第9話 仏の手③

文字数 2,988文字

 五月になった。
 桜が散って大気が濃密になり、恩方の山間は薄着で過ごせるようになった。目の前を流れる川は冷たいが、痛むほどの辛いものではない。山女魚も取れるし、沢蟹もいる。随行家臣たちは山に入って、生きるための糧を求めた。その収穫のなかに紛れた葉は、松の関心に留まった。
「桑の葉よね」
 収穫したのは、郡内から一緒になった小宮山民部の妻だ。どこに桑があったかなど、記憶にもない。
「桑が、いかがされたのでしょうか」
「蚕がいれば、糸が紡げるでしょう。こうしていても食べる物には限りがある。糸を紡いで機織りして、売ればもっと食べる物も手に入るのでは」
 なるほど。でも、どうして松が桑の知識を持っていたのだろう。松は含み笑いしながら
「向嶽寺の庫裡には、甲州の文献が沢山あったでしょう。あの辺りは養蚕が盛んで、父上も好んで絹を用いたことを思い出したの」
 確かに、信玄は正室の打掛のため絹を求めていたという噂があった。そのことを小宮山民部の妻は思い出した。
「恐れ入りました」
「いえ、先ずは蚕を見つけましょう。葉っぱも沢山必要よ」
「はい」
 次の日から、松姫も山に入った。昨日歩いた道筋はこうだと、小宮山民部の妻は思い出すように歩いた。しかし、桑の木はみつからない。おかしいなと、小宮山民部の妻は首を傾げた。
「姫様、桑の木とは、どのようなものですか。私はよく知らないのです」
「うん、私も葉しか分からなくて、どういう木かは」
「ならば、金照庵の御住持様にお伺いした方が」
「そうですね」
 もと来た道を戻ろうとした、そのときである。
 ガサッ。
 木が揺れて、大きな影が動いた。松たちはその場に屈んだ。大きな影は、熊だった。黒い熊は、恩方の里に下りては悪さをするという。松はじっと睨んだまま、傍らの石に手を伸ばした。
「姫様!」
 小宮山民部の妻がその手を抑えた。こんな石で、何ができるというのだ。しかし松は、手を振りほどき、熊の尻に石を投げつけた。命中しなかった。熊は立ち止まり、ゆっくりと松をみて、起ちあがり吠えた。
「おぉぉぉぉぉぉ!」
 松も吠えた。熊は、怯んだ。里にいる人間は、熊を恐れて抵抗しない。が、この人間は抵抗する。熊は混乱した。こういうとき、逃げるか襲い掛かるか、熊は判断に迷い、思いも寄らぬ行動に出る。
 松は木っ端を拾い、種子島のように構えた。武田の人間なら、種子島をたくさん見ている。発砲の威力も知っている。武田がそうなのだから北条家でも種子島くらいある。その領内に棲息する熊は、種子島を知る様子だった。
「どぉぉぉぉん!」
 松が叫んだ。
 熊は、飛び跳ねた。襲い掛かろうと身体を伸ばした。威嚇して追い払うつもりだったが、熊は逃げようとしながら、真逆に襲い掛かる行動をとった。
「姫様!」
 小宮山民部の妻が悲鳴を上げた。
 ドォォォォン!
 銃声だ。本物の銃声が響いた。
 恩方は、八王子城の搦め手にあたる浄福寺城が設けられている。城といっても付城や砦のような規模だ。この浄福寺城は北条氏照の命で、金照庵にいる武田の落人の監視をしていたのだ。松姫が危ないと判断した兵が、発砲したのである。熊はあばら付近に着弾したが、即死に至らない。わらわらと五名ほどの北条の侍が山肌を駆け下りて、熊を取り囲んだ。
「お怪我はございませぬか」
 声をかけた武将は名のありそうな男だ。
「助かりました」
「いえ、松姫様に何事かあれば、陸奥守様の恥になりますゆえ」
 男は、大石播磨守定仲と名乗った。氏照の義理の弟にあたる。大石家は北条に逆らい南多摩のすべて奪われた一族だが、定仲は許されて八王子周辺の支城を管理していた。
「熊は」
「とどめを刺します」
「死体は金照庵に」
「は?」
「家臣たちの腹を膨らませたい。毛皮も重宝します」
「これは、しっかりされておられる。心得ました」
 たいした胆力だと、大石定仲は大笑いした。この日、金照庵は久しぶりの贅沢な鍋を囲んだ。住持は殺生をみて見ぬふりだ。戦国というものをよく知っている。
「姫様、もう危ない真似はお止めください」
「でも」
 桑の木の在処が、どうしても知りたかった。
「ならば、毛皮は浄福寺城に献じましょう。代わりに桑のことを伺えばよろしいかと」
 金丸四郎兵衛重次が提案した。
「四郎兵衛のいうとおりにしましょう」
 翌日、生乾きの皮を担いで、松と金丸重次を含む三人の従者は、浄福寺城に赴いた。大石定仲は不在だったが、代わりに近藤出羽守綱秀という人物と会った。近藤綱秀は八王子城の重臣で、巡検中、たまたま浄福寺城にいたという。
「陸奥守様から承っておりますが、いま少しご自重下され。北条領内とはいえ、事情を知らぬ無礼者もおりますゆえ、軽挙妄動はお慎みのほど」
「これは」
 松がその気になれば、小田原の北条氏政にさえ対等に接することだって出来るのだ。大石播磨守定仲などという格下の者に御礼などする必要はないのだと、近藤綱秀は慇懃ながらも感情を押し殺して諫めた。
「実は、桑の木を探していたのです」
「桑?」
「蚕を、ゆくゆくは機織りをして家臣の生業にさせようかと」
 ふと、近藤綱秀は歌を詠んだ。

    蚕かふ桑の都の青あらし
       市のかりやにさわくもろびと

「これは陸奥守様が滝山より移りしときに詠まれた歌です。蚕のことは、この地の産業にて、桑はどこにでもあるというもの。姫は、桑の木をご存じないのか」
「葉だけは絵で、似たものを、一葉だけ昨日みたのです。それで桑を探しに山へ入り、熊に出くわしたのです」
 成る程と、綱秀は頷いた。
「桑は蚕のためのものにて、このあたりでは河川敷近くに、林として植えているのです。苗も作っています。山桑は扱っておりませぬ。よってどこに生えているかなど、気にもしておりません」
「そんな」
「林のものは年貢として用いられるゆえ、分けて差し上げることは出来ません。しかし山で生えているのならば、当家も預かり知らぬことゆえ。このこと、重々お含み置き下さるよう」
 松は落胆した。
「ご懸念には及びますまい」
 甲斐でも峡東の者は蚕に関わる者が多い。そちらの出身者が手分けして山に入れればいいだろうと、金丸重次が宥めた。次の日から、手分けして山に入れる人数が増えた。と同時に、金照庵の周辺に不審者が徘徊するようになった。残党狩りかと、一同は緊張した。
 が。
 それは浄福寺城で松を見初めた若者たちだった。彼らは見目麗しい姫が、戦国の虎と恐れられた武田信玄の娘とは知らない。
 間違いがあっては困る故と、松は住持や家臣の諫めに応じ、金照庵に籠りて外出を控えることとした。桑の木は、すぐに見つかった。灯台下暗し、金照庵のすぐ裏手だった。三本も生えており、葉は新緑の季節を迎え青々としていた。
「ここから飛んだ葉が、紛れていたものかと」
 小宮山民部の妻が呟いた。
「蚕は、いませんでしたか」
「茶色い鳥の糞みたいな芋虫が」
「姫、それが蚕のちっこいのです。葉っぱ食わせれば、どんどん太くなるずら」
 虫を集め、葉を集め、古い筵の上にそれを広げた。繭になるまで、どんどん葉を食わせるのだと峡東の者が告げた。有難いことだと、松は峡東者を中心に蚕の世話を託した。
「糸を紡ぎ、反物にできれば、金にすることもできる。今はどんなことをしてでも生きる。いつか甲斐に還るその日まで、苦労を掛ける」
 松の言葉に、随行家臣たちは従った。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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