第3話 傾く国②

文字数 4,468文字

 松と小督が新府に入ったのは二日後だった。すでに勝頼は諏訪へ布陣し、男たちは殆どいない。勝頼の室は松を見かけると、縋りついて泣いた。
「これは、どういうことでしょう」
 事情も知らぬ松は、ここで南信州の状況を知った。盛信はこういうことも想定していたのだろうか。戦場となる前に、娘を託して逃したのだとしか考えられない。
「兄上のところには男(おのこ)もいる。子供を道連れにするなど、兄らしくない。義姉上、誰か人をやって、高遠から勝五郎を逃すよう兄上に」
「う……うん」
 盛信の嫡男・勝五郎はまだ一〇にも満たない。小督を逃すなら、勝五郎の命も同じ重さである。松の言葉は、誠実だった。その誠実さに、勝頼室は決心した。
「どうか松殿は、御聖道様のもとへ」
 御聖道とは、信玄次男で僧籍の龍芳のことだ。いまは古府中の南にある入明寺にいる。松をそこへ行かせるということは
「ここが、戦場に?」
「そうさせぬため、そなたの兄上が支えてくれるのでしょう。しかし、念には念をという言葉があります。あなたが幼い者を案じる方と分かりましたゆえ、うちの娘も託したい」
「貞様を?」
「貞に付いている香具も一緒に。香具は郡内小山田の孫娘、もしものときには小山田も役に立つでしょう」
「分かりませんが、女子だけでよろしいのでしょうか」
「いまは女子だけを」
 松はその言葉に従った。これが今生の別れなどと、このときは露ほども思わなかった。諏訪と高遠で押し返す力が、武田には十分あることを、信じて疑わなかった。これは松に限らず、国許の多くが思うことだった。
 入明寺には先に使いが発せられた。松が着くときは、御聖道衆とよばれる龍芳側近達が迎えてくれた。お寺ではあるが、ここは一己の砦のような構造である。
「よう参られた」
 信玄次男で正室腹の龍芳は家督を継がなかった。龍芳は幼少の頃に病を帯びて盲となった。目が見えぬゆえに、家督を辞退した。四男で妾腹の勝頼が武田を継いだのは、そういうことだ。しかし、目に光を失っているだけで、龍芳には知恵と才覚がある。生前の信玄は人材登用の天才で、世に無能はないとした。どんなものにも才はあり、世の役に立つのだ。適材適所を与えれば、誰もが持てる力を発揮出来る。そのように配した。まさに人は石垣人は城、である。龍芳も同じことで、信玄は諜報の元締めとした。武田が抱える表向きの諜報とは別の、独自の機関を与えたのだ。これは情報の精査をするうえで有効なものだった。
「よく来たね」
 龍芳は物腰柔らかい。
 松は、貞と香具、そして小督に挨拶を促した。にこにこしながら
「子供は奥で休ませるといい」
 龍芳の言葉に、松は甘えた。
 子供を下がらせると、龍芳の表情は険しくなった。
「もう、武田は滅びるかも知れない」
「はあ?」
 松は、仰天した。なぜに、そういうことになるのか、情報がないだけに松は混乱した。龍芳は松の才覚をよく知っている。教えれば理解できる賢い娘だ。ゆえに、数年に及ぶ武田の事実を告げた。
「それほどまでに」
 松は、御館の乱で上杉と結んだことの不利について聞かされていない。不利が不利を呼んで、長く和を結んできた北条も敵だという現実に、驚愕した。四面楚歌だ。東も西も、隣り合うのは敵国ばかり。
「どうして、このようなことに」
 松の疑問は鋭かった。
 幾つかの要因はある。が、決定的なことが何だったのか、今となっては分からないと、龍芳は答えた。本当に分からなかった。何がどうして、こうなってしまったのか。
 南信州が戦わずして、一斉に雪崩を打って武田から離反した。ひとつ崩れると、このことは別のどこかで波及する。どうしてかという答えは、簡単だ。
「武田を頼りとなさぬ先方衆は、敵に寝返ることが自然なのだよ」
「そういうものなのですか」
「そうさ、だから父上は、そうやって人心を掴み血を流さずに領土を拡げたのだよ。武田が頼りだと思えば、戦わずして寝返ってくれる。その信頼こそが、武田の強みだったのだ。御当代殿はそれを力押しと誤解した。力に頼る者は、ちょっとしたことで逆転びするものなのだ」
 人の心を過信して、力を誇示する。勝頼は勝ちすぎた。信玄よりも強いことを示すために、武に傾きすぎた。版図こそ父を上回ったが、それは、まるで砂の城のようだった。さらさらと崩れては、盛りつける。その崩落が多面化して大きなものとなったとき、手の施しようがなくなる。
 今の状況を例えるのなら、きっとそういうことだろう。
「だからといって、一族みな滅べばいいなどと、儂は考えてもいない」
 龍芳は、笑みを浮かべた。
 もう、実子・顕了は大蔵十兵衛という蔵前衆に託し、信州のどこかへ隠している。つまり、甲州まで織田勢がなだれ込んでも不思議ではない状況なのだと、龍芳は口にした。それでも人は生きなければならない。先方衆が武田を見限るように、誰もが逃散して再起を企てることの、なんや躊躇いがあろうか。
「兄様といえど、その言葉はあまりにも」
「お前も四郎殿を軽んじていた筈だ。だから、輿入れにも応じなかった」
「それは」
「許嫁とされた織田の奇妙丸が、甲州攻めの総大将というぞ」
「……」
 どう答えるのが正しいのか。松は、そこまで心が細やかではない。ただし、許嫁など古証文にて無きに等しいことも承知している。甲斐まで攻め入られ、もしも捕えられたならば、雑兵に身を汚され、その許嫁の前で斬り捨てられることだろう。信玄の娘として、立ち向かった末に果てるも一興ではある。しかし、勝頼の妹として死ぬことに、戸惑いがあった。たしかに松は、勝頼が嫌いだった。松だけではない、果たして本気で棟梁と仰ぐ者がどれほどいようか。
 思えば、勝頼ほど気の毒な者もいない。信玄の跡を嫡男が継げば、その侍大将として、一軍の将としての名を上げたことだろう。それが、とんだことで転がり込んだ党首の座。それまでの同輩や目上の者を叱咤命令したところで、素直に応じる者などいない。武田の版図を拡げたのも、元はといえば彼らへの当てつけでもあった。
「どうだ、父上にできなかったことを儂はしてのけた」
 ただそれだけのために、勝頼は勝ち続けた。尻尾を振って煽てる者もいたし、心底宗旨替えをした者もいた。それだけに、その逆転ぶ瞬間、一族重臣ことごとく、蜘蛛の子を散らすように逃散した。それが、いまだ。
 松もその蜘蛛の子のひとつに過ぎない。これは事実だ、認めるしかない。
「松を責めているのではないぞ。お前は幼い三人の姫を抱えてしまった。逃げることに理由がある。そうだろう?」
 龍芳の言葉は優しいが、容赦なかった。
「生きて生きて生き抜いてみせることこそ、四郎殿に対する立派な当てつけにもなる。それくらいのことは、覚悟せよ。お前は死ぬことが許されぬぞ」
「はあ」
 松も無駄に死にたくはない。しかし、生きていくことの重荷を負わされるつもりもなかった。それだけに、幼い姫たちの存在が、ずしりと重くのしかかった。
「さて、こののちのことだが」
 龍芳は、傍らの御聖道衆に図面を出すよう指図した。
「これは、国中の図面であるが、相違ないか?」
 見えない龍芳の確認に、松はそうだと即答した。
「これより栗原の開桃寺まで、この山下又左衛門尉が案内する。ここで、塩山の向嶽寺からの迎えを待つのだ」
「向嶽寺?」
「松はここで使いの者に導かれ、武州へ落ちてもらいたい」
「武州?」
 オウム返しのような反応しか出来ぬほど、松は、何が何やら理解できなかった。しかし、行かねばならぬ空気のようなものが漂っていた。とても断れる気配ではない。
「兄上にお伺いしても」
「なにか」
「国を出ること、そういうお話ですが、本当に武田が敗けることなどあるのでしょうか」
 松のわだかまりは、そこだ。
 勝頼の好き嫌いは、わかる話だ。生きる努力をすることもわかる。だから武州へ落ちるというのは、腑に落ちなかった。いっときの戦さで敗れても、結果として盛り返す。それが武田の強さだった。
「間違いなく、武田は滅ぶ」
「滅ぶ?」
「だから武州へ逃れるよう告げている」
「でも」
「松に嫌われ、一族に嫌われ、家臣から背かれて、どうして武田が息を吹き返すと思うのか。四郎殿は手の打ちようもなく、やがて新府を捨てるだろう」
「そんな」
 龍芳は佐久海野の諜報を独自で抱えている。情報を冷静に精査できる感性もある。そのはじき出した答えが、武田家滅亡なのだ。だから幼い姫を逃すため、松の進むべき道筋を示した。恐らくこのように、龍芳は会う者すべてに対し、適宜相応しい潜伏先を指図しているのだろう。だからこそ、勝頼正室は、松をここに差し向けたのだ。
「向嶽寺の使いが来たら、その指図に従えばよいのですね」
「そうだ」
「承知しました」
「明日にも、発ちなさい」
 龍芳は穏やかな笑みを浮かべた。

 入明寺を発つ松姫一行を龍芳は笑って見送った。見えぬその眼には、何が見通せているのだろう。案内する山下又左衛門尉は、龍芳の指図書を携えていた。寺から栗原までは国中の盆地を西から東へ向かうようなもの。途中、笛吹川を渡るときが難儀だったが、天気に恵まれたことが幸いした。開桃寺へは昼前に到着した。
「これより向嶽寺に赴き、御聖道様の御指図を伝えて参ります。お迎えがあるまでは、この開桃寺から決して動きませぬよう。お仕えの方、構えて徹底のほど」
 山下又左衛門尉は龍芳のすべてを信頼する者だ。当然、こののちの危惧も共有しているのだろう。それをお守りあれという言葉の底には、龍芳の示した道に間違いはないという絶対の自信がある。それを守る限り、松姫一行は無事に武州へ赴けるはずだ。
「本当に、武田は……」
 それ以上は人目を憚り口に出せない。しかし、松の真意は、山下又左衛門尉に伝わった。
「こののちのこと、ご覚悟を」
「ああ」
「姫様が柱石である限り、きっと大丈夫。御聖道様のお言葉です」
 半分は山下又左衛門尉の言葉だろう。しかし、松は頷いた。まだあやふやだった松の腹は、このとき、括られた。覚悟を固めたとき、男よりも女の方が強いのである。
「兄上も、そなたも、無理をせぬよう」
「は」
 山下又左衛門尉が去って、開桃寺の僧は鍋いっぱいの〈ほうとう〉を用意した。当時のほうとうは丸めただけの、すいとん状のもので、腹持ちがいい。
 天正一〇年二月五日、国中の盆地中央の気候は春のように温いが、陽が傾くと、吹く風はまだ冷たい。
(国も傾くか)
 松は甲斐駒ヶ岳の白い峰を凝視した。

 二月のこのときに武田の命運を冷静に分析し、すべてを滅亡させぬ工作を采配していたのは龍芳ただ一人だった。もはや勝算がないと冷徹に判断できたのは、龍芳が信玄の次男だという非凡さゆえだろう。流す血は必要だが、死なずに済む者は次の世に逃すことが大事である。甲斐源氏は平安以降、幾度となく、そうやってしぶとく生き永らえたのだ。
 勝頼の血は諏訪のものである。ゆえに、このしぶとさが欠けていた。女も子供も巻き込もうとする残念な思考は、明らかに甲斐源氏のそれではなかった。
 
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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