第6話 男の屁理屈③

文字数 3,236文字

 高遠城陥落。
 この急報に、新府城は大騒ぎになった。
「たった一日で落ちるとは」
 もう少し支えて欲しかったと、勝頼は息巻いた。その言葉は、多くの者に誤解を与えた。
「仁科がもう少し使えれば」
という侮蔑に響いたのだ。無論、真意は異なる。しかし、これまでも、勝頼は口で損をする男だった。このことで心ない大将であると、離反を決意した者も多い。理由のわからぬ勝頼は
「恩知らず、不甲斐なし」
 さらに侮蔑を口にして、不信感の連鎖を重ねた。
「はやく上州へ」
 促す諸将に頷きながら、勝頼から出た言葉は
「上州ではなく、古府中へ」
 誰もが目を丸くした。これは何事かと質す安部加賀守勝宝に、長坂釣閑斎が遮るような口調で
「真田は北条に通じている。先方衆は頼りにならぬぞ、よって古府中の要害山城をめざす」
「そこではおぼつかぬゆえ、新府移転を強行したのであろう」
「先代様の縁起に肖ること第一、民衆も武田が復し喜ぶに相違なし」
「人は、そんなに簡単なものではない」
「もう決めたこと、上州へは行かぬ」
 場当たりな決定だと憤慨しつつも、勝頼には上州へ行く気すらない。これでは古府中へ行かざるを得なかった。
 三月三日、勝頼は新府を出て要害山城をめざした。自ら火を放つと、新築の城はみるみると炎に包まれていった。この有り様に、涙が止まらなかった。劣勢を挽回する意気込みの勝頼に対し、機をみて家臣が逃散した。残る者の表情は、暗い。それでも登美の丘を越えて国中の盆地が見えると、勝頼の心は晴れてきた。
 国中の空ではもう、燕が飛びかう。希望に膨らむ勝頼は、しかし古府中の民衆が武装して道を阻んでいると知り、愕然となった。古府中の者たちにとっては、勝頼こそ強引に居を動かした張本人。商人の多くが移転を口実に掛け売りの支払いを踏み倒された。恨みの対象でしかない。
 こうして戻ってきたからには百年目、勝頼を討ち果たして敵の手土産にするくらいの機運が高まっていた。織田勢の侵攻は、甲斐の誰もが承知している。勝頼の首を手土産にすれば、見逃してもらえる。いや、褒美が貰えるかも知れない。皆が本気で、そう思っていた。
 勝頼は要害山行きを諦めた。
 では、どこへ。真田を頼るかという声に、勝頼は首を振った。
「岩殿に行く」
 跡部勝資は長坂釣閑斎をみた。また、余計なことを吹き込んだかと詰る目に、釣閑斎は大きく手を振って否定した。あくまで勝頼の独断だった。
「このこと、郡内の出羽守殿は承知か」
「無論、いざとなればそこへ赴くことに前々から決まっている」
 嘘だ。
 小山田出羽守信茂は相模国境に対応し、新府評定から姿を見せていない。国境を支えるだけで精いっぱいで、ましてや知らぬところで、このような勝手が定められていようとは思いもしなかった。
 勝沼大善寺に落ち着くと、勝頼は郡内への路案内を求めた。
 その夜、長坂釣閑斎は郡内割譲と引換えに北条との和睦を提案した。岩殿城に援軍がくればなお有難い。勝頼はその話に乗り気となった。しかし、北条は信用できるのか。ましてや小山田信茂はどうだろう。よもや郡内引き渡しを北条と交渉していることなど、知る由もない。
「そんなことはございますまい」
 岩殿城は小山田支配の地にあって、武田の出城のような存在だ。小山田の意見など聞く必要はないのだ。
「郡内をくれてやってもいいではないですか。それならば、欲深い北条も納得して庇護してくれましょう」
「しかし、小山田出羽守は納得するまい」
「小山田は武田の家臣なれば、御館の命令に背くことはございません」
 釣閑斎も勝頼も、甲斐国の特異性を理解していない。国中・河内・郡内の三地区は独立領地であり、自治の独自性が許されてる。信玄さえこれを重んじ、ゆえに信頼が得られたのだ。しかし、勝頼はこのことを知らなかった。
「誰か、小田原へ使者を」
 勝頼は密使だと称し、使い番を発した。内容は、郡内割譲と引き換えに岩殿城へ援軍を送るべしというものだった。その密書が小山田信茂の手の者に奪われたことで、一層、辞退が深刻化した。郡内の怒りは沸点に達したが、信茂はこれを制した。
「北条と講和する。もはや武田は郡内を守ってくれぬ。八王子城の陸奥守と講和しよう」
 小山田信茂からの講和の求めに、北条陸奥守氏照はすぐに応じた。小山田勢の恐ろしさをよく知る氏照は、戦いの回避こそ重視すべきと理解した。しかし織田との戦さも好むものではない。
「人を逃がすなら匿おう、それくらいしか出来ぬが、小山田との戦さは避けるに越したことはない」
 北条氏照の独断だ。しかし講和は成った。
 そのころ、松姫一行が郡内に入った。信茂は北条氏照が信用できると確信し、向嶽寺の紹介にある武州金照庵をめざす松姫のために警護の兵を用意した。上野原までは小山田の兵が護衛し、そこから桂川で下る段取りが整えられた。
「小山田の心配り、かたじけない」
 松姫の言葉は、まだ武田が滅ぶとは信じていない力強さに溢れていた。

 三月二七日、松姫一行は案下峠をこえ上恩方の民家の戸を叩いた。
「お待ちしておりました」
 民家の主は武田家諸国御使衆で、現地の者として住み着く間者である。松姫がここへ来ることは、小山田信茂からの密書で承知していた。ただ、余りにも遅かったので心配していたのである。子連れ旅には予想外のことも多く、たしかに予定より一〇日の遅れがあった。
「明日にでも金照庵まで案内しましょう。今宵は足を延ばされたく」
「かたじけない」
 松姫たちが就寝すると、随行の主だった者たちは、この男からの情報に色を失った。
「武田家が、滅んだと?」
「はい」
 信じがたいと、誰もが顔を見合わせた。
「いつかは姫も知るでしょう。しかし、出羽殿は北条陸奥守に武田から来た者に手出し無用の約定を得たと聞きます」
「信じていいのか」
「ゆえに金照庵へ行くのです。そして、ゆくゆくは心源院の卜山和尚を頼って下さい」
「なぜ」
「朝廷からも信頼ある御坊は、陸奥守の師匠です。この庇護に預かれば、誰にも姫に手出しできませぬ」
「わかった」
 松姫と、幼い子供たちの安全を確保することは彼らの責務だった。武田のその後を知りたいが、今は先にするべきことがある。北条だって全面的に信頼できない。彼らは勝頼に恩義はないが、信玄のためならば何でもできる。晩年の信玄が可愛がった松姫様こそ絶対の盟主と心に定め、そのためなら命を惜しまぬことをあらためて誓い合った。

 金照庵は小さい庵だ。向嶽寺の紹介状を一瞥した住持は、一行を匿うことに同意した。同時に、随行家臣の言に頷き、卜山禅師との面会を同意した。
「偉い坊さんなのだろ」
「偉いお方です」
「大丈夫かな」
「ご無礼がないよう気をつけなされ」
 随行家臣団は神妙に頷いた。
 卜山との謁見について粛々と調整がされた。その間に、甲斐の様子が朧げに伝わってきた。いいものばかりではない。気の滅入ることばかりだ。
「まだ信じるに及ばず」
と、松姫は断言した。卜山禅師のもとへ行けば分かることもあるだろう。それまでは希望を持って生き続けることが大事だった。心が揺れたら、本当に立ち直れなくなる。
 松は女だ、女だからこその現実主義者だ。
 本当は、とっくに覚悟はしているし、観念していた。しかし、幼い子供から希望を奪いたくない。不安が前途を奪う恐ろしさは、大人だって耐え難いのだ。
 松は強かった。
 男だったらよかったと、生前の信玄は性根を指してよく笑っていた。そのとおりだ、女は損だと、松は思っていた。だからこそ、男より毅然と振舞おう。腹の据わりは、さすが信玄の子である。
 男の屁理屈は、女に無用だ。
 松は揺らぐことのない大木のごとく、幼い子供たちの宿り木に徹した。その姿に、随行家臣団は感動した。ひょっとしたら、亡き信玄の面影を見出したのかも知れない。武田が滅んでも、我らには松姫様がいる。彼らが結束を固めたのは、当然のことだった。
 卜山禅師との面会が許されたのは、それから直ぐのことだった。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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