第1話 少女の季節

文字数 1,581文字


 少女の季節


 松姫という名は、縁起が秘められている。
 大戦さで勝ちを得たとき、父の背には松葉がそよいでいた。その松風の音が、心地よかった。これは戦さの神の宿る音。この戦さのなか、この日このときに生まれた娘は、女神のようなもの。
 父・武田信玄は川中島の痛手を、そう思い、拭い癒すことにした。
 川中島の戦いは、それほどの辛いものだった。失うものが多すぎた。とりわけ人材の損耗は、言葉にならない。
疵は、いつか癒える。
 しかし命は還ることはない。そのひとり一人に代わる才もない。
 戦国という世の、戦さの魔王と近隣を震え上がらせる武田信玄の根は、常に情愛に満ち溢れている。人が知らぬだけで、これほど優しい男は珍しい。合理性と柔軟性、人の器の鑑定に長け、どのような者にも合致する適材適所を見抜く才。戦国大名武田家を支えたのは、人間を知る信玄の人材登用術にある。それはまさに、世に無駄なしという慈愛ゆえの技といえよう。
「松は、武田家に吉を運んでくれるだろう」
 そういって赤子を抱く信玄の言葉は、心からの想いが込められていた。

 松姫。
 物心がついたとき、武田家は激動にあった。今川氏真の調略で、武田の次代を担う若い家臣が信玄に離反した。彼らは若殿・義信を担いで信玄の追放を目論んだのだ。この謀叛は失敗に終わった。信玄は期待する嫡男を幽閉しなければならず、義信も担がれた不甲斐なさで心労に倒れた。この事件の根底にあるのは、信玄が一方的に駿河との同盟を破ったのではない。今川家が信玄を排除し、義信を手懐け、やがては甲斐を奪うことを目したことが原因だった。
 松姫は兄である義信の顔を覚えていない。
 心なしか優しい人という印象がある。赤子の頃によく抱かれた記憶が、どこかに残されているのだろう。その優しい兄は、やがて帰らぬ人となった。
 武田家の後継者は、簡単に決められなかった。
 次男は盲目で出家の身。三男は上総国庁南武田家の養子となり、一国の主。四男は諏訪家の家督を継ぎ、五男はまだ信州仁科の家名を継いだばかりだった。悩んだ末に、信玄が選んだ後継者は四男・四郎勝頼だ。勝頼は気性が猛々しく一己の武将としてなら申し分ないが、一国の主としては器の欠けた男だった。信玄は勝頼の教育と、それを補佐する重臣を薫陶した。
 その頃、織田信長との盟約ができた。
 最初は勝頼の正室に、信長の養女がきた。養女は男子を生んだのちに早世した。織田信長にとって、信玄との縁は繋いでおきたいものである。嫡男の嫁に武田の姫をという要望に、信玄は頷いた。
「松の婿を決めたぞ」
 膝の上で聞かされたこのときのことを、松姫は生涯忘れていない。
 七歳の記憶である。

 そして、許嫁というだけのまま、武田家と織田家は和を失った。松姫は織田家へ行くことなく、この話は白紙にされた。
 武田信玄が軍勢を西へと動かし、天下を揺るがすほどの進撃の果てに、急な病で命を落とした。松姫にとっては大事な父を失ったことであり、目の前が真っ暗になるほどの衝撃でもあった。跡を継いだ勝頼との関係は、あまりよいものではなかった。
「同じ兄なら、五郎兄がいい」
 同腹の仁科五郎盛信は信玄に似て細やかな気配りのできる男である。家臣を大事にし、民から慕われる様は、まさしく信玄の素養そのものだった。松姫は仁科盛信のもとに居ついた。嫁に出させるという勝頼の勧告にも、兄の口を介して拒み続けた。
「父上ほどの男は、世に兄様くらいだけです」
 少女の人物鑑定は、適格だ。
 長篠で大敗ののち、武田家の屋台骨はすでに傾いていた。それを知りながら、戦勝だけで求心力を得ようと足掻く勝頼を諫める重臣はいなかった。この家の崩壊は、なるべきして起きた、ごく自然なものだろうと思う。松姫にとって、武田家は決して居心地の良いものではなくなっていた。
 天正一〇年、そのときは、突然訪れた。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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