第30話 松姫の夢④(終)

文字数 2,132文字

 恵林寺の滞在はわずかに一刻、向嶽寺に至っては半刻にも満たない。
「どうかお泊まりを願いてえもだぁ」
 旧臣の想いは染みるほど理解できる。が、信玄の墓参が適ったからには、大久保長安を困らせる訳にはいかない。皆々に手を振り、誰もが涙を流して合掌した。こうして、信松尼はふたたび荻原路を急ぐこととなった。
「暫く」
 小倉山の麓で、馬の一団がやってきた。墨衣の若者がいる。
「お久しゅう、叔母上」
「顕了か」
「はい」
 僧は顕了道快。信松尼の兄・龍芳の息子である。武田が滅ぶとき、信松尼たちに向嶽寺へ赴くよう龍芳は指図した。そのとき顕了は若き日の大久保長安に伴われ、信州に潜伏していた。だから信松尼の知る顕了はまさしく少年の面影であり、すっかり長じた姿は想像も出来なかった。
「おまん、立派になったな。父上がおられたら、どんなにか頼りとしつら」
「叔母上こそ、いっさら歳を取りません」
「世辞もうまくなったな」
 信松尼は胸がいっぱいだった。ああ、これで思い残すことはない。
「石見守は祖父様の遺徳を偲ぶ武者揃えを考ぇてるそうな。孫子の旗も新調しておる。叔母上も、またお出でください」
「心得た」
 ほんの、ひとときのことだ。しかし、最後の最後に、武田の血を継ぐまことの後継者に会えたことは、御仏の御導きに違いない。信松尼一行が見えなくなるまで、顕了一行も、じっと見送るのであった。今宵も、大菩薩の峠に枕を並べる。屈強な男たちは顕了に代わり、最後まで信松尼を送り届けることに全力を傾けた。
 二日後。岡部金之丞の屋敷に至った。ここで甲斐の男たちとはお別れである。
「お前たちのおかげじゃ」
 信松尼の言葉に、男たちは咽び泣いた。
 翌朝、岡部金之丞は牛を曳いて信松尼を運んだ。来た時と同じだ。男たちは見えなくなるまで見送り続けた。岡部金之丞は沢戸まで信松尼を連れて行った。
「おさらばです」
「世話になった」
 信松尼は手鏡を岡部金之丞に渡した。
「またいつか、旅をするときに必要じゃ。お前に預かってもらおう」
「大事に預かります」
 信松尼と侍女たちは川口に至り泊まった。
「侍女のひとりが熱を出して往生した。往生したでや」
 そういう云い訳も無用なほど、調練の慌ただしさで誰もが信松尼の不在に気付いていなかった。さすがは大久保長安であると、信松尼はその奸知に舌を出して、笑った。

 大久保長安は翌年、死んだ。
 甲州で用意していた武者揃えは謀叛の支度とされ、長安縁者や婚家や係累、人間関係の津々浦々に至るまで、連座として裁かれた。顕了も例外でない。
「むごい話ではないか」
 信松尼は徳川の世の薄情さに、ほとほと嫌気を覚えた。
 豊臣家との大戦さは、本当の意味で戦国の終わりを彩った。これよりは偃武の世と、家康はいう。その偃武とともに、徳川家康はこの世を去った。

 信松尼は思う。
 生々流転という言葉は、近頃目にした書物で知った。お題は、忘れた。意味はどうあれ、漢字の響きが妙に心へ残った。
「生きてこそ」
 あの日、仁科盛信が口にした言葉が、近ごろは鮮明に思い出せる。
 生々流転。
 すべての物は絶えず生まれては変化し、移り変わっていく。
「私は、なにが変わったのだろう」
 良くも悪くも人は変わる。信松尼はどう変わったのだろうか。それとも変わることなく刻だけが通り過ぎただけか。変わることのない身も一興であり、不自然を笑い飛ばせば、それだけのことではないか。
 しかし不自然とは、何かに取り残されたような寂しささえあった。
「生きてこそ」
 信松尼は、生きた。生き抜いた。その生命力に任せて生き続けた。
「生きた先に、何があったのだろうか」
 もう甲斐に帰ることはない。取り戻すこともない。亡国の姫と呼ばれる程の若ささえ残されていない。
「のう、兄上」
 生きたことで世に為したものは、何があったのだろうか。問いかけたところで、虚空の闇に応える者はない。武田信玄の娘として生まれた松が、生きてやるべきことは何だったのだろう。出来たことは、いったい。
「考えても、分からなくなったわ」
 諦めではない。
 たかが人間のできること、大それたことなどないだろう。
 ただ生きるだけで、尊いのではあるまいか。ただ、それだけで、尊いのだろう。
「そうか」
 ゆえに、人は生きるのだ。
 生きてこそと繰り返す信松尼の表情は、少女のようにも映った。少女の微笑みに似た瞳の力は、生きる力に溢れていた。その力に救われた武田旧臣も多かった。生きていることは、理由などない。しかし誰にも意味はある。
 信松尼がそのことを知らずとも、理に従い、生々流転されていく。

 信松尼が世を去ったのも、その頃だ。
 八王子の武田旧臣にとって心の拠り所だった信松尼の骸は、庵の傍に葬られた。旧臣たちにより、庵は菩提寺となった。
 信松院。
 旧臣たちは八王子で生きていく標として、信松尼の菩提寺を信仰し遺徳を偲んだ。豊臣の終わりによる元和偃武、戦国は遠き過去のものとなり、旧臣も代を重ねた。
 それでも武田という家に従った誇りは、子々孫々までのものだった。
 徳川三〇〇年を通じ、やがて幕府がおわるその日まで。
 信松尼は、揺るぎなく彼らの女神だった。


                              了
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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