第17話 滅びゆく北条③

文字数 2,503文字

 秀吉が小田原征伐を決したのは天正一七年(1589)一一月。陣触れは翌年正月、北条氏政は関東全土でこれに備える総力戦を沙汰した。氏政の士気は高かった。負ける不安は微塵もない。
 北条氏照は城代にすべてを任せ、小田原城に着陣した。
 八王子城は堅固な要塞である。その城域に取り込まれるような心源院は、戦さに巻き込まれてもおかしくない。信松尼たちを遠ざけた卜山の意図は、この絶対要塞がどうなるかを見越した措置だった。
 卜山は上方をしる。
 氏政はしらない。
 このことが、今度の合戦を大きく左右した。

 天正一八年(1590)六月二二日。
 鬨の声が大空まで響いた。豊臣秀吉は天下人であるということくらい、信松尼たちにも理解できる。その天下人が動員する軍勢が幾十万であることも数カ月前に知った。総てでないにしろ、その大軍が八王子城へ押し寄せることは想像に易い。
「我らは北条の庇護こそあれ、仕官したものではない」
 中立であるよう、信松尼は男たちを強く諫めた。今は生きることこそ大義だった。卜山が金照庵に去れというのは、こういうことなのだ。そのために最善を尽くせと、信松尼は説いた。
 この日、八王子城に豊臣勢一万五千が迫りつつあった。直接の戦闘は未だない。しかし、主要の城郭を取り巻く支城はこのとき制圧されつつあった。八王子城を預かる者たちは、氏照から抗うことだけ仰せつかっていた。降伏する意思はない。
「この城は信玄入道が生きていた時に抗するため縄張りした山城である。拵えは安土城の構造を模倣し、決して落ちることのない砦である。上方の者に負ける筈はない、各々方、奮え!」
 城代・横地監物吉信の言葉は覇気に溢れていた。
 北条一族最強を自負する八王子城の兵たちは、降伏勧告の使者に愕然となる。松井田城主・大道寺政繁、鉢形城主・北条氏邦、一門や御由緒衆の言葉と思えぬ様に、横地監物吉信は不甲斐なしとこれを罵倒した。
「これまでの敵とは異なる、生きてこそのことと、同朋に訴えたり」
 北条氏邦の言葉は、戦闘の末の現実を悟った重みがある。その重みは、戦っていない誰にも響かなかった。横地監物吉信は毅然という。
「氏照の御墨付を以て当城明け渡すべしと下知なき間に、何人のすすめ給うとも降参すべからず」
 説得は不可能だった。
 夜、前田利家・上杉景勝・真田昌幸を中心とした軍勢は、周辺を囲む布陣で八王子城を睨んだ。案下方面に進出した上杉勢は、当然のように金照庵を巡検し、信松尼たちを捕えた。浄福寺城を攻め落とした上杉景勝は、松姫の存在を耳にし
「室の姉ならば、断じて粗略なかれ」
と語尾を荒げた。直江兼続が取次し、真田家に確認の使いが走った。真田昌幸は河越に真行尼がいることを確認していたが、松姫生存まではいままで知らずにいた。失礼がないよう、嫡男・信幸を差し向けた。
「これは、松姫様!」
 真田信幸は新府城で遠目に御覧したことがある。見間違えることはない。
「真田安房守の嫡男・源三郎です」
 恭しく傅く信幸に、信松尼は顔を綻ばせ
「上杉の兵は融通が利かぬ。家臣たちの縛を解いて欲しい」
「承知しました」
 上杉勢の武将のもとには直江兼続からの伝令が届いている。急いで皆の縄を解いた。侍女たちのなかへ紛れ込ませていた小督は、慌てて信松尼にしがみついた。小督はもはや一一歳、病弱ゆえ更に幼くみえる。
「五郎兄の姫じゃ」
「は」
 真田信幸は上杉の者に、信松尼一行の身元を言上した。本陣へお連れしようという誘いに、信松尼は無用と云い切った。
「我らは仏徒なり。師である卜山和尚がこの寺に留まれと指図するからには、絶対に動くことなし」
 このことは上杉本陣に伝わった。
「大きな合戦の前のこと、されば見過ごしてよい」
 上杉景勝の一喝で、信松尼たちは召し放たれた。しかし、ここは戦場に近い。真田信幸はそのことを懸念した。
「我らは陸奥守様に庇護受けし者にて、北条の攻め手に守られる謂われなし」
「しかし」
「ゆえに、我らはどちらにも加勢せず」
 清々しい程の道理だ。信幸も引き下がるしかない。帰陣ののち、信幸は昌幸へこのことを報じた。真田昌幸は愉快そうに笑った。
「松姫様が男子ならば、きっと武田の御大将となられたことだろう。数多の者は、誰もが姫の気性に敬服したのだ。お変わりがなくて何よりのことじゃ」
 昌幸は忍びを選り、影として松姫の護衛とした。城が落ちるまでの任である。
 この深夜より、軍事行動は始まった。
 ダーン、ダダーーン。敵味方の銃声が濃霧のなかで響いた。明け方になると、恩方の山からも城の黒煙が狭い空に浮かび上がった。昼前にはおおよその戦闘が終わったものか、銃声はほぼ無くなった。
「城は落ちたのでしょうか」
 馬場刑部は恐るおそる呟いた。八王子城の中を知らずとも、その規模からどれほどの要塞であるか、武田旧臣なら察しが付く。こんな短時間で陥落するとは、信じがたい。
 そのときだ。
「み……水を」
 乾いた声がした。真田の忍びが去ったあとだから、この落ち武者は見過ごされたようだ。その満身創痍の武将は、横地監物吉信だ。
「あ……貴女様は、武田の松姫様か」
「どなたか?」
「八王子城代・横地監物」
「城は、どうされたか」
「落ちました」
「落ちた?」
 怪訝そうに、信松尼は随行家臣団をちらとみた。彼らも信じがたい表情を浮かべた。
「大事な水を、ありがとう」
 干した椀を小督に差出し、横地監物吉信は微笑んだ。
「これからどうされるのか」
「この案下より笹尾根を登り、小河内へ赴き再起をはかる所存」
 信松尼は何もいわず、黙ってこれを見送った。
 彼の血まみれの背中は、八年前の武田家と同じように感じてならなかった。逃れる者、意地を張る者、武士の生き方はどれにも正しいものはない。ただ生きてさえいれば、運命はどうとでもひっくり返るものだ。もしも勝頼が上州で三ケ月堪えれば、本能寺の変で運命が変わったかも知れない。生きてこそだ。
「城代ならば、城とともに討たれるべきだろうに」
 誰かのつぶやきに、信松尼は、違うと強い口調で制した。
「生きていたら、恥辱はいくらでも……その執念こそ尊い」
 信松尼の言葉に、誰もが項垂れた。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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