第7話 仏の手①

文字数 1,611文字

 仏の手


 季節外れの風花が舞う日、松の姿は心源院にあった。卜山禅師は七尺の大男だが、物腰柔らかく、接する相手を威圧することもない。その第一声は
「戦さは惨いのう」
というものだった。すべてを見透かした言葉だった。
 対面の座は、禅師と松のみ。控えの間に随行家臣が三人いた。卜山の供はひとりだけで、身のこなしも油断のない武将だった。
「姫の里のことをよく知る者がいる。そこに控ておりが、如何しようかの」
「ぜひ、承りたく存じます」
「承知した」
 卜山は傍らに控える供を招いた。源三という名らしい。慇懃で綺麗な所作だが、身分卑しからざる武将のようだ。美しい所作で、源三は一礼した。松も一礼した。
「武田家の御最期のことです」
「承ります」
「辛い話になりますが」
「お話しください」
 卜山をちらとみて、しからばと源三は背を伸ばした。
「三月一一日、場所は満川上流の田野という場所にて、武田四郎主従は四五足らずの哀れな最期にございました。半分は女と聞いています」
「それよりも前から、武田四郎の様はお判りでしょうか、月の始めには国中を発ったので、どうしてこのようになったものか、全く様子が全く分からぬのです」
 向嶽寺を出るとき、情報がなかった。松はこのとき、武田は新府城で籠城するものだと信じていた。郡内に入ったとき、小山田信茂も一切教えてくれなかった。どうして、こうなったものか。
「高遠が陥落したのは、月のはじめです」
「兄は、仁科五郎は」
「武田武士の名に相応しい、壮絶な最期と聞いております」
 松は、悲しみをぐっと堪えて、勝頼のその後を尋ねた。勝頼が上州へ退くことは北条も承知していた。しかし、何を血迷ったのか、甲斐国に入り込んで、追い詰められてしまった。無様にも程がある。世間では小山田信茂が通せんぼしたと囁かれるが、何てことはない、判断を誤って、自ら逃げ場を失ったのだ。
「小田原でも大騒ぎです。四郎殿の奥方は小田原殿の妹御、上州へ逃げたなら見て見ぬ振りもできたのに、みすみす見殺しになったと。これは小田原から直接聞いたことなので、間違いありません」
 ああと、松姫は項垂れた。
 龍芳の云う通りだ。しかも、こんなに早く、武田が滅んでしまうとは。なんと呆気のないことだろう。そういえば、龍芳はどうなったのか。
「織田勢が府中に入ると同時に、入明寺にてご自害とのこと」
 源三という男の情報は的確なものだ。さぞや名のある者だろうかと、松は卜山をみた。
「八王子城主・北条陸奥守殿です」
 卜山の答えに、松はあっと声を上げた。まさしく北条氏照その人だった。しかし、寸鉄帯びぬ姿には、他意は感じられない。
「禅師の御前にては一介の弟子にて、姫は客人ゆえ断じて害なすことはございませぬ」
 氏照といえば北条氏政の軍事を司るナンバー2とも例える男。なにゆえ松を捕えて手柄としないのか。その問いに、氏照は姿勢を正した。
「武士の約定は命より重し」
「約定」
「姫が安堵されるは、小山田出羽守殿の嘆願にて」
「さて」
「郡内割譲と引換えに落ちる者を助けられたし。誇り高き武人が命がけで頼むこと、なんで無下になど出来ましょうや。むしろ匿って味方とすることこそ、陸奥守にとって願ってもなきことにて」
 その小山田信茂は、三日も前に善光寺に引き出されて織田信忠に殺されていた。氏照もこのとき、まだそこまでは知らない。
「出羽守殿のことも、ぜひ北条が召し抱えたいと。そうなれば郡内も安堵、あの精強な小山田の軍勢は労せず我が指揮下に。我々は命を軽んじたりしませぬ」
 真摯な目だ。きっと、氏照は誠実な男だと、松は頷いた。
「で、これから、如何されようか」
 卜山が質した。
 松は、答えがわからなかった。少し考えたいという、松の答えは妥当なものだ。
「源三殿は、籠の中の鳥を決して悪いようにいたすまい。安んじられたし」
「ご厚情かたじけなし」
 松は、決して感情を表に出さなかった。毅然とした態度で、金照庵に戻った。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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