第4話 男の屁理屈①

文字数 3,270文字

 男の屁理屈


 二月一五日、松姫たちは塩山の向嶽寺にいた。
 龍芳の采配は見事だ。松姫を武蔵国に逃すため、まるで縦糸横糸を紡ぐように緻密な根回しを方々に行い、まるで一本の道筋のように仕立てている。
 向嶽寺と武州恩方の卜山和尚は連携をしていた。卜山は朝廷の覚えもめでたく、八王子城の北条氏照も師事している。この卜山の庇護を得られたならば、武蔵国に逃れても当面の安泰を得られる。
 このとき龍芳の指図で、氏照に対し武田からの人材が流れることを告げ、その安泰を約す工作を負っていたのが郡内の小山田信茂だった。一朝一夕のことではない、かなり以前から、龍芳はこうなることを予見していたのだろう。
 甲斐国境の街道は防備の要である。四境を山で囲まれる甲斐にとって、街道は重要な関門である。その関門を任される者たちは、龍芳の指図で、次々と向嶽寺に馳せ参じた。彼らにとって、勝頼よりも松姫を守ることが重要だった。これこそ甲州人の根底だ。信玄を神と敬う彼らにとって、勝頼は頼りなき大将でしかない。それよりも信玄の姫の方が、どれだけ尊い存在か。
「御聖道様の指図にて、こののちは姫の身辺を守りたまうものにて」
 彼らの忠義は、すべて父ありきだと、松姫は感謝を言葉にした。それでも実感はまだない。甲斐を逃れねばならぬほどの事態なのか、戦火の臭いもない国中にあって、松は、まだ他人事である。

 この日、南信州飯田領に織田信忠率いる軍勢が攻め入った。すでに抵抗する者もなく、武田の支配色はたちまき消え失せた。ただし背信した彼らにも云い分はある。もともと山を隔てた東美濃と南信濃は民衆の交易も盛んで、一種の生活圏であった。遥か彼方の甲斐よりも情が深い。戦わずして門を開くのは道理だった。
 戦わずして逃げたのは、土地の者だけではない。
 南信州に出張った武田親族衆や重臣が、戦わずして城を捨てたというのである。降伏できぬ、戦う気力もない、これが今の武田武士であるかと、織田信忠は嘲笑った。
 仁科盛信はそのことを、よくよく確認をした。が、残念なことに、それは事実だった。
「五郎、儂じゃ」
 武田逍遥軒信綱が高遠城まで落ちてきた。逍遥軒は信玄の弟で、盛信の叔父にあたる。容貌が似ているため、信玄の影武者をしたこともあった。似た要望で、この体たらく、盛信は腹が立って仕方ない。
「城を開けよ。腹が減った」
 その図々しい口上に、盛信は大手門の上に立って叔父を見下ろした。
「立ち去れ」
 盛信は激昂した。
「これは戦うための城であり、逃げ帰った者に食わせる兵糧などない。領民の心込めた糧を、腰抜けに食わせたりしない」
「腰抜けとは無礼なことを!」
「敵の姿も見ずに逃げるのを腰抜けといわぬなら、卑怯者か」
「理由がある」
「聞く耳持ちませぬ。城を枕に討ち死にしてみせてこそ、武田武士である」
「とにかく、水だけでも」
「鉄砲隊、前へ」
 盛信の指図で、鉄砲一〇挺が門の上に並んだ。脅しではない。そう悟った逍遥軒は、空腹を抱えて杖突峠を目指した。このような大将がいたのでは、南信州がそっくり織田へ寝返ることは想像に易い。
「高遠城は徹底抗戦をする。無理強いはしない、また臆病者も無用。儂とともに死ぬる気概のない者は、いまのうちに城を去れ。責めはせぬぞ」
 盛信の声に、城兵は誰一人欠けなかった。足軽雑兵に至るまで、盛信と運目を共にする覚悟を決めた。盛信と死ねることを、むしろ無上の喜びだと、彼らは強く心していた。忠義などという安いものではない、戦国の理は、泰平の世の物差しで計り知れぬ信念の世界である。伊那谷で唯一、まことの武田の戦さを決意した城となった。このことは、のちに南信州に伝播した。
「ああいう殿様が飯田にいたのなら、われらも武田を信頼できたのにな」
 南信州の豪族たちの本音だ。頼りにならぬ殿様がいたから、それを見捨てた。それが正当な理由であり、真実だった。
 高遠城だけが徹底抗戦の構えを取っているという風聞に、織田信忠は首を傾げた。
「高遠の城主は、どういう者か」
 信忠は飯田周辺の振将を集め、質した。仁科五郎盛信はその他の武田一族と異なり、信玄以来の教えを忠実に守り、文武に長じ民政にも秀でているのだと、松尾城主・小笠原信嶺が答えた。
「戦えば、甚大な被害になるものかと。信玄入道の戦さを若い倅が成すならば、恐ろしいことになります。決して油断はできませぬ」
 傍らの森長可が具申した。父・可成は生前、高野口神箆城にて、織田唯一の信玄との直接戦闘を行ったことがある。武田の強さ恐ろしさは、幼かった長可の記憶にもしっかりと刻まれていた。
「信じられぬ」
 信玄の恐怖を知らぬ世代にとって、それは年寄が口にする誇張でしかない。
「数に勝れば、武田などどうということもあるまい」
「いや、かつて川中島では数に劣るなか上杉謙信と渡り合ったと聞いておりますぞ。謙信入道の恐ろしさは、まだ記憶に新しいところにて、どうか侮ることは自重されたく」
「聞く耳はもたぬ」
 森長可は慎重論を口にしたが、とうとう信忠は我を通した。まずは降伏した南信濃勢を前面に立て、進軍すべしと、信忠は決断した。
「されば、調略も併せて」
と、滝川一益が進言した。一益も森長可の意見を理解していたが、こうなったら覆るものではない。調略を用いるのは、被害を少なくするためだ。
「好きにしろ」
「は」
 仮に調略に応じたとて、信忠は武田の一族を許すつもりなどない。皆殺しをするまでだと、出陣前から息巻く心中に変わりはない。籠城戦で本気の武田勢と戦うよりは、降伏者を殺す方がよほどマシだと、長可は首を振った。
 そのころ、高遠城ではきたる籠城戦への備えを急いでいた。飯田まで織田勢がきたことは、翌日には知るところである。
「新府の御使いは、無事に甲州入りしたかな」
 仁科盛信は城の縄張を巡検しながら、同行する相備衆の小山田備中守昌成に呟いた。小山田昌成は盛信の副将でもある。将器は若い盛信以上とされる人物だ。
「ここは一兵でも敵を削るための死地。子供には無縁の場でござる」
「すまぬな、我が子ならば真っ先に死んでみせねばならぬのに」
「死ぬのは大人だけでよいのです」
 勝頼正室の使いが高遠城に来たのは十日前。松姫に貞姫を託し、安全な場へ逃すよう託したという。そのうえで、盛信の子を早く甲州に逃せと、盛信は承った。
「そなたが同意しなければ、勝五郎を逃すことはなかった」
「若を生かさずして、この籠城の救いがござろうか。生きてこそ、でござる」
 小山田昌成は仁科の血を次の世に残すことこそ大事なのだと、呟いた。そうやって、渋る盛信を説得した。だから、盛信は勝千代を逃すことに応じた。あとのことは勝頼の正室がよき様にしてくれるだろう。
 高遠城の士気は高かった。
 全滅を覚悟した城であるが、一兵たりとも臆する空気はない。軽輩にいたるまで仁科盛信は信頼されていたし、殿様が褒めてくれるなら喜んで死ねる。それが、すべての兵の真意であった。
「立派に死んだら、成仏した先で、よくやったと殿様に褒めてもらいてえもんだ」
 こういう士気にある城兵は、一枚岩だ。南信州で生じた、人間雪崩の起きる気配が高遠には些かもない。
「兵糧は、どんどん運びましょうぞ」
 百姓どもも、己の食い扶持を割いてまで城に提供した。仁科の殿様が命がけならば、百姓も支えてみしょうという声が大きかった。どうせ敵が攻め寄せれば、ありとあらゆる物が乱取りされるだろう。ならば、高遠城に差出す方が、どれほど有意義か。
 この時期、これほど領民の信頼を得た武田の一族衆はない。
 逃れた勝千代は新府城に赴き、勝頼正室の指図で松姫と合流した。従者ともども向嶽寺に入った勝千代は、そこで松姫と対面した。
「ようきたな」
微笑む松姫を見上げた勝千代は
「父に代わりて、叔母上を支えます」
と、気丈な言葉を述べた。
「そなたは身体が弱いのだから、無理をしたらいけませぬぞ」
「はい」
 勝千代が松のもとに着いたのが二月一九日。
 この日、勝頼正室は武田八幡宮へ願文を納めて戦勝祈願をした。

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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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