第11話 仏の手⑤

文字数 3,223文字

 卜山は幾度となく、松を招いて、世の無常を説いた。此れが男子ならばと、卜山は幾度も思った。男子ならば、ここで御家再興の道もあろう。しかし、そのことは、もしもと口にするだけ無為なことだった。今の状況で旧臣の暮らしを立てる道を掴むことが、松にできる重要なことだった。
 幼い子供をどうする、旧臣の仕官先をどうする。
 考えるだけで気が変になってくる。しかし、逃げられぬ運命だ。
「姫は、北条の誰かに嫁ぐという意思はござらぬか」
「はあ?」
「出自は立派であるし、嫁ぎ先も粗略にはなさるまい」
「考えたことはございません」
 好奇な目で見る北条家の若者のことは知らぬでもない。しかし、武田家再興を託すには役不足である。こうして国破れ、あらたに蹂躙されるからには、武田家再興を託すに足る人物は三千世界にいよう筈もない。ならば未練は、幼い者たちの先行き以外に、皆無といってもよい。
(いっそ、出家したっていい)
 一瞬、そのことが頭を過った。
 そのことは現実的ではないことを、聡明な松は自覚していた。出家して、何が変わるというのだ。何が得られるのだ。
(わからない)
 それで甲斐が取り戻せるというわけでもない。いや、未練を捨てるということか。甲斐も、女としての未来も。託すべき次の世代のために、裏方となることも一興か。松は、思案した。金照庵の堂に鎮座する仏像と、昼に夜に、寝食を忘れて対坐した。
「姫は何かお考えだろうか」
 その深い思慮の苦しむ様に、随行家臣団は心配した。
 四日目、松は力尽き眠りの境地を漂い、夢をみた。仏は、東を指した。指した先の景色が空を飛び、彼方の上総国を描き出した。そこにいるのは松の生まれる前に養子とされた異母兄である。信之、いまは庁南武田豊信という。
(ここへ、勝千代を?)
 ここで武将として生きることを、仏は導いているのだろうか。
 そして、松に向かい、仏は墨衣と三つの鉢を指した。鉢は三人の姫の徳育の象徴だろう。墨衣は、出家を示すもの。他家に嫁しては姫の養育はできぬことを示唆するものと、松は思った。
 導きだ。
 仏の、御手が差し伸べられた。
 松は夢の中で、はっきりと自覚した。
 気がつくと、朝だった。松は目の前の仏像に合掌し、随行家臣団をすべて呼び集めた。夢の中のできごとに、誰もが顔を強張らせた。
「早まってはなりませぬ」
 制止する声も少なくない。
「上総に兄がいるという話、誰か聞いたことはないか」
 表向き、信玄の三男は夭折したというのが、甲斐での認識だった。誰も上総に兄がいることを知らない。
「姫様、表に人が」
 旅人のようだと、小宮山民部の妻が報せた。男の者が伺うと、奇遇か、その者は庁南武田家の使いの者だった。
「高遠の仁科様より、我が殿へ文が届いていたのです。姫様の行方を捜して、遅くなりました」
 高遠決戦前、仁科盛信は庁南武田豊信へ男子を託すという密書を発したというのだ。その文も見せてもらった。間違いなく盛信の筆跡だ。
「若様を迎えにきたのです」
 松は胸が震えた。仏の示したことは、このことだ。勝千代を託せるのは、庁南武田豊信をおいてほかに無し。
「おいで、勝千代」
 松は勝千代に仁科家の再興と甲斐を取り戻すことを強く訴えた。勝千代は聡明だ。己の背負う使命を即座に理解した。ここで長じ、いつか軍勢を率いて西へ向かうことを心から望んだ。幼い妹だけが気がかりだ。供にいくべきか、悩んだ。
「道は遠く、幼い姫の耐えられるものではござりません」
 庁南武田家の使いの者は、辛そうに答えた。
 ならばと、勝千代は松を見上げた。
「妹を、お願いします」
 そういって、小督の手を握った。
「いかないで、あにうえ」
 小督は泣いたが、勝千代は笑った。いつか甲斐を取り戻す、きっと迎えに来る、そういって笑った。少年の、出来過ぎなやせ我慢に、一堂はもらい泣きした。
「三人、我こそと思う者は勝千代の腹心となる心構えで随行せよ」
 大勢が手を上げたが、松は若い者を三人選んだ。この者たちに、いま許せる限りの路銀と食糧を与えた。そして自署をしたため、これを武田豊信に必ず届けるよう、強く念を押した。
「上総の兄上に、勝千代をよしなにと」
 更に使いの者へ、甲斐から持参した信玄画像を渡した。
「我らが父は天下の信玄入道。これほどのことで負けられぬと、兄上にお伝えあれ」
「承りました」
 その日の昼前に、勝千代たちは発った。それを見送ってから、松はもうひとつの夢の話を家臣に告げた。松の出家、このことに全員が驚いた。ならば我らもと、ほぼ全員が訴えたが
「勝千代が再興したときに僧兵ばかりでは心もとない。お前たちは俗世にあり、我らを守護せよ」
 皆は胸が熱くなった。守護せよとは、なんとも勇ましい言葉だ。姫を守ることができるなら、何程のことがあろうか。
 話は、早い方がいい。
 さっそく松は卜山を訪ねた。和尚の手で得度し仏弟子となりたいという松の気迫を、卜山は諭すことが出来なかった。気圧された、このようなことは仏弟子になって以来、久しく忘れていたことだ。
「仏の導きとあらば」
 卜山は観念し、松の黒髪に剃刀をいれた。艶やかな黒髪は下ろされて、丸い頂部を臆することなく晒した松には迷いはなかった。
「仏門に帰依するからには、我がもとで」
「是非にも」
「こののちは心源院にあって、朝に夕に修行に励むこと」
「心得ました」
「して、随行家臣団をどうするのか」
「門前にて在野信徒とし、幼き姫たちを守らせます。我が修行の傍ら、姫を養育し恥ずかしくない教育をするつもりにて」
「気高き哉」
 尼僧としての戒律と毎日の仏務さえ怠らなければ、それも良しと、卜山は低い声で呟いた。
 残るムダ毛のすべてを剃り終えると
「法名を信松尼と号せられたし」
 卜山は呟いた。
「松の字を残されたのですね」
「武田家累代の片諱である、信もある」
「ありがとうございます」
 なんと立派な法名だろう。松は、涙を流して手を合わせ、礼を繰り返した。
 卜山ほどの高僧ならば、仏の道への厳しさを知っている。松の気高さも、所詮は仏の道まで及ぶまい。修行の悟りを求める者ではあるまいという、大名家の形式出家くらいに受け止めていた卜山であったが、それでも仏事に関するお務めに手心は与えなかった。
 心源院に修行のために入門した松は、慣れぬ床掃除や経の暗記で頭の中がいっぱいになった。一〇日もせぬうちに、松はげっそりと痩せた。それでも、目の光は力を失っていないことを、卜山はよくよく見ていた。
(武田の姫だけあって、気が強い)
 卜山は与えるものは僅かにし、自分で考えることを松に課した。
学習とは、人それぞれであり、小さな箱へ押し込むようなものではない。こういう学習が松の性に合うことを卜山は見抜いたのだ。
 ひと月もすると、松は般若心経を暗唱することができた。掃除のコツさえも掴んだ。要領を得れば、松にとってこの修業は苦ではなく、学びである。その賢さを見出した時、卜山は形式的な扱いから
「真剣に修行されます様」
と、松に説いた。
 松にとっては仏の道も、随行家臣団のことも、同等である。己だけが仏に救われようなどと思ってもいない。その気高さも
「是非のないこと」
 卜山は強いて松の昇華を口にすることを慎んだ。
 松の出家は八王子城の北条氏照を驚かせた。そして、そうまでして残された家臣や姫たちを守ろうとする気高さに心打たれた。
「ケチなことをした。養蚕のこと、武田の落人に惜しまず助力せよ」
 近藤綱秀は氏照の意に従い、随行家臣団に技術指導する指図を地域に発した。志村大膳が代表して礼のため登城した。この恩は、きっと北条のためになる。近藤綱秀はそこまで見通していた。
 外はまだ、低い雲が覆い小ぬか雨に包まれていた。それも濃密な大気のひとつであり、生きている摂理の象徴にすら感じられた。木々が吐く大気の密度は濃い。八王子は生気に包まれている。
 六月の空から梅雨が去るのは、もう少し先のことだった。

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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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