第27話 松姫の夢①

文字数 1,811文字

 松姫の夢


 信松尼は、ふと思う。髪を下した時間が、人生の多くを占めたこと。あれから、もう四半世紀ほどの刻が過ぎる。
 天正一〇年の悪夢。
 信松尼はそう説き、彼女を頼り八王子に流れてきた旧臣たちも、自然とそう呼んだ。あの年は、まるで絵巻物でも観るかのように、変転に継ぐ変転、多難をさらに重ねる多難。まるで天の神が何事かをひっくり返して、ぜんぶ並べ替えようと癇癪を起したのではあるまいかとさえ、信松尼は思う。
「死ぬまでに一度は、甲斐に赴き父の墓前に焼香を手向けたい」
 もう、その繰り言は幾度呟いたことだろう。
 八王子の陣屋へは、これまでも信松尼の願いを叶えたまえという訴えがあった。その一々は、幕府の重責にある大久保長安に届けられた。
「なんとか、なりますまいか」
 取り次ぐ先は、徳川家康だった。
「ならぬ、ならぬぞ」
 家康は決して応じなかった。
「あまり旧臣の不満を抑え込むことにしたくはござらぬ」
「あの者どもが結束したら、厄介」
「私が采配しましょう。幕府に仇なすこと、世の為にならぬと諭しますゆえ」
「なおさら認めぬ」
 家康は、引いては大久保長安こそ睨んでいるのだと、態度で示した。長安も自覚している。天下の傲り者よと、幕府の内外からも陰口を耳にする。しかし、長安の手腕なくして徳川は天下を取ることは出来なかった。人材も技も仕組みも、金がなければ形にもならない。大久保長安は家康に財をもたらす福の神だ。しかし、過ぎる存在は疎まれることとなる、江戸に幕府ができたいま、長安は出過ぎた杭だった。
 信松尼の望む父の墓参。父とは、戦国の魔物と四境を震え上がらせた武田信玄であり、その旧臣は三河徳川家を震え上がらせた武田の家臣団。長安もまた、武田信玄に才を見出された者である。
「結束されたら厄介」
 家康には懸念がある。
 天下取りのため、家康は武田の旧臣を多く迎えた。これを抱える理由は、戦力向上のほか、他所に仕官させない意図もある。抱えすぎた武田旧臣をもてあそぶのは、現実だ。そのため家康に不満を持つ者もいる。
 武田家の旧臣が信松尼を慕い甲州墓参に参じれば、不平の声がきっと挙がる。もしも徳川に叛意を抱き、豊臣と結びついたらなんとするか。きっと大ごとになる。関ヶ原の後に紀州九度山へ幽閉している真田家とて、元は武田旧臣。楽観視はできない。そして大久保長安がこれに呼応したら、幕府の存亡にもかかわる。
 一堂に会すこと、断じて能わず。
 そのこと、長安は八王子に伝えた。
「石見も大したことないのう」
 天下を取ろうと分不相応の野心を抱えていた頃の長安は、もっとギラギラしていた。今は脂が抜けたように、どこか冴えない。
 信松尼は、それで断念するような物分かりのいい女ではない。父親によく似た、実に頑固な性分である。長安もまた、それを十分に理解している。ゆえに、どう折り合うべきかと葛藤していた。
「板挟みだわ」
 大久保長安は苦笑交じりに呟いた。

 大久保長安が八王子の陣屋に来る日、信松尼は単身訪れた。
「やはり御出でなされましたか」
 長安は予見していた。そのための用意もしていた。信松尼からの訴えに、長安の出す提案は意外なものだった。
「限られた供で山を越えるなら、こっそりと赴くのがよいのでしょうな」
「まるで、抜け荷じゃ」
「そのとおりです」
 信松尼は、面白いと笑った。
 信松尼と世話人だけで荻原路を越えるというのは、危険このうえない。達成したのちに露見すれば、それなりのお咎めもある。その覚悟くらい、信松尼にはあった。
「このこと、一度きりの火遊びと思召せ」
「勿論じゃ」
「あとひとつ、ご懸念が」
 何より信松尼自ら、足腰が達者か問われる。大勢で押し渡ればすぐに露見する。人に悟られぬということは、味方をも欺くこと。それで信望を損なうことは無念である。 
「見くびるものではない」
 信松尼は健脚だ。いまでも心源院や陣場山、川口にも歩いていく。山でもどうということはない。大菩薩の嶺とて、どうというものではなかった。また、少しくらいの戯れで人心が離れるくらいなら、武田旧臣はとっくに結束を解いている。
「されば、一計ござる」
「うけたまわろう」
 この策、やってやれぬものではない。
 信松尼は乗った。口の堅い供の選出と、残される者をいかに欺くか。それだけが問題だ。しかし、この状況をどこかで楽しんでいるのだろう。信松尼の表情は明るい。大久保長安は眩しそうに、それを眺めた。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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