第18話 滅びゆく北条④

文字数 1,332文字

 八王子城が陥落した日、真田昌幸が挨拶に来た。
「四郎兄がもうすこし利口だったらと思います」
 信松尼の唇裂な言葉に、昌幸は力及ばぬ様を詫びた。
「如何でしょう、姫様を信州上田にてお迎えしますが」
「結構、私は仏徒ゆえ卜山和尚の許しがあるまでここに待つ」
「心得ました。されば、御用のときは、いつでもこの安房守を頼って下され」
 信松尼は黙って頷いた。
 卜山和尚は牛頭山に難を逃れていた。すぐに金照庵に現れ、もう出てきていいと笑った。しかし八王子城下は灰燼に帰し、心源院も焼けていた。
「暫くはここで雨風を凌いで、時期を見て山を降りるがよかろう」
 卜山は戦国の凄惨さをよく知っている。今度のことは格別だとも云った。信松尼をここへ逃して正解だったと呟いた。
 卜山は暫く小津に赴き庵を結ぶという。信松尼も、麓に降りて金照庵に代わる庵を探すこととした。八王子城下は前田利家家臣・川島右近が復興奉行として占領地の采配を任されていた。右近は地の利に敏い長田作左衛門を登用し復興の要として用いた。氏照の家臣だった長田作左衛門は、元を辿れば都留群西原の出身である。つまりは武田旧臣だ。長田作左衛門は新たな町場として、横山を開発することを提案した。
「横山を街場とする理由は?」
 川島右近は地理に疎い。分かるように説明せよと告げた。
「横山はかつて鎌倉への往還だったこと、これは荷駄交易に敏い証です。また、浅川を用いた水利と荷駄の拠点としてこの平地を望むことは、戦さとは別の観点で見れば極めて自然であるものかと」
「道理じゃ」
 川島右近はこれを承認した。山城の麓ではこれからの世は駄目だという長田作左衛門の理念は、武田家滅亡後の諸国遍歴で学んだことだ。西原という山間出身者ゆえに、気付くことも多い。
 川島右近はこのことを前田利家家老の奥村助右衛門永富へ知らせた。奥村永富は頷きながら
「信玄入道は人材を育てる達人という。甲州出身の者がいたら、八王子に有益である限りは用いるべし」
と川島右近に采配した。
 長田作左衛門は松姫存命のことをどこかで知った。西原には別系譜の西原武田氏が領しており、信玄への崇拝は強い。その姫が生きているなら、決して疎かに出来ぬ。が、既に出家されたとも聞く。人材を集めるためには松姫という名前は、大きい。
「ならば、よい立地をご用意し、お迎え申し上げます」
 長田作左衛門は自ら信松尼のもとに赴き、丁重に言上した。庵を求めていた信松尼にとっては、有難い話だった。
 御所水の里という地がある。横山よりも南斜面に位置する、弁財天の祀られた風光明媚な高台だ。
「恐れながら山奥にいるよりは、空の広い場にお出でになることをお勧めします」
 長田作左衛門の勧めは魅力的た。
 どのみちどこかへ移ろうと思っていた信松尼は、随行家臣団を幾度と差し向け、その土地の形相を調べさせた。そして、納得の上で移ることを決め、長田作左衛門にそのことを申し伝えた。

 そのころ、ようやく小田原の戦さも終わった。
 早雲以来の百年に及ぶ一族は、関東より一掃された。氏照は氏政ともども戦争責任を負い自刃した。数多に溢れた北条浪人は、武田のそれと異なり再就職難だったが、これが本来のこと。武田浪人はそれほど質が高かったといえる。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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