り、信忠のやりすぎを叱責したとも聞いた。そんなことは、もうどうでもよかった。あのような非道をするような男に嫁いでいたら、どのような毎日を過ごしたことだろう。嬉々と実家の滅ぼされた様を聞かされたものかと思うだけで、ゾッとした。破談になって、本当によかった。松の思いは、決して偽りではない。