第28話 松姫の夢②

文字数 1,168文字

 八王子で戦さ調練をしたいという長安の届け出に、江戸の組閣はどうしたものかと首を傾げた。八王子に揃う武田の旧臣をして、江戸の西方を担う軍事の必要性はある。いざというとき、将軍家が逃れる先は甲州である。八王子はその途中。将軍を迎え入れ、護衛し、あわよくば敵を攻め滅ぼす武威を示さねばならない。武田旧臣だからこその芸当だが、長い暇や代替わりにより、勘働きが鈍る者もいる。
「将軍家を守るためにて」
 長安の言葉は正論だ。
 が、当時の組閣で長安は煙たがられていた。将軍家を支える大久保忠隣は問題ないが、何かと反論したがる本多正純が曲者だ。すぐに駿府へ使いを出し、家康にこのことを知らせた。家康は思案の末、その調練を諸大名に観覧させるべしと決断した。
「無様なことをして儂に恥を掻かせるくらいなら、すぐに止めよ」
 そうとも聞こえる。
 しかし、長安はこれを挙行することとした。八王子に留まる武田旧臣は、戦さがない世にあって独自の武術調練を行なってきた。長安の指図である。武田の機動力と、攻撃力。それを向上させる工夫を、長安は試行していた。このことが、のちに徳川の軍制に画期的な革命をもたらす。そのお披露目の場を、演出したまでだ。
 江戸城の徳川秀忠は、大久保忠隣に不安を漏らした。
「派手にやれば、豊臣恩顧を刺激する」
「なんの。世は既に二世将軍のものにて、徳川は盤石なり」
「ううむ」
 大久保長安がどういう意図でこのことを挙行するのか、その真意を知る者は、少なくとも一部の者だけだろう。寄親の忠隣でさえ知らないし、調練に参ずる旧臣も知らない。
(祭りが大きければこそ、姫様のことを皆が忘れる)
 この騒ぎの間、信松尼が何をしようとも、誰に気づかれることではない。
「卜山和尚を訪ね、ついでに川口へ参る」
 これは生弌尼に関わることだろうと皆は理解した。これなら数日を要しようと誰も心配することはない。旧臣たちは調練の支度に追われて、それどころではなくなる。
 調練までの準備期間が二〇日、当日の諸大名対応に忙殺されることを思えば、八王子の誰もが、確実に、いっとき信松尼を忘れ去る。
 長安の策とは、この機に恵林寺へ行くというものだった。
 信松尼の御付侍女は五人。何れも旧臣の子女で武芸に長けている。上野の庵を管理する老婆も旧臣の母、口は堅い。御供の侍は甲斐より招けばよい。ただし途中で出迎えることになる。
 長安の示す道筋は郡内ではなく、小菅を経た山道だった。
「迎えの者どもは、風張峠近くに住む旧臣・岡部金之丞の屋敷にて姫様を迎えます」
 岡部金之丞は武田旧臣岡部氏の養子となった石黒金之丞である。風張峠は倉掛尾根の上にあり、その麓の藤原で岡部金之丞が信松尼を待つ手筈とした。
 そして、ある日。
 信松尼と侍女たちは姿を消した。このこと、気が付く者など誰もいなかったのである。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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