第10話 仏の手④

文字数 1,881文字

 六月。
 梅雨の空は気が滅入る。が、それは曇天のせいではなかった。
「織田弾正忠が、死んだと?」
 松の乾いた声が心源院に響いた。朝早く卜山和尚に呼ばれ、聞いた言葉が、織田信長の死であった。それを耳にしたところで、どうという心の騒めきが生まれなかったのが、妙に不思議だった。
「和尚様、これで甲斐に戻れるということに」
「いや、むしろ惨いことになる」
「と、おっしゃると」
「甲斐が空き家になった。それを横取りする者たちの係争が始まるだろう。もう、武田の入り込む隙間などないということだ」
「よくわかりません」
「織田から奪い返すのではなく、火事場泥棒のように土地を奪い合う。もう甲斐は人の物となり、それを取り戻すことが出来ない、ということなのだ」
「わかりません、それから取り戻せばいいのでしょう」
「難しいことだ」
 それは勝手な理屈だ。
 松だって、卜山のいうことが分かる。亡国の姫とは、まさにこのことだ。しかし頭で分かったつもりでも、理性はそのことを拒絶している。生まれ育った元の国に戻るためならば、いかなる労苦を厭わぬ覚悟の松だ。信玄の娘として、血のなかに潜む虎の執念を滾らせて、何も可笑しいことなどない。奪い返す機があれば、それに転じてどうだというのだ。自分の物を取り返すことの何が悪い。この兇暴な感情もまた、紛れもない松の本性だった。
「若や姫の長じるまでは、慎まれたし」
 卜山は、松を強く諭した。
 松の感情は複雑だった。金照庵に戻っても、皆にどう伝えたらいいのだろう。その言葉の整理も出来なかった。それを洞察した卜山は、松に随従している家臣・志村大膳を呼び寄せて云い含めた。織田信長の死、甲斐は係争の地となること、彼もまた冷静に受け止められないまでも、それでも冷静な理性はあった。
「姫から上手に話は出来まい。そなたが金照庵の者たちに伝えるがよい」
 卜山の言葉は、残酷なまでに整然としたものだった。

 六月二日未明、京・本能寺。家臣に叛かれて、織田信長は灰燼に帰した。信忠はこのとき二条城にいたが、抗しきれず、討ち果たされた。家臣の恨みはむしろ信忠にこそあったと囁かれた。甲州征伐での非道のふるまい、無道なる家臣への為され様。これを討たねばという正義感からだ。信長に感謝こそすれ、恨みはない。しかし信忠を討つからには、ただで済まされぬ。信長は巻き添えのようなものだった。
 一己の才能である織田信長。
 その一己が欠けただけで、世の中のあらゆるモノの均衡が狂った。その狂ったものは、下剋上の限りを拡販させた。正は邪を討ち、邪は正を食らう。この混沌の中で、武田家再生の機は失われていた。
 もしも勝頼が上州にいたならば、このときに反撃へ転じる可能性もあっただろう。しかし、勝頼は判断を誤った。勝頼を見捨てた武田の係累も、残党狩りで既に多くが世を去った。武田の血が濃い穴山梅雪さえも、信長の死による世の混沌で横死した。行方の知らぬ龍芳の子は幼すぎた。
 松が、もっとも年長だった。
 その松の号令で、果たしてどれほどの武田武士が集うというのか。その修羅場に雄々しく立ったところで、戦さを知らぬ松を果たして支えられる者がいるというものか。呼び掛けたところで、結果はみえている。誰もが武田のない世をどう処するものかと、じっと考え、慎重な決断をするだろう。信玄あってこその武田、信玄なき武田に託すものはない。
 無謀だ。戦さは殺しの連鎖である。緒戦を制し、雪辱に臨む者を返り討ちとし、人を従わせるための鬼になってみせ、畏怖させてから仏の慈悲をちらつかせる。このこと、松が負える荷ではなかった。
 かといって、幼い男子を担いで足りることではない。
 武田はおわった。
 織田を討って国を取り戻すという悲願は、消えた。
 武田を心の支えとした旧臣が生きる道は、信玄のもとで見た夢を、代わりに託せる大将のもとで励むことだけだった。甲斐は、四境を強大な大名に囲まれていた。その何れに属して、いつかは甲斐に還れるときを夢とする。ただそれだけだった。
 徳川家康はこのとき、多くの武田旧臣に呼び掛けていた。甲州征伐時点で、信長や信忠の目を盗んで匿っていた。そのことで人望が高かった。上杉景勝のもとには、嫁いだ松の妹・菊がいる。同腹の弟もいる。川中島周辺の武田旧臣は、上杉に信望を寄せた。北条氏政とて、西上野や郡内を慰撫した。信玄の恐ろしさをいちばん知る北条こそが、武田の領土と人材の値打ちを知っていた。氏照の掌中には松を中心とした武田旧臣がいる。これを絶対に手放すことは出来ない。
 松は北条の傘の下で生きるしかなかった。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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