第29話 松姫の夢③

文字数 1,920文字

 かつて、信松尼が松姫様と呼ばれていた昔、武田家の逆転びを支えようとした者がいた。郡内谷村の小山田信茂である。武田勝頼はあらゆる段取りを無視した挙句、行き詰まりに迷い込んで滅亡した。段取りに沿った者は、武田の縁者であろうと家臣であろうと、誰もが郡内を無事に通過して、落ちるべき先に逃れることが出来た。事実、信松尼も塩山の向嶽寺から郡内に至り恩方へと逃れた。小山田信茂には感謝の言葉しかない。
 しかし、誰が云い出したものか
「小山田が御館を封鎖し、裏切ったから武田は絶えた」
という声が蔓延した。信松尼には、気の毒だという言葉しかない。死人に口なしというが、心やましい輩が己を取り繕うときは、常に逝った先人を冒涜するものだ。上州落ちを郡内へと、勝手に行先を変えた勝頼と家老たちの身勝手に、むしろ振り回された小山田信茂こそ災難といえよう。信松尼はそれをよく覚えていた。
 信松尼一行は川口川沿いの道を沢戸に向け進んだ。そして山を一つ越えて、秋川に沿った道を奥へと向かった。ここはかつて北条支配の平山一族が治めた地で、左に仰ぐ異様な景観の山を
「城山じゃ」
と土地の者はいう。秋川は幾つも分岐し、かつての桧原城があった山の麓に岡部金之丞が待っていた。
「藤原ではえらいので、牛でよけりゃあ、姫様をお載せ出来る」
 久しぶりに聞く甲州訛りに、信松尼は頬を緩ませた。
「牛の背に乗るなあ難しそうだ」
 つい、甲州の言葉が口に出た。
「筵を重ねて座ってくれんけ」
「気の利くこんだ」
 信松尼は岡部金之丞に担がれて、牛の背に乗った。生暖かいが、思うより揺れはない。牛に引かれて、一行は歩いた。山は日の入りが早く、藤原につく頃は真っ暗だった。岡部金之丞がいなければ、往生したことだろう。岡部の家には甲州から来たという屈強な男たちが一〇名ほどいた。大久保長安の手配で参じた彼らは、かつて御聖道衆と呼ばれた家臣団の子供たちだ。いまは長延寺の顕了に仕えている。
「住持様から、姫さまへ」
「おう」
 顕了は信松尼のために手鏡を用意していた。叔母に対する心遣いである。
「坊は、息災か」
「石見殿の計らいで、なに不自由なく」
「それはよい」
 夜が明けると、男たちは女たちを背負い、一気に風張峠をめざして尾根を登った。そこから倉掛の山を抜け、峠に出で
「ここからは一気に駆けていきます」
 起伏を重ねてみるみると標高を上げていく尾根道を交替しながら、女たちを担いだ男たちを先頭に、一団が駆け抜けていく。夕刻には大菩薩峠にいた。窪んだ平地は、賽の河原とも称される。風音が乾いて、どこか物悲しい。
「こん峠を下れば、もう国中です」
「くんなか、か……」
 信松尼の記憶にある甲斐の思い出は、とおい昔のものだ。
 天正一〇年の悪夢のときに訊ねた向嶽寺が、国中最後の安住の思い出だった。恵林寺に近いこの寺にも足を運びたいものだ。信松尼は少女のような笑みを浮かべた。

 荻原路は甲州と小河内を結ぶ。これが、大久保長安の指導で開発された成木からの石灰輸送路とうまくつながり、武田の時代よりも山道は踏み固められていた。整備されたわけではないが、人の往還が多ければ石積みで補修される場所もできる。元来、甲州人は土木に長ける技術者が多く、これも武田信玄の遺徳を偲ぶ一因となる。
 恵林寺。
 山門は新しく建て直され、信松尼の記憶とはやや異なる。ここで快川禅師をはじめ多くの学僧が生きたまま焼き殺された。世間では織田信長の仕業というが、やったのは子の信忠。本来ならば信松尼の夫となるべき男である。
 顔も知らぬ許嫁。幼くして定められた運命は成就されることもなく、武田が滅んだ僅か三か月後の本能寺の変のときに、二条の城にいた信忠は明智の精兵に討ち果たされたという。甲州では、これを天罰と蔑んだ。
「新しい山門とは、ありがたいことだ」
 信松尼の言葉には湿った体温はない。すべては、むかしのことだ。
 武田信玄の墓所は境内の裏の庭園に接している。まだ石と積んだだけのもので、宝篋印塔や五輪塔はない。これらは後年、信玄百年忌で設けられるもので、このときはまだ恵林寺も損傷著しい。戦国の名残が残されていた。
「姫様だ」
 あれほど騒ぎにさせぬと大久保長安は口にしていたのに、甲斐のあちらこちらから、松姫様お越しと聞きつけた旧臣たちが集まってきたのだ。甲府代官所に見つかれば面倒だと、岡部金之丞は呟いた。
「姫さまがくるこん、我らは隠語で話すから分かりっこねえ」
 松姫のことは新館御寮人と呼ばれた時期がある。だから新館といえば、誰にも分かる筈はない。ましてや敬称を敢えて外せば、武田の縁者と誰が思うものか。
「かんがえたもだぁ」
 信松尼の甲州言葉に、皆は喝采した。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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